後編:侯爵令嬢
ディーナは聖堂に御座す神像を見上げ笑みをこぼす。
三年の月日が経ってもこの聖堂は変わらず厳かであり静寂であった。
ディーナは思いを馳せる。
あの時は大変だったと思い返せるようにもなれた。
エジェオの求婚を受けてすぐ、パオロはまるで予測していたかのような捷急さで婚礼の場を整えた。
押し寄せた労苦に疲れが出たのだろう、神殿に用意されていた客間に通され思わぬ熟睡に身を任せたディーナは、次に目覚めた時には明日にも婚姻が可能と父に伝えられ思わずパチパチと睫毛を揺らした。
アンナが心配そうに本当に良いのかと尋ねてくる。差し入れられた手のひらにきゅっと一度力を入れるのは肯定の合図。
声も出ず、両の腕は動かない。喉を薬で痛めつけられ麻痺のような感覚がある首もあまり動かさぬようにと医師に診断されたディーナに、気の利く侍女が意思疎通の手段として編み出したものだ。
かろうじて細やかながらも震わせられる指先で、一度は肯定、二度は否定。
さっそく握られた手のひらで、アンナは涙をにじませながらもその他にもさまざまな報せをディーナと取り決めた。中にはそんな複雑なものはいる?と思わせるものもあり、子供の手遊びのようだと薬の影響かあまり動かなくなった唇を笑みに変えたら、見守っていた父までもが目を潤ませた。
暖かく柔らかい侍女の手に中指を長く押し付けて、ありがとう。
声が出なくても、腕が動かなくても、気持ちを思いを伝えることが出来ると示しただけでも、国王陛下との駆け引きに勝てたような気になるのは我ながら単純だとディーナは面白く思う。
有能で臆病な国王陛下。無能であれと育てられた哀れな第一王子殿下。
彼らのおかげでディーナは少女の誰もが一度は夢見るであろう装束もなく女神官の厚意で貸し出された少し草臥れたヴェールとパオロが用意したこじんまりとしたブーケだけで婚姻に臨む。
それでもディーナは幸福に感謝した。
幼い頃に恋をした。
母に侍女に言えばおませさんねと笑われるほど淡いほのかな恋だった。
王子殿下と婚約を結ぶ前、父に連れられて王城に上がったことがあった。
渡り廊下と中庭。それほどの距離であったが、微かに届いた張りのある声にディーナは視線を向けた。
そこにいたのは一回りは違うであろう青年貴族。上背は高く、榛色の髪に洗練された顔立ち。どのような話をしていたのだろう、痛々しくも腕に布を巻いた話し相手のそこに手を乗せ、浮かべられた笑みは温かく凛々しく慈愛に満ちていた。ように思う。
名前も身分も知らないまま、その一度きりの邂逅でディーナは確かに恋をした。
その数年後、父侯爵の反対も空しく王子殿下の婚約者として据えられてからは地獄のような日々が始まった。
初恋は実らぬものと心を整理して挑んだ初めての顔合わせの日には唐突に平手を食らい、痛みすら認識出来ぬほど呆然としたディーナを王子はせせら笑いその場を立ち去った。
横暴かつ横柄な態度、漏れ出る言葉は卑屈なのに虚勢ばかりを張り、傲慢に怒鳴り散らす王子殿下。本来の王族教育は元より本来王子が修めるべき執務までも当然のものとされ、早朝の鐘から後夜の鐘までを王城で過ごし、夜半に帰り着いた王都の屋敷でもいつ召致の伝令が来るかと怯える毎日。
父侯爵が幾度も抗議を重ねたが取り合われることもなく、見かねた宰相閣下が国王や王子に苦言を呈してもなかったことにされるだけ。
心身ともに削られていく中、ディーナが瞼の裏に描くのはあの青年貴族の立ち姿だった。
あの時から一度も見かけることはない。それでもこれだけ長きに渡り王城に詰めているのだから、次こそは見えるかもしれない。会えなくとも、ディーナの手掛けた執務に彼の名があるのかもしれない。それだけを心の拠り所としてディーナは王城への道程に挑んだ。
単なる執着、あるいは逃避。もしかしたら依存。
よぎる言葉をディーナは否定する。
何故ならあの笑みを想うだけで、ディーナの心は温かく切なく花開くのだから。
これは恋なのだと、ディーナは信じた。
信じていて良かったとディーナは思う。
ディーナは右手に感じる大きな熱に視線を落とす。
逢えるわけがなかったのだ。彼は貴族ではなく王族で、ディーナが王城に上がるようになった頃には王城を逃れ神職の道を歩んでいた。
傷の癒えぬまま昼夜問わず馬車を走らせ疲れ果てた姿のまま通された神殿で、侍女に外套を取られ多くはない灯りに映し出された榛色に、常のディーナであればはしたなくも歓喜の声を上げただろう。
恋する人に、愛しい人にようやく!
震える胸の内を抑えるのに苦労した。
こんな衝動が隠されていたのかと自分の事ながら驚いた。
婚約者となったにも関わらず情熱を他に向けるいわば二心を悟られていたからこそ王子殿下はディーナを蔑んだのではないかと恐れを抱いたが、そうではないかとすぐに打ち消した。何しろ平手で打たれた時は視線のひとつも交わしていなかった。
彼エジェオと父と、時折愉快なパオロとの懇談が進み、王城の中で唯一表立ってディーナの身を案じてくれていた宰相閣下の助勢もあって、エジェオはディーナの前に跪いた。
夢に見ることも出来なかった求婚に思わず身じろぎし、今は動かぬ腕と上げられぬ声にあらまぁ浮かれて忘れていたわとディーナは弛む口元で照れを隠す。
手を取ってよいかと尋ねられ、気忙しく侍女の手のひらに肯定を返す。
大きく温かく力強い掌に、ディーナは今出来る全ての想いを指先に込めた。
動く全てで握りしめるその合図を侍女は伝えてくれるだろうか。
逢えるわけがなかったその彼と、こうして聖堂の絨毯の上に並び立てたのは愚かで哀れな王子殿下と臆病で残忍な国王陛下の蛮行のおかげ。
ディーナは幸福に感謝する。
これからディーナとエジェオには幾多の困難が降り掛かるだろう。
列席している父侯爵にも侍女アンナにも、遠くで心を痛めているだろう侯爵の親族、領地領民にもその累は及ぶかもしれない。
神官長が新郎だからしてと祈祷を買って出たパオロ従僕神官は、エジェオに付き従う上で既に覚悟を決めているはずだ。国を保たせるようかろうじて制御している宰相閣下の執務室に身を滑り込ませるのを見かけた事がある。
「これを以てセヴェリーニ王弟エジェオ・セヴェリノとガレッティ侯爵息女ディーナの婚姻が成立したことを宣言いたします」
神官長と恐れ逃げる女の婚姻ではないと、パオロの言明こそがその証。
ディーナは神の慈悲に見捨てられた哀れな女ではない。指先でしか表せない思いを読み取ってくれる侍女がいる。王命を捻じ曲げてでも生かそうとしてくれた宰相閣下がいる。綿々と続く侯爵家の忠義を捨ててでも生きる道を模索してくれる父がいる。王都の屋敷を出る時こちらは気にすることはないと頭を頬を撫で、きっと領地までの囮を務めてくれたのだろう家族がいる。
そして、騒乱に巻き込まれるとわかっているだろうに、王族を離れてまで得た平穏を乱されるとわかっているだろうに、声も出ず腕も動かぬディーナの手を取ってくれた彼エジェオがいる。
「新郎新婦は神へ捧げる婚姻証明への署名をなさいませ」
婚姻証明への署名は父侯爵の代筆でも適うものだが、ディーナは自らの手で署名したいと希望した。その希望を侍女が読み取り父が認め新郎がならばと手を添える約束してくれた。
左腕はブーケを持つために侍女アンナが美しい飾り紐で優しく固定してくれていた。右腕の上をエジェオの左手が撫で通り、右掌でペンとともに握られ、ディーナはわずかに痛みが消えた気がする自らの手で署名した。
ディーナは感謝する。今は自由の利かぬ身なれど、愚王に封じ込まれる程に内外の政に関わってきた意味はここにある。
宰相閣下の喉を焼く薬にはおそらく中和薬があるだろう。暗く澱んだ王城で宰相はともに立ち向かう僚友だった、抜かりはないと確信がある。いずれ密やかに届けられるか、パオロあたりが偶然を称しひけらかすはずだ。腕の腱は仕方がない。捥がれなかっただけまし、そのおかげで意思を伝える術がある。
障礙の花嫁を得たと嘆かせはしない。障礙など取るに足らぬと言わせて見せる。
そのためにあの地獄のような日々を熟してきたとディーナは信じることにする。
決意と愛を込めて夫となったエジェオの肩に頬を摺り寄せると、婚姻証明書を確認していたパオロが呆れたように首を振った。
夫の顔を見上げることが出来ないのだけが、残念だった。
「ここにいたのか、ディーナ」
初めて聞こえた時よりも求婚を聴いた時よりも、威厳に満ちた声にディーナはゆるりと振り向いた。
「猊下」
「今は二人きりだよ」
「はい、エジェオ様」
少し離れたところで控えていた護衛と侍女は、心得たように今少し後ろに下がる。
ディーナの声は十全には至らぬまでもこうして会話が出来る程には取り戻された。
小鳥のさえずりのように愛らしいと何故かパオロが率先して褒めるのがディーナには解せなくとも、夫がそれに深く頷いているのを見るのは心が躍るように嬉しい。
痛みすら感じるえぐみを齎す中和薬を長く続けるのには苦労した。一息に飲み干せる力なく、侍女アンナが花の蜜を抱えハラハラと見守る中、夫の役目とエジェオが匙を取り大きく開かぬ口に流し込んでくれた。最後の一匙を終えた後、その匙を口に含んで盛大に眉を顰めるのが幸福だった。
甲斐あって僅かながら声が出たと聞きつけた宰相閣下は、無理を押してこの街に礼拝に訪れディーナの手を取り涙した。
起こりはこの時だったとディーナは思う。
第一王子であった神官が神の御許に召されたと、宰相は褒められぬ面持ちで神官長エジェオに告げた。
セヴェリーニの王族は数少ない。第二王子は既に儚く、残る第三王子は幼く後ろ盾の小さい下級貴族出の側妃の母を持つ。王弟妹は言わずと知れた。全ては国王の永の安泰のための布陣。次代の王国の治世には考えも及ばない。
「エジェオ王弟殿下」
「……あぁ、そうだな」
宰相の細やかな宣誓に王弟エジェオは応えた。
「心あらずの私の小鳥は私を捨て置き何を考えているのか聞かせてもらえないか」
エジェオに問われディーナはまたも心馳せていたことに気付き笑みを零す。
「猊下、殿下とお呼びするのも本日までと今までを懐かしゅう思っておりました」
「はて、貴女に殿下と呼称されたことはあったかな」
「ございました……?」
小首を傾げるディーナに笑いを含み、エジェオは細腕を恭しく掬い上げそっと掌を這わす。
本当は奇跡の力なぞあるはずもないのだけどと、繰り返される慈愛の儀式はディーナの打ち切られたはず希望を温かく癒してくれる。
ゆっくりと対の腕を動かし、ディーナは癒しの手に己が手のひらをそっと重ねた。
「明日の戴冠式はきっと国民の歓喜の声響く盛大なものでございましょう」
「その半分は貴女のものだ。楽しみにしているといい」
「ふふ、頑張りましたもの。心して受け取りましょう」
「まぁ遷都に憤る者たちの恨み声も大いに聞こえそうだが」
「市井の者は逞しく心強い方々、きっと商機と張り切っておりますよ」
ディーナの培われてきた知識と知恵と人脈は、肌理細やかに王国の隅々までを掌握した。
清廉な神官長であったエジェオは国民の深い敬愛を得た。
宰相の常に最善を見定めんとする眼差しは市井に安堵を呼んだ。
忠臣と名高い父侯爵が王弟を掲げたことで貴族に正しさを齎した。
第三王子は早々に臣に下ることを母を通じて宣言し、国王は。
「喪に服すのも今日まで。神殿の浮かれた爺どもに捕まる前に戻るとしよう」
「はい、エジェオ様」
恋する人に寄り添われ、ディーナは目元を緩ませる。
侍女アンナと護衛と勝手に立場を変えたパオロが微笑ましくディーナとエジェオを見守る。
政の実質を先立ってこの街に移した宰相は明日の戴冠式に備え忙しく執務を捌いているだろう。
父侯爵はようやく末娘を嫁に出したことを実感したのか、いささか不機嫌に見せてあれは拗ねているのよと街に屋敷を構え収まった母に笑われている。
「横に並び立ち、支え合い、愛を育む」
「ディーナ?」
「わたくしは応えられておりましょうか?」
「……あぁ!もちろんだ!」
明日の国王に細腰を抱え上げられ、ディーナはあらまぁと微笑みを返す。
婚約破棄から始まった、もしくはあの渡り廊下から芽吹いていた恋の成就に、ディーナは確かに幸福だった。
END
お読みいただきありがとうございます。
この話は何回か書き直し、軽い切り口で進もうかもう少しコメディを入れようかと悩んだのですが、やっぱり最初の重っ苦しい話に落ち着いてしまいました・・・。
だって書き直すとパオロがなかなか出てくれなかったんですもんw
登場人物
ディーナ令嬢 18歳
恋する乙女は強いのです!
婚約者の事は親愛すら抱けず落ち込んだ時期もちょっとだけあったが、あれがアレなのでしょうがないよねと開き直ってます。
エジェオと初めて会った(見かけた)時は6歳。まぁおませさん。
恋する青年貴族に見初められるのを夢見て淑女教育に精を出していたら王家をなんとかしたいブラック貴族派閥に目を付けられた不憫さん。
12年越しの片想いが実って、落ち込んだりしたけれど、ディーナは幸せです!
エジェオ神官長 29歳
王家を出奔したのは18歳。ディーナが見かけた1年以内で出て行っています。
優秀な兄と慕っていたはずなのにと少ししょぼくれた神殿引きこもり。
好きな学問に好きに時間を使えるこの環境は気に入っていた。
11年で神官長にまで登りつめたのは、その姿を真摯に神に仕える信徒と周りが勘違いしてくれたのとちょっとの王族に対する忖度。
引きこもりゆえディーナの無意識好き好き光線にチョロっといってしまった感も否めない。
奇跡の力、は魔法かどうか?はふんわりとお収めください・・・。
侍女アンナ 27歳
とても優秀な侍女。末姫様には不自由なく過ごしていただきます!と才能を遺憾無く発揮。
指の合図はモールス信号もかくやとばかりに体系立てた。ディーナ指攣っちゃう!
五回タップでア・イ・シ・テ・ルのサイン~♪ にしようかと思ったんですが想定日本語じゃねぇ!と諦めました。込められる力すべてでぎゅっと握りしめられる合図は、末姫様を手助けするアンナに一番多くもたらされて、意図していなかったが嬉しくてついつい涙が出ちゃう。
姫≠王女なので王家への不敬には当たらず、仕えるお嬢様への敬愛の呼称と広く認識されている設定です。
パオロ従僕神官 32歳
はーい皆のアイドル(自称)パオロだよぉ!すみません、作者のアイドルです。
宰相から付けられたエジェオの護衛。実は強い。はず。
エジェオは気付いていない、残念。
ディーナは護衛かはともかく宰相の息がかかっているものだと早々に気付いていたので好印象。
女性は女性であるからしてまずは褒めるか口説くか愛でるかしないといけない使命を帯びている、と勝手に思い込んでいる。
ガレッティ侯爵 44歳
末王弟を無事に逃がし、末娘を王家に差し出さざるをえなかった御家騒動の良くも悪くも立役者の一人。
末娘を神官長に預けてからは、宰相とタッグを組みひそかに王権譲位のために奔走していた。
3年かけが本願成就の一歩手前で、そういや娘って嫁に取られてる??と気付いてがっくりしている。
妻と嫡男とともに暮らし、次男と長女は嫁・婿として家を出ている。
宰相閣下 38歳
宰相と言えば腹黒!とはなり切れなかった酸いも甘いもかみ分けたいい人。
国王の幼い頃からの学友であったため低い自己評価と臆病な性格を把握しなんとか支えたいと奮闘していたが、王族だけでなくまだいち貴族令嬢だったディーナにまで下した命でとうとう見切りをつけた。
ディーナの事は執務を押し付けられ泣きながらペンを走らせる姿を見守っていたため、娘のように感じている。独身。
実は国王の最期をみとったのもこの人。辞世の言葉は誰にも伝えていない。
国王陛下 38歳
本当は有能な、賢王と言われてもおかしくなかったはずの御方。
誰もが彼を認め次代の安寧を確信していたのに、彼だけがそれを信じられなかったのが悲劇だった。
自分が壮年の頃に成人を迎える第一王子を愚者にすることで代替わりを伸ばし、第二王子は中途半端だったのであっさりと見放し、身分の低い側妃が産んだ第三王子の育ち具合によっては妥協しようと画策。
娘は生まれなかった。
第一王子 18歳
国王の完全なる被害者。
台詞は一言もなかったが「どうせ俺なんかの王子ごときに言われるとは貴様も可哀想な奴だな」とディーナに怒鳴り散らしていた。
山岳の神殿に押し込められた1年は、彼にとって穏やかな心でいられる平和な時だったかもしれない。
側妃 24歳
第三王子を21歳の頃に産んだ。
何故下位貴族の次女でしかなかった自分が国王に召し上げられたのかいくら考えても分からず、第二王子、第一王子と儚くなったことに次は自分の息子かとひたすら怯えていた。
宰相に声を掛けられた途端、息子の臣籍降下を王城の中心で叫んだ。
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以上です。話が話だけにあまり楽しい設定がないですね。
もし少しでも気に入っていただけるエピソードなどありましたら、広告下の☆をぽちっとしていただけるととても嬉しいです。
ご拝読ありがとうございました。