職業美容師
いや、この仕事を選んだ事を後悔していると言うわけではないんだ。
なぜ美容師になろうと思ったんだっけ?と思い返しただけで。
「パパ、スーツ買うからお金ちょうだい。」
朝食をとりながら、ぶっきらぼうに娘が話しかけてきた。
娘から話しかけてくるなんて珍しいなと思ったと同時にスーツ?と頭に疑問が浮かんだ。
「スーツ?」
「就活用。合同説明会が始まる。」
早いもので、この4月から娘は大学3年生。3月には企業の合同説明会とやらが始まるようだ。
「いくら位だ?」
「知らない。」
「パパもよくわからない、調べといて。」
「うん。」
2月の中旬、まだまだ寒いが大学は春休みに入って、娘はカフェでアルバイトを始めた。午前中はアルバイト、午後から大学のサークルと大忙し。
まだ子供なのに就職の事を考えて大変だな思ったが、自分自身は今の娘の年齢ですでに就職先が決まり、そこで下働きを始めていたんだなと思い返す。
人気のサロンを受けたが受からなかった。1年に4,5人しか採用されない、なかなか狭き門だ。結局は有名とは言えないサロンへ就職した。今の生活があるのだから結果的には良かったと言えるのだろう。
なぜ美容師になろうと思ったんだっけ?
テレビで流行ったのだった。カリスマ美容師ブーム。すごく華やかに見えた。女優さんやアイドルをカットして、スポーツカーで出社して。モテて金持ちになれる、『これだ!!』と思った。
実際、テレビの影響でその時代は美容学校の生徒数は多かったような気がする。あいつらまだ美容師やっているかな?職場へ行く身支度をしながらふと思った。
職場までは自転車で10分ぐらいで着く。
最寄駅で、ささやかながら自身のサロンを営んでいる。従業員は私を含めて5人。
一人は長年ここで働くベテラン。彼指名のお客さんも多く、完全に任せれるのでありがたい。挨拶と仕事の話ぐらいで、あまり言葉を交わさないが完全に信頼している。その辺の雰囲気も含め、本当に家族のようだ。
もう一人はアルバイトの女性、結構長く勤めている。フルでは働きたくないが、家計の足しなのか、お小遣いぐらいは稼ぎたい様だ。シフトもだいぶ融通を聞かせて自由に働いてもらっている。お互い子供がチビな頃はまとめてお迎えに行ってもらったり、逆に私が行ったりと助け合った。彼女もこのサロンにとって無くてはならない存在。
後の二人は学生あがりの1年目と、3年目。ここはメンバーがよく入れ替わる。そりゃそうだよなと我が店ながら思う。自分自身もそうだった、若い頃は、原宿や表参道のサロンに憧れた。ここはと言うと東京ではあるが23区外の郊外、若者が憧れる場所ではないのは確かだ。
「お待ちしていました、早苗さん。」
「いつもより、少し早いペースだけれど来てしまいました。」
「確かに前回から2週間ですね。調子悪いですか??」
「いやいや、冬になって色々頭皮のケアしてもらっているから調子は良いのよ。店長に会いに来たの。」
「 またご冗談を!今日はどうしましょうか?」
「いつも通りでお願いします。」
「承知しました、ヘアカラーと、頭皮ケアですね。」
「はい、お願いします。」
うちの店は私が学んだサロンより、ゆっくりと作業をする。1.2から1.3倍といったところだろうか。テキパキ動くと確かに効率はよくなるのだが、なんだか急いているように見えるのを懸念してだ。まぁ、そもそも急ぐ必要もないほどの客数なのだけれど。
「こんにちは、早苗さん。今週は昆布茶かコーヒーがあります。珈琲豆はトラジャです。」アルバイトの同僚が話しかけた。早苗さんも長い付き合いなので、顔見知りだ。
「あら、トラジャってインドネシアね。」
「よくご存知ですね!」
「何かのテレビだったか、雑誌で見たわ。」
「酸味が程よくて美味しいですよ。」
「じゃあ、それを頂くわ。」
「はい。」と返事をして奥へ準備しに行った。
「毎回違う飲み物でとても嬉しいわ。最近豆も毎回違うわね。」
「従業員が珈琲にこだわり出して、それぞれ自分が気に入った豆を買ってくるのですよ。誰が買った豆が一番美味しいか勝負ですね。」
そう話しているうちに、奥で豆を挽く音がして、かすかに珈琲の香りが漂う。蒸らしの1投目を入れると、なお香りが充満した。
「いい香りね。」
「そうですね、珈琲の香りはなんだか心を落ち着かせるので不思議ですね。」
「そうね。そうそう店長、聞いてくださる?この間、お料理中に郵便局の方がいらしたから、その間、火にかけているお鍋を見ていて下さい、と主人にお願いしたの。」
「辰さんですね。キッチンに立つ姿を想像出来無いですね。」
「そうなのよ、何も出来ないのよ。郵便物を受け取って戻ったら、あら大変、鍋が吹きこぼれそうになっていたの。私慌てて、火を止めて蓋を開けたわ。」
「あれ?辰さんは何をしていたのですか?」
「鍋を見ていたのよ。私がお鍋を見ていて下さい、とお願いしたので。言葉通りお鍋を見ていたの。」
「辰さん、、、。流石にそれは。」
「そう、私も流石に驚いたわ。そのまま放っておくと吹きこぼれてしまうということが分からないみたい。何しているのですか、火を止めて下さいな。と言ったら“見ていろと言ったから。”としょんぼりしてたわ。」
「流石に僕も驚きましたが、辰さん話のネタが尽きないですね。」
「呆れちゃったわ。」
「退職されて、これから覚えることが沢山で楽しみですね。」
「もう、店長は何でも前向きね。1から教えるこっちの身にもなって下さいな。」
「ははは。」
「頑固だし、子供を育てるより大変だわ。」
早苗さんはいつも辰さんの話。辰さんもいつも早苗さんの話。どこへ旅行へ行って、
どんな失敗をしたとか、あれを食べ損ねたとか、面白おかしいお話が盛りだくさんだ。結局のところ、このご夫婦は仲が良いのだなと毎回思う。
「この間したケアのおかげで、頭が痒くならないわ。家でも悩んで選んだシャンプーで洗うけど、どうもしっくり来るものがなくて。」
「市販のものは幅広い方に使って頂くように出来ていますからね。美容室の物はもう少し細分化されていて、その人に合ったものを選んでいるのですよ。」
「やっぱりそうなのねー、定期的にケアしに来るわ。店長は頭皮のお医者さんね。」
「そう行っていただけたらありがたいです。季節によっていらっしゃる頻度変えてるのが良いですよ。次回の目安の日程をカードにメモしておきます。」
「ありがとう、助かるわ。最近何でもすぐ忘れちゃうから。ふふふ。」
「僕も忘れ物が多くて困り者です。」
「やだ、まだ若いのにしっかりして。」
お互い笑顔が溢れた。
「ありがとうございました、カードに次回の日付書いておきましたので、目安にして下さい。」
お会計を済ませ、帰宅する早苗さんをお見送りしながら声をかけた。
「ありがとう。頭がさっぱりしたわ、それにお話できて何だかスッキリしました。また来月お願いね。」
「はい、お待ちしております。」
早苗さんと入れ替わりに入ってきたのは、智。小学生の頃から、親に連れられてカットしにきているから5年に以上の付き合いになる。
「店長、予約してないけど大丈夫?」
ちらりと時計を見ながら、
「あぁカットだけだから大丈夫だ。すぐシャンプーしちゃおう。」と答える。
「ラッキー。」
本当は少し休憩するつもりだったが、まぁしょうがない、良くあることだ。
智は髪型に無頓着なのか、細かいオーダーは無い。とは言え高校生、モテたいに決まっている。若い子達の流行りを一応は勉強する。このサロンでは高校生男子のお客さんは殆どいないので、智のために勉強していると言っても良いだろう。ターゲット層と違うお客さんがいると言うのは結構ありがたい。私の学びにもなるし、若い二人の従業員との会話のきっかけにもなる。
「いつも通りで良いかい?」
シャンプーが終わって、目の前に座る智に声をかける。
「うぃ。」
「昆布茶と珈琲どっちにする?」
同僚が聞きに来る、もちろん顔見知り。
「コーヒー無理。お茶で。」
コーヒー無理のところで大げさに苦い表情をした。
「今日は14日だぞ、チョコもらったか?」
本日は2月14日バレンタインデーだ。
「な。」
智は言葉に詰まって少し赤面した。
「もちろん、もらったよ。」
「いくつ?」
「2個。」
「まーまーの出来だな。本命か?」
「知らないよ!」
冷静そうにしているが照れて居るのが分かって、可愛らしい。ご両親とはきっとこんなやり取りはし無いだろう。知ら無い人では無いけど他人、そして大人相手だから正直に話してしまう。
「何で、バレンタイ前に切りに来ないんだよ、髪?」
「いや前日に切ったら、いかにもじゃないかよ!!」
言葉にしなかったが、笑って返事をした。
「大学行こうかなー、と思って。」
唐突に進路の話になった。
「結局、受験することにしたんだな。」
「うん。特に今やりたいこと決まって無いしな。とりあえず。」
親が喜ぶなと思ったけど、そう言うことは口にし無い。
「そうだな、うちの娘もそんな感じだ。就活始まるみたいだが、まだ迷ってたぞ。」
「へー、大学行っても何がしたいか決まるわけじゃないんだなー。」
「みたいだなー。」
「みたいだなー、ってえらい他人事。」
智がフっと笑った。
「口出ししても聞か無いだろ、どうせ。」
「だな。」
子供の頃から娘に何度かあったことがある智が頷いた。
智は受験勉強を始めることを報告に来たのだろう、いや報告では無い。無論相談でも無い。
自分の決断を、ただ自分自身に再度言い聞かせに来た。
なんで美容師になったのだっけ?なんで美容師という職業を続けてこれたのだろう。
美容師という仕事が好きだ。そう言う事なのだろう。