第15話:蝉時雨の虚無と、完璧な偶像(アイドル)
東都秀英中学校の一学期が終わり、長くて退屈な夏休みが始まった。
朝。リビングへ降りると、真夏の陽射しが差し込む食卓に、母・涼子が完璧な朝食を並べていた。トーストの焼ける香ばしい匂いと、淹れたてのコーヒーの香り。
「おはよう、司。夏休み初日ね」
涼子は、瑞穂の良妻賢母を絵に描いたような、穏やかで慈愛に満ちた微笑みを向けてくる。
「おはよう、母さん」
席につき、サラダにフォークを伸ばしていると、ふと涼子が思い出したように尋ねてきた。
「そういえば司、もう三年生だし、そろそろ志望校を本格的に絞る時期だけど……どこの高校に行きたいか、考えてる?」
「やっぱり、第一帝都学園かな。父さんもそれを望んでいるみたいだし」
俺(御堂司)は、少し照れたような、親思いの優等生として百点満点の答えを返した。
「そう。あなたなら絶対受かるわ。お父さんも喜ぶわね」
涼子は嬉しそうに目を細め、俺のコーヒーカップにミルクを注いでくれる。
(……あぁ、つまらない。本当に、どうでもいい会話だ)
俺は心の中で、深く、深くため息をついた。
エプロン越しにも分かる、涼子の熟れた胸の膨らみ。屈んだ時に微かに漂う、洗練された大人の女の甘い匂い。
俺が今、ほんの少し【魅了・フェロモン】の蛇口を捻り、このテーブルの上で彼女を押し倒せば、この完璧で優しい母親は、一瞬にして理性を失い、息子に発情する雌豚へと堕ちるだろう。その絶対的な確信が、俺の股間を微かに熱くさせる。
だが、俺はギリギリのところでその衝動を抑え込んでいた。
(……母さんまでただの雌奴隷にしてしまったら、この『平穏な日常』という隠れ蓑が完全に崩壊してしまう。それはそれで、後処理が面倒くさい)
退屈極まりない日常だが、狂気に染め上げるのはいつでもできる。今はまだ、この温かい家族ごっこを維持しておく方が得策だ。
「そういえば、司ももうすぐ誕生日ね。十五歳になるんだから、色々と準備しなきゃ」
「……ああ、そうだね」
涼子の言葉に、俺はさらに気分が重くなった。十五歳。この国――瑞穂では、十五歳を迎えた国民全員に「防衛予備隊」への登録が義務づけられている。いざ戦争が起きた際、国家の戦力として駆り出されるための名簿登録だ。
(……数日前に俺一人で他国の軍事システムを壊滅させたってのに。なんで俺が、この国の底辺の兵隊ごっこに名前を連ねなきゃならないんだ。面倒くさすぎる)
そんな鬱屈とした思いを完璧な笑顔の下に隠し、俺はトーストを飲み込んだ。
***
午後一時。
東都駅前の、若者でごった返す大型ショッピングモール『東都スクエア』の時計塔の下。
今日の俺には、一つの予定が入っていた。同級生の女子とのデートだ。
「ごっ、ごめんね司くん! 待った!?」
人混みを掻き分けて小走りでやってきたのは、ショートカットがよく似合う、明るく活発な少女――紀伊国屋優子だった。
少し背伸びをした大人びたサマードレスを着て、頬をほんのりと赤らめている。成績も良く、誰とでも分け隔てなく接する彼女は、クラスの男子たちの間で密かに『マドンナ』と呼ばれている存在だ。
(……マドンナ、ね。俺もやっぱり、中身は昭和のおっさんだなぁ)
俺は心の中で自嘲気味に苦笑しながら、優しく微笑みかけた。
「ううん、俺も今来たところだよ。その服、すごく似合ってるね。可愛いよ」
「えっ……あ、ありがとう……っ」
俺の、カンストした【カリスマ】から放たれる自然な殺し文句に、優子の顔はさらに茹でダコのように赤くなった。
中学生のデート。
前世の冴えない記憶を引っ張り出しても、そもそも俺にはロクな青春時代などなかった。だが、カンストした【知能】が導き出す「中学生の最適解デートコース」に従い、俺は優子をエスコートし始めた。
まずは、シネコンでの映画鑑賞。
選んだのは、今中高生の間で大ヒットしているという、王道のティーン向け純愛映画だ。
暗闇の中、隣に座る優子は、スクリーンから伝わる感動的なシーンに肩を震わせ、時折チラチラと俺の横顔を意識して見つめてきている。
(……苦痛だ)
俺の脳内は、開始五分で悲鳴を上げていた。
俺のカンストした【知覚】と【知能】は、映像のフレームレートすらコマ送りに知覚してしまう。俳優の微細な表情筋の動きから、三十秒後のセリフ、果ては二時間後の結末まで、開始数分で完全に予測できてしまったのだ。
先の分かりきった、しかもご都合主義の陳腐な恋愛劇を、二時間も暗闇で見せられ続ける。それはもはや、拷問に近い感覚だった。俺は睡魔と戦いながら、優子が感動して泣くタイミングに合わせて、完璧なタイミングでポケットティッシュを差し出すという「作業」だけを無感情にこなした。
映画の後は、流行りのパンケーキ専門のカフェへ。
「映画、すごく良かったね! 特にあのラストの、すれ違った二人が踏切で再会するシーン……私、ボロ泣きしちゃった」
目の前で、生クリームが山盛りにされたパンケーキを頬張りながら、優子は目を輝かせて語り続ける。
「そういえば、美咲ちゃんがね、最近サッカー部の健太くんと付き合い始めたらしくて! でも健太くんって、前は結衣ちゃんのこと好きだったじゃない? だからクラスのLINEグループが今すごいことになってて……」
「へえ、そうなんだ。健太も隅に置けないね。優子は友達想いだから、色々心配だね」
俺は、100点の相槌を打ち、極上の笑顔を向け続けた。
(……あぁ、帰りたい。美咲だの健太だの、一昨日、国家の最高幹部たちと軍事機密のハッキングについてやり合ってた俺が、なんで十四歳のガキの便所の落書きレベルの恋愛相関図を、笑顔で聞いてやらなきゃならないんだ)
優子の口の端についた生クリームを、俺がそっと指で拭ってやると、彼女は「ひゃぅっ」と変な声を上げて固まった。こんな小手先のテクニックだけで、この少女の好感度は簡単にカンストしてしまう。チョロすぎる。何のゲーム性もない。
その後も、ゲームセンターでの暇つぶしは続いた。
クレーンゲームで、優子が「あれ可愛いな……」と呟いた巨大なぬいぐるみを、俺は【器用さ】の能力を使って、一発でアームの隙間を突いて百円で落としてやった。
「ええっ!? 司くん、すごすぎるよ!!」
周囲の客からも歓声が上がる中、優子はぬいぐるみを抱きしめて跳び跳ねた。
(……百発百中で取れると分かっているゲームの、一体何が楽しいんだ? 確率の壁を越えるから人間は熱狂するんだろうに)
***
夕暮れ時。
ショッピングモールの屋上庭園。オレンジ色に染まる東都の街並みを見下ろしながら、二人のデートは終盤を迎えていた。
周囲には誰もいない。夕風が優子のショートヘアを揺らし、彼女は俯きがちに、モジモジと指先を絡ませていた。
「……あのね、司くん」
優子の声が、微かに震えている。顔を上げ、潤んだ上目遣いで俺を見つめてくる。彼女の心拍数が跳ね上がり、体温が上昇しているのが手に取るように分かった。
告白だ。
このまま数秒待てば、彼女は俺に「好きです」と思いを伝えるだろう。
俺がここでほんの少しフェロモンを放ち、彼女の顎を引いて口付けを奪えば、この純真で明るいクラスのマドンナは、この屋上の隅でパンティーを濡らし、俺の言いなりになる雌奴隷のリストに加わることになる。
(……いや、やめておこう。面倒くさい)
この純粋な好意を、ドロドロの肉欲に書き換えることすら、今の俺には果てしなく「作業」に感じられた。どうせ少し煽れば、彼女も数日前のアバズレ女たちと同じように狂うのだ。結果が見え透いている遊びほど、つまらないものはない。
「……今日は、誘ってくれて本当にありがとう、優子」
彼女が決定的な言葉を口にするコンマ一秒前。俺は先回りして、誰よりも優しく、そして「ただの良きクラスメイト」としての完璧な笑顔でその言葉を遮った。
「すごく楽しかったよ。優子の色んな話が聞けて、新鮮だった」
「えっ……あ、うんっ。私、も……」
出鼻を挫かれた優子は、少し戸惑いながらも、俺の輝くような笑顔に絆され、それ以上踏み込むことができなかった。
***
駅の改札で優子を見送り、一人きりになった帰り道。
アスファルトに落ちる自分の長い影を見つめながら、俺は今日一日、顔に張り付けていた「爽やかな中学生」の仮面を引き剥がした。
「……あーぁ、疲れた」
ただ帰るのすら面倒になり、俺はあてのない足取りで街を歩いた。
なぜだろうか、俺自身にも理由は分からなかった。ただ、この息の詰まるような『完璧で純粋な中学生の日常』から、手っ取り早く一番泥沼のような、退廃的な場所へ逃げ込みたかったのかもしれない。
気まぐれに足が向いたのは、保健医である星野くるみの住むアパートだった。
古びたドアのチャイムを押す。
「はぁい……どなたですかぁ?」
インターホン越しに、くるみの舌っ足らずで甘ったるい声が響いた。
「……俺だ。司だ」
「えっ!? つ、司くんっ!?」
バタバタと慌ただしい足音が聞こえ、ガチャリとドアが開いた。寝巻き代わりのスウェット姿のくるみが、真っ赤な顔をして立っていた。
「ど、どうしたの急に……っ。あ、あの、部屋散らかってて……ひゃあっ!?」
言い訳をしようとしたくるみの身体を、俺は強引に抱き寄せ、その柔らかな背中に腕を回した。
「……くるみ。今日はお前は、俺の『彼女』だ。俺のことを、司君と呼ぶんだ。いいな」
ただの雌豚として扱うのではなく、あえて甘い恋人としての言葉。
その想定外の優しさに、くるみの脳髄は一瞬で沸騰した。彼女は腕の中でビクンと身体を跳ねさせ、極上のフェロモンに当てられた顔を俺の胸に擦り付けた。
「あ……あぁ……。わかったよぉ、司君っ……。えへへ、私、司君の彼女……っ」
そのまま俺は、くるみを抱き寄せたまま部屋の奥へと足を踏み入れた。
相変わらずの、足の踏み場もない汚部屋だ。脱ぎ散らかされた服や、飲みかけのペットボトルが散乱し、以前来た時よりもさらにひどくなっている。だが、今の俺にはそのだらしなさが、優子との清潔すぎるデートの反動として、ひどく心地よい退廃に感じられた。
俺はくるみを乱雑なベッドの上に押し倒し、その耳元で低く囁いた。
「……好きだよ、くるみ」
「あぁぁっ……! つ、司君っ、司君っ! 好きぃっ、私も、大好きだよぉっ……!!」
その一言で、くるみは完全にメロメロに溶け落ちた。全身の皮膚が火照り、息をするたびに甘い匂いが部屋中に充満する。
いつもの一方的な蹂躙とは違う。今日、俺は『彼氏』だ。
俺は彼女のダサいスウェットを優しく剥ぎ取り、その豊満な身体の隅々までを、労わるように、そしてねっとりと愛撫し始めた。
「あっ、ひゃぁっ……司君の、優しい……っ、いつもと違う……っ」
甘い吐息を漏らしながら、くるみもまた、不器用ながらに一生懸命、俺の身体に奉仕を返してくる。俺の首筋に舌を這わせ、俺の昂りを両手で愛おしそうに包み込み、熱い口腔で精一杯の愛情を注ぎ込んでくる。その全てが、ただの肉欲ではなく「恋人への絶対的な愛」に裏打ちされており、彼女の全身から溢れる蜜はシーツをぐっしょりと濡らしていった。
やがて、極限まで熱を帯びた二つの身体は、ゆっくりと一つに結びついた。
「あぁっ……司君が、私の中に……っ。熱いよぉっ……」
激しい暴力的な結合ではなく、肌の温もりと吐息を確かめ合うような、深く、長く、官能的な交わり。互いの身体が密着するたびに、くるみは狂おしいほどの幸福感にむせび泣き、何度も、何度も甘い絶頂の波に飲まれていった。
そして最後は、彼女の最も熱く柔らかな最奥へと、俺の熱い白濁が優しく、静かに注ぎ込まれた。
***
行為の後。
いつもなら用が済めばすぐに帰る俺だが、今日はなぜか、ベッドに横たわったまま、くるみに腕枕をしてやっていた。
それだけで、くるみは天に昇るような幸せいっぱいの表情になり、俺の胸板に頬を擦り寄せていた。
「えへへ……司君の腕の中、あったかいなぁ……」
彼女は舌っ足らずの可愛い声で、ポツリポツリと話し始めた。
「あのね、私、子供の頃はすごく引っ込み思案でね……。学生の頃も、あんまりお友達がいなくて……。でも、保健室の先生だけは優しくしてくれて、それで私、保健医になろうって決めたの……。司君はね、私の初めての……本物の恋人だよぉ……」
嬉しそうに、過去の思い出を語り続けるくるみ。
だが。俺の心は、すでに限界まで冷え切っていた。
(……何で俺は今日、こんなことをしたんだろう?)
彼女の髪を優しく撫でながら、俺は虚空を見つめていた。
純真な中学生とのデートも退屈で、泥沼のような女の愛欲に浸かってみても、結局は退屈だった。ただ今日一日『彼氏』の仮面を被って、違うパターンの暇つぶしを試してみただけ。
くるみが一生懸命に語る生い立ちも、愛情の言葉も、俺の耳には右から左へと通り抜けていくだけの、意味のないノイズでしかなかった。今日だけ彼女にしたこの雌への興味は、行為が終わった瞬間に完全に失せていた。
時計を見ると、すでに深夜に近い時間になっていた。
「……もう、帰らないと」
俺が腕を引き抜き、ベッドから起き上がると、くるみは慌てて俺のシャツの裾を掴んだ。
「あっ……もう、行っちゃうの……? あのねっ、また……また、会ってくれるよねぇ……?」
不安と期待の入り混じった、すがるような舌っ足らずの懇願。
俺は振り返ることなく、顔も見ずにただ一言だけ、冷たく短く答えた。
「あぁ」
俺は、幸福の絶頂から置き去りにされたくるみの汚部屋を後にした。
夏の生暖かい夜風が頬を撫でる。
……結局のところ、何をやっても俺の退屈な世界が色づくことはないのだと、ただそれだけを再確認した一日だった。




