死人より愛を込めて
俺は真っ白な廊下を歩いていた。
視界が続く限りに続くその光景は、この世のものとは思えない。
正確に言うと、この世のものではないのは確定していた。
それは自分でも重々承知している事実。
確かに、俺は死んだ。
俺は立ち止まり、項垂れた顔を上げてみる。
左右の壁も薄く発光する白いもので、上方の空に向かって消えていくように延びている。
上も前も途方もなく遠い。
ただその先に何かがあるような気がしてずっと進んでいるのだ。
そんな雑念を排除された世界では、思考だけがぐるぐると駆け巡る。
始めにここに来た時には、後悔、自分にだけ降り掛かった不運への憎悪。
色々な感情が渦巻き、混沌としていた。
だが、昼も夜もないこの世界で、ただひたすらこの廊下を進んでいるうちに、自分が死んだことを受け入れるようになり、頭も整理されていった。
そうして最後に残ったもの。
「優花……」
一人の名前を呟く。
3年の付き合いを経て、ようやく婚約をしたばかりの彼女の名前だ。
俺が死ななければ、幸せな未来が二人に訪れるのは確かだった。
他の思考は全て消え去っても、これだけは譲ることができないままでいた。
それからも暫く歩いたが、ふと顔を上げると目の前に今までは見えなかった扉が見えた。
終点なのだろうか?
急な展開だが気持ちが高ぶることもなく、淡々とそのドアノブを回すと、奥に押し込んだ。
そこは同じように白い壁でできていたが、部屋のようになっており、スーツを着た一人の男が立っていた。
「入ってくれますか」
その男が事務的にそう言ったので、俺は中に入り、後ろ手に扉を閉めた。
男は手にバインダーのようなものを持っており、パラパラとめくりながら、なにかを確認しているふうだ。
背は高くもなく低くもないが、やけにほっそりしていて、神経質そうな顔。
それが表しているかのように、スーツも、その中のカッターシャツにもアイロンがかかっているようにピシッとしている。
髪は短めだがオールバック気味に撫で付けてあり、生前であれば話しかけにくい雰囲気だなぁと思った。
「中沢俊哉……さん」
そんな人間観察をしていたので、突然の読み上げに。
「あ、はい」と、つい肯定してしまう。
「あなたは死んでしまいましたね」
「……そうみたいですね」
二人ともに感情はなく、淡々と会話が進むのが不思議だ。
「あれはなんなんです? 長い廊下でしたけど」
「あれ? ああ、思考の回廊の事ですか?」
「いや、名前は知りませんけど」
知るわけがない。
そんなもの初めて聞いた。
第一、死んだら三途の川を渡って、閻魔大王に裁判されると思っていた俺には、不可思議でしかない状況だ。
そのあと釜茹で針地獄。目の前のこいつは鬼には見えないし。
「そんなナンセンスなもの、不経済でしょう」
喋ったつもりはないが、そう返してくる。
「ああ、思考は聞こえてますよ」
テレパシーか……まぁ現実ではないのだから今さら驚きはしないが。
「思考……あなたはここに来て2ヶ月の間、ずっと同じ人物の事を考えていましたね」
そうだ、優花。
あれから2ヶ月も経っていたのか。
「そうですよ、貴方の体感でいうとですけど。生者の時間でいうと2年程ですが」
2年!
優花は! 俺を失った優花は!
「そうですね、健康で幸福に生きていますよ」
俺はホッとした。
一番幸せな時に好きな人を失い、心を病んだりしていないかを心配してたのだ。
「心残りが無くなったところで、今後の話を進めても良いでしょうか?」
男は少しイライラしたような口調で話を先に進めようとしている。
「もしかして、生き返ったり……」
「できません」
口に出して言ったにも関わらず、喰い気味で否定される。
俺はあからさまに肩を落とした。
「まずは黙って聞いてください」
さらにイライラした口調になった男に、背筋が延びる。
男は咳払いを一つ付いたあと、事務的に今後の事を話し始めた。
「中沢俊哉さん、交通事故で死亡。脛椎の損傷で即死でした。
その後思考の回廊に進み、約2ヶ月の間彷徨……はぁ……」
読み上げながら溜め息をつく。
何か悪いことをしたのだろうか?
「普通の方であれば大抵4、5日で回廊から抜け出せます。貴方の思考をずっと観察していた私の身にもなって欲しいものですね」
そんなに睨まれても、俺はここの仕組みなど知るよしもない。
勝手に気分を害されても困ってしまう。
「確かに、故意ではなかったでしょうが……」
それに、今でも優花への気持ちはすり減っていない。
いや、むしろ強くなっているくらいだ!
「わかっています。通常であれば、思考の回廊で気持ちの整理をしていただき、次の魂へ何も残すことなく転生していただくのが流れなのですが。貴方を観察していて、これでは埒が明かないと判断してこちらにお呼びしたのです」
すごく嫌そうな顔をする男に、こちらも嫌悪感を持った。
こいつ、俺の優花への愛を面倒くさそうにあしらいやがって!
「聞こえてますよ……そういうものではありません」
だいたい、他の奴らが4、5日で諦めるなんて。
残した人間に対してその程度の気持ちしかなかったってことだろうが。
「それは……聞き捨てなりませんね」
オールバックの額に、怒りの青筋が見てとれる程浮かぶ。
しかし、俺もこの気持ちを否定されるわけにはいかない!
俺だったら、永遠にあの回廊を歩き続けてやるよ。
その思考を読んだであろう男は、今までとはうって変わって、悲しそうな顔をした。
「……あなたは永遠の愛などというものを、本当に信じているのですか?」
その声も弱々しく、とても悲哀に満ちていた。
だが俺はその逆。
「信じているとも! 俺の優花への愛は永遠だ!」
口で言わなくても伝わるのはわかっているが、こいつに思い知らせたかった。
お前らの思う4、5日で消えてしまうチンケな気持ちと一緒にするな、と。
「わかりました」
男がそう小さく言うと。
部屋が発光を止めた。
白く輝く壁はゆっくりと光を失い……。
完全な闇に沈んで行く。
戸惑う俺の耳元で、小さく、そして悲しく呟く声がする。
「頑張って……くださいね」
それを最後に意識も途切れたのだった。
次に目が開いたとき。
そこは見知った場所だった。
自分が仕事場に向かうために通っていた道。
休日であれば優花と二人で買い物に来ていた、スーパーマーケットの前の交差点。
「俺が、死んだ場所……」
特に恐怖感は感じない。
事故なんて、認識したときには終わっているものだ。
むしろ、彼女との幸せな日々を思い出して込み上げてくる。
「中沢俊哉さん」
感慨にふけるタイミングもなく、隣で俺を呼ぶ声がする。
それはあのスーツにオールバックの痩せ男。
「痩せ男ではありません、わたくしは案内人のガープと申します」
未だに心を読まれているようだ。
気持ちが悪い。
そんな俺の感想を聞き流すように、ガープは語り出す。
「ここは貴方が死んで2年後の現世です」
確か、あそこでの2ヶ月は、現世の2年と言っていた。
「これから、一木優花さんを探しに行きましょう」
まさかの展開に心が弾む。
会いたい! 今すぐに優花に会いたい!
俺がテンションを上げるのと反比例して、ガープは困った顔をするが、俺には関係ない。
「今どこにいるんだ!?」
「わかりかねます……今日は平日の正午くらいです、一木優花さんはこの時間どこにいらっしゃいますか?」
死んだ場所に出てきたはいいが、ガープとやらはそんなに便利なやつではないらしい。
「聞こえてますよ」
失敬。
「今だったら、たぶん会社で仕事をしている筈だ」
結婚を決めたのを機に、俺の職場の近くに引っ越した。
子供がほしいから、働けるうちに貯金をしたいと家の近くで就職した優花。
会社側も、一旦辞めても子供が落ち着いたらまた働いて良いよ、と言ってくれるくらい優花を気に入ってくれた。
「建設会社の事務なんだけど、すぐ近くだ」
ガープを導きながら、俺は小走りにそこへ向かった。
慣れた道、2年経っても殆んど変わっていない。
歩道の真ん中をお婆さんが歩いてきたので、横に避けた。
その俺の体を自転車が通り抜けて、追い抜いていった。
「うわっ!!」
自分の体をさするが何ともない。
「貴方はもうこの世の者ではないのですから、誰にも見えませんし、触れられませんよ」
あまりにもリアルな風景に、生き返ったのかと錯覚したが、ただの幽霊みたいなものらしい。
がっかりはしたものの、優花の顔をまた見ることができるという感情が、足を進ませる。
こじんまりとした工務店。
その扉の前にたどりついた。
従業員は6名程度、事務員が社長の奥さんと優花。
そんな小さな工務店。
しかし中に入ることができない、取っ手を握ろうとするも、触れないからだ。
どうしたものか……
「扉、すり抜けれますよ」
呆れたようにガープがそういうので、少し恥ずかしくなりつつ、言われた通りドアに向かって歩いた。
何の抵抗もなく通りすぎる。
不思議と階段は登れるのは意味がわからないが、とりあえず2階の事務所へ上がっていく。
どんどん高鳴る、動かない筈の心臓。
しかし、事務所の先に、優花の姿はなかった。
「どう言うことだ……」
俺が死んだあとにこの会社を辞めたというのは十分に考えられる。
しかし、それなら優花はいったいどこに……。
「退勤表に一木優花さんの名前がありますね」
ガープの声の方を振り向くと、確かにホワイトボードに彼女の名前が書いてあった。
胸を撫で下ろしながらそちらへ急ぐ。
「今日はお休みを取っているようです」
確かに、彼女の名前の横に貼ってあるマグネットに「休み」とマジックで記載されていた。
ああ、2年経っても彼女は変わらずここに居る。
その存在感を感じるだけで、心がふわっと軽くなる気がする。
「じゃぁ、家に居るのかも知れない、早く行こう!」
俺はただただ会いたい気持ちを抑えきれずに、ガープを促したが……彼は俺に見せた悲しそうな顔を、一人の男性に向けていた。
「彼は……確か、この会社の社長」
「あ、はい。彼に関連する事案も私の担当でしたので……」
社長は奥さんを亡くしていた。
その当時を支えてくれていた事務員の女性と再婚し、今では立派に二人三脚でこの会社を切り盛りしていると、優花から聞いたのを思い出す。
そう考えていると、不意に気になるものを見つけた。
自然すぎて気づかなかったが、社長の背後に一人の女性が立っている。
その姿はハッキリしているが、他の社員には見えている様子がない。
「あの女性が、木村広さんの亡くなった奥さんです」
それはまるで背後霊だった。
表情は氷のように固く冷たい。
まるでこの男を呪い殺してやろうかと言わんばかりだ。
そこに、今は妻である再婚相手が、社長のデスクにやってきた。
「書類の確認お願いします」
「はいはい、今日は忙しいね」
「ええ、でも、昔はこれ一人でやってたんですもの、最近は楽させてもらってただけよ」
「いやいや、ありがとう。今日は遅くなるかもしれないから、食べて帰ろうか」
「スーパーに食材買いに行く時間無さそうだから助かります」
他愛のない幸せな夫婦の会話。
しかし、俺は恐ろしいものを見てしまった。
社長の背後にいた女が、髪を振り乱して社長夫人に殴りかかったのだ。
あっ! と思ったが、その拳は当たることなくスッとすり抜ける。
全く気づいていないようで、夫婦はお互いを見つめ幸せそうな笑顔を向け会う。
「殺してやる! 呪い殺してやる!」
その間も背後霊は呪いの言葉を吐き、腕をブンブン振り回している。
狂気。
憎悪。
嫉妬。
後悔……
色々な負の感情だけが彼女からはにじみ出ていた。
「中沢俊哉さん、行きましょう」
俺はガープに促されるまま、ドアをすり抜けて会社を後にした。
家路を歩きながらも、あの衝撃的な光景が目に焼き付いて離れない。
なんだったんだあれは。
あそこまで他人を憎み、感情を顕にする人間を、俺は見たことがなかったから。
「あれは、成れの果てですよ」
どういう意味だ。
考えが聞こえたのだろう、ガープは少しの間黙っていたが、俺がその続きを聞きたい気持ちを理解して、仕方なくという風に口を開いた。
「……中沢俊哉さん。貴方は永遠の愛を信じていましたよね」
ああ、当然だ。
「彼女もそう信じていた一人でした」
……。
「本当は、優花さんを見つけた後にお話するつもりでしたが」
口ごもりながらガープがそう言うと、意を決したように顔を上げて、シリアスな表情で話し出す。
「いいですか、中沢俊哉さん。貴方にはこの先2つの選択肢があります」
藪から棒だな。
「一つは、彼女に会い、お別れを言って、きれいさっぱり転生する道」
それができるなら、あの白い部屋でそうしてる。
「でしょうね……。もう一つは、先の婦人のように、未練あるものと共に過ごし、その生涯を見守る道」
後者だ。考えるまでもない。
「今の貴方がそう言うのはわかっています。なので、明日……明日の正午まで回答は待ってください」
明日になったら俺が心変わりするとでも?
「それはわかりません。ですが私はその選択が中沢俊哉さんの……しいては一木優花さんの幸せに繋がることを望んでいます」
自分の心を試されているようで癪に障るが。
その言葉には誠実な想いを感じた気がして、言葉にはしないでおく。
「感謝します」
思考が駄々漏れなので意味はなかったようだが……。
「私は退散します。中沢俊哉さんの声が聞こえないところに行きますので、安心して彼女に会ってきてください」
それは助かる。
たぶん優花の顔を見ただけで俺は泣き崩れてしまう自信がある。
大の大人がみっともなく泣く姿なんて隣で見ていて欲しくはないからな。
「では」
そう言うと、薄ぼんやりと輪郭がうつろい始め、そのままふわっと消えてしまった。
実際煩わしかった。
いちいち突っかかってくるのも気に入らないし、別に優花の居場所を知っているわけでもないのに付いてきて。
心を読まれるのも気持ちが悪い。外してくれて清々した。
俺は本来の目的を思い出し、足早に二人の家へと向かう。
二人の会社から近く、分譲宅地を購入し、二人で意見を出しあって作った家が目に入る。
「ああ、懐かしいな」
植え込みの木々が成長してはいたが、2年も月日が経っているとは思えないほど、当時のそのままだった。
「ただいま」
返事はもちろん無いだろうが、それでもどこか、愛する人の返事を求める。
この家には何ヵ月かしか居なかったが、それでも玄関をすり抜けると、懐かしさがもっと溢れてきて、既に泣きそうだ。
真正面は廊下。
左に小さなテラスのあるダイニングがある。
日差しが入って気持ちが良いからと、休日なんかは本を読んだりして過ごしてたっけ。
そのまま奥にカウンターキッチン。
ダイニングに入ると、やはり俺が死んだときのまま時間が止まっているかのよう。
優花の姿はない。
廊下に戻ると、対面には寝室兼俺の部屋。
顔だけ扉をすり抜けさせて中を確認するも、誰も居ない。
となると、あとは優花の部屋。
プライバシーを守るという意味で、子供が出来るまでは余った部屋を優花に使って貰っていた。
一緒に住んでいる俺も殆ど中を覗くことはなかったのだが……
「すまん優花」
そう呟いて中にはいる。
部屋は綺麗に整頓されているが、生活感があり、いまもこの場所で優花が暮らしている様を示している。
それに確かな存在を感じとり、自分の心が高まっていくのがわかる。
姿はないが、優花は居るんだ。
これ以上この部屋をじっくり見るのは、自分が死んでいたとしてもなんだか悪い気がして、早々に退散することにしたが。
去り際に目の端に映ったフォトボードに、足が止まる。
「ああ、優花!」
そう口に出して膝を付いて崩れ落ちた。
そこには優花と俺の写真が張ってあったからだ。
2年の月日が流れても、優花は俺を忘れないで居てくれている!
その事実に最高の幸せを感じて。
本人に会う前だというのに、俺は嬉しさで既に泣き初めてしまった。
それはとめどない感情となって目から溢れ、泣いているのに幸福感に溢れていた。
しばらく呆然とその感情を咀嚼していた俺の耳に、玄関が開く音が飛び込んでくる。
「優花!」
俺は、立ち上がりすぐに廊下に飛び出た。
玄関を開けて入ってきたのは紛れもない、優花本人だった。
2年という月日は長い。
しかし、優花は相変わらず美しかった。
ゆったりとしたパーカーに、白のフレアスカート。
少し天然パーマがかかった髪を束ねて、バンスクリップで一気に留めてある。
お出掛けというより、ちょっとそこまでといった雰囲気の服装だが、それもまた素敵だ。
「よっこいしょ」
可愛らしい声で、かかとが低めのパンプスを脱ぐと、玄関を上がる。
そのまま右手にある金具に鞄を引っかけた。
優花は忘れ物が多い。
鞄は前の日にちゃんと要るものを用意して、玄関の金具に掛けるように言ったのは俺だ。
未だにそれを習慣付けているのをみると、まるで今も一緒に生活しているような錯覚に陥る。
帰ってきた優花は、そのままキッチンへ行くと、昼食の準備を始めた。
時計は1時半を刺していて、少し遅い気もするが、何か用事があったのだろう。
鼻唄を歌いながら調理をするという優花を見つめながら、彼女がどことなく上機嫌であることが、何故か俺の心をざわつかせた。
俺が死んで2年、悲しみに暮れているだけではなかっただろう。
楽しいことも嬉しいこともあったはず。
きっと今日がそれだっただけだ。
なんとも言えない不安に、なんとも言えない言い訳をしながら俺は少し優花から距離を置いた。
ガラス窓を通過し、テラスに置いた椅子に腰かける。
そういえばガラスは通過するのに、椅子には座れるってのも不思議だ。
そこで、食事を摂る優花を眺め、夕方の日差しが陰る頃まで本を読む優花を眺めた。
彼女は本当にいつも通りで、ずっと見ていられた。
上機嫌なのも、俺がいま近くに来ているのをどこかで感じているのかもしれない。
実際本を読む手を止めて、たまに外に視線を移した優花と何度か目があった。
「ああ、幸福だ。彼女の幸せを、こうやって近くで見続けることが出来るなら……いつまでもこうしていたい」
心からそう思った。
ヴーヴーヴー
優花の携帯が着信を知らせるバイブの音。
「あ、病院に行ったときに音が鳴らないようにしたんだっけ」
誰に言うでもなく、そう呟きながら、静かに震えるスマホを操作し、電話に出る。
その顔がとても嬉しそうで、幸せがこぼれ落ちそうで。
「ごめん准一さん、メール気付かなくって」
聞きなれない名前に、毛穴がざわつき始める。
うんうん、と電話越しには見えるはずない相槌をうちながら、優花は本当に幸せそうに……俺に絶望を突きつけた。
「そう! おめでただって!」
__それが意味することを、一瞬で理解する。
2年。
たかが2年だぞ!?
確かに俺は死んだ。
優花になにもしてやれない。
だがこんなに早く新しい男と、子供を作れるものなのか!?
2年で、俺を忘れ、新しい恋人を作り、愛し合い、合意の上で子供を授かる選択を出来るものなのか?
いやそれ以前に、もう優花は俺の事を完全に吹っ切っている、過去のものとしているという事実が苦しい。
俺は今でも、いや、これからも優花の事を……!!
「永遠に愛している」のに!
そこからの優花の電話の内容は耳に入らなかった。
無意識に遮断していたのかもしれない。
それでも本当に幸せそうな彼女の顔からは目を背けることが出来ずに、暗くなったテラスから眺め続ける。
ひたすら流れる涙を拭うこともせずに。
幸せな無声映画をただただ鑑賞し続けた。
優花が部屋を出て、寝巻きで戻ってきた頃になっても、俺はその場を一歩も動けなかった。
きっと風呂上がりなのだろう、髪をタオルで拭き、化粧水などを塗っている。
誰も見ていないと思っているのだろう、風呂上がりの熱気に任せて、胸元は広めに開けている。
そこには銀色の小さなペンダントが見えた。
お肌の手入れのために鏡を覗き込む優花にも、鏡越しのペンダントが目に止まったのだろう、優しく持ち上げると静かに微笑む。
俺はあんなものを送った覚えはない。
きっと新しい彼の物だろう。
そう考え始めると、居間の中にも知らない男の匂いがいくつもあるのに気付く。
椅子に掛けてあるカメラ。
テレビの前の置物。
ソファーに置かれた青いクッション。
全て優花のセンスではない。
侵食されていた。
俺の思い出が、優花の幸せが!
俺じゃない者の手で塗り替えられていっていた!
狂気
憎悪
嫉妬
後悔……
それらが頭の中をぐるぐると駆け巡る!
叫んだとしても誰にも聞こえないことを良いことに
俺は叫んだ。
言葉にするのもおぞましい程のひどい言葉。
数時間前までは信じていた『永遠の愛』というフレーズはもう、俺の頭の中には無いかのように。
そんな叫び声は聞こえていないようで、優花は微笑みを銀のペンダントに向けていたが、おもむろに小さく呟いた。
「俊哉さん、見ててくれる? 私やっと幸せになったよ」
その声はきっと彼女にしか聞き取れないほどの小さな呟き。
叫び散らす俺になんて聞こえないほどの。
しかしそれはしっかりと、俺の耳に届いた。
夜間の窓ガラスにうっすらと写る、自分自身の醜い姿の奥に、その言葉を発した優花が見える。
優しい微笑みを湛えたまま、ペンダントを両手でぎゅっと握り、一筋の涙を流した。
あのペンダントは__
近くて遠い、思い出が甦る。
「君が死んだら、骨をペンダントに入れていつも持ち歩くなぁ」
「やだぁ、気持ち悪い」
記憶の中でも笑顔の優花。
「気持ち悪いってなんだよ、真剣だぞ」
「真剣に言うから気持ち悪いんじゃん」
そんなこと言うなよ。
「だいたい、そんなもの付けてたら、新しい彼女出来ないぞ」
「良いんだよ、俺は永遠に優花一人を愛してるんだから」
「もう……」
__あのペンダントは……!
あの時は「私は持たない」って言ってたくせに。
なんで。
新しい彼氏の子供まで出来ているのに。
なんで。
あんな顔ができるんだ。
優花が立ち上がり、部屋の電気を消す。
自室に戻っていったのだろう。
消したことで、より鮮明に自分の姿が窓ガラスに写る。
そこには、一瞬でも彼女を罵倒した。
本当に、本当にどうしようもないバカな男が映っていた。
朝になり、優花が起きてくる。
朝食を食べると、いつものように玄関にかかった鞄を手に持ち仕事に出掛ける。
その一連の動きを、俺はテラスに佇んだまま眺めた。
誰も居なくなった部屋を眺めていると、いつの間にか近くにガープが立っていた。
「約束の時間ですよ」
いつの間にか正午になっていたようだ。
「もうそんな時間か」
呆けたように答えると、ガープがどこか心配そうに俺を見る。
「大丈夫だ、俺は今結構スッキリしてるんだ」
昨日とは逆に心を読んだかのように答えた。
「そうですか……」
きっと幽霊のくせしてやつれた顔を見て心配になったんだろうが。
本心で俺はスッキリしていた。
「では、選択肢を選んで貰えますか」
「ちょっと待ってくれ」
約束だと、ここで選択肢を選ぶことになっているが、俺はそれを遮った。
どうしても聞いてみたいことがあったからだ。
「ガープさんは、永遠の愛って信じてるかい?」
心を読める彼でさえ、この質問には目を丸くしていたのが少し可笑しい。
「昨日の夜からここに立ってずっと考えてたんだけど、答えはよくわからなくって」
心配するのは無理ないと思えるほど、やつれた顔を彼に向ける。
ガープはその目を見て、俺の本気を見たのだろう。
「私の個人的な意見ですが良いですか?」
と、一言断ってから話し始めた。
「私は信じていません、そういうものは個人的な感情ですし、死んでしまえばそこで途絶えてしまうものですから」
それはきっと、こんな仕事をしている彼が、沢山の想いが目の前で消えていく様子を見てきたから出た言葉なのだろう。
「そっか、じゃぁやっぱり俺は、信じてみたいと思う」
俺は目線をガープから外すと、俺たちが建てた理想の家に戻す。
ガープは訝しげな顔をしているのだろうが、俺は続けた。
「俺の愛は普遍的なものではなかったし、凄く脆いものだった」
昨日の昼に見た、裕子の勤める社長の背後霊が思い浮かぶ。俺は一時あの感情に囚われてしまっていた。
「だけど、いまは違う。彼女が幸せで居ることだけを願って居れる」
「それでも、今の彼氏を目にしたとき、彼らが生活して行く様を見て平静で居られますか?」
きっと、心配から出ている言葉なんだ。
顔を赤くしてまで言うなんて。
この人は本当は優しい人なんだな。
「僕は死んだ。もう自分は居ないんだってはっきりわかった」
悟ったように続ける俺に、ガープは黙り込む。
「触れたい、誰にも渡したくない、妬ましい、恨めしい……これは全部俺の気持ち。でも、心だけが生きてるからこんな風に見えなくなるんだって思って、心も殺してみた」
正午の風は、俺たちの体をすり抜けるのに、何故か心地よく感じる。
それを吸い込んで、自分の答えを語る。
「自分の気持ちを殺して、最後に残ったのは、彼女の幸せを望む心ひとつだけ」
「それが貴方の答えですか」
「死なないと判らないなんてね、遅すぎる」
「そんなことはありませんよ。
貴方にはまだ最後の選択が待っていますから」
ガープはそう言うと、最初に出会った時のダインダーを取り出し、ペンを握る。
「俺は……」
◆◇◆◇◆◇◆
ガープが一仕事を終えて、上司へ書類の提出に行く。
赤く毛の短い絨毯の上を歩いて、一際大きな扉をノックすると、中から声がした。
「入りたまえ」
扉はその大きさにそぐわず、驚くほど軽く開いて、音もなく閉まった。
「ガープか、面倒な仕事を押し付けてすまんな」
部屋の主は、机の上に大量の用紙を積み上げて、その奥から話しかける。
「いえ、誰かがやるべき仕事ですから」
四角四面に返答すると、向かって左の資料の山の上に報告書を乗せた。
順番を無視してその資料を手に取る部屋の主は、ざっとそれに目を通す。
「ほぉ、魂の洗浄を選んだか」
「はい、今回はそのような形に……しかし問題がありまして」
問題があると言われて、改めて資料に目を凝らす。
前に屈んだことで、背中の羽が積み上げた資料に当たりそうになるが、器用にそれを避けて見せた。
「問題などどこにある」
資料からは読み取れなかったのか、改めて顔を上げる。
「前世の者への執着が強すぎて、洗浄しきれないのです」
ガープはそれを、困った風でもなく、淡々と語って見せる。
それに何を察したかは判らないが、羽の生えた男はニヤリと片方だけ口の端を曲げながらこぼす。
「ではそうだな、この入れ物の魂にそれを使うといい」
ガープからすると向かって右。
中沢俊哉の資料を置いたのと反対側の紙束から一枚抜き取り渡してくる。
「中沢俊哉の、彼女を思う気持ちの残った魂だ、きっと一木優花を幸せにするだろう」
「田中准一ですか、判りました。こちらで処理します」
ガープは頭を下げると、すぐさま踵を返そうとする。
「わしの所に持ってきたということは、相当入れ込んだか?」
意地悪く笑いながら部屋の主はガープに問いかける。
「いえ、まぁ……彼には強い気持ちを感じましたので。永遠の愛とまでは行きませんでしたが、洗浄されて全てを失ってもなおその気持ちが消えていないのは事実ですし」
「ふふふ、ガブリエルは甘いな」
「貴方ほどではありませんよサリエル」
そう言うとガープは後ろも振り返らずに部屋を出て行った。
一人残された部屋の主サリエルは、フッと笑ってから背伸びをすると、今の一幕がさも当たり前の事のように、仕事を再開するのだった。
私の作品が沢山の人の、少しの時間を彩れるように。
これからも頑張って参ります。
良ければこれからも応援してください!
ブクマ、☆、ございましたら是非!