40 海に沈むように
「海、海ですよ!」
「……危ない」
砂浜で足を取られた私をアルト様が軽く抱き留めてくれた。白いサラサラの砂を裸足でかき分ける。少し熱を持った砂が心地いい。
宿で荷物を預けた私たちは近くの海岸を散歩しに来ていた。
「ありがとうございます。海に飛び込むにはちょっと寒いですからね」
「そうだな」とアルト様の穏やかな声が耳元で聞こえる。
夏を超えて秋が始まった今、全身浸かるのはさすがに冷たそうだ。
「でも足くらいなら浸かってみてもいいですよね」
アルト様の腕から解放された私はえいっと水に足を浸けた。ふくらはぎまで沈めると予想以上に冷たくてひんやりしていた。
隣のアルト様を見ると、おそるおそる水面に足の先をほんの少しだけ触れている。
「もっといっちゃいましょう」
「しかし」
「こういうのは思い切りが大事ですからね」
「わかった……冷たい」
アルト様は足首まで水に浸した途端、眉間のシワが深くなる。私は笑い声をあげてカバンからタオルを取り出した。
「アルト様、あれ見てください」
海岸の脇道に屋台のようなものが見える。そこから甘い香りがして、私はアルト様を引っ張った。
近くまで行ってみるとクレープのようなものを売っていた。薄い生地にフルーツなどを挟み込んでいる。
いい香りが我慢できなくなった私はそれを買った。アルト様も甘党なのでもちろん自分の分を買っている。
浜辺に腰かけて私たちはそれを食べることにした。
「甘くておいしいですねえ。パリッとしてるし、ふわっとしてるし」
私はベリーがたくさん入ったものを食べた。ほんのり甘い生地から甘酸っぱくてとろりとした果実が出てきて自然と顔がほころぶ。
そういえばクレープは家で作ったことがない、今度作ってみようかな。
「人が作ったご飯、最高!」
「アイノの作った方がうまい」
「ありがとうございます。でも、そういう問題じゃないんですよ。人が作ったものだからこそ得られるときめきがあります」
「そういうものか?」
「はい。あ、じゃあ今度アルト様作ってください。アルト様が作ったものなんて絶対ときめくので」
私の言葉にアルト様は渋々といった様子で頷いた。自信がないのが見て取れるけど素直に頷くところが可愛い。
きっと不器用ながら、頑張って作ってくれるに違いない。アルト様は私に結局甘くてお願い事を聞き入れてくれるから。
「また旅しましょうね、今度はショコラも」
「ああ」
「今回は気を遣ってくれましたけどねー。でもショコラも食べられたらいいんですけどね」
自分でそう言っておきながら少し悲しくなって言葉が萎む。
今までの暮らしを思い出すとちょっと寂しくなる。ショコラは私の料理をいつでも美味しい美味しいと食べてくれた。今だってもしショコラがいたなら「甘い! 美味しい! ふわふわぱりぱり!」と笑顔でかぶりついていただろう。
ショコラが存在してくれるだけでいい。そう思っていたけれど、小さな光のショコラは表情も見えない。
「それなんだが……」
アルト様はこちらに向き直ったが、次の言葉をなんと切り出そうか考えているようで結局「なんでもない」と話は終わってしまった。
・・
近くの店で夕食をとってから夜の海岸をアルト様と歩く。
夜の海は静かで波の音がやけに響く。
「魚介類美味しかったですねえ」
「ああ」
「家で食べるものとはさすがに鮮度が違いました」
「ああ」
アルト様は生返事を返して海を眺めながら歩いている。
いつも口数が少ないアルト様ではあるけれど、さすがに少なすぎる。
「夜の海ってちょっと怖いですね、飲み込まれそうで」
「そうだな」
「何か考えてます?」
私が立ち止まるとアルト様も足を止めた。
そして少しだけ沈黙があって、アルト様は口を開いた。
「魔の森に帰る前に相談がある」
真剣な表情に私は小さく頷いた。
アルト様は再度歩き出し、私も隣に並んで歩き出す。
「ショコラに元の姿に戻ってほしいか?」
「そりゃ当たり前に、もちろん! 戻ってほしいです」
アルト様の問いかけに食い気味に答える。
「ショコラの生命の力は今はかなり弱い。だから犬の形にも人の形にもなれない。だから俺の魔力――生命力のようなものを注ぎたいと思ってるんだ」
「えっ、そんなことができるんですか」
「一応理論上では」
「でも、そんなことしたらアルト様は?」
ショコラに元の姿に戻ってほしい。でも、誰かのために誰かが犠牲になるのは嫌だ。アルト様の顔は真剣で私は不安になってたまらずアルト様の腕を掴んだ。
アルト様は腕を掴んだ私の手を優しく取ると、穏やかなまなざしをこちらを向けた。揺蕩う青は海みたいだ。
「勘違いするな。俺の命を全部ショコラに渡すわけじゃない」
「そ、そうですか」
「だけど寿命は縮まる。でも、アイノと生きるためにそれほど多くの生はいらない」
ああそういえば、魔人は人間よりずっと長生きなのだった。
何百年か生きるのであれば、それをショコラに譲りたいと思うのはアルト様らしいかもしれない。
「それで相談なんだが」
アルト様はそう言うと、顔を赤くして口ごもる。そして一度深く息を吸ってから話し始めた。
「俺はそこまで長生きはできなくなった」
「そうですね」
「魔物の研究は生きているうちには終わらないかもしれない」
「なるほど」
「……魔物の事が気がかりだ」
「確かに」
「今の世なら魔族が迫害されることもない」
「…………」
回りくどいけど、これは……そういうことだろうか。
アルト様は私から顔をそらして耳まで真っ赤だ。
「暗黒期も終わった」
「はい」
「俺と家族を作ってくれないか」
波の音がざざと流れる中、アルト様の声はまっすぐ聞こえた。アルト様の耳は予想通り赤いけど、目をそらすことなく私に届けてくれている。
私は思い出していた。アルト様との出会いを。
暗黒期でもないのに、ずっと暗闇の中にいて。魔物を守るためだけに自身を生かして。ただ惰性で生きていると言った彼を。
魔人を自分の代で終わらせたいと言っていた、アルト様を。
そのアルト様が自分の未来を見てくれている、私と一緒の未来を。
「はい!」
私が大きく返事をすると、アルト様は安堵したように目尻を下げて微笑んだ。
緩やかに引き寄せられて、アルト様の腕のなかにおさまる。
「大切にする」
「もう大切にしてもらってますよ」
「そうか」
その声が優しくて私は嬉しくて抱き寄せられた胸に顔をうずめた。
何度も抱きしめてもらったけど一番あたたかだった。
・・
アルト様が夜うまく眠れないことを知ってから。
暗黒期に夜を一緒に過ごして、そのまま魔力を渡して疲れ果てて、そのままアルト様のベッドで眠って。そんな日々を過ごしてきたけれど。
毎日同じベッドで眠っていたけど、私たちはそういうことになったことがない。
だけど……ええと、さっきの感じだと。そういうこともありうるんだろうか!?
宿に戻った私はアルト様が湯浴みをしている間、ひとり意識してしまい頭をぐるぐると巡らせていた。
落ち着かずにベッドの上をゴロゴロ転がっていると、
「何をしている」
呆れた声が降ってきて、私を見下ろすアルト様と目があった。
「珍しいベッドなので」
「そうか」
アルト様は濡れた髪の毛を拭きながらベッドに腰掛ける。
私は正座して隣りに座って、落ち着かない気持ちでアルト様を見ていると訝しげに「なんだ?」と聞かれる。
「いや、もう暗黒期の夜みたいにならないんだなと思って。羽ないな、とか思ってました」
「……暗黒期の俺のほうが良かったか?」
「い、いえ! アルト様は何でも好きです。どんなアルト様でもオーケーです!」
今暗黒期の金色の瞳verアルト様が登場してしまったら、心臓が止まってしまう。あのアルト様はグイグイくるから心臓に悪いのだ。
「アイノ」
低くて甘い声が私の名前を呼ぶ。見上げると目元をゆるめたアルト様がいる。
「そんなに固くならなくてもいい。急いでいない」
「へえっ」
緊張していて喉まで固まってしまっていたのか、私の喉からは潰れた声が出た。
その声にアルト様は小さく吹き出した。
私の気持ちなど見透かされていたらしい。アルト様がくつくつ笑うのを見ると心も身体もほぐれてくる。こんなふうに無防備に笑ってくれるのが嬉しい。
「アイノのことを大切にしたい、と思ってる」
拗ねたような口調で言うのは照れ隠しだ。耳が赤く染まっている。
「さっきも聞きましたよ」
「さっきとは意味合いが違う」
照れたように顔をそらすから、アルト様の身体に自分の身を預けてみる。石鹸の香りがくすぐったくて体温は心地良い。
アルト様の太い腕が私の身体を包み込む。もう私は怖くなかった。
「私もアルト様のこと大切ですから」
アルト様の頬を両手で挟み込んで私から小さいキスをしてみると、私の両手首をアルト様の大きな手のひらが掴んだ。
私の真意を確かめるようにアルト様はじっと見つめるから、伝わりますようにと願って精一杯口角を上げて頷いてみる。
ゆっくり顔が近づいてきてもう一度唇が重なった。
それが深まって、私の唇を奪うアルト様と目が合う。瞳の色は青のままなのに奥に熱を感じる。
私が目を閉じるのと、まわされた腕ごと身体がベッドに着地するのは同時だった。
ふわふわと漂う雲の海に沈むように私たちは夜に溶けていった。
タイトルを少し変更しました、戸惑われたらすみません。
あと1話で完結します!
出来れば今日の夜、難しければ明日には完結しますのでもう少しお付き合いください。
よろしくお願いします




