20 キスするよりも甘い夜
「ん……」
目を開けると、暗い。
――しまった! 夜になってしまった!? アルト様は……!? もう魔物化してしまってるんじゃ!
急いで身体を起こし、布団から這い出ようとすると
「起きたか」
落ち着いた低い声が聞こえた。
ベッドの足元側に小さな灯りがあり、ロッキングチェアに座りこちらをうかがうアルト様が見える。人間の姿のままで、まだ『夜』は訪れていないと知る。
アルト様は私のもとまでやってくると、おでこに手を触れた。
「熱は下がったようだな」
「はい。ところで今、何時ですか?」
「まだ十六時だ。水を飲むか?」
「はい、いただきます」
アルト様はテーブルの上に置いてある水差しからコップに水を注ぎ手渡してくれる。一気に飲み干すと寝起きの頭がすっきりしていく。
「ありがとうございます」
「何か食べられそうか? いくつか持ってきたが」
水差しの隣にはフルーツがたくさん積んであり、パンやチーズ、缶詰などすぐに食べられそうなものもたくさん置いてあった。
「ふふ」
「……間違えたか? 弱った人間は何を食べる?」
「大正解ですよ。ではりんごを食べてもいいですか?」
アルト様はりんごを取り出すと、長い爪でなぞった。りんごはくるくるとリボンのように剥かれていき、一口で食べられるサイコロ状にカットされて、用意されていたお皿に着地した。
「いたせりつくせりだ、ありがとうございます」
りんごをつまんで口に放り込む。アップルパイでもないのにこんな小さくカットされたりんごを食べるのは初めてだ。私が食べやすいサイズを想像してくれたんだろうか。
アルト様はベッドの縁に腰掛けて、私がりんごを飲み込むのをじっと見守っている。「おいしいですよ」と言うと眉間のシワが和らぐ。
「他には何を食べる? 料理はできないが――いや、焼き魚なら出来る」
「大丈夫ですよ。りんご食べたら元気になってきましたから。このあと、簡単にリゾットを作ります」
「お前がか? 身体は大丈夫なのか?」
「アイノ」
「……アイノが作るのか?」
素直に言い直したアルト様は、私がキッチンに立つことを心配してくれている。でも本当に身体は軽く、熱があったとは思えないほどだ。
「本当に身体は全く問題ないんです。初めて魔力を分けたからちょっと身体がびっくりしただけかもしれません」
「それならいいが」
「アルト様、もしかしてずっとこの部屋にいてくれたんですか?」
先程までアルト様が座っていたロッキングチェアは私の部屋の物ではないし、近くに数冊書物が置いてある。起こさないように私の足元のみ灯りをつけて……何時間ここにいてくれたのだろう。
「お前が……アイノが行くなと言っただろう」
「……?」
「水を取りに行くときに」
――もう行っちゃうんですか?
そういえばそんなことを言った気がする。だけど、ずっといてくれるとは思わなかった。
「迷惑だったか?」
「そんなわけありません! 嬉しいです! ありがとうございます!」
「快復したならいい」
「明日は熱を出さないようにご飯モリモリ食べますね!」
「……アイノ」
名前を呼ばれることにまだ慣れていないから、呼ばれるたびに気持ちと身体が跳ねてしまう。
「『夜』になると制御ができないかもしれないから今言っておく。今日はキスはしなくていい」
アルト様は言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「でも私嫌じゃないですし、大丈夫ですよ」
「いやキスはもらいすぎる。また明日倒れたら困る。だから『夜』がきたら俺の手を握ってくれ」
アルト様は両手を差し出した。握れということだろうか? 私は両手を重ねてから軽く握った。
「うん、それでいい」
結ばれた手をそっと解くとアルト様は立ち上がった。
「料理も無理をするな。ゆっくりと休め」
そして今度こそ部屋を出ていく。彼が持ち込んだロッキングチェアや書物、それからランプも後をついていったから、部屋が急に広くなった気がする。
でも残された食べ物たちを見ると、寂しくはなかった。
・・
「そろそろですかね」
結局私は簡単にリゾットを作った。アルト様は心配してくれていたけど、腹が減っては戦はできぬ、だ。
『夜』に備えるために、前日よりも早く食べ終えたから食後のお茶を楽しむことも出来た。
アルト様は時計を確認すると立ち上がり「行くぞ」と私に声をかけてダイニングを出ていく。
「どこに行くんですか?」と追いかけると、彼は既に階段をのぼりはじめていて「部屋に」とだけ返ってきた。
アルト様はまっすぐ自分の部屋に進んで、私を招き入れた。
「入っていいんですか?」
「ああ」
初めて入るその部屋は、アルト様らしい部屋だった。
デスクとベッドと収納家具だけのシンプルな部屋の中に、先ほど私の部屋に来ていたロッキングチェアが置かれている。整理整頓されているけどデスクの上には魔法書や書類が乱雑に積まれていた。
「そこに座っていろ」
言われたままにベッドに腰を掛けると、アルト様はおもむろにシャツを脱ぎはじめた。
「えっ! 何してるんですか! キスはしないって言いませんでしたか? それ以上のことをするんですか?」
「……何を暴走してるんだ」
呆れた顔を作ると、手袋を外して、靴も脱ぐ。
「昨日のように弾け飛んだら困る」
「なるほど、たしかに」
「また意識を失うかもしれないから自室で『夜』を迎えたい」
「たしかにダイニングで眠るのは身体が痛いですからね」
「俺は痛くないが、お前は痛いんだろ」
アルト様はズボンのポケットから懐中時計を取り出して時刻を確認すると、私の隣に座った。上半身裸のアルト様が隣にいるのは心臓に悪い。
「まだですかね……」
「うん」
この変化するまでの微妙な時間、本当にソワソワするからやめて欲しいのだけど。隣を見やるとアルト様もなんとも言えない表情で座っている。
「緊張しますか?」
「まあ、そうだな」と言い終えたアルト様の表情が歪む。
あとは昨日と同じで彼の身体が魔物化していく。違うのはアルト様が対策を練っていたから服が無事だったことだ。
「アルト様、どうですか?」
声をかけてみると金色の瞳が私を捕らえた。表情は険しく息は荒いけど、昨日のように崩れ落ちることはなく、発作を必死に堪えている、そんな様子だ。
私は急いで、指示されていた通り両手を握ってみる。
……魔力の受け渡しってこんなことでいいの? 魔力が目に見えてわかるものならいいのに。目の前で苦しそうに息を吐くアルト様を前に、ただ手を繋ぐというのはもどかしい。キスをしたほうがいいんじゃない?
「アイノ」
そんな私の考えを見透かすようにアルト様は私の名前を呼んだ。
……あれ、瞳がいつもの色に戻っている……?
青に見えた気がしたけれど、それは一瞬のことで鈍い金色があやしげに光ったかと思うと私は強い力で抱き寄せられた。
頬に直に触れる肌は驚くほどに熱く、鼓動は早い。その温度とスピードに急かされて私まで熱が高くなる気がする。
ああ、でもこうして抱きしめあった方が魔力は渡せるかもしれない。厚い胸に手のひらを当ててみる。
「アイノ」
名前を呼ばれて上を見上げるとすぐ近くにアルト様の顔があった。
「どうしましたか?」
「アイノ、俺のアイノ……アイノ……俺のアイノ……アイノ…」
うわ言のようにアルト様は何度も私の名前を繰り返し、自分のものだと主張する。
「はい。貴方の花嫁ですよ」
「俺の花嫁……」
「そうですよ」
「アイノ、俺は……俺を、置いて行くな」
金色の瞳は、獣のように獰猛なのに。不安そうに濡れている。
私がアルト様のそばを離れるわけないのに。どうしていつも迷子のような表情をするんだろう。
そっとアルト様の右頬に触れてみると、びくりと身体が震える。急いた手が私の手首を掴み、手のひらが更に強く押し付けられると少しだけ表情が和らぐ。
もしかして手のひらから魔力が流れるのかしら。
私は左手も頬に当てると、アルト様はその手も掴んでから、目を瞑り気持ちよさそうに小さく頬ずりをする。……可愛い。
「アイノ」
ようやく手首は開放されて、かわりに強く抱きしめられる。あまりにも強く抱きしめられるから頬から手が離れてしまう。でもアルト様はそんなことはおかまいなしで、身体と身体はぴったりくっついているのに、それでは足りないとばかりに私の髪の毛を掬ってキスを落としていく……!
ちょ、ちょっと……待って!!
これ、誰!? これが暗黒期の溺愛モードなんですか!?
「アイノ」
甘い声が何度も降ってきて、鼓動を直に聞いて、体温に強く包まれて、もうちょっと、限界かもしれません……!
「ア、アルト様……!」
身をよじって少し身体を離すと、私の髪の毛を一房掬って口づけているアルト様と目があった。……ねえ、どうしようもなく絵になっていて、破壊力が大変なことになっているんですが、どうしたらいいんですか?
「俺から離れるな」
そうしてまた私は引き寄せられて、見上げると優しく微笑みかけられる。こんな笑顔、初めて見た。
本当に誰ですか?
「アイノ、愛している」
通常時のアルト様が絶対に言わないセリフ第一位を囁いたところで、私の記憶は途切れた。




