4.夕立、言う時。
「ーけいちゃん?」
雨の匂い。びしょびしょに濡れたスーツ。中身の見えかける鞄。ずり落ちたメガネ。
雨のカーテンにさえぎられた世界で、尻もちを着いた2人。髪からぽたぽたと落ちる水滴が地面を黒く塗りつぶしていく。
だらしなくて、どうしようもなかったけいちゃん。私を置いて、どこか遠くへ行ってしまって。そうしていつの間にか、ほとんど他人のようになってしまったけいちゃんが、今、目の前にいる。
目を見開き阿呆みたいに口を開いたけいちゃんを見て、私もまた、鏡写しのような顔をしていた。
だらしないのは変わっていない。そのはずなのに。
「ーメガネなんて、かけてたっけ」
水滴に濡れた長いまつ毛と、そこにある濡れた瞳。スーツ効果なのか、大人になったからなのか。どうしてか、まともに顔を見るのが恥ずかしくなって顔を逸らしながらそう言った。
「…いいや、今日買ってきたんだ」
「…そう、目悪くなったんだ」
「いや、そういうわけでもー…」
しとしとと振り続ける雨。微妙に近い互いの距離と、戸惑いの滲む心の隙間。
ー今更、何を話せば良いっていうの?
唇をきゅっと引き結び、視線を逸らしたまま立ち上がる。尻もちを着いたおしりを軽くはらいながら、花屋の方に背を向けて外を見た。止む気配のない雨。傘は持っていないし、今日買った相棒を抱えてこの中走るのは無理だ。濡れて相棒が使い物にならなくても困る。
私が1人でこっそりため息をついた時、けいちゃんもまた立ち上がり、荷物を抱え直して同じように外へ目を向けた。隣に立つ彼を、そっと盗み見て、その横顔にどうしようもない懐かしさが迫り上がるのを感じた。
言葉を交わさずとも、たとえ今気まずい空気が流れていたとしても。雨じゃなかったとしても。あの頃は、こうして二人でいることは当たり前だったのに。
「…今更だけど、久しぶりだよね」
声をかけてみる。メガネを外してガラスを介さない真っ直ぐな視線が私の方に向けられる。けいちゃんは曖昧に笑って「そうだね」と言った。
「まさかこんな所で会うなんて思わなかった」
私たちはもう、あの頃の私たちじゃない。三軒隣という、ご近所に暮らして、いつでも当たり前に顔を合わせていたあの頃ではないのだ。ここは私たちの地元から遠く離れた場所。けいちゃんとそんな場所で会うなんて、想像したこともなかった。
視線を逸らして、また雨のカーテンを見て。どこか投げやりに言った私にけいちゃんは「確かに」と苦笑した。
「紗菜は一人暮らし?こっちの大学に進学したんだろう?」
「…うん、そう。鮎川くんこそどうしたの?スーツなんて着ちゃって。就活?」
私の言葉に、けいちゃんは一瞬、言葉に詰まったようだった。それを感じながら私は自分の靴のつま先を見つめる。
ー先に突き放したのは、けいちゃんじゃないか。
「あはは…正解。就活中ですよ」
軽く笑うけいちゃん。また視線をそちらにそっと向けてみれば、けいちゃんは雨のカーテンをぼうっと見つめながら遠い目をしている。その目に、どこか陰りがあるように見えて私はけいちゃんの服を引っ張った。
「…紗菜?」
それに驚いて目を見開いた彼に、私は一瞬口を開きかけて、やめた。掴んだ服を離し、行き場を失った手が重力に従ってだらりと下がる。
そんな様子を見て、けいちゃんはしばらく黙っていたが、やがて昔のように私の頭に手をのせた。その重みで視線が下に落ちる。その重みが、懐かしくて、悲しくて、悔しくて。
だらりと下がった手のひらが拳を作った。
やがてその重みが無くなった時、けいちゃんはやけに明るい声を出して言葉を紡いだ。
「ねぇ、紗菜。紗菜こそ扇風機なんて抱えてどうしたの?もう夏も終わるのに」
その言葉に、片手に下げていた扇風機の箱を見る。割引のシールが貼られたそれは、確かに時期から少しずれているだろう。
「…うちの寮、冷房がないんだけど」
「…そりゃまた前衛的だね」
その言葉に私はじとりとした目を向けた。けいちゃんはそれに苦笑する。けいちゃんの言いたいことは分かる。分かるけど、別に暮らせているのだから良いじゃないか。
「とにかく、扇風機が壊れちゃって死活問題だったから買いに行ったの」
「で、帰りに雨に降られたんだ。ー災難だったね」
その言葉に、私はけいちゃんが肩から提げた鞄の中身を見た。濡れた書類たち。就活で使うものだろう。それにびしょびしょになったスーツ、今日買ったばかりのメガネまで。
「…鮎川くんこそ、災難だったね」
けいちゃんの顔が少し引きつる。それを見て、私はまたそっと目を伏せた。
ほんと、なんて災難な日なんだろう。
扇風機は壊れるし、雨に降られるし、気まずい空気になるし。
ー言いたいことも、満足に言えないし。
自分の中で意地が邪魔しているのが分かる。素直になれば良いじゃないかと思う。あんな、小学生の頃の話なんて笑い話にして、それで今を楽しく過ごせれば良いじゃないかって。
本当はちょっと、会えて嬉しいと思っているのに。誰もいなくなったあの古ぼけた瓶が、また色づくかもしれないと、新しくラベルを貼れるんじゃないかって、ちょっと期待しているのに。
何も言えない私は、なんて情けない。
「あ」
ふいに、けいちゃんが声を漏らした。それに釣られて彼を見ると、彼は外の景色を見ている。同じほうを見れば、あれだけ真っ白に視界を塗りつぶしていた雨のカーテンが薄くなっていた。
ーこの、奇妙な雨宿りはもう終わる
大粒の雨はだんだんと小粒になり、線を描くようになっていく。薄くなり、遠くの景色を透かし出すカーテン。私たちの世界がまた、壊れていく。
私はまた、けいちゃんの服に手を伸ばす。けれど今度は掴むより先に、けいちゃんがそれに気がついた。目が合って、私は伸ばしていた手を止めてしまう。
「紗菜、どうかした?」
「…」
口を開き、閉じて、また開く。ぱくぱくと空気だけを噛み締めて。
私が言いたいこと、言わなきゃいけないこと。
この夕立が止めば、私たちはここを出る。そうしたら私はいつもの一人暮らしに。けいちゃんはまた就活に戻る。きっともう、会うことは無い。
私たちのあの頃は、もう帰ってこないのだから。
だから言わなくちゃいけない。今、ここで。維持を貼っている場合なんかじゃないのだ。
伸ばしかけていた手を、まっすぐにけいちゃんの服へ向けた。そのまま、今度は躊躇わずにぎゅっと掴む。
「ーけいちゃん」
けいちゃんが息を飲む。その顔は複雑そうに歪んだ。嬉しそうで、だけど苦しそうな、そんな顔。
ー知っている。けいちゃんが好き好んで、私を置いていったわけじゃないこと。
ー知っている。けいちゃんだって、私とのあの世界を少なくとも大切には思っていてくれていたこと。
ー…知っている。けいちゃんは今、立ち止まってしまいそうになっていることを。
私が言いたいこと。慰め?応援?それとも懐古?
そうじゃない。
ただ、言いたかったのはー…
雨が上がる。花屋の軒を打ち付けていた雨の音が止んで、静寂が降りた。視界が開け、少し明るくなる。雨上がりの、湿ったアスファルトの匂いが立ち込める。
「けいちゃん、あの頃も、今も。ー私、けいちゃんに会えてよかった」
ただ、言いたかったのは。
妙に熱い頬も、恥ずかしくて震えた声も。手も。
けいちゃんは目を見開いて頬を染めて破顔した。ただ、それだけで私には十分だった。