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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

婚約破棄の宣言をなかったことにされた王子が復讐するお話

「ロスティオーナ! 目を開けてくれ、ロスティオーナ!」


 きらびやかな学園の夜会に、悲痛な声が響いた。

 ついさきほどまで喧騒に包まれていた夜会は、今はその声が響くのみだ。

 ドレスで着飾った貴族令嬢も、式服を着込んだ貴族子息も、みな一様に床に倒れ伏している。給仕や護衛の騎士たちも同様だ。息はあるようだが、身じろぎ一つせず、目覚める気配はなかった。

 

 王国第一王子リーヴェンジェルトは腕に抱いた愛しき相手、男爵令嬢ロスティオーナへ悲痛な声で呼びかけている。

 輝くような金の髪に蒼の瞳。意志の強そうな太めの眉。普段は凛とした王子は、今は恐怖と混乱に苛まれ、泣きそうな顔をしている。

 

 そんな二人の前には、一人の令嬢が立っていた。

 艶やかな黒髪。光を宿さない暗い瞳。その唇は、血のように紅いルージュが引かれている。身にまとうのはシックな黒いドレス。

 第一王子リーヴェンジェルトの婚約者、伯爵令嬢エイヴィーリュ。

 この異常な状況の中、ただ一人立つ彼女には、しかし困惑も悲しみもなかった。紅い唇に刻むのは笑みの形だ。

 伯爵令嬢エイヴィーリュは、悲嘆に暮れる婚約者の姿を、鳥かごの中の小鳥を眺めるように愉しんでいるのだった。




 伯爵令嬢エイヴィーリュが、砂漠にある王都にやってきたのは5年前のことだ。

 わずかな使用人のみを供に連れてやってきた、若干12歳の令嬢。さる高貴な血筋を引いた遠国の令嬢との噂だった。

 美しく豊かな黒髪。黒目がちな大粒の瞳。血のように紅い唇にはいつもうっすらと笑みを浮かべていた。整った顔立ちにすらりとした細い身体は、月下にひっそりと咲く花のように可憐であり、高貴な血筋に生まれたことを疑う者はいなかった。しかしその暗い瞳と血のように紅い唇にたたえた笑みは、年齢に見合ない妖しい魅力を発していた。

 その危うくも類まれな美しさに、多くの貴族の子息たちが虜になった。

 

 だがなにより王国の貴族たちを驚かせたのは、その美貌ではなく政治的手腕だった。

 

 彼女は積極的に社交界に参加して、驚くほどの早さで自らの支持者を増やしていった。王国に来てからわずか2年で、王国のどの大貴族も無視できないほどの勢力まで昇りつめていた。彼女は10代前半の少女に見合わぬ類まれな才覚とカリスマを持ち合わせた才媛だった。

 そして第一王子であるリーヴェンジェルトとの婚約まで至った。

 

 リーヴェンジェルトはエイヴィーリュのことをあまり好いてはいなかった。確かに彼女は美しかった。だが、いつも口元に浮かべている笑みが、どこか周りを見下したものに思えていたのである。しかし彼女の能力の高さは認めていた。王族の義務として、彼は粛々と婚約者として付き合いを続けた。

 

 二人が十五歳になったころ、揃って貴族たちの通う学園に入学となった。凛とした第一王子と、美しく有能な伯爵令嬢。二人の仲は学園の誰からも祝福されるものだった。

 

 だが、そんな順風満帆な学園生活の中、リーヴェンジェルトはおかしな噂を耳にした。

 エイヴィーリュが取り巻きを使って、気に入らない女生徒に嫌がらせをしているのと言うのである。

 若くして貴族社会で確かな地位を築いた才媛であるエイヴィーリュが、そんな下らないことをするはずがない。誰かに誤解されているに違いないと、自ら調べることにした。

 

 調べ始めると、おかしな噂を裏付ける痕跡がいくつも見つかった。


 ずぶぬれになっているので事情を聞くと、うっかり噴水に落ちてしまったと暗い目で話す令嬢。

 辺りを気にしながらおどおどと歩いているので声をかけると、引き裂かれた教科書を隠そうとする令嬢。

 指に巻かれた包帯について尋ねると、転んだ拍子に爪がはがれてしまったからと慌てたように言い訳する令嬢。

 

 貴族の通う学園だ。悲しいことだが、表に出ない陰湿な嫌がらせというものはそう珍しいものではない。

 だがそうした令嬢たちが、みなエイヴィーリュとの仲がうまくいってないとなると、彼女の黒い噂を疑わずにはいられなかった。

 エイヴィーリュにそれとなく尋ねてみても知らないと答えるばかりだった。罪を隠す後ろめたさも見せず、被害に遭った令嬢への同情もなく、口元にはいつもの笑みを浮かべていた。それはますます疑いを強めるものではあったが、何の証拠にもならない。リーヴェンジェルトは気をもみつつも、エイヴィーリュの取り巻きを監視するくらいのことしかできなかった。

 

 そんな中で出会ったのが、男爵令嬢ロスティオーナだった。

 

 エイヴィーリュの取り巻きに難癖をつけられ、厳しい糾弾を受けるロスティオーナを見かけた。

 仲裁に入ろうとしたが無用な心配だった。

 ロスティオーナは一歩も退かず、かといって声を荒げることもなく、自分に非がないことを真摯に語った。その穏やかながらも理路整然とした主張に対し、取り巻きたちは次第に攻め手を失い、すぐに退くこととなった。

 その清廉潔白な在り方に感銘を受け、リーヴェンジェルトは声をかけたのだった。

 

 肩まで届く波うつ亜麻色の髪。やや幼さの残る無垢で愛らしい顔に、好奇心に満ちた茶色の瞳。ロスティオーナは可憐でかわいらしい令嬢だった。

 しかし取り巻きたちを撃退したように、聡明でもあった。もともとは他国の生まれであり、この王都には研究のために訪れていた。

 数百年以上の昔、王都の造られるずっと前のこと。この場所には、聖都があったと伝えられていた。彼女はその研究のためにこの王都の学園に留学してきたのだった。

 

 リーヴェンジェルトはロスティオーナが嫌がらせにさらされないよう、交流をかわすようになった。ロスティオーナもまた、そんな彼に対し感謝と誠意をもって接した。

 そうして二人はエイヴィーリュという脅威に対し、相談する仲になっていったのである。


 学園内でのエイヴィーリュの横暴について調べるうちにわかってきたのは、彼女の影響力の深さと範囲の広さだった。

 エイヴィーリュから嫌がらせを受けたと思しき相手の中には、高位貴族の令嬢も含まれていた。だが誰も逆らおうとはしなかった。より力の強い貴族がエイヴィーリュの支持者だったからである。

 そうしてエイヴィーリュの支持者たちを調べていくうちに、戦慄すべきことが浮かび上がってきた。

 

 税の横領、文官への賄賂が横行し、腐敗を見せ始めた貴族社会。

 王都内では禁止されているはずなのに、秘密裏に行われている奴隷売買。

 商人が市場価格を吊り上げ、平民の暮らしを圧迫し、それによって貧困層が増大し治安が悪化しつつあること。

 

 王国で近年増え始めた様々な問題。その原因に関わっている貴族たちのほとんどが、エイヴィーリュの支持者なのだ。まるで彼女が全てを束ねて操り、王国を裏から蝕んでいるかのようだった。


 いくつかの証拠を得て、王に訴えかけた。だが処罰を受けるのは直接関わった貴族ばかりであり、エイヴィーリュまで追求が及ぶことはなかった。父はどうも、エイヴィーリュのことについては及び腰なようであった。

 

 リーヴェンジェルトは強い危機感を抱いた。このまま彼女を糾弾できないままでいたら、婚約者であるエイヴィーリュは王妃になってしまう。

 伯爵令嬢の、それも学生の身でありながら、彼女は王国を手中に収めつつある。このままエイヴィーリュが王妃の立場まで得てしまったら、もはや誰にも止めることなどできないだろう。王国は闇に飲まれ、貴族は腐敗し、民は苦しむことになるに違いない。


 そこでリーヴェンジェルトは奇策を思いついた。

 婚約破棄だ。

 夜会の場で堂々と、エイヴィーリュに対して婚約破棄を宣言するのだ。学園で執り行われるとはいえ、貴族の令嬢子息の集う公式の夜会だ。その場での、それも王族の発した宣言は、冗談では済まされない。

 まず間違いないくエイヴィーリュとの婚約は破談となるだろう。王族に一方的に婚約破棄されるなどという醜態を見せれば、エイヴィーリュの影響力も少しは弱まるはずだった。

 

 だが、その奇策は諸刃の剣だった。そんなことをすればリーヴェンジェルトもただでは済まない。王位は継げなくなることだろう。それどころか、絶縁され王族でいられなくなってもおかしくない。

 だが、リーヴェンジェルトは決意を固めた。彼は王国の民を愛していた。このまま何もせず、王国の未来をあの毒婦にゆだねるくらいなら、王族の立場など惜しくはなかった。

 そんな彼の決意に、ロスティオーナは寄り添ってくれると言った。王国の未来について語り合ううちに、二人はお互い惹かれ合うようになっていたのだ。

 

 そして、学園の夜会において、リーヴェンジェルトはロスティオーナを伴い、堂々と宣言したのだった。

 

「伯爵令嬢エイヴィーリュ! そなたのような邪な令嬢は、王妃に相応しくない! 私はこの男爵令嬢ロスティオーナとの間に真実の愛を見つけた! そなたとの婚約は破棄させてもらう!」


 真実の愛を持って堂々と、王国を蝕む毒婦に対決の意を示した。

 

 はたして、宣言を受けたエイヴィーリュは、常に浮かべていた笑みを消した。驚きに目を見開いた。

 周囲の貴族の令嬢・子息たちはざわめいた。その声の多くは、リーヴェンジェルトとロスティオーナの凛とした姿を称賛するものだった。

 その声が耳に届いたのか、エイヴィーリュは不快そうに眉を寄せた。

 そして、憎々し気になにごとかつぶやいた。それは人の発したものとは思えない、夜の砂漠を吹き抜ける一陣の風のような、寒々とした不吉な声色だった。

 

 その声が響いた瞬間、会場は一変した。

 喧騒を生み出していた令嬢も子息も、糸の切れた操り人形のように床に倒れ伏した。

 リーヴェンジェルトは急に力を失ったロスティオーナを支え、跪いた。

 夜会で立っていたのは、エイヴィーリュただ一人となったのだ。




 リーヴェンジェルトはロスティオーナに呼び掛けながら、何度となく回復魔法をかけ続けていた。

 だが彼女は一向に応えない。好奇心に輝いていた瞳が再び光を宿すことはない。その柔らかな唇は言葉を紡ぐどころか、呼吸すらしていない。血色のよかった顔も今は色を失い、まるで紙のように白くなっている。脈をとっても鼓動が感じられない。

 絶望に苛まれながら、彼は救いを求めて辺りを見回した。見えるのは豪華な飾りつけを施された夜会の会場に、累々と横たわる令嬢と子息たちばかりだった。

 周囲の異常に対して思考をめぐらす余裕はなかった。ただ腕の中で失われつつある温かさをとどめてくれる何かを求めるばかりだった。

 そうして目に入ったのは、会場でただ一人立つエイヴィーリュだった。

 王国を蝕む毒婦だ。明らかな敵だ。だが今のリーヴェンジェルトに、そんなことを考える余地などなかった。

 

「頼む! 手伝ってくれ! ロスティオーナに回復魔法をかけてくれ!」

「嫌です」


 必死に呼びかけるリーヴェンジェルトに対し、エイヴィーリュはにべもなく拒否した。

 いつも浮かべている、どこか人を不安にさせる笑み。この異常事態に対し、彼女は平素の態度をとっているのである。

 そのことを不審に思う余裕もなく、リーヴェンジェルトは再び呼びかけた。


「君にひどいことを言った私を、憎む気持ちはわかる! だが、ロスティオーナが! ロスティオーナが死にそうなんだ! 私にできることなら何でもする! だから……だからお願いだ!」」

「嫌と言ったら嫌です。そもそも回復魔法をかけても、まったくの無駄です。その娘は完全に死にました。

 私の魔法で殺したのですから、たとえこの場に聖女を連れてきても、その娘の魂が戻る事などありえません」

 

 焦りと絶望に冷静さを失っていたリーヴェンジェルトだったが、その言葉だけは聞き逃せなかった。

 

「君が……殺しただって……?」

「ええ、私がさきほど放った魔法で殺しました」


 かっと怒りに燃え上がる。

 だがその熱は一瞬で冷まされた。リーヴェンジェルトの心を占めたのは恐怖だった。

 言葉と共にエイヴィーリュが解放した魔力が、あまりにも強大で禍々しかったからである。

 

 リーヴェンジェルトは第一王子だ。幼い頃から魔法の英才教育を受け、魔力は高く、その扱いも長けている。魔力に秀でた貴族たちの通う学園でも、指折りの魔法の使い手だ。特に魔力を感じ取る能力に優れていた。

 だからこそ、エイヴィーリュの魔力の異常さを理解してしまった。

 リーヴェンジェルトにとって、人間の纏う魔力と言うものは、霧のようなものだ。自在に形を変えられるが、扱いを間違えればたやすく散ってしまう。そういうものだった。

 だがエイヴィーリュの纏う魔力は違った。その密度は、気体と言うより液体だ。それも、深い森の中の日の差さない場所にある沼のように、暗く淀んだ禍々しい魔力だった。

 明らかに人の領域にある魔力ではなかった。

 

 絶対に勝てない。戦いを挑んでも、傷一つつけられず無駄死にする。その冷たい確信が、リーヴェンジェルトに恐怖をもたらしたのだ

 怒りに震えながらも動けない彼を眺めながら、エイヴィーリュはうっとりとつぶやいた。

 

「愛する者を殺されながら、激情に任せて挑むことはできない。あなたのそういう賢いところ、私は好きですよ」


 弄ぶような言葉に神経を逆なでされる。湧きあがる怒りをどうにか抑えながら頭を巡らせる。

 これまでエイヴィーリュのことを調べてきた。だが彼女自身の出自に関する情報だけはまるで集まらなかった。彼女の為したことは知っていても、彼女自身のことはほとんどわかっていない。

 まず、それについて知らなければならない。

 リーヴェンジェルトは怒りを抑え、声を絞り出した。


「君は人間ではなかったんだな……」

「ええ、そうです。人間に化けて人を操ることが得意な魔物です」


 あっさりと認めるとは思わなかった。

 嘘をついているとは思えなかった。短期間で貴族社会に影響を持つ立場まで至った手腕。その身にまとった禍々しく強大な魔力。魔物と言うのなら、納得がいってしまう。

 だがそうなるとわからない。

 

「なぜ、ロスティオーナを殺したんだ……?」


 エイヴィーリュの言葉の通り、魔法でロスティオーナはその命を失ったのだろう。周囲で倒れている貴族たちも、おさらくは彼女の魔法によるものに違いない。

 だが、なぜそんなことをするのか。そしてリーヴェンジェルトだけがどうして何もされていないのか。それらの理由は、まるで想像がつかなかった。

 

「思ったよりイラッとしたからです」


 エイヴィーリュの答えは、やけに軽く響く言葉だった。一瞬、理解できなかった。言葉の意味は分かる。だがその意図はまるで想像がつかなかった。

 呆然とした顔を見せるリーヴェンジェルトに対し、エイヴィーリュはやれやれと言った感じでため息をついた。

 

「人間たちが楽しんでいる恋愛小説。私も何冊か読んでみました。それなりに楽しめましたが、令嬢どもがあれほど夢中になっている理由がいまいちわかりませんでした。

 そこで悪役令嬢というものを、ちょっと実体験してみることにしました。

 幸い、貴族社会では確かな地位を築くことができました。人間の生活にただ入り込むのもずいぶん繰り返して、マンネリを感じていましたからね。ちょっとした気分転換というやつです」


 エイヴィーリュの言葉が頭をすり抜けていく。その言葉の意味は分かる。それなのに理解が追いつかない。

 国を裏から操れるほどの立場にまで至った狡猾な魔物。それが面白半分で小説の役柄に成りきるなど、正気で受け止められる者がどこにいると言うのか。

 リーヴェンジェルトの呆れた顔を見て、エイヴィーリュはちょっと口をとがらせながら言葉を続けた。

 

「なんですかその顔は? だいたいあなたも一度くらいは疑問に思ったことはなかったのですか? 国の方針にまで影響しそうな立場に至った才媛が、学園内での嫌がらせなんてちっぽけなことに興じるわけないでしょう。

 しかもそれをきっかけに、裏で悪事を働く貴族との関係を疑われる? ありえないでしょう」

「……全て君が裏で糸を引いていたと言うのか?」

「当たり前じゃないですか。たかだか王子一人と令嬢一人がちょっと調べたくらいで、私の陰謀の尻尾をつかめるわけがないでしょう。あなたの知った情報は、すべてこちらから意図的に流したものですよ」


 信じがたいことだった。しかし理性のどこかでは、それが本当のことだと認めていた。

 リーヴェンジェルトにしても、始めは「あの才媛がこんなつまらないことをするはずがない」と疑っていたのだ。だが調べるうちに裏から貴族社会を操るエイヴィーリュの脅威に目を奪われ、疑うことを忘れていた。振り返って考えてみれば、確かに簡単に情報が集まりすぎていた。

 

 それならば、国の未来を憂い、ロスティオーナと語り合った時間はなんだったのだろうか。全ては偽り、無意味なことだったのだろうか。

 だが、その中に、誰にも奪えない大切なものがある。リーヴェンジェルトはそのことを忘れてはいなかった

 

「全てが君の作り出した偽りだったとしても、私がロスティオーナを愛するようになったことだけはまやかしではない。彼女との間に見つけた真実の愛だけは、本物だ」


 リーヴェンジェルトは確信を込めて言い切った。それは幸せな言葉だったが、同時に今の彼にとってもっとも辛い言葉でもあった。なぜなら彼の腕の中には、永遠に目を開けることのないロスティオーナがいるのだ。

 だが、そんな彼のすべてを込めた言葉さえも、エイヴィーリュは一笑に付した。


「人間はすぐに恋や愛を尊いものにしたがりますけど、私から言わせればそれこそまやかしですよ。

 いくつかの困難を用意して、それに抗う立場の年頃の人間を一緒に行動させる。ただそれだけで人間は、勝手に恋だの愛だの言い始める。真実の愛など、ちょっと舞台を整えただけで湧き出す錯覚に過ぎないのです」

「違う! そんなことはない!」

「……まあ別に真実ってことでもいいですよ。その愛とやらが真実だろうと偽りだろうと、どうでもいいです。

 とにもかくにも、こうして婚約破棄の舞台は整いました。あなたは思惑通り婚約破棄をしてくださいました。さてこれで新しい体験ができるかと期待したのですが……ちょっとイラッとしただけでした。肩透かしもいいところです。

 準備に手間がかかった割には大した達成感もない。新しい縁談もすぐに用意できますが、それすらも面倒。だから、全てを無かったことにしてしまおうと思ったのです」

「全てをなかったことに……だと……?」


 相変わらずエイヴィーリュの話は意図がつかめず、理解が及ばない。しかしその言葉の中にある不穏さに、リーヴェンジェルトは本能的に恐怖を感じ、震えた。

 そんな彼を眺めながら、エイヴィーリュは口角を上げ、笑みを深くして告げた。


「魔法で夜会の参加者の記憶を奪う。そしてその娘を殺し、死体をきちんと処理すれば……婚約破棄は無かったことになります」

 

 そんなバカなことがあってたまるか!

 思わず心の中で叫んだ。口には出せなかった。頭の中は、怒りと混乱と恐怖がうずまいて、それどころではなかったのだ。

 だがそれでも、話は単純だった。どういうことなのかはわかってしまった。

 

 この狂った魔物は、「恋愛小説の疑似体験がしたい」などというばかげた理由で、ただの戯れで、全てを仕組んだのだ。

 リーヴェンジェルトとロスティオーナを引き合わせ、望んだとおりの婚約破棄の舞台を作り上げた。

 だがそれが気に入らなかった。なかったことにしようとした。そして、その絶大な魔力を揮い、夜会の参加者の記憶を奪った。倒れ伏した周囲の貴族たちは、その魔法を受けて昏倒したのだろう。

 そして、そして。苛ついた。ただそれだけの理由で、ロスティオーナの命を奪ったのだ。

 まるでわがままに育てられた子供が、プレゼントされた玩具が気に入らないからと言ってゴミ箱に捨てるように、ロスティオーナの命を奪ったのだ。

 

「よくも、よくも、よくも! よくもそんな理由でロスティオーナを殺したな! 許さない! 絶対に許さないぞ!」

「あらそれは勇ましいこと! それでどうするのです?

 私は魔力を送り込み、人間を絶対服従の『眷族』にすることができるのです。王国の有力貴族を何人も『眷族』にしています。私と事を構えれば、王国を二分する争いに発展しますよ?」

「貴様が有力貴族を何人抱き込んでいようと、それで王国を支配できると思うなよ!

 誰が敵に回ろうとも私が逆らう! 最後まで戦う! 王がなんと言おうと構わない! 内戦になろうとためらわない! 国王軍を使う! 冒険者ギルドにも声をかける!

 私のすべてを以て、貴様を必ず打ち滅ぼしてやる!」

「まあ恐ろしい! さすがの私も国一つをまるごと相手にして生き残るのは難しいでしょう。冒険者ギルドのSランクパーティー複数に襲われては、討ち取られることもありえます。

 でも、そんなことは無理なのです」

「やってやる! 必ずやってやる!」

「やるやらないではないのです。不可能なのです。だって私はこれを持っているのですから」


 リーヴェンジェルトは猛り狂っていた。何もかもを復讐に注ぎ込むつもりだった。

 だがしかし、そんな彼でも止まらざるを得なかった。今取り出された物こそが、彼にとっての真の絶望だったのだ。

 

「それは、『王権の指輪』……!?」


 呆然とつぶやいた。

 エイヴィーリュが取り出したのは、王家の紋章が刻まれた銀の指輪だった。

 

 『王権の指輪』。それは王国の当代の王のみが所持を許される指輪だ。指輪には、王が代替わりするたびに強固な防護魔法が重ねがけされる。それは当代の王権保有者以外に所持を許さないというものだ。

 資格無き者が手にしたところで、指輪は知らぬ間に失われる。無理に持ち続けようとすれば、ありとあらゆる災厄が襲いかかることになる。

 王族と言えども例外ではない。第一王子であるリーヴェンジェルトですら触れたこともなく、実際に目にしたのも片手で数える程度だ。

 歴史と共に積み重ねられた防護魔法は、たとえ魔物であるエイヴィーリュであろうとも、打ち破ることはできないはずだった。

 しかしその精緻に刻まれた模様も、込められた魔力も、見間違えるはずが無かった。まぎれもなく本物の『王権の指輪』が目の前に在った。

 

 今、エイヴィーリュは何の抵抗もなく『王権の指輪』を手にしている。その意味するところは、王が正当な儀式を行ってエイヴィーリュに『王権の指輪』を譲渡したということだ。王国は、既にこの魔物に屈していたのだ。

 リーヴェンジェルトが反旗を翻そうと、王国軍も冒険者ギルドは動かせない。王権の正当保有者であるエイヴィーリュに阻まれれば、彼の命令は撤回される。

 

 つまり、リーヴェンジェルトは、第一王子としてエイヴィーリュに抗う手段を失ったということになる。

 

 それでも、彼個人に忠誠を誓う人間を集めることはできるかもしれない。その数は少なくないだろう。だがそれで、王国軍を相手どることなどできはしない。絶大な魔力を持つエイヴィーリュを倒すことなど夢物語だ。

 

 リーヴェンジェルトは、自分に勝ち目がないことを、どうしようもなく悟ってしまった。

 身体が震えた。それが恐怖なのか絶望なのかわからない。視界が歪んだ。ぽたぽたと雫の落ちる音を耳にして、自分がいつの間にか泣いていることに気づいた。

 エイヴィーリュが歩み寄ってきて、耳元でそっと囁いた。

 

「私は人間の負の感情を糧にする魔物なのです。だから王国に入り込み、貴族社会を腐敗させ、平民の生活を圧迫してきたのです。

 ああ、本当に。あなたを生かしておいてよかった。あなたの記憶を奪わないで良かった。あなたにすべてを話してよかった。婚約破棄はつまらなかったですが、あなたの絶望は実に美味です」

 

 エイヴィーリュはリーヴェンジェルトを離れ、彼の正面に立った。


「今宵のことを誰かに話しても無駄です。魔法で記憶を奪うか、殺してしまうだけです。それでよければ、お好きにどうぞ。

 でもできれば、これからも仲良くしてくださいね、王子様」


 そう言って、エイヴィーリュは洗練されたカーテシーを披露した。

 リーヴェンジェルトはそれに一言も返さず、ただ握りしめた拳を、力の限り床に打ちつけた。




 あの夜から一か月が過ぎた。

 夜会で貴族のみなが昏倒したのは、魔道具の暴走として処理され、新聞の記事をわずかな間に飾っただけだった。

 ロスティオーナは失踪扱いとなった。家族は心配しているようだが、さほど珍しくないありふれた事件であり、人に口の端に上ることもなかった。

 有力貴族を『眷族』としたエイヴィーリュの情報統制は完璧だった。

 そうして、学園には何事もない日常が戻ってきた。

 

 リーヴェンジェルトは毎朝、王都の外れにある墓地に通うようになった。平民の墓石が並ぶ中、その一角にロスティオーナが埋葬されている。簡素な墓だった。墓石に名前すら刻まれていない。

 ロスティオーナは貴族令嬢だ。本来ならこんな場所で粗末な墓に埋葬されるようなことはなかったはずだ。しかし彼女は公的には失踪扱いであり、エイヴィーリュは埋葬は許可してもそれ以上のことは許してくれなかった。

 

 黙とうを終え墓地を出ると、いつもエイヴィーリュに笑顔で迎えられた。もちろん、いたわりの気持ちなどそこにはない。リーヴェンジェルトの悲しむ姿を楽しんでいるのだ。墓を作ることを許したことも、おそらくはこの楽しみのためなのだ。

 

 学園生活はいつもと変わらない。だが、周りの評判は少し変わった。

 リーヴェンジェルトはこれまで身にまとっていた覇気は失せ、沈みがちだった。多くの人は、学園の卒業が近づき、王となる重責に悩んでいるのだととらえた。憂いを帯びたその姿は、整った顔立ちもあって美しく、多くの令嬢の関心を引いた。

 彼には常にエイヴィーリュが寄り添っていた。彼女はあの夜会以来、取り巻きを使った嫌がらせもすっかりやめていた。今では将来に王妃に相応しいとますます評判を高めていた。


 実際には嘆き悲しむ王子の姿を楽しむために魔物がまとわりついているだけなのだが、その真相に気づく者がいるはずもなかった。エイヴィーリュは人の社会に溶け込むことに長けた魔物であり、魔力を解放しない限り、その正体がばれることはないのだ。

 

 放課後になると、リーヴェンジェルトは王都の図書館にこもり調べ物をした。エイヴィーリュはそばにいない。彼が一人でいることを許された時間だった。

 

 夕刻になり、図書館を後にしたある日の事。待ち構えていたようにエイヴィーリュが声をかけてきた。

 リーヴェンジェルトは眉を寄せた。


「……どうしたんだ? 図書館では一人でいさせてくれる約束のはずだ」

「ええ。だから図書館を出るまで待っていたんですわ。たまには夕食をごいっしょしませんか?」


 ため息を吐きながら首肯した。

 拒否することなど、彼には許されていないのだ。




「研究は順調ですか?」


 貴族向けのレストランに二人で入った。メインディッシュを食べ終え、食後のデザートが出たころ、エイヴィーリュはそう話を切り出した。


「いつも通りさ。大した進展はない。過去を懐かしんでいるだけさ……」


 ロスティオーナは、この王都のあった場所にかつて存在した聖都について調べるためにやって来た。

 リーヴェンジェルトは愛する者の研究の続きをするために、図書館で調べ物をしているのだ

 図書館では一人で過ごしたいという申し出を、エイヴィーリュは受け入れた。過去を懐かしむことが、悲しみをより深くさせることを、彼女はよく知っていたからである。


「私からも質問していいだろうか? この王都はかつて魔物の近寄れない聖都だった。君ほどの令嬢なら、そのことは事前に知っていただろう。それなのに、なぜわざわざこの王都にやってきたんだ?」


 あの夜会で自ら明かした以外に、エイヴィーリュはの正体が露見することはなかった。人並み外れた有能さを見せつけながら、彼女が人間でない可能性を疑う者すらいない。

 そんな狡猾な魔物であるエイヴィーリュが、聖都のあった場所を選ぶのは不自然なことに思えたのだ。


「普通の国は飽きました。元が『聖都』なんて、刺激的じゃないですか」

 

 そう言って、エイヴィーリュは晴れやかに笑った。

 本当に楽しそうだった。だがその笑顔が人の悲しみと苦しみによって形作られていると知っているリーヴェンジェルトは、表情を硬くして、デザートを黙々と口に運ぶだけだった。

 

「……ところで、最近は王都の街路整備をされているそうですね」


 デザートを食べ終えたところで、エイヴィーリュは突然そんなことを言い出した。不意の質問に身を固くするリーヴェンジェルトを、彼女は興味深そうな目で眺めている。


「……ああ。王となるための教育の一環だよ。王たる者は王都に精通しているべきだと、我が王家では代々、学生時代から街路整備を指揮する義務があるんだ」


 乾いた笑みを浮かべ、リーヴェンジェルトは答えた。

 エイヴィーリュが『王権の指輪』を持つ以上、彼がなれるのはお飾りの王に過ぎない。彼女相手に王になるための義務を語るなど、ひどく滑稽なことに思えたのだ。


「義務とおっしゃるわりには、ずいぶん熱心なご様子ですね。実際の現場に顔を出すことも多いと聞いていますよ?」

「熱心か……言われてみればそうかもしれない。街路整備など面倒なだけと思っていた。でもこれが、意外と面白いんだ。見慣れた王都も、その管理をする立場になると見えてくるものが変わってくる。いろいろな発見があるものだよ」

 

 そこまで言ったところで、エイヴィーリュの纏う空気が変わった。

 血のように紅い唇は笑みの形のまま、ただすっと目を細めた。まるで獲物を前にした猫を思わせる顔だった。

 

「ひょっとして、何か企んでらっしゃいます?」


 リーヴェンジェルトはごくりとつばを飲み込むと、慎重に言葉を選んで答えた。

 

「私ごときが何か企んだところで、君が困ることがあるのかい?」


 その言葉を受けて、エイヴィーリュは破顔した。

 

「いいえ、まったく困りませんわ! あなたが何を企もうと、私はそのすべてを叩き潰して差し上げます。あなたはせいぜい絶望して、私を楽しませてくださいな」


 そう言って、クスクスと笑った。リーヴェンジェルトはほっとしたように息を吐いた。

 事情を知らない者から見れば、緊張した初心な青年と、それをからかう少女との、微笑ましいやりとりに見えたかもしれない。

 だが、リーヴェンジェルトにとってはひとつの大きな賭けだった。予想通りの反応を得られて、彼は心中で安堵していたのである。

 

 エイヴィーリュは強大な魔力を持つ狡猾な魔物だ。だが、人を見下す傲慢さも有している。彼女はリーヴェンジェルトの企みに感づいている。しかし今確認したように、それを途中で阻むことはない。あえて見逃し、最後の最後で叩き潰して勝ち誇るつもりだ。リーヴェンジェルトの絶望を深めるために。

 彼女のその傲慢さが、リーヴェンジェルトにとってのただひとつの糸口だった。

 




 それから半年ほどたったころ。

 夜も更けて、誰もが寝静まったころ。砂漠にある王都は、夜になると急速に気温が下がる。吐く息も白くなる冷え込みの中、人通りも絶えた王都の道を、足早に歩み三つの人影があった。

 いずれも頭からすっぽりとフードをかぶり、その顔は見えない。ためらいなく進むその様は、目的地が完全に決まっているようだった。

 

 やがて三人がたどりついたのは王都の外れ、さびれた一角だ。王都の変化に伴い不便となり治安も悪化し、過疎化が進んで廃棄された住宅街だ。空き家のいくつかに浮浪者が陣取っているが、その数は少ない。

 そのなかの空き家の一つに入った。一人がフードを外す。輝く金髪に蒼い瞳。リーヴェンジェルトだった。

 彼は注意深く周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、床を指さした。残る二人は頷くと、床に被せられた廃材を取り除いていく。

 床下には掘り返した後があり、石製の床らしきものが見えた。その表面は砂漠の厳しい気候にさらされたためか、ずいぶんとすり減っている。相当の歳月を経ていることがうかがえた。

 そしてその表面には直径3メートルほどの円形の複雑な模様が刻まれていた。現代の魔法には見られない魔法文字が使われた魔法陣だ。

 

 リーヴェンジェルトは手で合図を送ると、二人はうなずいた。言葉はない。この行動は全て計画されたものであり、手での合図だけで滞りなく進行するようだった。

 そして、二人は魔力を高め始めた。どうやらこの魔法陣に魔力を注ぎ込み、発動させることが目的のようだった。

 

 そして、いよいよ魔力を注ぎ込もうとした瞬間。二人は不意に、ぱったりと倒れてしまった。そして赤いものがじわりと広がる。血だ。二人は絶命していた。

 

「残念でしたね」


 作業に当たっていた二人の背後、家屋の陰の暗闇から、一人の令嬢がすっと姿を現した。

 

「エイヴィーリュ……!」


 リーヴェンジェルトはその名をつぶやいた。

 艶やかな黒髪に、光を宿さない暗い瞳。血のように紅い唇。

 身にまとうのは黒を基調としたシックなドレスだ。砂漠の寒々とした夜、王都の外れの放棄された住宅街に似つかわしくない姿だが、その口元に刻まれた笑みとあいまって、悪夢のような禍々しさがあった。


「あなたはやはり、『聖王結界』を発動させるつもりだったのですね」

「ああ、そうだ」


 エイヴィーリュの指摘を、リーヴェンジェルトはあっさりと認めた。


 王都が造られるより、数百年も昔のこと。この地には『聖都』があった。

 伝説によれば、『聖都』には『聖王結界』と呼ばれる結界が張られていた。『聖王結界』は極めて強力で、いかなる魔物の侵入も許さなかったと言われていた。

 

「王都の造られる前、この地で滅んだ聖都。その聖都に張られた『聖王結界』。街路整備にかこつけて、その場所を探り当てたのでしょう。ずいぶん慎重に事を進めていたようですが、残念ながら私の目を盗むには至りませんでした。

 でも、いい手ではありましたよ? 『聖王結界』が伝説通りの強さなら、『眷族』は消滅していたことでしょう。私も無事では済まず、王都にとどまることなど不可能になっていたことでしょう。

 私と『眷族』を排除すれば、あとは王国をまとめて追撃すればいい。十分に現実的な計画でした。まあそれも、残念ながら無駄に終わったわけですが」

 

 得意げに語りながら、エイヴィーリュは軽く手を振り、黒く禍々しい魔力の塊を放った。

 それは床の魔法陣に着弾すると、周囲の床はまるで泥のようにどろどろになってしまった。もはや魔法陣は跡形もなくなっていた。

 

「『聖王結界』の魔法陣はここ以外にも5か所。そのすべて、私の『眷族』によって破壊済みです。近くにいたあなたの配下も皆殺しにしました。

 あなたの企みは潰えました。さあ、どうします?」


 エイヴィーリュの目は期待に満ちていた。

 リーヴェンジェルトは自分にかけられた期待が手に取るように分かった。彼の企みにはもっと前の段階で気づいていた。途中でそれを妨害する手段はいくつもあったはずだ。

 だがあえて見逃した。企みの成就する直前にぶち壊しにすることで、より深い絶望を味わせるために。


 彼は向けられる視線が不快ではなかった。彼は絶望していなかった。むしろ嬉しかった。

 初めて彼女の期待を裏切ることができる。そのことに、暗い喜びを感じていたのだ。

 

「『聖王結界』が何のために作られたか知っているかい?」


 期待したものとは違う問いを投げかけられ、エイヴィーリュは形の良い眉を寄せて不快を顔に表した。

 

「何のためって……弱い人間が、魔族から身を護るためでしょう?」

「それは副次的な効果だよ。本来の目的は違った。当時の世界は大きな混乱にあったから、ろくな記録が残っていない。君が知らないのも無理はない。

 『聖王結界』とは、守るための結界ではなくて、封じるための結界だったんだ。それが君の手によって、完全に破壊された」

「封じる……何を?」


 困惑するエイヴィーリュを後目に、リーヴェンジェルトは大きく息を吸った。

 そして地面へ、その下にある地の底に向けて、力の限り叫んだ。


「魔神よ! 偉大なる異界の魔神よ! どうか我が呼びかけに応え、我が望みをかなえたまえ!」


 砂漠の中の夜の王都。人気のない廃屋の中に、リーヴェンジェルトの声が響いた。


「いったいなんのつもり……」


 問いかけは途中で止まった。

 一瞬にして彼らのいた廃屋は消し飛んだのだ。

 屋根も壁も失せ、月光の降り注ぐ廃屋の跡地。茫然と立つ二人の前に、一人の少女がいた。


「やあ! 呼んでくれてありがとう! おかげで久しぶりにこっちの世界に来ることができたよ!」


 腰まで届く、まっすぐの長い髪は、薄い桃色。きらめく大粒の瞳の色もまたピンク。

 身にまとうのは白を基調とした、ピンクでところどころ装飾されたドレスだった。腰には大きなリボンが巻かれ、リボンの紐はネコのしっぽのように足元に垂れている。色合いも装飾も奇抜ではあるが上品にまとめられ、派手というよりかわいらしい。すらりとした身体のラインは、色気より可憐さが勝る。

 その在り方は幻想的で、現実味に欠けている。まるで絵本の中のお姫様のような、美しい少女だった。

 

 この意外な闖入者に対し、リーヴェンジェルトは目を見開いた。

 

 リーヴェンジェルトは魔力の感じ取る能力に長けている。彼にとって、人間の纏う魔力は霧のような気体に、エイヴィーリュの纏う強力で濃密な魔力は、沼の泥のような液体に感じられる。

 少女の纏う魔力はそれらとはまるで違った。気体でも液体でもなかった。もっと硬質で洗練されたものだった。例えるなら宝石だ。燦然とした輝きを放ち、美しくも揺るがない、磨き抜かれた宝石のような魔力だった。

 魔物であるエイヴィーリュすら及びもつかない。比べることが烏滸がましいと思えるほどに、次元の違う魔力だった。

 

 もはや途方もなさ過ぎて、リーヴェンジェルトには理解が及ばなかった。エイヴィーリュの方に目を向ければ、彫像のように身動き一つしていなかった。あるいは高い魔力を持つ彼女の方が、目の前の少女との差が分かるのかもしれなかった。

 

 ふと、リーヴェンジェルトは自分に向けられる視線に気づいた。少女がこちらをじっと見ているのだ。

 慌てて跪いて頭を下げた。

 

「失礼しました! この私、王国第一王子リーヴェンジェルトが、偉大なる魔神様をお呼びしました!」

「うん! わたしは『破滅的な愛に(デストラクティブ・)生きる魔神(ラブゴッデス)』! よろしくね!」


 気さくな言葉と共に手を差し出された。

 何もしないのも無礼に思えて、リーヴェンジェルトはその手を握ると、少女は満面の笑顔で握り返してきた。

 見た目だけなら世間知らずの箱入り娘のようだ。

 

 だがこの宝石みたいな恐るべき魔力は間違いない。王都の前にこの地にあった聖都。そこに張り巡らされた『聖王結界』は、この少女の召喚を阻むためだけに作られたのだと、リーヴェンジェルトは確信した。


「さあ! このわたし、『破滅的な愛に(デストラクティブ・)生きる魔神(ラブゴッデス)』を呼び出したからには、あなたには愛の願いがあるのでしょう!?

 あなたの心にともる愛の火が、わたしの心を燃やすほどに熱ければ!

 どんな大軍も打ち破り、どんな強敵も討ち滅ぼして、その願いを必ずや、破滅するほどにかなえてあげる!」


 弾む声で奇妙な問いが投げかけられた。普通ならとまどったことだろう。

 だがリーヴェンジェルトは動じなかった。事前に調べて知っていた。おとぎ話に伝わる通り、この少女の姿をした魔神は、愛にまつわる願いをかなえてくれるのだ。

 だからリーヴェンジェルトは、予め用意していた通りに願いを述べた。


「私には真実の愛を誓い合った恋人がいました。彼女の、ロスティオーナの命を! この魔物に奪われました!

 この魔物と王都に巣くう『眷族』を、どうかこの世から消してしまってください!」

 

 すべての想いと恨みを載せて、一心に願いを告げた。

 魔神は満面の笑みでその言葉を受け止めた。


「君のドロドロと熱く煮えたぎる愛、確かに受け取ったよ! その熱さ、わたしの心に火をつけた!

 おおっと、細かい説明は不要だよ! わたしの『権能』で事情はばっちり理解した!

 魔物エイヴィーリュとその『眷族』128体は、このわたし『破滅的な愛に(デストラクティブ・)生きる魔神(ラブゴッデス)』が、責任を持って消し去ってあげる!」

 

 そして魔神は、エイヴィーリュの方を見た。

 顔は笑っている。だが目が笑っていない。その何気ない表情が、リーヴェンジェルトには無性に恐ろしく感じられた。


「ひっ……!」


 その顔を恐怖に歪ませ、エイヴィーリュは背を向けて逃げ出した。それは強大な魔物の姿ではなかった。闇夜に幽霊と出会った少女のような、身もふたもない逃走だった。

 魔神はそんな彼女に向けて、ふっと息を吹きかけた。誕生日を祝うケーキのろうそくを吹き消すみたいな仕草だった。

 ただそれだけでエイヴィーリュの足が溶けた。まるで火にあぶられた蝋細工のように、どろりと溶けた。足が突然そんなことになっては走るどころではない。彼女は無様に地面に転がった。

 

 上半身だけ起き上がり、エイヴィーリュは自分の足と魔神とを交互に見た。その顔には困惑しかなかった。自分がどんな状態になったのかすら理解できないようだった。


「恋に生きる乙女の吐息は、とろけるように甘いんだよ。愛を知らない魔物には、ちょーっと難しかったかな?」


 わけのわからないことを言いながら、魔神はエイヴィーリュの傍まで来ると、びしりと人差し指を突きつけた。


「『権能』で知ったよ。君は人間の愛を、まやかしだと言ったそうだね!?」


 魔神がそう問いかけると、エイヴィーリュはこくこくとうなずいた。

 恐怖のあまり、言い逃れすることも偽ることもできないようだった。

 魔神はその可憐さに似合わぬ攻撃的な笑みを浮かべた。

 

「そうさ! 愛はまやかしさ! 見えない! 形が無い! とらえどころがなくて、感じることしかできない!

 でも! だからこそ尊いんだ! だからこそ美しいんだ! だからこそ温かいんだ!

 だからだから、だからこそっ! 大切にしなければならないものなんだっ!

 そんな当たり前のこともわからず、愛で結ばれた二人を引き裂くなんて、絶対にやってはいけないことなんだよっ!」

 

 魔神は叫んだ。周囲の塀や廃屋が倒壊した。エイヴィーリュはの身体は見えない何かに押しつぶされたようにひしゃげ、身体のあちこちが裂けて血がどろりと噴き出した。

 今のはおそらく攻撃ですらない。ただ叫んだだけだ。それだけでこの破壊が繰り広げられたのだ。

 リーヴェンジェルトは呼びかけた。


「魔神様! 私の願いをかなえるにあたり、どうかこの王都はあまり傷つけないようにしてもらえないでしょうか!?」


 その言葉に魔神は振り向いた。不快そうな顔だった。まるでお気に入りの靴を履こうとしたときに、その上を這う一匹のアリを見つけた幼い少女のような顔だった。


「なんでだい? 君は王族で、王都の民も愛しているとでも言うつもりかい? 君の愛が、そんな余計なものが混ざった濁ったものだったと言うのなら、そのお願いは聞けないなあ」

「この王都には彼女の墓があります。彼女との思い出があります。

 私はこれ以上、彼女のことを失いたくないのです……!」

 

 リーヴェンジェルトの言葉に、魔神は不満げな顔から一転して、おひさまみたいな明るい笑顔を見せた。


「いいねその愛! 大事にしなよ! そういうことならオッケーオッケー、空で遊ぶことにするよ!

 制限のない空の中で、際限のない苦しみを、たっぷりじっくり与えることにするよ!」


 魔神がばっと手を振り上げると、エイヴィーリュは悲鳴を上げながら空へすっ飛んでいった。

 さきほどまで雲一つなかったのに、たちまち黒雲が現れた。エイヴィーリュはその中に呑み込まれてしまった。

 悲鳴はエイヴィーリュのものだけではなかった。王都からいくつもの悲鳴が上がり、人影が次々と黒雲の中に吸い込まれていった。距離があるのでよくわからないが、いずれも高い魔力が感じられた。おそらくはエイヴィーリュの『眷族』なのだろう。


「じゃ、行ってくるね!」


 手をひらひらと振りながら、軽く地を蹴ると、魔神は恐ろしい速度で空へと飛んでいった。

 しばらくすると、黒雲の中に何度も光が閃き、凄まじい轟音が響いた。

 そのたびに耳をふさぎたくなるような恐ろしい悲鳴が響いた。

 

 黒雲の中で何が起きているのだろうか。見えないことが、かえって恐ろしかった。

 あの魔神はやはり、解き放ってはならないものだったのだ。




 千年近く前の事。世界に何の前触れもなく、『破滅的な愛に(デストラクティブ・)生きる魔神(ラブゴッデス)』と名乗る魔神が現れるようになった。

 その魔神は愛に悩む者がいると駆けつけて、その願いを聞き、かなえた。

 

 横暴な貴族によって、その恋を引き裂かれそうになったことが平民のカップルがいた。魔神は二人の願いを聞き受け、横暴な貴族を一族ごと皆殺しにした。


 身分の違いゆえに結ばれない二人がいた。魔神はその願いを聞き受け、その国の上流階級全てを殺し尽くし、身分制度を崩壊させた。

 

 敵国に分かれながら愛し合う王子と王女がいた。魔神は二人の願いを聞き届け、争い合う二つの国を消滅させた。

 

 魔神の強大な力を利用しようとした国があった。その国は、敵国があるせいで結ばれない二人を用意立てた。目論見通り、魔神は敵国を滅ぼした。だが、この企みは魔神の『権能』によって見破られた。魔神は愛を政治に利用したことに大変立腹し、その国もまた滅ぼした。

 

 強大な力にはそれに見合う対価が必要なものだが、魔神は金銭も魔力も魂も要求しなかった。呼び出した者の身分も能力も関係なかった。

 ただその愛だけに注目した。呼び出した者の心に宿す愛に共感すれば、魔神は無尽蔵の力を無分別に揮い、破滅的な結果をもたらした。

 呼び出されなくても、愛に悩む者がいればその前に現れ、勝手にその障害を排除することもしばしばあった。

 誰でも呼び出すことができて、しかし誰も抗うことができない大きすぎる力。世界は混沌に呑み込まれた。

 

 この災厄とも呼ぶべき危険すぎる魔神をなんとかするために、世界中の賢人たちが集まり知恵を絞った。

 そしてわかったことは、この世界に居る魔神が本体ではないということだった。異なる世界から分身を送り込み、願いをかなえているのだ。

 その力の源を探った。そして異世界からのゲートを見つけ出した。このゲートをふさぐことができれば、魔神は現れなくなるはずだった。

 

 魔神が遠い場所で願いをかなえている時を見計らい、何百人もの魔導士と神官がゲートの封印を試みた。途中で気づいた魔神に襲われ全滅しかけたが、辛うじて封印は成功した。魔神はこの世界から消え去った。

 

 この封印を維持するために聖都を建立し、封印の結界を『聖王結界』と名付けた。

 『聖王結界』は魔物を退ける副次効果のみ喧伝して、魔神のことは伝えなかった。野心を持った者が封印を解くことを避けるためである。

 その試みはうまくいった。魔神によって世界は混乱の極みにあった。まともな記録は残らず、魔神が現れなくなった理由を知る者はほとんどいなかった。

 やがて封印は安定した。魔物を退ける副次的な効果は無くなり、聖都は世の移り変わりによって滅んだ。

 魔神の封印にについて公的な記録には残らず、わずかにおとぎ話として後世に伝わったのみである。


 ロスティオーナは聖都について調べていた。それは純粋な学術的興味に基づくものであり、魔神の存在についてはなにも知らなかった。

 愛する者を回顧するためだけに研究を引き継いだリーヴェンジェルトが、魔神の存在に気づくことなど、本来はあり得ないことだった。

 

 だが、リーヴェンジェルトはエイヴィーリュの存在によって、世の中には理不尽な邪悪が存在することを知った。

 そしておとぎ話に語られる『破滅的な愛に(デストラクティブ・)生きる魔神(ラブゴッデス)』が、聖都の『聖王結界』によって封じられた存在かもしれないという発想にたどりついた。その前提で考えると、いくつかの古代文献の記述が、奇妙につじつまが合うことに気づいたのだ。

 それでも、そんな発想に至るのは異常なことだった。突きつけられた絶望により、リーヴェンジェルトは半ば正気を失っていた。だからこそ『破滅的な愛に(デストラクティブ・)生きる魔神(ラブゴッデス)』の封印を確信するまでに至ったのである。

 

 

 

 空に浮かぶ巨大な黒雲からは、まだ光が閃き、凄まじい轟音と悲鳴が響いている。

 

 もう取り返しはつかない。『破滅的な愛に(デストラクティブ・)生きる魔神(ラブゴッデス)』は解き放たれた。世界は再び混乱に包まれることだろう。どれほどの犠牲が出るかわからない。数百年前のように再び封印できる保証もない。

 

 しかし実のところ、リーヴェンジェルトにとってはどうでもいいことだった。


 ロスティオーナは帰ってこない。彼女のいなくなった世界など、何の価値があるのだろうか。

 あの夜会のとき。彼はもう、壊れてしまったのだ。生きる理由を見いだせなかった。死ぬ決断をする気力もなかった。ただエイヴィーリュへの憎しみを糧に、復讐に縋った。それだけだったのだ。

 

 それも終わってしまった。復讐を成し遂げた昏い喜びはあった。だがそれを上回る喪失感に胸を締めつけられた。

 

 もし、ロスティオーナが生きていたら、彼のことをどう思っただろう。優しい少女だった。きっとこんな復讐は望まない。もし彼女がいたら、絶対に止めたはずだ。悲しい目で彼を見つめたはずだ。

 そんな想像から目をそらすように、リーヴェンジェルトは目を閉じた。

 そして、雨に足を止められ、雨音に耳を傾ける旅人のように。ただ静かに、空に鳴り響く轟音と悲鳴に聞き入った。



終わり

「夜会の参加者の記憶を奪って婚約破棄を無かったことにしてしまう令嬢を書こう」

そんなことを思いつきました。

そんなことをする理由付けとか、それが可能となる能力とかをあれこれ考えるうちに、こんな話になってしまいました。

魔神さんは……なんでこんなキャラを思いついてしまったのか、自分でもよくわかりません。


お話づくりが思ったようにいかないのはいつもの事ですが、いつも以上にままならない感じでした。


2024/1/15 19時頃

 誤字指摘ありがとうございました!

 指摘していただいた箇所と、他にも読み返して気になった細かなところを修正しました。

2024/1/16

 誤字指摘ありがとうございました! 他にも細かなところを修正しました!

2024/1/24、7/4

 誤字指摘ありがとうございました! 反映しました!

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