正しい君へ
「先生は、恋をしたことがありますか。」
自分より10歳年下の僕に「先生」というあだ名をつけるこの頼りのない男は上川といい(下の名前はしらない)、僕はこの頼りない上川に対して心地よい安心感を持っており、1ヶ月ほど前からバイト以外でも会うくらいの仲になっていた。
店内に客はおらず、外を見ると雨が降っていた。
深夜3時を過ぎていた。
コンビニの夜勤バイトというのは、客が来ないから裏で漫画を読みふけるくらいの暇があるだろうと思われるかもしれないが、実際は品出しやフライヤーの清掃など、意外とやることが多い。
スカスカになったタバコの陳列棚に、退屈そうにメビウスを1箱ずつ並べていく上川は、さっきの問いかけに対する僕の返事を待っていた。
僕は答えようとしたが、上川は見切りをつけてしまい、とうとう一人で語りだしてしまった。
「大抵の人は、ある。と答えるのでしょう。しかし恋というのは、その色や匂いや形や感触が人によって異なるものだと思います。.........だから、恋というのは、大抵の人が経験はあるけれども、誰一人として同じではない、ユニークな心理模様なのだと思います。.........「いや、私の恋は一般的なものだ」という人がいるのであれば、それはおそらく勘違いです。.........何が勘違いかって、"恋をしている"というところがです。.........きっと、恋と銘打たれた物語を答え合わせに使い、自分の心理を"恋をしている"と判断しているのです。本当の恋というのは...先生、ここからが本題なのです。本当の恋とは何なのか。それを今日ハッキリと知りたいのです。」
上川はよく、こうした哲学めいた問いを持ち、そうして現実的な問題の解決を後回しにしようとする。僕は、とっととこの哀れな男を前に進めてやりたかった。
「上川さん、恋したんですか?」
「...それを答えるためには、まず恋の定義をしなければ」
「なぜですか?」
「なぜって、恋かどうか分からなければ、対処のしようがないじゃないですか」
「対処って何をするんですか?」
「....私を納得させないといけないんです。私は今、私に納得していない。苦しいんですよ。正しくないことが理解できるのに、それを正しいことにしたい気持ちが湧いてきて、苦しいんです。」
客が来て、僕たちの会話は一旦途切れた。
僕はレジを打ちながら、次に何を話そうかと考えた。客が出ていき、店内にはまた僕たち2人だけになった。
「そういうの、全部まとめて恋なんじゃないでしょうか」
もうこれ以上言うことがない気がした。結局この手の話は、はじめから終わりまで、当人のみが舵を握っているのだ。その舵をこちらも握ったところで、相手と喧嘩になるか、航海の責任を負うといった無駄な仕事が生まれるだけなのだ。
上川はしばらく黙っていた。先生が航海の責任から降りたがっていることに気づいたし、上川も舵を切るべきは自分だと気づいたからだ。
「先生、私は.........ある女性を自分の玩具にしたいんです。どうしたって、玩具にしたい。自分の思うようにしたい。そうでなければ気が済まない。」