白い部屋
蛍光灯が全面に張り巡らされている、といった具合だろうか。そこは壁も床も見える世界すべて、目映い程真っ白だった。その空間はどこまでも続いているようにも見えるし、気を抜くとすぐ近くに壁があって、顔ごとぶつかってしまいそうにも見える。遮るものも何も存在しない。傍らに倒れた男以外は。
夢なのだろうか。何故今私はここに。最後の記憶は___薬を飲んで私は眠った筈だ。その証拠にいつも眠る時に着る四軍のTシャツとゴムの伸びきった短パンを私は履いている。
「う、ううん……」
隣の男は呻き声を上げ、ようやく薄っすらと目を開けた。目映い光が彼の瞼を照りつける。目線が定まらないようでしばらく宙に浮くような顔をし、それから態とらしくも見える様な仕草ではっと私に視線を定めた。目脂が左目から垂れ下がっている。清潔感の無いことなど、彼には珍しいことだ。
「横川、さん……」
「お久しぶりです」
「ここは……?」
「分からないんです、私も気付いたらここに」
それから男はまたしばらく呆然とし、それからゆっくりと首を振って辺りを見渡した。
「白い部屋……」
見えるものをそのまま呟く。
「なんで俺、会社で残業してて、そうや、ちょっと仮眠して……」
静寂の間に彼の掠れ声が響き、その後首を回してギギギ、と骨の音が反響して響く。工場で錆びた歯車が回る音に似ている。
「なんやここ! 出口は⁉︎」
鉄砲に打たれたように突然叫び出して、走り始めた。少しの間走っていたが私の目の端、見える所でぶつかって倒れる。ああ、あそこが壁なのだな、と私は思う。
「どうしてそんな静かにいられるの⁉︎ もしかして何か知ってるの⁉︎」
男はそう叫びながら踵を返して私の方へ戻って来た。日に焼けて黒くがっしりした腕が私を掴もうとした瞬間、何もない離れた場所からさっと、青い横向き封筒が飛び出した。少し膨らんで紙が寄れている。
それの床に落ちるカサっという音を聞いてその方向を見たまましばらくその男は立ち尽くし、急にまた走った。ビーチフラッグの様に夢中でそれを手に捉えると、その場で開く。糊付けはされていないようだ。男がこちらへ来て一緒に見せてくれる様子も無いので、私も彼の背後へ歩いて覗き込む。こう書かれていた。
〈こんにちは。今日から貴方達二人は一週間、ここで暮らして頂きます。今は何も無い部屋ですが、ご心配は不要です。同封の青いボタンを押して欲しいものを言えば、何でも出て来ます。何でもと言っても、人間は出せません。この空間にいるのは貴方達だけです。ボタンの回数制限はありません。また出した物を同じ方法で消すことも出来ます。なお、貴方達がさっきまで居た場所の時間は止まっています。誰かが消えた貴方達を捜索し始める心配もありません。一週間後、元の場所に戻るドアがこの部屋に現れます。そこで出ないと一生ここから出られませんのでご注意ください。ここを出ると、ここで得た記憶は貴方達から一切消えます。ボタンを押して出した物を、元の世界へ持って行くことも出来ません〉
手書きだった。読み終わっても、男はしばらくその青い紙を見つめていた。そして五分程経って、急に叫んだ。
「何やこれ! 悪い冗談やろ? 夢やろ?」
そう言って子供みたいに自分の頬を抓り出す。力加減をしていないのか、彼の右頬は真っ赤に染まる。
「横川さん、怖ないんか!? 何やねんこれ! おかしいやろ!」
私の腕を掴んでそう叫び、言い終わる前から膝から崩れ彼は天を仰いでいた。次第に彼の頬が濡れる。その涙を私はじっと眺めていた。自分より年上の男が泣くのを、テレビや動画の役者以外で見るのは初めてだった。そう思ったら、また立ち上がって叫ぶ。
「監視カメラがどっかにあるんや! 卑怯やぞ! どこにおるねん!」
彼は隙間時間、一人で家で過ごせる時は決まってサブスクのドラマを観ていると言っていた。彼の頭の中にあるのは、きっとありふれたデスゲームだろう。
私は男がさっき放り投げた青い封筒を拾い上げた。さっきの青い便箋と一緒に、ワイヤレスイヤホンのケースぐらいの大きさの、青いボタンが入っている。私達人間を除きこの空間の白以外の色であるそれは、浮いて見えた。
「ごはん」
そう言って私はそのボタンを押す。すると、また遠くの離れた壁から、ボンっと音がする。見れば、あきたこまちと書かれた五キロの米袋が、私の近くにいる男が座り込んで項垂れていたみたいに、上半分折れ曲がってくたびれたように落ちていた。
再度男の方を見ると、膝が崩れた体勢のまま信じられないという風に私を見つめている。年は彼の方が十以上上の筈だが、初めてマジックショーを見た子供みたいだと思った。私は彼から視線を外し、その米の落ちた場所に向かって歩き、それを引き摺って彼の近くに帰ってきた。ビニール製の袋の透明な部分から覗くと、やはりそれは普通のあきたこまちのようだった。
「面倒だな」
そう呟く私を男は驚いて見る。
「牛丼二杯、箸二膳」
そう言ってボタンを押すと、また離れた壁からそれが出てくる。今度は放られて音をがさつに立てることもなく、しかも御丁寧に木のお盆の上に載って床に置かれた。誰か置く人間の手は見えない。カチャンと、二つの食器が重なる音だけが小さく響いた。
私はまたそこまで行ってお盆を持ち上げ、男の元に帰る。丼鉢の蓋を開けると、牛丼の湯気と香りが白い部屋に解き放たれた。黙って箸でそれを口に運ぶ。
「ほんまに牛丼ですよ。この感じ、松家に近いかな。好きでしたよね? とりあえず食べましょうよ」
それでも男は床にへたり込んでその場から動けないようだった。身体は割にごついのに、その姿勢はアンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』のクリスティーナの様だ。言い換えれば、彼は脚の感覚を失っている様に見える。
何も答えず動こうともしない彼を放っておいて、同じ要領でダイニングテーブルと椅子二つを出して彼の近くへ運び、テーブルの上にさっきのお盆を置いて一杯は対面に、さっき食べかけたもう一杯を手前に置く。椅子に座り私はまた残りを食べ始めた。
私が半分程それを食べた時、やっと男は感覚を取り戻したように立ち上がり私の対面の椅子に座った。そうして食べ続ける私の顔を何も言わずしばらく口を開け眺めた後、置かれた箸にゆっくり手を伸ばし丼の蓋を開け少し冷めたそれをまた見つめ、小さな一口を食べた。母親に叱られた後母親の作った御飯を、母親の様子を窺いながら食べる子供の様だった。
「……おい、しい」
刑務所から長い懲役の後シャバへ出て、久し振りに牛丼屋に入った男の演技としてなら百点の振る舞いだった。一口をゆっくり噛み締めた後は急にそれを掻き込みはじめる。気付けば、私より先に食べ終えていた。米粒が唇の左下についている。
「横川さんは」
ゆっくり米を一粒ずつ掻き集めそろそろ食べ終わろうとしていた私に彼は言った。
「横川さんは、どうしてそんな冷静でいられるの。こんな意味不明な状況で」
「私も冷静じゃないですよ。ほんまに夢みたいです。だけど、ボタン押して本当に欲しい物が出て来たらちょっと安心しました」
彼の問いに答えたのに、彼は何も言わなかった。一粒残らず食べ終え、テーブルの右手側に置きっ放しだったボタンを再度手にする。
「キッチン」
そう言うと、ダイニングテーブルにいる私達から見て右奥に一瞬でキッチンの一角が出来た。シルバーの、飾り気はないけれど十分な大きさのキッチンだった。私はその流し台へ二杯分の丼鉢と箸を運び、蛇口から出した水に浸けておく。彼も、顔に付いた一粒以外はすべて食べていた。
「食器用の洗剤」
また壁から飛び出たオレンジ色の容器に入ったそれを、丼鉢に入った水に一滴加える。牛丼の匂いが消えた空間にシトラスが香る。
「トイレの個室、洋式」
それは今度は私達から見て左奥に出来た。ドアを開けてみると、ちゃんとそれだった。ウォシュレットまで付いている。それを覗く振りをして、私はブラジャーも出しトイレの中でそれを身に付けた。
「風呂」
トイレの手前にそれが出来た。
浴槽は私の脚でギリギリ伸ばしきれないような大きさで、至って標準的だが清潔な風呂だった。
「八畳ぐらいの個室、二個。ちょっと離して」
今度は後ろを振り向いた側の右奥と左奥にそれが出来た。それぞれの部屋にはまだ何も無い。「ベッド」だけ言ってとりあえずそれだけ二つの部屋に置いた。個室の壁も白かった。踵を返しまたキッチンへ戻る。 今言ったもの達が空間の端に出来たことによって、この白い部屋で壁が何処にあるかようやく把握出来る。その白い部屋全体は、最近テレビで観たやり手社長の住む絢爛豪華なリビングダイニングより全然広かった。
「冷蔵庫」
頭の中でイメージした通り、それはキッチンの一角にピッタリくっついて置かれた。今まで置いたすべてが、モデルハウスのパンフレットに載っていそうな見た目の新品だった。
「冷たい烏龍茶、コップ二つ」
キッチンの台にそれらが置かれる。烏龍茶をそのグラスのコップに注ぎ、ダイニングテーブルに運んだ。
「牛丼と一緒に出すべきでしたね、すいません。後必要そうな物ありますかね?」
彼はまだ黙っている。いい加減苛立ちが浮かぶ。それが顔に出ていたのか、やっと彼は声を出した。
「横川さんは……前も来たことあるんか、ここに」
「いいえ」
彼の前で過去ずっとそうしてきたのと同様に、感情を込めないフラットな声が自分から出る。
「じゃあ、なんで、そんな、慣れたように……」
「何ででしょうね、でも今出した物を見てたら、 なんか死ぬことは無さそうな気がして。ごはんも出るし。それに寧ろ欲を出せば、もっと豪華な生活だって出来そうですよ」
「何で俺らがこんなことに、とか思わんのか?」
彼の声は、私を叱責するような色さえ少し滲んでいた。
「そりゃあ。でも考えても分かる訳なくないですか? 気付いたら真っ白な部屋で、青い封筒と何でも出せるボタン。理屈でどうにかなるもんじゃない」
「……ほんまに一週間で俺らは出られるんやろうか」
彼は私から目線を落としダイニングテーブルの木目を見つめている。独り言のようにも見えた。
「それも分かりません。でも今のところこのボタンの話とか、その青い手紙に書いてある通りですもんね。もう信じるしか」
私が言い終わるうちから、彼は顔を上げ目をひん剥いていた。私の手からボタンをさっとふんだくる。
「葉子! 陽菜! 江梨花!」
そう叫んで彼がボタンを押しても、何も出て来ない。冷蔵庫のぶーんという機械音だけが広い空間に響く。
「クソッ!」
彼はそう言って手に持ったボタンを床に叩きつけた。そしてまた膝から崩れ落ち今度は号泣し始める。私は青いボタンへ慌てて駆け寄る。「洗濯機」。試しにそう言ってみると風呂の近くでそれが一瞬で出て来た。ドラム式だった。良かった、壊れていない。
「人間が例外なんもほんまみたいですね」
目の前で泣き崩れる男の背中に向かってそう言った。彼は身体を起こし真っ赤にした目でこちらを見た。私に殴りかかるような格好で近付き、でも寸前で立ち止まる。そう、彼は理性を持った男だ。
彼と目線を合わせるように私は屈む。子供を諭す母親のようなイメージで微笑する。
「全部この紙に書いてある通りじゃないですか。やから、一週間経てばちゃんと出られますよ。ちゃんと御家族ともまた会えますよ」
彼はまだ赤い目で再度私の顔を見た。顔を纏う液体が鼻水か涙か分からない。それを見て私は更に笑って見せる。そっと腕を伸ばし彼の口元についたままの米粒も取ってやった。
そうして一人立ち上がり、右奥に出来た方の個室へ私は歩いて行った。五分程そこに居ただろうか。
「テレビとかベッドとか、最低限必要そうな物を置いておきました。なるべく男性の趣味に合うような暗めの色合いで。あそこを課長の部屋にしましょう。落ち着くまで、そこでゆっくりなさってください」
それを聞くと、彼は実にゆっくり身体を起こして、吸い込まれるようにしてその部屋に入りドアを閉めた。私は自分の個室と決めた方の部屋に入り、彼の個室に先ほど置いた物とほぼ同じ物を並べる。流し台に置いた丼鉢を洗おうと再び共有部へ出ると、まだ彼の啜り泣く声がドア閉めていても漏れ出していた。私はもうワンセットずつ、風呂とトイレを彼の部屋のある右側壁沿いに置いた。
時間の感覚が全く分からないので、針の壁時計を白い壁に置いてみた。今は六時過ぎらしい。これでは朝か夜か分からないと気付き電子時計を追加で置くと、夜の十八時の方らしかった。これが今までの世界と同じ時間かは分からない。なんせあの手紙に寄ればあちらの時間は今止まっているのだ。けれど確かにあちらで夜寝て起きてしばらくここで過ごした時間を思い返すと、ちょうどそれぐらい経ったようにも思える。
ドアの開く音がし、しばらくぶりに彼の姿を見る。泣き疲れて眠ったのか、顔に涙の筋と枕の痕のようなものが見える。
「……カレー?」
彼は初めてそれの名を知ったような口調でそう言った。
「そうです。ルーの箱に書いてある通りで作ったんで不味くはないと思いますけど。どんなのか知らないけど奥様のよりは劣るかもしれません。嫌じゃなければどうぞ」
そう言って私は皿に入れそれをスプーンと共にテーブルに並べた。米は先ほど出したあきたこまちを、後から出した炊飯器で炊いた。
また、なんでそんな冷静に! などと叫ばれることを予期したが、彼は大人しくダイニングテーブルのさっきと同じ椅子に腰掛け、ゆっくりスプーンを手に取り食べ始めた。食欲には勝てないのか、一人になって長い時間泣き続けてやっと落ち着いたのかは分からない。私も椅子に座り食べ始めた。濃い味に、サラダがあればよかったかな、と思うが、彼が既に結構カレーを食べ進めていたのでそのまま食べ続けた。
「……おいしいよ」
彼が言った。顔は食べかけの皿を見つめたままだった。
「ありがとうございます」
「どうして、牛丼みたいに出来合いのものを出さなかったの」
「なんか、料理してると集中できるじゃないですか。それに普段一人暮らしやと殆ど料理なんてしないんですが、課長もいるし。課長はいつも、手作りのものを食べているでしょう?」
「……ああ」
そう言って彼はまた食べるのを再開した。白くて装飾の無い部屋は、静寂をより際立たせるように思える。テレビを出せばそれを誤魔化せるが、目の前の男はテレビを観ながら食事するタイプでは無いような気がしてやめた。そういえば、向こうでは時間が止まっているなら今こっちでのテレビには何が映るのだろう。後でやってみよう。
「ああ、毎回作られても面倒でしょうから、決まって一緒に食べなくても大丈夫ですよ。お腹が空いた時にそれぞれがボタンを押して食べたい物を出して食べて、まあ今回みたいに料理した時なんかは分け合う選択肢もあるぐらいで」
「……なんで」
喉で痰が絡んでいるのか、彼の声は酷く濁って聞こえた。
「なんで、俺と横川さんだったのかな」
茶色に染まった米粒を見つめながら彼は呟く。次の瞬間首を勢いよく上げた。
「これは何かの人体実験かなんかやと思う。この白い不気味で何でも出せるボタンのある訳分からん部屋で男女二人入れられて、メンタルとか脈とか生活態度とかなんか測られて。それをどっかで神の視点みたいに見てる奴がおるんや。なんで希望もしてないのにその被験者が俺なんや!」
言い終わるうちに彼の声は、数時間前の切実で切迫したものに変わっていた。「俺と横川さん」は最後は「俺」に変わっている。本当によく海外ドラマとか見てるんだろうなと思う。そう思って彼の顔をただ見つめる私に、彼は慌てて「いや、勿論横川さんは大事な部下やったけど」と付け足した。
「なんででしょうね。私達は元上司と部下って関係ですけど、それ以上でも以下でもないですもんね。一緒に働いてたのも一年ぐらい。そういう実験なら、例えば家族とか、もしくは反対に全く見知らぬ二人とか、そういうのでも良さそうですもんね」
精一杯、彼の今の心情を推し量って答えた。彼は「そう……なんだよ」と、少し語尾に力を入れて答える。
「申し訳無いですが、私も課長と同じ状況なので理由は分からないですね。けどきっと、一週間で御家族には会えますから。また仕事も復帰出来ますよ」
「横川さんは」
彼はいつもこれでもかと人の目を見てハキハキと話す人間だった。その個性を今は完全に失い目を伏せている。
「横川さんは、誰かに会いたいとかないの」
「うーん、まあ、特には。家族事情は課長も知っての通りですし。元々一人っ子で今も一人暮らしなんで、一人には慣れてるっていうか、友達とも勤務地や結婚とかでしょっちゅう会う訳ちゃうし何ヶ月も空くのもザラなんで、正直二人でいることの方がイレギュラーっていうか」
彼は声を出さない。
「その分課長は大事な御家族いらっしゃるからお辛いですよね。娘さん達もご心配でしょう」
私がそう言うと彼はまるで巨人の星みたいにくっきりと一筋涙を流した。娘達や嫁の顔が浮かんでいるのだろう。なんて理想的な父親。子供は確か、小学生の女の子と割に最近産まれた赤ん坊の姉妹だと聞いた気がする。
「……ありがとう、美味しかったよ」
そう言って彼は椅子からゆっくり立ち上がった。魂を吸い取られたように目線の定まらないまま、彼の個室の方へ向かっている。
「あ、お風呂とトイレ、私は気にしないのですけど、生理面で気になさるかなと思って二つに分けました、課長の部屋と同じ側の右側のを使ってください。あと私がボタン持ったままですけど、欲しいものあればお渡しするんでいつでも仰ってくださいね」
背中に話しかける。彼は個室に入るドアの前で、頷いたようにも、ただ意味無く頭を少し下げたようにも見える格好でそのまま部屋に入っていった。私は二人分の食器をお盆に載せ、流し台で洗う。戻って自分の個室でつけたテレビは、どのチャンネルにしても私が昨夜眠ったであろうぐらいの時刻で一時停止された静止画しか写らなかった。
ホットケーキを焼いてみようと思った。スーパーで売っているホットケーキミックスや卵、牛乳など必要な材料を出し、最後にホットプレートを出した。キッチンで材料をボウルに混ぜ、ダイニングテーブルに置いたホットプレートにそれを円状に広げていく。
ドアの開く音で私は顔を上げた。
「……おはよう」
「おはようございます。起こしてしまったならすいません」
「いや」
そう言うと彼は私が昨夜風呂の横に置いておいた洗面台で顔を洗い、のろのろとこちらへ歩いてきた。
「ホットケーキか」
「はい、久し振りに食べたくなって。課長はどうされます? 昨日お話しした通り気を使わず別のもの食べて頂いても全く問題無いですからね」
「……いや、もらうよ」
それを聞き私はさっき描いた円の隣にもう一つ円を描く。売り物より当然形は歪だが、先にひっくり返した一枚は良い焼き具合だった。これを彼に渡そう。焼ける間、私はバターや蜂蜜、バナナなどを出して皿を盛り付ける。普段なら絶対やらないけど、生クリームの上にミントの葉でも上に載せてみようかと思い付く。
「どうしてフライパンじゃないの?」
ホットプレートの焼ける音のせいか、彼の声はまたくぐもって聞こえた。
「昔実家でホットケーキ焼くときは絶対ホットプレートやったんですよ。休みで朝に時間があるとき。そんな時に母が炬燵机の上に置いたホットプレートで焼いてくれるホットケーキが大好きでした。今のみたいに形は歪ですけど、ほんのり甘くって、滅多に無いからそれがすごく特別な時間に思えて」
「そう……」
彼の声は感慨深げにも、興味なさげにも聞こえた。
「よし、二枚焼けました。食べましょう! 足りなかったら追加で焼くんで仰ってくださいね。あ、飲み物はコーヒーとかで良いですか? アイス?」
頷く彼にアイスコーヒーを出し、私はオレンジジュースを出して互いのコップに注ぐ。バラバラのタイミングで頂きますと言って手を合わせ、食べ始める。
「おいしいよ、ありがとう」
彼は頬張りながらそう言った。知らない食卓に入り込んだように一瞬で目の前にそれが浮かぶ。家で何が出されても毎回言うようにしているような、抑揚のない言い方だった。ただ食べてみると確かにほんのり甘くて、バターの溶けていくのと一緒に食べると格別だった。
「横川さんは飲み込みが早いね」
彼が最後の二口くらいで突然言った。私はちょうどその時頬張りすぎたのをオレンジジュースで流し込んでいたので、最初はその事を言われてるのかと思った。
「飲み込み?」
体内に無理矢理詰め込んだホットケーキを飲み込みきる。
「うん、この意味不明な状況に対する、飲み込み」
「ああ」
肋骨辺りを軽く手で叩きながら答える。
「そうですかね。でもいつも仕事の時は何が起きても臨機応変で、慌てる私達にも的確に指示してくださって、課長の方が余程飲み込み早かったじゃないですか。この状況に戸惑われるのは無理ないですし、じきに課長の方が慣れられますよ」
「でもこんな、朝から呑気にホットケーキなんか焼いて……」
言ってしまってから、彼は露骨にしまった、という顔をした。彼はいつだって、他人を傷つけないよう配慮しているように見えた。かといって配慮しすぎて気が弱いというのでもない。言うことは言うが、完璧な上司として、パワハラなどといった愚かな一線を決して踏まないよう、常に身を律しているように見えた。
「いや、ごめん。横川さんのあり方の方が余程適切やよ。早く俺も追い付きたい。御礼にホットプレートとか洗いもんは僕にやらせて。よく考えたら昨夜のカレーも任せたままやったね」
彼は嫌味なく、人を褒めることだって出来る。彼が立ち上がる。私も慌てて立ち上がった。
「いえそんな気になさらないでください。私元部下ですし、勝手に気が向いてホットプレートまで出して焼いたのも私なんですから」
「いや、良いんや、ほんまに」
彼の語気は強かった。自分の意志でこうするのだという決意のようなものを込めた声に聞こえた。
「ああ、でも何かした方が気が紛れますしね、それでは今回はすいません」
「気が紛れ」と私が言った時、彼の肩が一瞬ぴくりと動いた気がした。任せる方が正解だという確認行為の為だけに、私はそれを言ったのだった。
彼の申し出に甘え先に自分の部屋に戻り、再びテレビを操作する。向こうの時間に縛られない過去のサブスクなどは見られるらしかった。普段それらの類を観ない私は、チャンネルをぐるぐる回し続けて、結局いつもはリアルタイムで観るバラエティ番組のアーカイブを初回から見返した。
再び自分の部屋を出ると、ホットプレートの板がキッチンに立てかけられ干されている。昼食は昨夜の残りでカレーうどんを食べたが、彼は出て来なかった。また洗い物をしながら淡い思い付きが、ふっとシャボン玉みたいに浮かぶ。
部屋をノックする音が聞こえた。昼食後部屋で長く昼寝していた私は、その音でベッドから飛び起き慌ててドアを開ける。
「ごめん、休んでるとこ」 彼は言った。
「いえいえ、ボタン、テーブルの上置いといたんですけど、昼食とられました?」
「いや、それより何、あれ」
彼は私から見て左を指差す。その先には、白い壁に取り付けられた白いドアがあった。
「ああ、見られました?」
「見るも何も……」
戸惑い以外、彼の目は何も映していなかった。
「ずっと白い空間におるんも気が滅入るんじゃないかと思って。それで試しに」
「いや、あれは、その」
「私が好きなんであんな感じにしたんですけど、課長も好きなの追加されたら如何ですか」
私が言い終わると彼はもう我慢ならないという風に私の腕を無理矢理引っ張って部屋から出して、渦中のドアを開けた。さっき見たのより夕焼けに近い太陽が空と海を茜に染め始めている。椰子の木が風で揺れカサカサと音を立てた。
久々の、白以外の背景だった。
「これは一体どこなの!」
彼は普段より高い声で叫んだ。脳が追い付かない。説明が無いなんて有り得ない。そんな風に見えた。
「いやあ、『綺麗な海辺』って言ったら、出せたんです。びっくりですよね。『人間は出せない』というのは、裏を返せば『人間以外なら何でも出せる』ってことかもしれません。ほら、同じ生き物でも椰子の木は生えてるし」
「なんで横川さんはそんなに……」
そう呟きかけて、でも彼は途中で何か思い付いたように表情を変えた。
「ここをずっと歩けば、いつか帰れるんやないか! ああなんで早く言わないの」
名案だと言わんばかりに彼は再び私の腕を掴み大股の勇み足で歩き始めた。彼の背中はずっと猫背で肩を竦めていたさっきまでと比べて、急に広くなったように見えた。
「そう言っても、国も指定しなかったんでここはどこか外国か、若しくは架空の海でどこにも繋がってなんかないかもしれませんよ。そんなのより目的地を直接指定して出した方が早いですよ」
彼は足を止める。そしてドアへ振り向き私を放って白い空間に先に戻って行った。
彼はダイニングテーブルの上にあったボタンを手にしている。
「二海家。二海弘樹の家」
そう言って壊れるんじゃないかと思われるほど強くボタンを押す。海辺の時と同じ様に白い壁に白いドアが出来た。その瞬間ドアノブを彼は握りそれを開ける。私は遅れてそれを覗く。
目の前には、大きな一軒家が建っていた。コンクリと木造を上手く組み合わせた、お洒落なモデルルームみたいな家。彼は玄関のドアノブも慌てて掴んで勢い良くその家に入って行く。
「葉子! 陽菜! 江梨花!」
彼は昨日も叫んだそれを呪文のように何度も唱えながら家中を走り回っている。まるで飼い主を探す犬の様に。部屋やトイレや風呂のドアというドアを開閉する音がその家の中で彼の声と一緒にこだまする。十分ぐらいして、私が立っていた玄関に彼は戻って来た。
「いない……どこにもいない……」
そりゃあそうだろうと言うのをぐっと堪える。それに外観からこの家は妙だった。より正確に言えば、この家の周りが妙だった。この家とその庭だけくり抜かれたように、周囲の空間は全て白い壁が建っていて、彼の家だけ無人島に浮いているようなのだ。彼の家は西宮の住宅街だと聞いていた。隣にある筈の家とのミシン目をハサミでばっさり切り落とされている。そんな家に、人間などいる筈がなかった。
「やっぱり、人間は難しいみたいですね」
四つん這いで泣く彼に、精一杯優しく聞こえる声を出したつもりだった。けれど彼はそれを聞くと立ち上がって私を振り切り、ドアの先の元の白い空間へ帰って行った。
孤立した一軒家に私は一人残された。改めて見上げたその家は、比較対象が無くても、あまりに立派だった。ハウスメーカーのCMを見てるみたい。玄関の写真立てでは、知っている男と大人しそうで素朴な女と、それに抱かれたクリームパンみたいな赤ん坊と、既に聡い顔をした制服にランドセルの女の子がみんなこちらを見て薄っすら笑っていた。
彼の家のダイニングテーブル近くには、やはりテレビは置かれていなかった。
「なんやこれは」
夕飯時になって、彼は自分の部屋から出て来た。人はこのような状況下でも、腹は減るものらしい。
落ち着いたウッドベースの内装。黒檀は角度によっては深紫に光る。高そうな本皮の四人掛けソファ。その傍らには鉢植えのオリーブの木。人工の青い火を灯すお洒落な暖炉。この部屋には玄関が無いので、写真立ては暖炉の上に置いた。かと思えば一角はパステルカラーでスポンジ製のパズル柄の床になっていて、同じカラーの小さなジャグルジム、ガラガラや玩具が転がりベビーベッドの上には水色やピンク、色とりどりの魚が回るモビールが吊るされている。タイトルを付けるなら、『プライドと愛情』。
「全部白いのも不気味って仰ってたんで、それで合わせてみたんですけど」
彼は拳を握っている。小刻みに揺れ、腕の血管は浮いている。彼は仕事で何があっても怒りや負の感情を表に出さなかった。どうやら間違えたらしいと私はその時気付く。
「元に……」
彼の声はベースの重低音の様に鈍く低い。
「元に、戻しておいて」
そう言って彼はまた自分の部屋に戻って行った。
仕方ないので言われた通り白に戻した後は、ホットプレートで焼いていたお好み焼きを彼の部屋の前に置き、その旨を小さなメモに書いてドアの隙間から投げ込んでおいた。朝見ると、皿は洗った状態で食器棚に置かれていた。
朝私はトースト、彼は鮭の塩焼き定食を食べたが、起きたタイミングが重なりまたダイニングテーブルに対面で座っていた。
「海には行ったの」
私がトーストにマーマレードを塗っている時、彼は言った。声は粘っこい。
「いえ、まだですね。ずっと欲しかったゲームをしてたら、もう深夜で」
欠伸をしながら答える。流石に一緒に働きながらここまで無礼を働いたことは無い筈だが、一日中一緒なのだから仕方ない。
「……行ってみるか」
「あ、良いですね! あ、じゃあついでに昼は外食してみましょう! 店だけあって店員がいないのか、それでもロボットが働いているのか、興味あります」
彼は興味無さそうに、でも「外食もいいな」とだけ答えた。
十分後の待ち合わせ時間に部屋から出て来た彼は、朝のまま室内着でノーメイクの私と違って茶系のチェックシャツにジーンズ、つまり外着に着替えていた。確か慰安旅行の時もこんな服装だったように思う。「休日の父親」をテーマにした絵なら十人中六人は描きそうな服装。残り四人はチェックシャツがパーカーに変わる。
例のドアを開ける。明るくでもまだ少し低い太陽から、私達が「朝」と捉えているものはちゃんと朝なのだと知る。椰子の木は揺れ、修学旅行で行ったハワイのように空気はカラっとしていて、穏やかに波は寄せては返し、海岸線は見える限り果てしなく続いている。昨夜やったゲームの様にいつかその線に切れ目があって、前に進もうとしても見えない壁に突進するしかないのか確かめたくて堪らなかったが、隣の男はそこに興味はないだろう。透き通る様な海、白い砂浜。完全にリゾート地だった。人が全く居ないこと以外は。
「本当に、どこなんだろうな」
遠くの水平線を眺めて彼は言った。当然私に答えは求めていないので返さない。
しばらく海沿いを歩く。ちゃんと太陽は登っていく。ずっと見つめていると瞼の裏で星のような物がチカチカ光る。作り物には思えなかった。波の揺れが止まることもない。椰子の木の揺れはちゃんと風の向きに応じ時々方向を変える。ヤドカリやスナガニなどが、時々砂から顔を出してすぐ引っ込める。
「海に入ってないのに、息が詰まるな」
彼の今度のそれは独り言か渾身のブラックジョークか判断が難しかった。少なくとも「分かります」は違うと思った。私はついさっき隣で思いきり深く深呼吸したところなのだ。だから曖昧に笑ったようにも鼻歌を歌いだしたようにも聞こえる不安定な音を出しておいた。彼はそれ以上何も言わなかったので、間違いでは無かったように思う。
「お腹空きませんか」
昼には少し早いが、さっきの「息」はまさに詰まるところ「会話」の意味だったのではと、二百歩ぐらい歩いてから思い立ち私は提案した。彼はただ「ああ」と答える。
「何が良いですか?」
彼はしばらく考えかねた挙句、「横川さんは、寿司は食べられるの」と言った。「大好きです」と答え、私は短パンのポケットからボタンを取り出し「寿司屋」と言った。途端に砂浜の上に場違いなほど純和風の家屋が建つ。一枚板の看板には店名は無く「寿司屋」とだけ彫られてある。
木の引き戸を開けるとL字型の木のカウンターがあった。私の思い浮かべていたのは行き慣れた回転寿司屋だったので少しだけ面食らったが、それなら「回転寿司屋」と言うべきだったのだと自省する。
「大将は、いないな」
彼は少々諦めが悪い。カウンターから覗く調理場には、木の大きなおひつに入れられた、一粒一粒光沢のある高そうなお米と、マグロやイカやカンパチが切られる前の状態で置かれていた。普段料理をしない私は、当然魚など捌けない。
「寿司調理できるロボット」
そう言うとドラえもんの映画版に敵役で出てきそうな四肢の揃った、けれど全身緑色のロボットがカウンターに立つ。私の隣の男は少し呻き声を上げた。そのロボットは出て来てからずっと右手を握りカウンター上の空間でそれを上下にただ動かしている。
「ああ、包丁」
理解するのに少し時間がかかった。包丁が出ると、そのロボットは器用にマグロやイカやカンパチをおろしていく。杓文字も遅れて出してやると、綺麗な米粒を切って少しかき混ぜた。酢飯の香りが広がり、家族で昔雛祭りにしたちらし寿司を思い出す。
「ゴチュウモンハ」
私は隣の男に目線を遣った。けれど彼は口をOの字に開けてそのロボットの手元周辺を眺めている。瞬きもしない。仕方ないので、
「中トロ、二貫」
と私が言った。するとロボットはマグロの脂ののっていそうな箇所を綺麗に包丁で切り、その後見事な手さばきで器用にシャリを握る。おひつの中で白く光沢のある芝生のようだった米は、きちんと手のひらサイズになって中トロを支えた。
「オマチ」
ロボットはカウンターからそれを私達に向けて出した。「醤油と醤油皿二つ、あと緑茶二つ」と言い、私はその出された一貫を口に入れる。行き慣れた回転寿司屋にしなくて正解だったと思えるほど、溶けるような脂が美味しかった。隣のOの字口男の視線は、私の方へ向けられていた。
「ほんまにおいしいですよ」
それを聞いて二十秒後ぐらいに、やっと彼はそれを手に持って恐る恐る口に運んだ。
「美味い……」
寿司屋のCMに出て来そうな程完璧な間合いと息の漏れ具合で彼は言った。またしても私はそりゃあそうでしょうという言葉を飲み込む。
「ホカニゴチュウモンハ」
今度は彼の方から「カンパチ」と言った。私の顔を見るので、私は「二貫」と付け足す。寿司の美味さに気を良くしたのか、彼はビールも注文した。こうやって私達は、マグロやイカやカンパチや、奥の冷蔵庫にあったサーモンやいくらやウニやタコの寿司を食べた。ロボットはイカやタコの炭抜きも完全に慣れた手つきで行った。
二人の腹が見て分かる程膨れて、店を出ることにした。私達が立ち上がると、ロボットは「アリガトウゴザイマシタ」と言った。
「お会計は?」
彼は尋ねた。金など持たないのに彼はそう尋ねる。ロボットはただ「アリガトウゴザイマシタ」とだけ繰り返す。
店を出た男は「何だか悪いことをした気になるな」と呟く。また返事を求められているか分からないので曖昧に音を出しておく。あのロボットはこれからずっと、あそこで来客を待ち続けるのだろうか。
どちらからともなく歩き出した。あまりに食べたので、自然と欠伸が出る。ふと思い立った。
「ハンモック」
そう言ってボタンを押すとそれは目の前の椰子の木と椰子の木の間に掛けられた。アメリカのドラマで見たような、白のロープで編まれたある種クラシックなものだった。
「課長はどうします? 私は少し眠いので休憩します」
「……そうだな、僕も貰おうかな」
そうやって近い木の側で二人共横になった。真上に来た太陽が私達を照らす。ちゃんと日に肌が焼ける感覚があった。日焼け止めを出して塗り、要否を尋ねた上で彼のハンモックへそれを投げる。私達はそれぞれ前から読みたかった小説の文庫本を出して読み、でもすぐ眠ってしまったようだった。
次に目を開けると、空は昨日見たように茜色に染まりゆっくりと海に身体を沈めようとしていた。男は先に起きていた。
「ああお待たせしてすいません。そろそろ戻ります? 晩御飯は家で良いですよね」
「外」という概念が出来て、あの白い空間は私達の「家」になっていた。
「ああ、その前に」
男はハンモックから少しドタバタとてこずりながら降りて立ち上がる。
「ちょっとだけ良いかな?」
そう言って白い砂浜へ歩いて行った。私は後を歩く。彼の背中を見て、ここへ来て彼が私の先を歩いたのは初めてだと気付いた。
彼は砂浜の上の流木に腰掛けた。ならってその横に座る。
「なんで海だったの」
彼は水平線を見つめたまま尋ねた。
「なんか浄化されませんか気持ちが。昔から好きなんです。母のことがあった時も、一人で宮古島まで行って、ずっと海を眺めてました。遮るものが何も無いと、空も海も自分も他の生き物も、何もかも一体になれる気がするんです」
彼はただ、そうか。僕も海は好きだよ、下の子が生まれる前だし宮古島は行ったことが無いけど、家族で行った石垣島の海は綺麗だったな、とだけ答えた。ああこれは、彼が打合せでいつもしていたアイスブレイクだったのだ。
「意味不明だけど」
彼の声は潮騒と混ざって少しだけ聞き取りにくかった。けれど音域は彼の声の方が低くく、結果的に切り分けられて耳にちゃんと届いた。
「こうなったのは意味不明だけど、せっかく良い機会だから」
彼はずっと、水平線だけを眺めている。
「僕は、申し訳ないと思っている」
「別に良いですよ」
自分から曖昧に言った癖に、自分が何について謝っているのか、この女は何故分かるのだという表情で彼が私の方を振り向いた。
「異動先のことですよね」
「ああ……」
彼の声は水みたいにきちんとした輪郭を失い始めた。
「課長のせいだとは思ってませんよ」
「そう……」
彼の口元に、少しの安堵が含まれた気がした。わざわざこんな雰囲気ある中で自ら急に謝罪を始めて、彼は私のさっきの言葉を引き出したかっただけなのだろうか。そう思うと、次の言葉が口を突いて出た。
「ただ、良いことなんて無いなと思ってます」
彼は再び私の顔を振り向いた。さっき機嫌を直したと思った母親が、更年期障害で自分への怒りをぶり返した時の反応みたいだと思った。
「努力したって、良いことなんか無いなって。頑張っても、全部運ゲーだなって」
男は黙って下を向いた。私の衝動はもうあまり残っていなかった。
「でもそれが人生ですもんね、別に今回のことだけじゃないですよ。人生全部運ゲー
です。親ガチャとか、そういう感じ」
沈黙は、波の音が埋めた。冷蔵庫の機械音より、幾分ましに思えた。彼はさっき私が最後に言った単語の意味を知っているだろうか。けれど後からわざわざ説明するのもあんまりだと思った。
「僕が、もうちょっとちゃんと周りに話を訊いていれば……」
「いいえ。訊いても同じ結果だと思います。課長がもし係長の時あそこへ赴任していれば、ちゃんとこなせたでしょうから。私が弱いんです」
「いや、そんなことは……」
「そもそも課長のおかげで昇格出来たんですから。それに私が大阪が良いって言って、その通りにしてくださったじゃないですか」
「そうだね……」
メールソフトに書いた、ゴシック体の「お墓」の文字が、脳に刻印されたようにはっきりと浮かぶ。目の前の星は何億光年離れた隕石じゃなくて、夜空みたいな黒い布に貼り付くイルミネーションであるような気がした。
「ただ、頑張って生きてても意味は無い。それを学んだというだけです」
そう言って私は砂を払い立ち上がった。彼の話に何か続きがあるのかは確認しなかった。けれど何も言えないだろうと思った。彼が普段言いそうな、「頑張って生きてればいつか良いことがあるよ」とさえ。実際彼は何も言わず、その場で立ち上がることすらしなかった。私は先にドアノブに手を掛け、海辺を後にして白い部屋に帰る。ドアの数だけ増やせば実質、どこでもドアみたいだなと思った。
白い部屋は何も無さすぎて、さっきまで網膜上にあった景色を壁に映す。
ピンクから燃えるような赤のグラデーションの雲が、薄ぼんやりとたなびいている。
「明日はどこへ行きたい?」
海に触発されて私が出したロコモコ丼を頬張りながら彼は言った。それはまるで盆休みに父親に尋ねられたようで、彼の中の変化に少し私は驚いた。でもすぐに、彼なりに私を励まそうとしているのだと気付く。
「そうですね……。うーん。ああ、莫迦みたいって、子供みたいって、そんなの面倒だって言われるかもやけど」
「前置きが多いな」
そう言って笑う彼の顔は、少し赤く焼けている気がした。
「ディズニーが良いです」
「ディズニー?」
「ああ、やっぱり面倒ですよね」
「いや、そうじゃなくて、ただ少し意外やなって」
「そうですか?」
「横川さんはほら、同期の子達より大人っぽい印象やったから」
「そうですかね。 でも考えてみてください、あそこって確かに夢の国やけど人が多いのだけがすごくストレスでしょう。それが誰も居ないんですから。ああ、キャストさんもだけど」
「いいね、明日はじゃあ無人ディズニーを探検しよう」
そう言って彼はビールを出して飲み始める。最後に行ったのはあれやな、江梨花が生まれる前、陽菜が三歳の時だ。その時は単身赴任で、僕東京にいたからね。グーフィーが大きくて黒いのが怖いらしくて、大泣きしてたなあ。グーフィー側だって、喜ばれるのが当たり前なんやから泣かれるの慣れてないよなあ。一人で言って一人で笑っている。そう言えば、彼はプライベート、特に自分の家族については普段殆ど語らなかった。きっと私に配慮してのことだった。
区切れ目で適当に相槌をうっていたら、いつの間にか眠っていたらしい。起きたらダイニングテーブルに私は突っ伏したまま、タオルケットが掛けられていた。
青空にシンデレラ城がぶっ刺さっていた。それは少し、小さくなった気がした。昨日の海と違って、そこはこの前までいた世界と同様少し肌寒かった。
「この世界は海と一緒で朝なのに、テレビはどうして止まったままなのかな」
彼が避けていた本質に、少しずつ目を向けるようになったように思えた。
「未来は、人がいないと作れないからじゃないですか」
そう言って歩く私達の周りには、勿論全く人がいなかった。そして無音だった。いつもは会話していてあまり気にしたことの無かったBGMが、いかに来園者の心の高揚に必要だったのかを思い知る。電気の消えた土産物通りでは、お馴染みの人形達がみんなこっちを見て闇の中静かに笑っている。あの家族写真がふっと浮かぶ。
ここは時計回りに周れば昔から未来へ時系列になるように、元々設計されているらしい。私達はそれに倣って周る。人がいないとここまで広く感じるのか。そう思った。
遠くにビッグサンダーマウンテンが見えた。その手前でカリブの海賊に入ってみる。本来待ち行列になる通路を突っ切って歩くと、冒険に出掛ける筈のその舟は乗り場で止まったままで、「海」も凪いでいる。そう言えばこの古いアトラクションに、自分は乗ったことがないと気付く。
「このどれか、ボタンを押せば動くのかな」
本来「レッツゴー!」などと言うスターター役のキャストが立つ場所を、じろじろ見回しながら彼が言う。
「でも怖いですね、誤作動でもしたら」
これまで来なかったのは、ここに興味がないからだった。ガイドの写真見たら可愛いキャラなんか全然出なくて、骸骨ばっかり。面白くないよ。親に昔そう言ったのを思い出した。さっさと私達はそこを出た。
さっき見えた岩山の写真を持ってきたカメラで撮って、路上のポップコーン売り場で手でそれを掬って食べた。キャラメル味だった。
「ああこら」
「誰が見つけて怒るんですか、それにこれは誰にも食べられないかもしれないのに」
「あと何日か経てばまた食べられるよ」
彼は、やはり本質を理解していないように思えた。もしくは見ないようにしているのかも知れなかった。結局強く勧める私に負けて恐る恐る、彼もそれを一粒掬って食べていた。少し冷めても甘くて、少し焦げた部分が堪らなく美味しかった。
続いてダンボやメリーゴーランドが見えてくる。メリーゴーランドのあるこの場所だけ、お決まりのキャラクターたちが出てこなくて普通の遊園地みたい。ダンボに乗りながら昔そう言っていたことを思い出す。
私は迷わずイッツアスモールワールドへ入る。彼も黙って着いてきた。
カラフルな入り口と待ち行列の場所を抜けると、また乗り場で舟は止まっている。お決まりの音楽はここでも流れていない。
「私昔から大好きなんです。このキャラクターのいる縁を、歩いて一周してみませんか?」
「ええ踏んじゃっていいのかな」
「だから、誰も見てませんよ。昔から何体いるか数えてみたかったんです。課長が左側、私右側。じゃあ行きますよ!」
そう言って私が人形達の足場のゾーンをひょいひょい飛び越えていくと、彼も仕方ないな、という感じで遅れて着いて来た。何度か水に濡れた場所で足を滑らせている。無言で私達は進む。
こんな静かなイッツアスモールワードは初めてだった。
「あれ、今百十五やったかな、百二十五やったかな」
アフリカらしきゾーンで分からなくなって立ち止まった。
「僕は三百十二」
「ええ、左側だけそんなに多いですかあ」
「横川さんこそ、大雑把過ぎるんじゃない」
「課長、ここのラクダとかロバとかも数えてません?」
「世界中誰だって仲良しに、動物も入るやろ?」
そこで私達は初めて腹を抱えて笑い合った。
「もういいや、こうやっていつも分からなくなるんです。それより、とっておきの秘密があります」
そう言ってまた静かで色と人形に溢れた世界をどんどん歩いていく。カウンターの責務を逃れた彼は、さっきより少し早かった。
「ほら、これ!」
終盤のオセアニアに差し掛かり、他の上半身裸の人形と一線を画し、一人ぼっちでドレスを着ているその人形を私は指差す。
「これほら、黒柳徹子」
「……ほんとだ」
何で今まで気付かなかったんだろう。そう言って初めて彼が写真を撮った。そしてこちらを見て笑った。
イッツアスモールワールドには、玉ねぎ頭の黒柳徹子がいる。それは昔父から聞いて得た知識だった。それからは、最早この一体を見る為だけにイッツアスモールワールドに乗ってきたと言っても過言ではない。彼は何度も陽菜と江梨花に見せたいなあ、ああでも、黒柳徹子を知らないか、と笑いながら呟いていた。
外に出て、プーさんのハニーハントの可愛い絵本型のオブジェが目に入る。
「はちみつたべたいなぁ」
「え?」
「ぼくが、はちみつをすきだから、いけないんだぁあ」
私が物真似をしているのだとやっと気付き、彼がまた腹を抱えて笑った。
「結構上手だね」
「ありがとうぅ」
その日一番、ゲラゲラと彼は笑った。
「陽菜にせがまれてこれは何回も乗ったけど、そんな、『いけなあいんだあ』みたいな台詞あった?」
「ありましたよ。なんか最初の方で、風船ぐるぐる巻きでプーさんが飛んでくような……ちょっと細かい文言はあやふやですけど」
「そうだっけ? 確かめようよ」
「良いですけど、音は鳴りませんよ」
「そうだった……」
そう言って彼は頭を掻いてみせた。プーさんみたい、と私は言って笑い、また近くの、今度はハニー味のポップコーンを摘んで二人で食べた。
トゥーンタウンで、ミッキーの家に入った。勿論ミッキーは居ない。何故か空いていた従業員入口を見つけると、その抜け殻が見つかった。私がそれを引き摺り出すと、いつの間にかカメラ係になっていた彼は、大笑いしてその疲れ切ったネズミを撮った。
「横川さん、入ってみてよ」
「ええ、いいんですかあ」
それは想像していたよりずっと重かった。パレードやショーで踊る彼等を思い出し、楽しかった思い出は労わりの気持ちに少し変わる。彼はまた大笑いで写真を撮っている。
近くにあったレストランで仕込んであったお肉を適当に鉄板で焼いて食べた。こういう所って、何でも無駄に高いよね。ファミレスなら千円は安いよ。味も変わらないのに。そんな夢の無い、でも訪れた人々が一回は必ずする会話を、彼もしていた。
最近までスペースマウンテンのあったエリアに入る。昔からここだけ少し苦手だ。
ここの建物は、あまりに白が多い。
確かに「近未来」で、見た事ないものばかりなのに、ここだけ今までのお伽話から抜けて何故かひどく「現実」な気がするのだ。近未来の、きっと来る現実。お城みたいに、不要な装飾はどこにも無い。色に塗れた世界を抜け、呆気なく夢の終わりを告げられているような気がいつもしてしまう。
「未来」は怖い。
どこにも寄らず、私は早足で出口の方へ向かった。彼もそれについては何も言わなかった。再び土産物通りに差し掛かる。
静寂の夢の国。
「久し振りに来ると大人でも良いもんやね。まだ江梨花が小さ過ぎるけど、三歳になったら絶対来よう。乗り物に乗れなくても、こんなに楽しいんやから」
「くたびれミッキーはいませんよ」
彼は快活に笑う。いつもの彼に戻ったように思えた。再び未来に期待出来るようになったからだろう。
彼はいつだって落ち込む姿を決して見せなかった。そもそも落ち込むようなミスや失態も一度だって無かった。いつだって励ます側にいた。
また少し彼が先を歩く。
「母と約束したんです」
彼の背中に向かって言う。
「子供の時、ちょっと良いホテルに泊まって、私有頂天になっちゃって、大人になったら母ちゃんを連れてきてあげる!って。ドライヤーで髪を乾かしてもらってる時で、鏡越しの母も嬉しそうやった」
「来たの?」
振り向かずに彼は言った。もうすぐ土産物屋の通りを抜け、創立者とミッキーが手を繋ぐ像が見える。
「いいえ、稼げるようになってからは、私がスーパーで支払うだけで、何回も、ごめんね、って言うのが口癖でしたから。ディズニーなんてとても」
彼が振り向く。夕陽に照らされた彼の表情は見えない。
「僕なんかと来て、良かったの……?」
「良いんです。もう、来ないと思うから」
「え?」
夕陽に吸い込まれるように、私は走って彼を追い抜いた。夢の国に不自然にけれど溶け込んだ、白いドアに向かって一直線に走る。
私にはある記憶がある。夜、この夢の国の出口で、煌々とオレンジの温かい灯りがたくさん灯る中、私は一人だった。もう大人で、大きな荷物を持っていた。こんな楽しい場所に一人でいるなんて最悪だ。そう思うと勝手に涙が出た。オレンジの灯りが滲んでいく。
けれどどうしてそんなことになったのかは全く覚えていない。サークルの東京合宿の帰りに寄って私だけぐずぐずしてバスから取り残されたのだったか、就活で東京へ来たついでに何の気なしに寄ってみたけど、一人で来るところじゃなかったと後悔したのだったか。それだけ無惨な気持ちになったならどう帰ったのかも覚えていそうなのに、何も覚えていない。あるのはそのオレンジの灯りが滲んで楽しそうな音楽が鳴り楽しそうな人々をただ見つめて立ち尽くした記憶だけ。きっと夢だったのだと思うけれど、そこまで鮮烈な感情が記憶に残る夢も無かった。
先に自分の部屋に戻ると、後から帰った彼は私の部屋のドアをノックし、一言「疲れてるだろうから、明日はゆっくりしよう」とだけ言った。本当に盆休みみたいだな、と思う。正解は「こんなことになるのもはちみつが大好きなせいだあ」だったと、言いかけてやめた。あの写真は、カメラから出ることは二度とないだろう。
今日壁に映るのは、シンデレラ城でもない、ハニーハントの可愛い絵本のオブジェでもない、白い曇り空だ。
翌日白い部屋の共有部に掃除機をかけていたら、彼は自分の部屋を飛び出し「残り半分は僕がする」と言ってその通りにした。ほつれたスウェットなんかじゃなく、昨日と同じような外着をちゃんと着ていた。「洗濯は各々やろう」と彼はまた提案した。けれど私は着た服を捨て新しい服を出すだけだった。
彼は自分が出した元の「家」にも、本やら日用品やらを取りに行っているらしかった。ボタンは自分が使わない時はダイニングテーブルの上に置いておき、使ったらまた戻すことが何も言わずとも自然とルールになっていた。彼は一度私に、唯一できる料理として焼きそばを振る舞った。また知らない食卓に、一瞬で入り込めた。
彼が夕方海へ一人出掛けた。私はそれをダイニングテーブルで鮭おにぎりを食べながら見送る。そして海へのドアが閉じられた瞬間、私は別のドアを開けた。
質素な部屋だった。私の部屋にこれでもかと欲しかったゲーム機や漫画が並んでいるのに比して、禁欲を謳う神を信仰しているかのようにその部屋には殆ど物が増えていなかった。テレビ、ベッド。これは私が最初にこの部屋を作った時に置いたものだ。それから追加されたのは外着とそれを掛けておくハンガーラック。家族のものらしいアルバムと何冊かの本だけ。覗けば殆どが『現代のリーダーシップ』などと書かれた自己啓発本だった。最初の日の青い手紙の内容を、彼は忘れてしまったのだろうか。溜息を吐きもう一度全体を見渡す。膨らみ。一度目で気付かなかったそれに気付き、私の血は体内をぐるぐると素早く巡った。
彼は夜には帰って来た。それもサラリーマンの様だった。彼の提案で、ホットプレートで焼肉を食べた。最初の日より、彼はよく食べるようになったように思えた。白飯をおかわりした。ビールもたらふく飲み、そして饒舌になった。自然と一緒に働いていた時のメンバーの話になった。あの時の横川さんの部門長への発言は痛快だった、同じ担当にいた高田くんはどこどこへ異動して頑張っている。山本くんも今回で管理者へ昇格した。何度も同じ話を嬉しそうに繰り返す。
「そう言えばさ、あの最初の日の青い封筒」
彼の話は大方の酔っ払いと同じように、急に転換した。
「はい」
「最終日に出なければ一生戻れないって書いてたよね」
「ああ、そうでしたね」
「怖いね、こんな所で一生なんて」
彼は右手に箸、左手にご飯茶碗を持ったまま宙を見て言った。彼の黒い指にはめられた銀色の指輪が、白い蛍光灯に反射し光を増す。
また返事の不要な会話だったのだと私は気付いた。
昼頃起きて白い部屋に出ると、壁にドアがまた一つ増えていた。既に起きていたらしい彼は大きなリュックを背負っている。
「今日はさ、キャンプに行こう」
彼は息巻いてそう言った。ちゃんとキャンパーの格好をしていた。そしてドアから出た先はどこかの山の頂上で、見渡す限り秋の空と枯れ草色の野原が広がっていた。今日は晴れた。
彼は到着するや否や、何もせずただ突っ立っている私を気にも留めず、骨組みらしきものを次々持ち替えながら黙々とテントを張っていった。十分足らずで、それは出来上がった。私が家族で行った時は、一時間かけても出来なくて、一人で来ていた見知らぬキャンパーの青年に、父が何度も頭を下げて手伝ってもらった。
「よく家族で行くんだ。奈良の山でね。江梨花が産まれる前までだから、少し久し振りだけど」
自分が慣れた手つきである理由をこちらに説明する為なのか、作業しながら彼は一息で言った。立派に張られたテントはけれどどこか日に焼けて色褪せていて、これらの道具一切はきっとボタンから出したのではなく、彼の家から持ち出された物なのだろうと分かる。キャンプ用の折り畳み椅子を二つ並べ、私を座らせた。
これまた慣れた手つきで枝を切り蒔をくべて新聞も入れて、ライターで点けた火を簡単に大きくしていく。4WDのCMに出てくるような、理想的な父親だった。
「お腹空いてる?」
私が頷くと、火の上の網に食パンを挟んだお洒落なホットサンドメーカーをかざす。そして専用の棒らしき物を私に渡した。
「これで、ほら、焼いてみて」
そう言ってたくさんマシュマロの入った袋を追加で手渡した。こんなの、テレビだけで観る光景だと思っていた。白いマシュマロから煙が上がり甘い匂いが沈黙の中にゆっくりと立ち込める中、そんなことを考えていた。
焼けたマシュマロをパンに挟んで食べる。
「ホットケーキとか甘い物が好きなら、きっと好きやと思って。うちの子もこれやと朝からモリモリ食べる。もう昼やけど、横川さんは朝ごはんやもんね」
そう言った彼は今までで一番穏やかな顔をしていた。この人は私の父だったか、そう勘違いしてしまう程に。それは甘すぎる程甘かった。彼はこれまた自前の道具で、コーヒーも豆から淹れてくれた。初めてコーヒーに砂糖を入れずに飲めた。そうして私達はそれを飲みながら、ただぼうっと座っていた。
「この状況をさ、せっかくなら楽しまんとあかんよね。やっと気付いた」
彼の笑顔はお面を貼り付けられたように見えた。
「火を見てるとさ」
彼は酒を飲んでいないのに酔っているようにも見えた。雰囲気に酔う、ということだろう。
「心が穏やかになるよ。余計なこと、考えなくて済む」
彼は以前からよく言っていた。僕は、会社を一歩出れば仕事のことなんて全く思い出さない。それに寝ると前の日のストレスとか、全部忘れちゃうんだよね。
だから彼の「余計なこと」はきっと、今この状況を指すものである気がした。突然無慈悲に知らない場所に隔離された今を。それ以外、無い気がした。
「そうですか」
「横川さんもさ、こんな仰々しくキャンプとかじゃなくても、火をゆっくり眺めてみるといいかもね。蝋燭のアロマとかあるやん、最悪、焚き火動画とかでもさ。よく上がってるよね最近youtubeに」
彼のリビングの人工の火の暖炉を思い出す。彼がキャンプを発案した意味をようやく理解した。炎は更に大きく上がり、パチパチと細かい破裂音のような音を立てる。
「課長は」
彼が炎から私に目線を移す。
「課長はきっと、偉くなられますね。営業部のみんなでそう言ってました。きっと社長になるって」
「そんなことないよ」
彼は軍手をはめた手を大袈裟に振ってみせる。
「僕は偉くなりたいんじゃない。みんなが働きやすくしてチームを円滑にするのが、僕の仕事やから」
炎に照らされた彼の顔は一点の曇りも無く晴れて輝いていた。気が遠くなるほど。
「横川さんもさ、まだたったの一年じゃない。あんなに若いうちから仕事出来たなら全然大丈夫。ほらうちの会社、女性の管理者登用も積極的やし。仮に結婚して、子供が出来ても」
「課長はどうやって結婚されたんですか?」
彼を遮る私の声は、穏やかで暖かい空気を冷えた刀で切るように草原で響いた。
「え?」
「今の奥様とどうやって。うちによくあるパターンで、社内ですか?」
「確かに多いけど、僕の場合は違うよ、大学で同じ学部の同じクラスで出会って、卒業したらそのまますぐ結婚した」
「へえ。もしかして、それが初めての彼女ですか?」
「ええ、まあ、うん。それまでは中高一貫で男子校やったし。……なんか、こんなこと普段話さないから照れ臭いね」
彼は人差し指で漫画みたいに鼻の下をさすって見せた。
「じゃあ女性は、奥様しか知らないんですね」
口を開けたまま彼は私の顔を凝視していた。いつも真面目な横川さんがそんな言い方するなんて、一体どうしたの。そんな顔をして。それを横目で見て、でも決して彼の方を私は見なかった。
あの、素朴な女。特に何の印象を残さない彼女の顔は、既に私の中で輪郭を失い消えかかっていた。
「まあ、そうなるかな」
「知ってみたくはなりませんか? いやらしい意味じゃなくて、単純な興味として」
「……別に」
彼の声には、はっきりと嫌悪感が表明されているように聞こえた。
沈黙がしばらく続いて、彼はカレーを作り始めた。何も言わず、私は目の前の人参の皮を剥き始めた。
彼は面倒な事を言われても、「横川さんの方こそ、彼氏とかいるの?」などと私に水を向ける言い方を決してしなかった。それもきっと彼の中で、踏んではいけないラインなのだった。
また夜空は黒い布を張ったように見えた。曇っているのか、星は見えない。
「僕だって」
彼は細い声で呟いた。
「僕だって、男だけどね」
「知ってますよ。私、課長の焼けて少し筋肉の筋が見える腕、男らしくて好きです」
驚いたように彼は私を見た。私も星の映らない真っ黒な彼の目を見つめた。しばらく見つめ合っていた。
コーヒーを置いていた折り畳みのテーブルを片付けようとすると、同時に彼の手に触れた。彼はまるで中学生のように仰け反って自分の手を払い除けた。彼の手は温かかった。
白い部屋に戻り、彼はまた洗い物を買って出た。彼の手付きは慣れていた。私はその様子を、新たに置いたソファに膝を折り曲げて身体を委ね、自分の部屋から持ってきた毛布にくるまりながら見ていた。
「終わったよ。風呂に……」
私の元に彼は来た。
「……泣いてるの?」
彼の声はお化けに「そこにいるの?」と話しかける子供のように怯えていた。
「今日が……」
私の声は湿っていた。
「今日が、もし現実で時間が経ってたら、母の命日なんです。正確には、分からないけど」
「正確には?」
「母は一人で死んでいましたから。何度電話しても連絡が取れなくて。でもその時にはもう死んでました。死後一ヶ月は経ってるでしょうって。死亡診断書に『十月二十五日頃』って書かれてたんです。『頃』です。だから正確には分からないんですけど、なんか久し振りにキャンプとかしてたら家族のこと思い出しちゃって、すいません……」
「そうだったの。それは悪いことをしたね……」
母は彼が私のいた部署に異動してくる半年程前に亡くなっていた。だから詳しい事情は知らなかった。コロナ禍を契機に在宅勤務が導入され緊急連絡先の報告が必要になったその日に、簡単に事実を伝えただけだった。彼は同じソファに座った。
「いえそんな課長は何も。私気付いたんです。ずっと誰かと生活することなんて無かったから、ホットケーキとか焼肉とか大鍋でカレーとか、海とかお寿司屋さんとかディズニーとかほんま無くて。誰かといる、そんで何でも出来るってなったら、自然とそうなってました。家族でいて、楽しかった頃を追体験してた」
彼に向けて私は笑っていた。けれど頬から涙が一粒落ちた。
「そうか……。あまり訊かなかったけど、ご両親は離婚されてるんだよね」
「はい。正確には、私が幼い時、父が突然いなくなったんです。それまでも仕事で悩んでいて、子供が出来た時から責任に潰されそうに生きて、離婚届だけ残してそのまま消えちゃったんです。それでも母はそれからパートに出て懸命に私を育ててくれました。私も負担にならんようになるべく友達の家でご飯食べたりして。でも私が稼げるようになったら、急に死んだんです。ちなみに母方の祖母も自殺なんです。祖父が死んでしばらくして、川に飛び込んだ。でもそんな時も、私がまだ小さかったからかもしれないけど、母は死にたいなんて言わなかったのに」
「それは……辛かったね」
「笑えますよね。うちの家族、鬱一家。私は鬱界のサラブレッドです」
「笑えないよ」
彼は漫画で困った状態の登場人物が全員そうするように、眉毛をハの字にして見せた。
私は突然顔を毛布に突っ伏した。彼は慌てて自分の部屋からタオルとティッシュを持ってきてそれを渡した。髪を撫でることも、肩を撫でることも無かった。毛布から顔を少しだけ上げ上目遣いで彼を見つめる。
「……少しだけ胸をお借りできませんか」
「いや、でも、それは」
「どうせ明日には記憶はすべてなくなるんですよ?」
「そうは言っても、流石に……」
「私、経験も少なくて小さい頃母に抱きしめられたのが最後なんです。もう二十年も前。人って今も温かいんですか」
私の瞳と声は濡れていた。そのまま彼を見た。
彼はぎこちなくゆっくり、けれど確実に両腕を開いた。そこに私は飛び付いた。
「どうして私は、頑張って生きてるのに、親も助けられない、お金を稼がなきゃって、仕事に逃げてたんです、でも結局、仕事も出来なくなった、私には何も無い……」
彼が私の背中に腕を回すことは無かった。けれど頭をぎこちなくポンポンと叩いた。
「横川さんは自分を責めなくていい。何も詳しい事情を知らない癖にと思うかもしれないけど」
耳に届く彼の言葉はどれもずっとぎこちなかった。私は泣きじゃくる顔に向けていた自分の両手を、彼の背中に回した。私達の間に空間は殆ど無かった。
「横川さん……?」
彼は戸惑いを隠さなかった。けれど子供のようにえんえんと泣く私を見兼ねてか、じきにゆっくり腕を回して今度は私の背中をポンポンと優しく叩いた。彼の手は私の背中で震えていた。私は自分の両腕に精一杯力を込めた。彼の温かみが、冷たくなった母を思い出させた。
三十分程で泣き止んで、やっと私は身体を離した。猫背になって下から彼の顔見つめる。彼は未だ戸惑っている。
開きかけた彼の口を、私は自分の口で閉じた。彼の唇は分厚かった。それを吸い尽くすように覆い、舌をすぐに入れた。声の出せないように。それでも彼は少しだけ呻いた。
彼の舌がほんの少しだけ、私に入った気がした。私は彼の口から離れた。彼のおでこに、自分のおでこをつける。
「いつかこうしたいとずっと思ってたんです」
彼の耳元で私は囁いた。
「良くないよ、横川さん」
彼は両腕を伸ばし私の肩を遠ざけた。私は表情を変えなかった。
「どうせ明日には記憶はすべてなくなるんですよ?」
さっき言ったことを呪文のように繰り返した。何をしたって許される呪文。そして怖気づいた彼を無理矢理押さえ付けまた彼の口を自分の口で閉じた。また自分の舌を動かしていると、まるで蛞蝓のようにゆっくり、彼の舌が私の口に入る。焼肉の匂いがする。互いの生温かい吐息が耳元にかかる。長い間そうしていた。
「これ以上は……」
彼はまた私の肩を両腕で押した。
「これでもですか?」
私は彼の股間に触れる。硬いそれに触れられて、彼は子供みたいに真っ赤に顔を染めた。何時間でも見つめていられる。そう思った。
「男、ですね」
ゆっくりと私を抱く彼の力が強くなる。彼のいつも自分を縛る縄がパン、と弾けて飛んだ。彼が私のTシャツに手をかける。
「こんな真っ白で明るい部屋、恥ずかしいですね」
そう彼の耳元で言うと、彼は「少し待って」と余裕無く言って私の腕を引く。彼は思い出したように部屋に先に入り私をドアの前で待たせ、少ししてすぐまた私の腕を引いた。私達は彼が部屋に取り付けた電気を消し、すぐに彼のベッドの上で重なった。私の服も、まだ躊躇う彼の服も私が全部脱がせた。露わになった彼の乳首を舐める。すると箍が外れたように彼はこれでもかと私の身体を舐めた。指先、足先から徐々に中央へ近付く。これが女の一番悦ぶやり方なのだとどこかで教えられ、それを信じて疑わないように見えた。彼を寸前で制し、私は彼の性器を口に含み、上下に動く。
「ああぁぁああああ」
彼はこれまでで一番大きな声を出した。彼の両手が震えて私を太腿を掴んでいる。それで彼の腕の筋肉がもりあがる。彼の耐える顔を、私は上目で見ながら舐めた。
より硬くなると、彼は急にダイニングテーブルへ走って行った。白い蛍光灯のような光が、ドアに区切られ暗い部屋に真四角に漏れる。青いボタンを手に戻った彼は「コンドーム」と言った。
急いでそれをはめ、ぬめりと挿入する。何度も何度も腰を振った。私に入って必死に突起を探す。彼の汗が私の顔や腹に落ちる。私の声が大きくなるとそこばかり攻めた。正常位で彼の顔だけをずっと見ていた。騎乗位で私が腰を振ると彼は苦悶に満ちた表情をした。ピカソのゲルニカで戦況に苦しむ人のように。それは全部、私を、彼を悦ばせる為だけにあった。彼は私に脚を開かせ自分の腰を落とし、最大限奥まで入ろうとする。腰の動きが最大限激しくなる。消える記憶に刻み込む。そんな風に見えた。
やがて、彼は果てて部屋と同じ色の液で膨らんだ風船を捨てた。たまには甘えてもいいんじゃない。横川さんは、頑張り屋さん過ぎるよ。果てた後私の耳元で彼は言った。
そして翌日七日目の夜二十三時、私達があの日眠った時刻ぐらいになってそれは現れた。私達はその日裸で同じベッドで目覚め、彼の作った焼きそばを食べ、彼が傑作だという医療物の海外ドラマを観て、なんとなくずっと同じ姿で時間を過ごしたのだった。
白い壁に黒い線が描かれていく。今までで一番大きなドアだった。開けると、その先は何も見えない漆黒の闇。そこでやっと、私達は服を着た。
彼は私の手を引く。
「どうした?」
脚に力を込めて動かない私に彼は振り返る。
「お先にどうぞ」
「一緒に出よう」
「私、出ないですよ」
彼は掴んでいた私の腕をゆっくり離した。それと同時に反対の手で掴んでいたドアノブも離し、ドアが音を立てて閉じられた。
「出ない?」
「ええ」
「嘘やろ?」
「本気です」
彼は憐れむ様な困った様な目で私を見つめた。みんなが目を逸らす道端のホームレスにも、何かのきっかけで話す機会があれば同じような目で彼は見つめるような気がした。
「……どうして」
彼の声は掠れていた。昨夜何度も聞いた声に似ていた。
「ここが気に入りました。私はここで住みます」
「ここで出なかったら一生出られへんのやで?」
「分かってます」
「そんな、最終日に急に言われても……」
「私は出るなんて一回も言ってませんよ。課長だけでも出られますよ。今まででありがとうございました」
「人生、嫌なことも多いかもしれん。それでも頑張って生きてたら……」
「今までだって頑張って生きてましたよ」
彼は簡単に下を向く。この男はいつだって、闇に弱く光しか持たない。
「頑張ったら幸せになれる人は元々『持ってる人』です。それが何を『持ってる』のか、私には説明出来ませんけど」
「ここでずっと一人やで? 今は良くても、じきに耐えれんくなるって」
「そうでしょうか? 私この一年一人で生きてみましたけど、すごく幸せでしたよ。ああそうやな、正確に言えば幸せというより今までで一番不幸じゃなかったです。傷付く事が全く無いので」
「でもずっと一人なんて、人間にとって孤独は一番のストレスやろう?」
「課長、人間一人の時は孤独なんか感じないんですよ。孤独を感じるのは、誰かといる時。十人いて、自分だけその輪に入れなかった時。すごく田舎の学校でクラス一人きりで、他のクラスも学校も全部そうだと思い込んでいれば、その子はきっと寂しくないです」
彼は頭を掻いた。彼は本当の孤独を感じた事など、人生であるのだろうか。殆ど具が無く少し焦げた焼きそばを出しながら言い訳のように彼が言った、「僕一人暮らし殆どしたことなくて」が耳に焼き付く。
「ほんまに困るのは性欲ぐらいでしょう。その時には、ダッチワイフの男版? なんてあるんですかね? そういうのに慰めてもらいます」
彼の目がひん剥いて私を捉えた。許さない、そんな風にも見えた。彼の熱い息が再び私の耳や顔にかかったような気がする。
それは金髪で瞳は緑で星が散らばっていた。くびれが異常な程深いカーブで、折れそうな腰を表現していた。大きなリカちゃん人形みたいなそれはけれど胸はちゃんと柔らかかった。それに、然るべき所にちゃんと穴が空いていた。後からネットで調べたそれは、「マリア」と言う名前らしい。
「ここは最高じゃないですか? 働かなくていい、欲しいものは何でも手に入る。傑作ですね」
話題が転換したことに彼は安堵したようにも見えた。やがて溜息を吐く。
「働かずに、何も社会貢献せずに飯だけ食って生きていくなんて、都合良すぎるやろ!苦労して手に入れるから良いんや。そんなん人間駄目になるよ」
「一生一人で、駄目になって何が悪いんですか。駄目やと比較する対象すら居ないのに」
彼は下を向き再び頭を掻く。目の前の私は、彼にとって言葉の通じない宇宙人にでも見えているだろうか。私が彼についてそう見えているのと同じように。
「みんな寂しいよ、ほら高田くんとか、山本くんとか、横川さんのこと慕ってたやろ」
振り絞った声を彼は出す。その声を聞いて私はまた昨夜のことを思い出していた。
「もう一年誰にも会ってないんです。当然やけど私が居なくても世界は回る。彼等には大事な家族がいます。そして私は___孤独を感じなくなった。彼等のことは好きです。でも誰にも別に会いたくないんです。あっちに戻ってまで」
彼は顔を横に向けた。高田や山本のことを思い浮かべているのだと思った。四人で食堂でお盆を突き合わせ冗談や愚痴を笑いながら言い合った日々を。
「ああ、休日は美術館行くの好きって言ってたやん!」
「そんなの、ボタンで出せばいいんですよ」
私の声色は自分で聞いても呆れを隠せていなかった。それは彼の高いプライドを、容易に傷付けたように見えた。その絵の真贋にまでは、彼の思考は至らないようだ。
「ああ、分かった復讐やろ⁉︎ 俺の異動させた先がパワハラやった。それで鬱になった。その復讐や」
彼は昨夜の呻き声より大声を出していた。自暴自棄、というのはこういう時に使うのだと思った。
「私もここに来たのは偶然ですよ。それにもし復讐ならあのパワハラ上司を出して徹底的に痛めつけるでしょう」
彼は怒りの矛先を、もしくは別の感情の矛先をどこへ向けて良いかもう分からないようだった。口を金魚のようにぱくぱくさせ、言葉にならない言葉を、さっきから出しては引っ込めている。
「どっちみち、消えるつもりでした」
「え?」
「ここに来る前の夜、たくさんの薬を飲んだんです。病院でもらった睡眠薬を」
時速オーバーでとっくに着いていけないと彼の顔には書いてあった。別に最初から連れて行くつもりではないのだからどちらでも良かった。
「死ねるかな、と思ったら、こんなとこに来ました。最初は天国かと思いましたよ、真っ白で。あれ、私地獄じゃないんだって。でも実際天国でした。ここは私の理想郷です」
「理想郷?」
「私、その前は二億円か余命が欲しかったんですよ」
「はあ?」
「日本の生涯収入二億って言うでしょ? じゃあそれさえ手に入れば生きてけるんやって。やりたくないことすぐにやめて、会いたくない人にも会わんくて、一人でも生きてけるんやって。それか余命数年なら、今の貯蓄で何とかなりますし、似たようなもんです。後者は病魔が怖いけど、さっさと終わらせられる点では後者の方がいいかも。死にたい癖に、我儘ですね」
「……」
私の高い笑い声が、白い部屋に反響する。もう冷蔵庫は音を立てない。
「私、働けなくなって食いっぱぐれることがどんなことより恐ろしいんです。育ちのせいでしょうね」
「それでこの白い部屋が今の理想……?」
「ええ、人と会わず、何でも出せて食いっぱぐれない手段はある。何度も何度も眠れない時頭の中で描いた妄想でした。頭の中で抑えきれなくて、絵に描いたり文章にしたりしてずっとずっとここについて考えてきたんです。なんで実現できたか分からないけど、死に損ないが最後に落ちる場所、神様の最後のプレゼントかなって。やからここへ来てもあまり驚きませんでした。ずっとシミュレーションしてきたので。言ったでしょう。夢みたいって」
「……こんなことしなくても、会社辞めるとかいっそ知らない国に行くとか、やり直すことかって幾らでもできるやろ」
「勿論、私の知ってる人が全くおらんどこかに行きたいと思ったこともあります。でもそこに行っても住んじゃったら、またそこが私のことを知ってる街になる。一生人から逃げる為動き続けなきゃいけない。私体力無いし、そんなの御免です」
彼はもう何も言えなかった。すべてを通り越して、諦めと憐れな顔だけを浮かべていた。私はまだ彼を揺らしたかった。
「ちなみに、この一週間も理想通りです」
「この一週間?」
「ええ、最後に貴方と過ごすというのも」
彼の背が、針金を入れられたようにピンと伸びた。目がぐるぐると、壊れた玩具の様に色んな方向に向いている。けれど決して、私のいる正面は捉えない。
「今までの生活より、私はこの一週間の記憶を選びます」
それを聞いた彼は驚いたように口をOの字型に開け、しかし浅黒い肌の上で頬は心なしか紅潮しているように見えた。
「安心してください。恋愛感情があったとか、そういうことじゃないですから」
彼が目を少し見開く。彼は自信家だ。いつだって、苛立ちが湧くほどに。
「じゃあ、どうして……?」
「一番つまらなかった」
「え?」
「私が出会った中で、断トツ一番、貴方はつまらない人間だった」
彼の視線は一点に落ち着き正面を向いた。けれど私より向こうの白い壁を見ている様に思えた。
「頭が良くて仕事が出来て家族を大事にしている。それに部下思い。なんてつまらない人間やろうって」
彼は声を失った。もう口をぱくぱくさせることも出来ないようだった。
「人ってちょっと影が無いと愛せないですよ。覚えてらっしゃるか分からないけど私の前で言ったことありましたよね。 『仕事が楽しい』って。目の下に濃いクマ作って眠れないってばかり言ってる私の前で。それが私はほんまに怖かった。この人は、いえこれは、世間で正解とされている人生を実行するためだけに生まれたロボットか、AIなんじゃないかなって」
彼の言うことは絶対だった。自分で最大限努力したつもりでも、彼に「大丈夫なの?」と言われれば、大丈夫で無い気がした。自分の詰めが急にひどく甘いように思えた。だって彼は頭が良くて、精密で、若いうちから出世した、人格者だから。だから自分だけでは隙間だらけに見える仕事を精一杯詰める必要があった。その「大丈夫でない」リスクの発生確率が、数パーセント程度だとしても。だって彼は賢いから。そして帰るのが毎夜遅くなった。何も激昂が飛び交う悪名高い職場にその後配属されたことだけが、こうなった原因ではなかった。
「でもほら、チームみんなで目標達成できた時なんかはやりがいだって」
「やりがい?」
会議中彼が最も愚かな案を出したかのように、私は語尾を上げ彼を冷笑する。それが一番憎らしい態度だと知っているから。
「貴方は他の人が無意識に踏んじゃうパワハラやセクハラの線を一度も踏もうとしない。貴方の恐れるそれが、何なのかほんまは一番分かってない癖に。そんな人が、元々あそこは評判は頗る悪かったけど、悪い雰囲気の職場に気付ける筈が無い。最初から期待なんかしてなかったです。やから裏切られたとも思ってませんよ」
彼の目が血走っていく。いつもはどれだけ徹夜明けでも、そうプログラミングされたように彼の白目は白かった。そう、黒目も全て赤くなるぐらい、染まってしまえばいい。
「男だけでの飲み会でも、下ネタが出たらそれとなく止めるらしいじゃないですか。課長のいないところで高田くんや山本さんと言ってたんです。課長がキャバクラとか風俗に行ったらどうなるだろうって、誰が誘うかジャンケンして、高田くんは必死に誘った。それでも貴方は先に帰った。じゃあ次は私って約束して」
結果を報告出来ないのが残念だ。彼は目を伏せる。
「あと私の髪型が変わる度朝一番に『髪、切った?』って言ってましたよね。自然にじゃなくて、女性にはそう言った方がいいと自分で決めてプログラミングされたように義務的に言ってるみたいに見えるって、これもみんな言ってました」
力を入れた彼の腕で血管が浮き出る。そのまま弾け飛んだりしないだろうか。白い部屋を血潮が染めてしまえばいい。なんだかそれって現代アートみたい。タイトルは『頑丈な理性の崩壊』。そんなことを考えられるぐらい、私の心は凪いでいた。
「ああ、あとそうだ。詳しいこと知らないけどハニートラップ? に引っ掛かって降格になった原田さんの話が出た時、高田くんや山本さんに真剣な顔して『二人も近付いて来る女性には、くれぐれも気を付けて』って言ってましたよね、四人の席で。セクハラに分類されるかは分からないですけど、ああいうの女性嫌ですよ。女性みんなが悪者みたいじゃないですか。私が黙っちゃって、高田くんと山本さんが曖昧な返事で少し変な雰囲気になったの気付きました? ああ、この人は、対等に見てくれないんだ、高田くんや山本さんと、私のことって思いました。『模範的』って諸刃の剣ですね。お咎め無ければ、自分だって簡単にあんな事する癖に」
彼が肩で息をし始めた。もっと荒くなって、汗をかいて、昨夜みたいな貴方を見せて。
「みんな演じてるんです、社会人としての自分を、求められてる自分を。裏表が無い人間が、どれだけつまらないことか。怖かったです最初から。家族にひたすら会いたがって、家まで出して探し始めて、そんな模範的な貴方が」
「それなら!」
きっと怒り慣れていない彼の声は喉で一度絡まった。
「俺がそんなにつまらない人間なら、どうして俺とここで過ごしたかったんだよ!!」
やまびこのように白い部屋に彼の叫び声が反響する。ああ、録音していれば良かった。これから毎朝アラーム音に使いたいぐらいだった。
「誰かと最後にやりたいことなんて何も無かったんです。でもふと思い付いた。いつも完璧な貴方の余裕の無い所が見たいと。常識から外れた、道から外れた、そんな貴方を見てみたいと」
彼の熱い息が再び私の耳に吹きかかる。汗が、私の顔に落ちる。ゴム越しでも、私の膣に白い液が注ぎ込まれる。
「だから意味不明な状況で取り乱してる貴方がたくさん見られて良かった。セックス出来て良かった。何時間でも見つめていられた。きっと奥さん以外であなたの余裕の無い顔を見れたのは私ぐらいでしょう? 必死に汗かいてイかないように耐えてる貴方の顔、傑作やった。この部屋みたいに。私も円滑に動けましたよ」
私は彼に笑いかけた。鏡なんて無くても、それは宗教画の聖母のようだと分かっていた。
彼は私の胸ぐらに掴みかかる。そのまま私達は後ろに倒れる。
「いつからそんなおかしくなったんや! お父さんもお母さんも、そんなの望んでないぞ! それにお母さんの墓に参るために大阪にしてくれって……」
彼はまだ話を公に出来ない異動先の勤務希望地を聞き出すのも、隣の席でわざわざメールで送ってくるぐらい真面目だった。自分の高笑いが鼓膜を揺らす。
「ここでまだ親の話ですか。母はもう死んだし、父もきっとどっかでのたれ死んです。私にどうなってほしいとか、何か意思がある訳ないでしょう? 欲しけりゃ墓も出せばいいんです。どこまで模範的なんですか、ウケる」
彼は掴んでいた私の胸ぐらを勢いよく離し立ち上がった。クソ! という声がまた白い部屋に響く。
「ああ、なんだ、またこのままセックスできると思ったのに。さっきだって自分が倒した癖に右手で私の頭を庇って床に打ち付けないようにして。ああ、ほんまに、つまらなくて、面白い人」
彼を縛る鎖を、一つずつ外していく。
「巻き込むなよ、お前の変な趣味に!」
「だから私は絵や文章にしていただけです。それに良いじゃないですか、あっちの世界では時間は止まってるんです。ここの一週間のことも全部、戻れば忘れてる。唯一覚えている私はもう異世界か宇宙かどこか分からない白い部屋に一人きりで二度とそこから出ない。何も起こらなかったのと実質同じです」
私は彼を安心させる為なら笑顔を惜しまない。
「貴方は戻れば変わらず理想的な上司で理想的なお父さん。さあ早く。葉子さんと陽菜ちゃんと江梨花ちゃんと、大事な部下達が待ってますよ」
「……俺は、横川さんかって大事な部下やったんや」
「ええ知ってます。模範的な意味で、大事な部下」
四つん這いになって泣いて動けなくなった彼の代わりに、私はドアノブを引いた。相変わらず真っ黒な、ブラックホールのような空間が広がっていた。
ドアの輪郭が、黒く機械的に引かれた直線が、少しずつだが、淡くなってきている気がする。
「さあ早く、みんな大好きな二海弘樹を待っています」
彼はゆっくり、のろのろとドアまで四つん這いのまま、それでも立ち上がった。ドアガールのように私はにっこりと彼を促す。
「炎とか、綺麗なものだけ見て、これからも生きてください。あと正論が他人を傷つけることがあるって、知ってください。忘れちゃうだろうけど」
次の瞬間、視界が白い壁から天井に変わった。同じ白でも、キッチンもドアも何も見えなくなったことで私はそれに気付いた。
彼が私を蹴ったのだった。
「恩知らず!」
最後にそう言って彼は黒い空間に吸い込まれていった。私が倒れた瞬間ドアノブから手を離したことで、ドアは勢いよく閉まった。そうしてドアは音も無く消えた。
今度は勢い良く頭を打ち付けたことで、血が頭から出た。血の流れを体内ではっきりと感じる。それはどんな愛撫より気持ち良かった。
彼はボタンで金を沢山刷って、向こうの世界に一か八か持ち込んでみようともしなかった。自ら殆ど贅沢もしなかった。ここにいる間ひたすら元の世界にあった物だけを、正確に言えば人間やその思い出だけを欲しがった。つまらない人間だ。心の中で繰り返す。彼はボタンの無いこの部屋のように、一点の翳りも無く真っ白で、がらんどうで、つまらない。
それでもやはり彼で正解だった。他の知り合いなら、一緒に帰ろうともう少し無駄に粘ったり、力尽くで私も向こうに連れて行ってしまったかもしれない。
誰にでも優しい模範的な人間。それは、誰にも興味の無い人間。
止まった時間は、向こうに戻れば再び動き出すのだろうか。あの手紙には書いていなかった。正確に言えば、書かなかった。そんなことより、彼の精子は今も未だ少し減った状態で、けれどまたすぐに増えるのだろうか。そんなことを考えていた。
振り返るとダイニングテーブルには、見慣れたペンとノート、それに青い封筒が置かれていた。
___働かずに、何も社会貢献せずに飯だけ食って生きていくなんて、都合良すぎるやろ!
そう、この部屋は、あまりに都合が良い。
白い部屋に残った、「外」へのドアを全て消す。
私は永遠に、白い紙の、20×20マス目の一つで暮らす。
明日、金髪にしてみようかな。そんなことをふと思った。