俺と、彼女と、アンケートの放課後
「んがっ……」
そんな間抜けた声を出して俺は目が覚めた。
そのまま顔を上げようとすると、何かが口元から垂れる感触。それは突っ伏していた机に小さな水溜りを成していた。
よだれだ。
「うわ、汚いわね。何やってんのよ」
横から聞こえてきたその声に、俺は寝ぼけ眼のままゆっくりと顔を向けた。
隣の席に座って頬杖をつきながら俺を見つめている、一人の女子生徒。
長い黒髪をおさげにし、知的な感じの眼鏡をかけた――典型的な委員長スタイルの少女だ。
彼女は何やら書き物をしていたらしく、西日の差す目前の机には一枚の紙と、可愛い装飾がついた自前らしきシャープペンシルが転がっている。
「ほら、早くこれで拭きなさいよ。じゃないとただでさえだらしのない顔が余計にしまらないわよ」
俺の顔を見咎めた彼女は、そう言って俺にティッシュを差し出してきた。
「うるさいな……どうせこの顔は生まれつきだよ」
口ではそう言いながらも、俺は大人しくそれに従って口と机を拭った。
そこで、初めて教室に人がいないことに気付く。
「あれ、何で他に誰もいないんだ?」
俺は教室を見回しながら呟いた。
寝入る前の最後の記憶では確かにクラスメイト達で埋め尽くされていたはずだ。しかし今は寒々しい空気で満たされ、完全に静まり返っている。どう見てもついさっきいなくなったという感じではなかった。
「馬鹿ね。時計を見てみなさいよ。あんたが寝てたホームルームの時間からどれだけ経っていると思ってるの?」
そう指摘されて俺は黒板の上にある時計を見た。
なるほど。ホームルームが始まったのが三時半。そして今が五時半だった。
つまり二時間ほど経っていることになる。それでは皆とっくに下校しているはずだ。
「って、五時半? どうして誰も起こしてくれなかったんだよ!」
俺の叫びに、彼女は呆れたといった感じでため息をついた。
「幸せそうに眠るあんたの顔を見たら、誰一人起こす気力が沸かなかっただけよ。あ、あんたの友達が額にべたべたな落書きをしていったから、あとでちゃんと消しときなさいよ」
「マジで?!」
がばっと額を押さえる。その場で上目遣いしてみるが、当然見えるわけもない。しかし彼女のべたべたという言葉でおよそのことはわかった。
おのれ、俺が漢字一文字のマスクマンなら、奴らにはひらがなで同じ文字を書いてくれるわ。
そんな密かな復讐を誓う俺を尻目に、彼女は机上の紙をさっと一度見通してから差し出してきた。
「……これは?」
「この前の球技大会に関するアンケート。生徒会から配られたやつよ。締め切りは今日までなんだから、さっさと記入しちゃってよね」
そう、彼女は容姿の例に漏れず本当の委員長さんなのであったのだ。大方、このアンケートは俺が寝ていたホームルーム時に配られた物なのであろう。確かにそれを回収して生徒会に持っていくのは彼女の役目だった。
しかし疑問は一つ。
「どうして俺が起きるのを待っていたわけ? 俺をさっさと起こすなりすればよかったじゃん」
もっともであろう俺の言葉を、彼女は眉一つ動かさず答えた。
「さっきも言ったけど、幸せそうなあんたを起こすのが可哀想だったからよ。だって今時――もう食べられないよ――なんて寝言を言うくらいだったし」
「うえ、それってクラスの連中がいる中でか?」
「いる中でよ」
俺は頭を抱えた。俺自身は夢の内容を覚えていないが、さぞかしその寝言は爆笑されたに違いない。おいしいかも知れないが、赤っ恥もいいところだ。
「あと、あんたの寝顔を見ているのも意外と楽しかったしね。起きてる時は調子に乗って馬鹿面ばかりのくせに、随分とまあ可愛かったわよ」
そう言ってくすくすと笑ってみせる彼女に、俺はばつが悪い思いで頬を掻く。
「だからって二時間も見ることはないだろ。二時間も。委員長は趣味が悪いよな。そんなに人の寝顔見たけりゃ、今度は金とって見せてやるぞ」
「いいわよ、もう十分。携帯で写真も撮ったしね」
「ちょ、マジかよ? おい、こらよこせって!」
慌てて手を伸ばすが、それをするりとかわして逃げ出す彼女を追って、俺達は教室中を走り回る。
傍から見れば何をやっているんだという感じだろうが、笑いながらはしゃぐ彼女を見るのはどこか新鮮だった。いつもは必要以上にツンツンしてて、不真面目な俺に口うるさく付きまとってくる印象しかないからなおさらだ。
こうしていれば、割と見られる顔だしな……。
何て勝手な想像をしたりもする。決して口に出したりはしないが。
そうしてしばらく騒いでいたが、急に彼女の足が止まって真顔に戻ったところで、そんな二人だけの楽しい時間も終わりを遂げた。
「もうこんな時間じゃない。そろそろ帰らないといけないわね……」
時計はいつの間にか六時になっていた。さっきまでオレンジ色に染まっていた教室内も、大分暗くなり始めている。
彼女は教卓の前にある自分の席に戻って帰り支度をすると、俺の方に振り返って言った。
「アンケート、明日までにちゃんと書いておいてよね。忘れないでよ」
「おい、いいのか? 今日が締め切りなんだろ?」
「この時間じゃどうせ生徒会の人もいないし、別にいいわ。明日渡しに行くときにでも謝っとく」
「悪いな。俺のせいで……」
「大丈夫よ。あんたと違って、私にはちゃんと信頼があるから問題ないわ」
苦笑いを見せる彼女に、思わず納得してしまう俺。否定できない自分が少し情けなかった。
「じゃあね。また、明日」
「おう。また明日」
ドアの方に歩いていく彼女の背中を、少し名残惜しいと思いながら俺は挨拶を返した。
と、そんな俺の心の中を見透かしたかのように、去り際になって急に彼女がこちらの顔を見た。
「な、なんだよ」
動揺してどもりながらも俺がそう訊くと、彼女はわずかに迷いの表情を見せてから、言った。
「……大したことじゃないんだけど、そのアンケート、とても重要なやつだから最後の問いまでしっかりやるのよ? いいわね」
俺の返答を待たず、彼女は言いたいことだけ言って今度こそ本当に去っていった。
「変なやつ……」
俺はぽかーんとなりながら彼女を見送ると、席に戻って筆記用具を取り出した。
別に今書かなくてもいいだろうが、これでもし家で書いて忘れでもしたら事だ。朝になってから学校で書くのも、それを彼女に見られて皮肉られたら堪らない。
というわけで俺は早速アンケートと向かい合うことにした。電気をつけるのも面倒なので、完全に真っ暗になる前にさっさと書いてしまうとしよう。
お題――球技大会についてのアンケート。
これのどこが重要なアンケートなのだろうかと、俺は首をひねる。内容もいたってありきたりなもので、やれ、今回の大会はおもしろかったですかとか、競技内容はよかったですかとか、つまらない質問ばかりだ。
それでも俺は律儀に答えを書いていった。とくになし、で全部埋めたりはせず、俺なりに精一杯考えてみる。といってもおもしろかったや楽しかったに毛が生えた程度だが。
最後に意見として――学年対抗ドッジボールはどうかと思う。人数多すぎてわけわからんし、時間かかりすぎ――と書いてペンを置こうとした……のだが。
……ん? まだ質問が残ってるぞって、何だこりゃ。
一番下の余白部分に、どう見てもこの紙にだけ後から付け足したと思われる、手書きの質問が残っていた。
そこには、
私と付き合う気はありますか? YES/NO
と、小さい丸字で書かれていた。
俺はにやりと笑いながら自分の答えに丸をつける。
この質問を付け加えた犯人が誰なのかはあきらかだ。
一体、どんな顔をしてこれを書いたのだろう。寝ていてわからなかったのが残念だ。もう少し早く起きていれば、その瞬間が見れたかもわからない。
まあ、いい。明日これを渡したときの顔を楽しみにするとしよう。
俺の答えを見て、彼女は赤くなって恥ずかしがるだろうか。
それとも案外、冷静を装って表面上は無反応さを見せるかもしれない。
結局携帯で撮られた俺の寝顔の件はうやむやのままだし、逆にその時の顔を取ってやれば、良い意趣返しになるはずだ。
彼女はいつも何時くらいに学校に来ているのだろうか――そんな事を考えながら、俺はアンケートを丁寧に折って鞄にしまうと、教室を後にした。