2.出会い、結う時。
“けいちゃん”。それが彼の呼び方だった。いつからかなんて分からない。でも気がついた時には、彼はもう私の中に“けいちゃん”として存在していた。
三軒隣に暮らしているけいちゃんは二つ年上で、一見すると私と関わることなんて無さそうに思う。けれど出会いは唐突だったのだ。
小学校一年生の夏休み。友達に誘われて公園で遊ぶ約束をしていたのだが、遊ぶ予定だった友達はいつまでも公園に現れなかった。小学校一年生の口約束だ。ただ忘れてしまっただけなのだろう。今になってしまえばそうやって冷静に振り返り、落胆しながらも帰路に着いたはずだ。でも当時の私にはそんなことは出来ない。心の中にあるのは友達が約束を破ったという事実と、泣きたいほどの虚しさだった。夏の強い日差しが照りつける中、私は真っ白なキャミソールワンピの裾を握り、アスファルトを睨みつけながら泣くまいと堪えていた。
そんな時、急に頭に何かがぱさりと乗る感覚と、目の前のアスファルトに影が差すのが目に入る。私はそれに驚いて、溢れかけていた涙がすっと引いていく。呆気にとられながらも頭に乗せられたなにかに触れ、それが少し大きめな麦わら帽子だと気がついた時、後ろの方から声が聞こえた。
「泣いたらだめだよ」
振り返ればそこに居るのは私と同じくらいか、若干背の小さい男の子。服の下からシャツが少し覗き、片方の靴紐が解けかかった、少しだらしのない男の子。虫取り網をぎゅっとにぎり、なにか小さな虫の入った虫かごを肩から提げているその子は私を真っ直ぐに見ていた。
「泣いたらだめだって先生もお母さんも言ってたんだ。泣いたら弱い子だって。男は泣くなって」
今思えばとんちんかんな伝書鳩だ。きっと自分が昔泣いた時、大人に言われた言葉をそのまま言っただけなのだろう。意味も理解せずにそのまま並べただけの。
「…私、男じゃないもん」
まぁ、そんなことは関係ないので当時の私は反論するわけだけど。
私の至極真っ当なツッコミに、目の前の男の子は「あ」とでも言うような顔をしてたじろいだ。目が泳ぎ、次の言葉を探すが見つからない。
「それに泣いたりなんかしないもん。私そんなに子供じゃないもん」
暑さになのか、焦りになのか、顔に汗を沢山浮かべながらますますたじろぐ少年。それを見ていたらなんだか少しおかしくなって、私はお腹を抱えて笑った。もうその時にはすっぽかされた約束なんて頭の中から無くなっていた。
「はい、これ返すね」
きっと少年のものであろう麦わら帽子。それを差し出すと少年はおずおずと受けとった。受け取って、それからしばらく迷って、また私に突き返した。
「貸してあげるよ。お母さんが言ってたんだ、“ねっちゅうしょう”…?ってやつになるって」
「ねっちゅうしょう…?」
「こわぁいびょうきなんだって」
「びょうき?」
「えーと、びょうきっていうのは…」
「いうのは?」
少年の長いまつ毛に縁取られた瞳の中に私が映る。真っ直ぐに見つめる、私の瞳が。少年はそれからまた同じようにたじろいで、ぷいっと顔を背けた。
「とにかくなんか怖いもの!!」
そんな様子がなんだかおかしくて、私はまた笑い声を上げた。男の子はそれに恥ずかしそうに顔を歪めていたが、やがてつられて笑い出す。
「ねぇ、僕と遊ぼうよ」
「うん、いいよ。虫取り対決でもする?」
「それいいね」
そんなこんなで出会ったのが“けいちゃん”。本名、鮎川景太郎。たぶん教えて貰っていたはずなのだけれど、長くて覚えられなかったのだろう。当たり前のようにけいちゃんと呼んでいた。本名をちゃんと認識したのはしばらくしてからのこと。お母さんが口にしているのを聞いて目を丸くした覚えがある。
公園で遊んだ帰り道、ずっと同じ道をたどって、三軒家が隣なご近所さんだということが判明した。ついでに小学校が同じだということも。それからずっと、一緒に遊ぶ仲だったのだ。
私が小学校3年生になったころ。けいちゃんは小学校5年生。けいちゃんぐらいの年齢ではそろそろ恋に興味を持つ子も出始めていた。私とけいちゃんは断じてそんな関係ではなかったのだ。けいちゃんはだらしないし、優柔不断だし、正直言ってかっこいい男の子ではなかった。2歳年上だと知った時に「嘘だあ」と真顔で言ったくらいだ。お兄ちゃん?いや、弟でしょう。そんな感想だった。
でもけいちゃんの周りはそう思わなかった。毎日一緒に遊ぶ私たちを見て、けいちゃんをからかった。「お前、あいつが好きなんだろ」と。けいちゃんはそれをどう思ったのだろうか。いつものように公園で遊ぶ約束をするとだんだん微妙な顔をするようになっていった。そうしてやがて適当な理由をつけて断るようになる。
「ねえ、けいちゃん。—今日も遊ばないの」
「…」
「公園が嫌なら他のところでも良いよ。けいちゃんがやりたいことやろう」
「—ねえ、紗菜」
遊んでくれないけいちゃん。学校でも顔を背けるけいちゃん。我慢できずに家を訪ねた私に、けいちゃんは玄関先で私を見下ろして口を開いた。
「もう僕らはそんな歳じゃあないんだよ、きっと」
いつか、私に麦わら帽子を被せたように。けいちゃんはその手を私の頭に乗せた。
「一緒に遊ぶのも、僕を”けいちゃん”と呼ぶのも。もう、違うよ」
「…けいちゃんはけいちゃんだもん」
「—でも、違う。僕は鮎川景太郎。…知ってるだろう?」
—変わってしまったけいちゃん。背が伸びて、ちょっと大人っぽくなって。いつの間にか、私のお兄ちゃんのように振る舞うようになっていった。
その一方で何一つ変わらない、変わることがないと信じてやまなかった私。あの人同じように、何かを堪えるような顔をして服の裾を握った私にけいちゃんは困ったように笑った。
変わらないんだと思っていた。変わるものがあると、形を変えなくちゃならない時があるなんてこと、知らなかった。私とけいちゃんの関係は「友達」「ご近所」「幼馴染」。そんなラベルが貼られた瓶の世界で生きていた。でも、けいちゃんは。周りの人は。その瓶からゆっくりと、気が付かないほどのスピードでラベルを一つ剥がした。「友達」では無くなった。それだけはわかる。
けいちゃんがさらりと捨てたそのラベルを、私はいつまでも恋しく思っている。瓶の内側から出られないまま、かすかに残ったラベルの跡をなぞる。いつかそこに、もう一度、ラベルが貼られる日を願って。
中学生になったけいちゃん。学校が離れて、またいっそう、話す機会は無くなった。私が中学校に上がっても、話すことはなかった。いつの間にか開いていた小さな隙間が、もう、私たちを「他人」にした。瓶に貼られたラベルの文字は、掠れていた。
そうして関わることなく終わった中学時代。けいちゃんが進学した高校はお母さん伝いに耳にしていたが、私はその高校を選ばなかった。別々の高校。別々の生活。”二歳上”というそのわずかな数字で生活の様子はきっと、全く違っていた。近況を耳にすることもなくなり、ずっとこだわっていた瓶の世界から、私はいつの間にか抜け出していた。
—はずだったのに。
「…紗菜?」
夕立、夕時。花屋の店先。びしょびしょに濡れた、スーツの男。
「—けいちゃん?」
雨が視界を白く染める中、私たちは再会した。混乱と、雨の匂いを残したまま。