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3.景太郎の憂う時。

「いやぁ、すごいなぁ君。人当たりは良いし、ちゃんとコミュニケーションも取れるし。将来うちに来てくれよ」


 大学3年生の夏から行っていたインターン。指導として着いてくれていた社員の人は笑顔でそう言った。僕はそれをまともに受けとって、ほんの少しのむず痒さを感じながらも「ありがとうございます」と笑みを浮かべていた。


 ーなのに。


『厳正な選考の結果、誠に残念ですが、この度の採用は見送らせていただくこととなりました。今後のご活躍を期待しています』


 ピコン、という無機質でチープな音。ポケットの中で震えるスマホを取り出せば、画面に表示されるのはそんな文面ばかり。第1志望の企業だけじゃない。何十社と受けているのに、未だひとつも内定が貰えない。


 どうして。こんなはずじゃあ。


 そんな思いばかりが渦巻く。インターンというものをわけも分からずに始めた時、なんとなく、社会の一員になったような気がしていた。社員さんにも、大人として扱われているような気が。でも実際は違っていたのだろう。きっと僕らは「お客様」。決して対等な相手ではなかったのだ。あの時に言われた言葉はお世辞に過ぎなかったというのに。


「私が御社を志望した理由はー…」


 白い面接室。息が詰まるような、冷たい空気。パイプ椅子の硬さと、他の面接応募者の顔。どうしてか、自分以外の人間全員が自分よりもはるかに優秀なように見えて、そして同時に、その全員に見下されるような気がした。面接官の質問に答える時も、面接官がこちらを見つめる冷たい真っ直ぐな眼差しが、僕の心の内を見透かしているようで。僕が抱える虚栄心だとか、臆病だとか、そういうものが丸見えのような気がして。いつも、気がつけば口から滑り降ちるのは出任せばかりだった。熱意を持って、本気で入社したいと、素直な思いを伝えるつもりでいたのに。


 口からこぼれる嘘。そして不採用。


 お祈りメールが重なるほど、面接の回数を重ねるほど、僕は嘘に嘘を重ねた。周りの人間や面接官の顔が、一層恐ろしく見えた。そうしていつしか、疲れ果てたようになった僕は自分でも自分のことがよく分からないまま、適当な面接をするようになった。そんなんで採用されるはずもないのに。


 そんなある日。いつものように面接を受け終えて家へ帰る、代わり映えのない帰り道。ふと、途中にあるメガネ屋さんが目に入った。


 特段代わり映えのない大手チェーンのメガネ屋さん。白を基調とした店内や明るい照明、スーツばかりの店員。それがどこか、面接会場を想起させて僕は吸い寄せられるように店内に足を運んだ。


 いらっしゃいませ、と声をかけてくる店員に思わず自分の名前と入社を希望する理由を口走りそうになった。僕は反射的に右手で口元を押さえ、その時初めて自分がメガネ屋さんにいるのだと目が覚めるように思い至った。左手に持ったカバンが嫌に重かった。


「お客様はどのようなメガネをお探しですか」


「メガネ…」


「はい、今年のトレンドですとこういったものが流行っていますが、お客様のお顔の感じでは…こちらが良いかもしれませんね」


 半ば呆然としたまま、差し出されたメガネを手にした。軽い、けれど太い黒縁が存在感を放つメガネ。「ぜひかけてみてください」と微笑む店員の声のままに、僕はそれをかけた。


 ーレンズ越しの、世界。


 僕は静かに息を呑む。僕は小さい頃から目が良かった。人生で初めてメガネをかけて、メガネというものがこんな風に世界を映すのだと初めて知った。


 たった1枚だ。薄い、ほんの少し屈折率があるだけのレンズ1枚。それを挟んだだけで、世界がどうしてか、少しだけ違って見える。面接官や他の学生のあの眼差しが、レンズ1枚通して屈折する。それだけで、僕の心を射抜く視線がごまかせるような気がした。


「…これ、買います」


「え?」


 困惑する店員に、僕はかけていたメガネを外して差し出した。


「これで。ーこれが、良いんです」


 店員のメガネ越しに、僕の心做しか晴れやかな笑みが映った。店員はメガネを受けとり、「レンズはどうなさいますか」と聞く。


「度なしでお願いします」


 僕の言葉にまた、一瞬店員は反応が遅れた。それからやがて「かしこまりました」という返事が返ってくる。


 会計を終えて手元に戻ってきたメガネ。家に持ちかえり、鏡の前でかけてみて、笑った。


「ちょっと賢そうに見えるじゃないか」


 元のだらしない顔が隠れて、ほんの少し知性的に見える。これで面接も受かるんじゃないかなんて、楽観的になってみたりして。本当はただ、面接官のあの目が恐ろしくて買っただけなのに。


 レンズの内側の世界には僕一人。それがどうしようもなく心地よくて、安心できた。いつかの感覚に似ていた。小学生の頃、幼馴染みと二人で遊んだあの日々。何も考えていなかったし、何も気にしていなかったあの頃の、2人だけの世界。同級生にいじられるのが恥ずかしくなって、彼女1人を置き去りにして僕が一方的に捨て去った、あの、世界。


 メガネ屋さんからの帰路、僕は買ったばかりのメガネをかけたまま、視界を滑っていくアスファルトを見つめた。


 きっと、本当は少し、後悔していた。


 あの心地よい世界を飛び出したあと、「あぁ、これが本当は当たり前なんだろうな」とか、みんなの価値観で笑って生きていた。でも、心のどこかにいつも何かがつっかかっている。時々妙に不安になる。もう、あの安らぐ二人の世界はないのだと。


「ー紗菜」


 彼女の名前をぽつりと呼んでみる。いつの間にか、僕の背を追うことがなくなっていたあの幼なじみは、今どこで何をしているのだろう。公園で1人、泣いていたあの子は、今。


 賢かったし、器用で優しかった彼女のことだ。僕のように就活に悩むことは無いだろうし、きっと良い大学に通って、良い友達に恵まれて。


 それこそ、僕のようにあの頃を後悔しているなんてことは無いのだろう。あの世界に、執着していることも。


 空を見上げる。曇った空。そのせいだろうか、夏だと言うのにその割には暑くなかった。少し湿っぽい空気が肌を滑る。


 なんてことはない。僕が捨てて、でも僕がいちばん執着している。あの頃から変わらない。僕ばっかりが、かっこわるいまま。


 ちょうどその時だった。鼻先に何かぬるいものがぽたりと落ちてきたのは。


 僕はそれに触れて、手が濡れるのを見る。あれ、と思って首を捻っているうちに、それは豪雨に変わった。


「うわあぁぁぁぁぁぁああああああ??!!」


 絶叫とともに、とにかく屋根をめざして走る。肩からかけていた鞄を抱えて、自分の体を折り曲げながら必死に守る。なぜなら鞄には重要な書類が沢山入っているからだ。履歴書と、企業説明の紙と、スケジュール帳と、それから…


 雨に濡れるスーツはどんどん重くなり、そして同時に黒く光る。体が重く、足が取られた。革靴の中も水に浸ってくる。


 あぁ、散々な日だ。お祈りメールは来るし、スーツは濡れるし、きっと鞄の中の履歴書だってびちょびちょになっていることだろう。全部書き直しだ。あぁ、なんて冴えない日。


 ザーっという音で何も聞こえない。視界も白く染まり、買ったばかりの眼鏡もまた、ずぶ濡れだった。何も見えない、1人の世界。それがどこか、心地よいと思う自分がいる。そして同時に、ここにあの子がいたらと思う自分も。


 目の前に見えた、花屋の軒先。そこに駆け込み、そして何かにぶつかる。メガネを外し、僕は目を見開いた。


「…紗菜?」


 目の前には、大人になった、あの子がいた。

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