1. 再会、夕時。
鳴り止まない蝉の合唱。幾度となく繰り返された台風情報。頬を伝う汗。
ー残暑
「あーもう…扇風機壊れるとか最悪…」
私、飯塚紗菜は学生寮の一室で1人静かに項垂れた。目の前には物言わない扇風機。電源コードが繋がっていることは何度も確認したし、なんなら何度もさし直した。けれど電源ボタンを押しても応答無し。私の努力が実る様子はない。
大学の学生寮は噂通りのボロさで、クーラーもなければ夏にはあの黒い虫だって出た。それでも家賃は周りのアパートに比べてずっと安かったし、虫の対処にはもう慣れたし。扇風機を設置しておけばそれなりに暮らせていたのだ。
扇風機さえあれば。
がたついた窓を開けて風を期待したが、涼しい風が吹き込むことはなく、ただ蝉の合唱が大きくなっただけだった。カーテンでさえぎっていた日差しも、窓を開けたことで時々部屋にのぞき込む。冷蔵庫に冷やしていた水ももう切れてしまい、私の頬には汗が滝のように伝う。
テレビに繰り返される【残暑】と【台風】の文字。暦上では秋だと言うのに、まだ夏が続いているらしい。頭の中に秋を思い浮かべてみようとしたが、思い返せばここ数年はこんな調子で残暑が長引いていた。だからだろうか、思い浮かぶのはかき氷や海ばかりで、紅葉やさつまいもは出てこない。
無言を貫く扇風機を前に私は両手両足を投げ出して床に寝そべった。かび臭いが、床の僅かな冷たさだけが癒しだ。そんなふうに現実逃避を繰り返してみるが、現実は何も変わらない。このままでは熱帯夜とやらで私は干からびてミイラになってしまう。自嘲するように、そんな愉快なことを考えて1人笑う。
「…買うかぁ、新しい扇風機」
決意したのはその日の夕方だった。
○○○
電気屋へ足を運ぶと、大量の【値下げ】という札が着けられた扇風機が並んでいた。残暑とはいえもうすぐ夏は終わる。売り尽くしセールをやっているのだろう。どれを選ぶか悩み、どれも同じように見える。結局店員に相談し、進められるままにやたら豪華な扇風機を選んだ。首振り機能とリモコン付き。あと、高さ調節機能。
…いるだろうか、高さ調節。
日は落ちてもまだ暑い夕暮れのアスファルトを歩きながら、そんなことを思って手に持った扇風機の箱を見下ろした。黒くてスタイリッシュな箱に貼られた、セールの値札と買った時のテープ。そのチープさが箱とアンマッチな気がして少し首を傾げたりした。
その時だった。鼻の頭に、なにか小さなものが当たる。そしてそれは頬に、頭に、色々なところに小さな違和感を残す。
あ、と思った時には遅かった。それはあっという間に増えていき、やがて大雨となった。私は一瞬呆然として、それからようやく扇風機を抱えて近くの花屋さんの軒先に逃げ込む。店じまいをしようとしていたらしい花屋の店先には、丁度初老の店主がいて、駆け込んだ私を気の毒そうに見ていた。髪の毛からぽたぽたと落ちる水滴の向こう、店主に頭を下げる。店主も小さく礼を返して店の奥へと戻って行った。
軒先から伝う水と、その向こうの白い雨のカーテン。大粒の雨でこそなかったが、傘もないまま扇風機を抱えて帰宅するのは難しそうだった。
踏んだり蹴ったり。泣きっ面に蜂。
そんな言葉が浮かんだが、私は抱えた扇風機を見下ろして「まぁいいか」なんて能天気に考えた。壊れていた扇風機は新しいものを買えた。これで夜にミイラにならずに済むし、これからの残暑も乗り切れる。それに、雨に降られたのだって暑さに火照った体を冷やすためだと思えば調度良い。うん。ラッキーだ。
扇風機を地面に置き、髪の毛を絞る。途端に溢れ出す水は、まだ乾いていた地面のアスファルトを黒く濡らした。それを見下ろして、顔を上げた時だった。
「わああああぁぁぁぁぁぁぁぁあ…?!」
突如遠くから響いてくる情けない悲鳴。そして白いカーテンの中に浮かび上がってくる人影。それは花屋の軒先で雨宿りをしていた私の目の前に迫ってきて—…
「うわあ?!」
どんっ、という鈍い音と共に私は尻餅をつく。目の前には飛び込んできたびしょびしょのスーツの男。雨で濡れたメガネはずれて、肩からかけている鞄もずり落ちている。中には書類がのぞいているが、きっと全部駄目になっているだろう。私は尻餅をついたまま、目の前のその人を呆然と見つめた。当の本人はメガネが濡れて視界がゼロだったのだろう、少し首を傾げながらメガネを外す。
外してのぞいた、長いまつげに縁取られた瞳が大きく見開かれる。同じように目を丸くした私をそこに映して。
「…紗菜?」
夕時。夕立。びしょびしょに濡れた肌をそれでも残暑が蒸す、ある夏の暮れの日。
私は、幼馴染に再会した。