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前編:神官長




ディーナ・ガレッティはセヴェリーニ王国第一王子から婚約破棄された令嬢だ。


卒業パーティでの醜聞は瞬く間に貴族諸侯へ駆け巡り、夫人が集うサロンではガレッティの末娘が奔放であった、はたまた令嬢として見逃せぬほどに足りない娘であった、娘が真実の愛に目覚め王子殿下が寛大なお心で解放された、などなど概ね令嬢に非があると仮定した上での噂に夫人たちは花を咲かせた。


実際のところ第一王子が反王家の息がかかった男爵令嬢にまんまと惑わされ、国策で定められた婚約者を一方的に断罪しようとし返り討ちにあったというのを、当時卒業パーティに参列していた諸侯は周知の事実としていたのだが、同じくその場で息子の愚行を見届けた国王に箝口令を敷かれ口を重くしていた。


当事者であるガレッティ侯爵も頑なに口を閉ざし、令嬢はもとより夫人も社交界に訪れることがない。

いよいよ噂が真実であったと確信され、サロンでは新興伯爵家とそれに連なる子爵家男爵家のいくつかが謎の没落を見せるという新しい醜聞に取って代わられた頃。


第一王子が神の御心に目覚め、神職を得て神に身を捧げることを王家が認めたと発表された。

王都から遠く離れた山岳にある神殿に身を収め、生涯いち神官として祈りを捧げるという。




「……これは本当のことか?」

「はい、すでに王都では公布され市井にまでいきわたったとのことですよ、エジェオ神官長猊下」

王都から遅れて数日、ようやく渡ってきた書をエジェオは忌々し気に握り潰した。

そのまま投げ捨てられた書を従僕神官はあーあと無感情に呟き、拾い上げて雑に皺を伸ばす。

「一応は正式な御触れなんですから丁寧に扱ってくださいよ」

「暖炉にでもくべておけ」

「じゃあ火を入れるときまで取っておくということでいいですね」

今は初秋の頃、王国の中でも比較的温暖なこの地ではまだまだ暖炉の出番はない。

「神職は王家の屑捨て場ではないというに」

「率先して捨てられに来た貴方様が言うと重みが違いますね」

「パオロ!」

減らず口を叩くパオロ従僕神官に、エジェオはその名で咎め盛大に舌打ちした。


エジェオ神官長はかつて現国王の末の弟だった。

野心なく、ゆくゆくは粉骨砕身して未来の王である兄を支えようと一心に学問を収めていた。正妃の第一子である兄と第二側妃の末子であった弟、誰もが末王子の心根を称賛し次代国王のとして優秀であった第一王子の即位をすべからく待ち望んでいた。だがただ一人、兄である第一王子だけが違ったのだ。

彼は自らが王の器であることを疑い、臣下の言を疑い、兄を慕っていた弟妹を疑った。

権力欲だけは大きい当時の第一王子は早世した父王を継ぎ即位してすぐ弟妹の粛清に入った。地位を脅かすに足ると認めると時には臣下へ下し、悪条件の遠くへ嫁がせ、あるいは謀殺し、取るに足らないとわかったとしてもそれは変わらなかった。

新国王の望むところを周囲が把握した時、真っ先に狙われるのが末王子と父王に可愛がられていた王弟だろうこともまた把握した。即位当時学徒であった末の王弟はかろうじて粛清を逃れていたが、王城に地位を得た途端に起こるであろう惨劇に、心ある臣下は決死の覚悟でエジェオに神職の道を説得した。奇跡の力を有するエジェオならば神殿もきっと受け入れると。

エジェオも臣下の忠誠に感謝し、自ら王の子であったすべてを捨て逃げるように神殿の門を叩いたのだ。


このようなこともあって、現在王族と認められる者は数少ない。

エジェオも王族であった記憶はすでに遠く、このまま神官として多くの不自由と少しの自由に甘んじながら生涯を過ごすつもりだった。

第一王子の醜聞も正確に情報を得ていたが、所詮は対岸の火事。せいぜい末永く王家を繋いでくれれば良しと感慨なく捨て置いていたのだが。

「ディーナ・ガレッティ嬢はどのように?」

「はて、御触れには一切触れていませんでしたがね?」

鼻持ちならないパオロに、そんなことはわかっているとエジェオは唸る。

この従僕神官、闇夜に乗じて王城を抜けたあの日より付き従ってくれている忠臣なのだが、時折どうにも軽くあしらわれている感が否めない。今でも王都に繋がりを持ち、日々使われない情報をかき集めているようなのだが、それを神官長に提示するかは従僕神官次第なのだ。

「ガレッティ侯爵閣下のご令嬢が気にかかりますか」

「令嬢というより陛下のご判断がな」

これぞ王の器と称えられていた兄ははるか昔。国王は自らが若くして即位した分、父王のようなことが我が身にも起こるのではないかと日々怯えている。次代の王であったはずの第一王子は適切な学を与えられず、能無し(ぼんくら)と陰で侮られ卑屈にも虚勢を張り傲慢な態度で苛立ちをまき散らしていたという。

臣下は国を保つためにと王子に見切りをつけ、幼い頃から有能と噂の高いガレッティ侯爵令嬢を婚約者として宛うことを王に認めさせた。ガレッティ家は代々王家に忠誠を尽くす義の貴族であり、娘を王家に嫁がせることを再三渋ったことも叛意なしと判断されたようだ。

ガレッティ家の末娘は見事期待に応え、王妃教育はもとより王の領分までもを収める才女であると巷でも評判の令嬢だった。そんな令嬢を王子の過誤であっても国王はみすみす解放するだろうか。

いつかの過去、東の隣国の王室に嫁ぐはずだった賢く慎ましい姉王女が事故で馬車ごと崖から転落したことを思い出す。健在だった父王が疲れ果てた顔で調査の打ち切りを宣言した時兄はどうだったか。

「猊下、今宵来客があるかと思います」

押し黙ったエジェオにパオロは淡々と告げた。

「来客?」

「思い悩むのはそのあとで良いかと。ささ、そろそろお祈りの時間となりますよ」

神殿の奥に住まう神官長への面来として事前と言うには急すぎるが、悪いようにはしないだろうと思えるほどには従僕神官を信頼している。

今この時、話を打ち切るかのように祈祷へと促すのに意味があるとも理解している。


だからこそ、嫌な予感がした。




果たして来客は夜更けも過ぎる頃合いにあった。

パオロに連れてこられたのは重い外套に身を包んだ男と、小柄な二人は女性だろうか。

彼らは一人は小さく、他は深々と礼を執る。

「楽にしてくれ。そして久方ぶりの姿を見せてくれないか」

エジェオは思い描いていた人物であろう外套の男に声をかけると、徐に男は礼を直し被りを解いた。

「猊下、ご無沙汰しております」

「よく訪れてくれた、ガレッティ卿」

一時期の渦中にあったガレッティ侯爵は、まだ壮齢の頃であるはずが久しく会っていなかったエジェオであっても見て取れる程老い疲れていた。

何かあったかと問うほど不敏ではない。痛ましく思いながらエジェオはあとの二人にも寛げるよう促した。

扉近くで深い礼を崩していなかった一人はすくと立ち上がりガレッティ侯爵の後ろに控えた女性の外套の紐をほどきにかかる。動きからして侍女だろうが、侯爵にして膝を折る神官長を前に一人で外套も脱げないとはいったい。

と、深く考察する暇もなかった。

外套を外された女性は若く美しく、緩やかな訪問着の袖から見える両の細腕は手首から肘まで大きく包帯に覆われていた。

何事かと視線を上げれば首元にも同じく。

ガレッティ侯爵を見やれば、小さく被りを振った。

「末娘のディーナでございます。本来ならば本人に挨拶させるべきところ、ご覧の通り喉を傷めておりますのでご容赦ください」


ディーナはゆっくりとおぼつかなく膝を軽く折り淑女の礼を執った。

いや、その所作は優雅ではある。だがスカートを軽く持ち上げるはずの指は、腕は、身体の横に添えられたまま微動だにしなかった。

動いていなかった。


「あー、神官長猊下?侯爵閣下ご一行は王都から休む間もなくいらっしゃったとのことですよ?座ってもらったらいがかですかね」

あえて場の空気を変えるためか、従僕神官が神官長の肩をつつく。

「あ、あぁ。ガレッティ卿、ディーナ嬢と侍女殿も長旅に疲れただろう。こちらに掛けてくれ」

有難く、と少しだけ相好を崩したガレッティ侯爵はディーナの背に手を添えゆっくりと長椅子へと導いた。侍女もそれに付き添い、腰掛ける際のスカートの裾を丁寧に整える。そしてそのままディーナの横に腰を据えると恭しく手を取り一方を膝の上へ、もう一方は自らの指に重ね置いた。

侍女の着席を許したのは間違いなかったと安堵しつつ、エジェオは一人掛けの革椅子に深く身をゆだねる。

パオロはその隙にと続きの控え間に一旦下がり、茶器台を押して戻ってきた。

「侍女殿、お嬢様にお茶をお出ししても?」

「はい、出来ますなら心持ち薄目ですとありがたく存じます」

「お任せを」

執事の如く一礼したパオロは軽やかに深夜の茶会をセッティングする。

エジェオは革椅子から身を起こし、静かに目を伏せるディーナを見つめた。

「ディーナ嬢、名乗りが遅れてすまない。私はここの神官長を務めているエジェオだ。これは従僕神官のパオロ」

「ご紹介に預かりましたパオロと申します。神の教えより学術書の見解を説かれるのがお好きな神官長猊下のお目付け役を買って出ております。そこな侍女殿のお名前をお聞きしてもよろしいですか?」

「アンナ、と申します」

「アンナ殿ですね。さすがディーナお嬢様の侍女を担うだけあって大変お可愛らしい。ぜひお見知りおきを」

「パオロ!いいからお前も座れ!」

神官にあるまじき軽口を叩くパオロに恫喝しながら空いた革椅子を指し示す。

ようやく落ち着いたところで、エジェオはディーナの目元が微かにほころんだことに気付いた。狙っていたわけではなかろうなとこればかりは従僕神官を内心否定する。あれは素だ。


そんなディーナに目を細めて何度も頷いたガレッティ侯爵は、エジェオに向き直り口元を引き締めた。

エジェオもそれを受け話を促す。

「本来なら互いの近況でも語らうところではあるが、もう夜も遅い、本題に入った方がいいな?」

「はい、今宵の不作法に重ねて不躾を承知でお願いがございます」

「言ってくれ。恩人たる卿の願いならば私の出来うる限りで応えようとも」

エジェオが兄王に伏されずここにいるのはガレッティ侯爵の説得によるものだ。王家の存続のためにも国民の為にも兄を諫めるべきではないかと迷い動けなかったエジェオに、今は何より命を取り機を伺うが重要と滾々と諭したのだ。挙句侯爵自らの喉に短剣を突き付け、残るのならば先んじて審判の扉へ向かい神の御許への道の露払いを務めようとその禁忌すら犯す覚悟を知らしめた。そこまでかと観念したエジェオは忠義に感謝し、城を抜けた。神官長に至るまで幾度となく差し向けられた暗殺の手に、あのまま城にあったならとうに儚くなっていただろうと得心している。

ガレッティ侯爵はしばし口籠り唾をのむ。だが意を決しエジェオに言いつのった。

「ご厚情にすがることをお許しください。ディーナを、我が娘をお匿いいただきたく。娘が猊下の安寧を揺るがすやもしれません。ですがこのまま王都におれば、いやそれどころか領地であろうと私の手元に置けば娘は……死を得てしまう……!」

やはり、とエジェオは頭を抱え呻く侯爵を見やった。喉を傷め声が出ず、腕が動かぬ体で馬車を駆けさせここまで来たのだ。パオロに視線をやれば心得たように口を開く。

「侯爵閣下、まずはお茶を喫して落ち着きましょう。気の利かない神官長猊下が口を付けなくともこれはわたくしめが皆様にお淹れした疲れと心を癒す渾身の茶、咎めを受けるべくもありません」

「……」

望んだ応えはそうじゃない、とは言えずエジェオは気まずげにカップを取った。一口こくりと喉が動くのを見定め、侍女アンナがディーナの前に置かれた茶を持ち上げる。

自らの唇に縁を寄せ、茶がそれに触れる程に傾ける。すぐに離すとハンカチーフで丁寧に拭い取り、ディーナの口元にカップを当て、ゆっくりと注ぎ入れディーナの喉を潤す。

「……侍女には熱を確認させています。決して毒を恐れての所作ではございません」

「えぇえぇ、もちろん侯爵閣下の二心を疑いはしませんよ。お嬢様の苺のような瑞々しいお唇が熱にやられるなどとんでもないことでございますからね」

「パオロ殿は相変わらずなようだ」

苦笑を浮かべられる程にはガレッティ侯爵の気も落ち着いたようだ。

エジェオはそのまま場を口の立つパオロに任せることにする。

「して侯爵閣下、私どもは神職として神殿に押し込められておりますゆえ、どうにも俗世に疎く。お嬢様のご活躍は耳にしておりましたが、思いがけず痛ましいお姿に我が胸も痛むばかりです」

「これは……陛下のご意思によるもの」

「……っ」

当たって欲しくはなかった最悪の想定にエジェオは息を呑む。

ガレッティ侯爵は低く語り始めた。




婚約破棄の醜聞。

ディーナは身に覚えのない罪を突き付けられ、第一王子と男爵令嬢、その取り巻きの令息たちによって危うく断罪、国外追放の憂き目にあうところ。だがそこは才女と名高いディーナ、機転と正義によって場を収め、国王へ是非を問う。国王はパーティに集う諸侯と学徒へ向け沙汰を預かること、決して口外してはならぬことを宣言した。第一王子一派は会場より連れ出され、騒めきは残れど無事卒業を祝うことが出来たらしい。

問題はそのあとだった。

後日ガレッティ侯爵とディーナが王城へ呼ばれ、高位文官によって第一王子との婚約を白紙にすることを告げられるまでは良かった。ディーナも王命と努めていたが追うまでに愛情は育めず、侯爵家としても執心はない。

安堵の息を漏らそうとした時、続けられた勅命に耳を疑った。


ディーナ・ガレッティ侯爵令嬢は国王陛下の妾として奥へ上がること。


当然、ガレッティ侯爵は反発した。保守派の貴族に祭り上げられるように結ばれた婚約により、娘が辛く厳しい王妃教育に何度も泣くのを見た。熟せば熟すほど教育に熱が入り家族の時間も持てず王城に呼ばれる日々。国が決めた婚約者に反発したのか王子は娘を蔑ろにするばかり。それでもと献身を尽くす娘に王子から与えられたのは本来王子が熟すべき政務の数々だった。その日の教育を終え王城から戻り休む間もなく机に噛り付く娘が王子から届く()()の伝令に絶望の色を浮かべる。ガレッティ侯爵もせめて待遇の改善をと方々に手を尽くしていたが王族の規範の範疇と跳ね返されること幾多。果てがあの醜聞だとするなら、これ以上娘を王家の供物にされるのは到底我慢がならぬと文官に怒鳴りつける。

「だからでございますよ」

文官は言った。

王妃教育はもとより政務にも携わる令嬢は国家の内情を知りすぎている。今更いち貴族に嫁ぐのはまかりならぬ。外つ国の縁など以ての外。王族に娶らせようとも見合う年頃の男児には良きに計らった婚約者が宛がわれている。領地に戻したとて独身を貫かれるのもはたまた神職に進まれるのも王子を表向き不問とした分外聞が悪い。

「国王陛下の温情にございます」

このままでは死を与えるより術なく、今まで身を尽くしていた令嬢に報いるためよと国王が寛大なお心を見せたのだと。

側妃では国内外へ触れを出す必要がある。妾にあってはそれもなく、第一王子から国王へ()()()()()令嬢(傷物)にも都合がよいだろうとの深慮だと、文官はこともなげに告げた。

「何が温情か、何が寛大か、何が深慮か!!まだ幼かった娘を引き摺り出し、縛り付け、長きに貶め、要らぬのなら見放てばよいものを挙句この仕打ちか!」

「不敬ですぞ、閣下。今は聞かなかったことといたしますが」

唐突によそより声が掛けられ、ガレッティ侯爵は勢い振り向いた。

「宰相殿!貴殿もこれを認めると言うのか!」

奥の間で伺っていたのか音もなく忍び入った宰相は、がなる侯爵に一礼し目配せで人払いをする。

侍女と護衛騎士、戸惑う文官をも手で追い払い、静寂を得た間で宰相は顔色悪く小さく震えるディーナの前に膝をついた。

「ディーナ嬢、此度の騒動の数々、王政に深く関わる者として深くお詫び申し上げる」

「宰相閣下……」

囁くように呼ぶディーナの手を掬い、額に押し当て宰相は言葉を続ける。

「貴女に何ら非はない。理不尽と不条理に満ちる王族によくよく尽くしてくれていたこと、この宰相とくと存じている。にも拘わらず()()の暴挙を止めきれぬ非力、謝罪のしようもない」

「お顔を、お顔をお上げくださいませ宰相閣下」

困惑したディーナは宰相と父侯爵を交互に見やり、侯爵もまたはっきりと不敬を述べた宰相に言葉がない。宰相は顔だけは戻したものの膝を折ったまま、残酷な現実を二人に告げた。

「侯爵閣下、ディーナ嬢にはこのまま王宮に留まるよう指示が出ております。奥の紅黄草の宮に上がられることとなります」

「なんと……絶望の宮……」

罪を犯した女系王族や妃妾を押し込めるために設えられたとされる紅黄草の宮。大きな塀に覆われ日の光も乏しく、宮内より一度たりとも抜けることは許されない。日々王の渡りだけを待ち、親族の死であっても王宮内の小さな神殿に祈りを捧げに訪うことすら出来ぬという有様に、宮に留め置かれた貴女(きじょ)は絶望にかられ最大の禁忌である自死すら厭わなくなると言われている。

「娘が……ディーナが何をしたと言うのか。どこまで娘の献身を踏みにじろうと言うのか」

「そのとおり」

宰相は頷く。

「あまりの仰せに他に道は与えられぬのかと陛下へ陳情申し上げたところ、国王は昔ある縁を切られた王妃放逐に倣うのならば今は下がることを許すと、そう言い捨てたのです」

かつての王家で国王の怒りを買い放逐を命ぜられた王妃は、王宮内で知り得た全てを伝え漏らす術を欠片も残さぬよう腕を捥ぎ喉を焼かれ、惨憺たる姿で家に戻された。

ガレッティ侯爵は我知らず左の手を腰に彷徨わせ、帯剣を解かれている事実に大きく舌打ちをする。代々忠誠を誓ってきた王族は、国王はここまで堕ちたかと心中は失意にまみれ、一族連座があろうと一矢報いる覚悟を固めようとした時。

「ディーナ・ガレッティ侯爵令嬢、貴女に酷な選択を迫ることとなる」

宰相の言葉にガレッティ侯爵はハッと娘を見た。

ディーナは顔色こそ悪かったが震えは止まり、思慮深い瞳は凛と宰相を見据えていた。

「ひとつ、王命に従い妾となる。この時は何としても紅黄草の宮を避けられるよう尽力することを誓おう」

こくりと小さく頷く仕草に宰相は静かに続けた。

「ひとつ、王命に背き死を賜る。貴女は罪人ではない、今までの貢献に見合った安らかな死を約束する」

そしてひとつ、と宰相は次いだ。


「過去に倣い処置を受け、服することを先延ばしとする」




「……娘は宰相殿の最後の提案を()ました。宰相殿も腕を捥ぐのではなく腱を切るに留め、喉を焼くでなく薬で声を失わせるようにと執行人に手を回し、痛みに意識を飛ばした娘を抱え私は家に戻りました」

今は遠く離れた兄王の傍若無人の有り様(ありよう)にエジェオは声を失う。

侍女も詳しくは聞かされていなかったのだろう、涙を浮かべ懸命に声を押し殺している。それに気付いたディーナは、感情は落としたままではあったが身体を侍女に傾け、すり……と頬を侍女アンナの肩に寄せた。

堪えきれずアンナは嗚咽を漏らす。

「お嬢様……!お嬢様が一番お辛くいらっしゃるのは承知しております。ですが、ですがあんまりではございませんか!あれだけ朗らかでお優しく甘えん坊であった私どもの末姫様が、身を粉にして王家に尽くしていたこと、愛らしい笑みすらも忘れお忙しく教育と政務に追われていましたこと、立派な淑女であられるよう誠心誠意お努めになっていたこと、それら何一つ報われぬ悪魔のごとき所業……!」

ディーナをひしと抱きしめ涙するアンナに、ディーナは身を預け瞼を閉ざす。唇が震え何かを発しようとしたことはわかったが、無残にもそれが音となることはなかった。

「娘の容態が落ち着くのを待っているうち、その合間に第一王子の処遇が発せられました。このことは猊下もパオロ殿もご存じかと思います。もはや一刻の猶予もないと妻と嫡男を領地に急ぎ戻らせ、我々は宰相殿の薦めるとおりこの街にひた走りました」

ガレッティ侯爵は懐からわずかに草臥れた封書を取り出した。

「これを持ってエジェオ殿()()の慈悲にすがるよう、宰相殿から提言を受けました。猊下を巻き込むことに逡巡いたしましたが王子殿下に王城を離れるよう陛下が下されたのなら次はいよいよ娘と言われずともわかる。娘を一時でも連れ戻せた今、王家に背を向け剣を向けるのは得策ではない。私だけならいい、命を懸け主君を諫めるのも臣下としての務め。ですがこのような姿になっても生きることを諦めぬ娘を連座で散らせるなど私にはできませんでした。こんなことなら王子の国外追放を受け入れた方がどれほどよかったか」

差し渡された封書をパオロが恭しく受け取り、エジェオへと回す。封を乱雑に切り中の書状に目を通せば、幾度か見たことのある宰相の几帳面な直筆であることは見て取れた。

匿うようガレッティ侯爵は願い出たが、宰相の書状は少々違った。


兄王が呈した『王族』であり令嬢に見合う『適齢』の範疇であり相手のおらぬ『独り身』であるエジェオにディーナ・ガレッティを娶るよう、そこには綴られていた。エジェオの持つ奇跡の力はディーナをきっと慰めるだろうとも。


神官であっても妻帯は認められている。過去に倣った令嬢が王都を離れることに疵瑕はない。そのまま神殿で神の承認を受ければ王家であっても口出しは難しく、神代の奇跡と崇められ若くして神官長まで上り詰めた元王族の妻を召し上げることあればそれこそ醜聞と諸侯やサロンでのいい話のタネだ。


苦肉の策ではあるが宰相の取れる今の最善であることは理解出来た。王子の言う国外追放はあり得ない。絶望の宮に入れられでもしたら侯爵も宰相も手が届かない。死など選択の余地はない。なれば国王の言に背かぬ程度に過大の解釈をした婚姻が令嬢を救う手立てであると。


無言で書状をパオロに渡す。おやおやと軽く目を見開いたパオロは「早々に暖炉に火を入れなければいけませんねぇ」とガレッティ侯爵の眼前に書を戻し、薪の様子を確認するのか部屋を離れた。

侯爵も宰相の意図を書状から読み取り、対して苦し気に目を細める。

「猊下、これはなりません。無力の恥を忍びお願いに上がりはしましたが、これは安寧を揺るがすどころかお命を脅かすこととなります」

「あぁ、まぁそれはこの件がなくとも今更だな」

「なんと……。では益々!猊下をこの火種に巻き込むようなこと、我が娘のことながら到底許しがたく」

エジェオは巻き込まれたとは思わない。兄王を止められなかった過去は今でもエジェオを縛り付ける。王弟であったあの時に兄王に然るべき何かが出来ていれば、そもそもこのような事態は起こらなかったのではないか。エジェオにはそう思えるのだ。

「ガレッティ卿。卿はあの時言ったな、機を伺えと。私には兄王のこの暴虐、宰相が我が身に頼れと促し、そして卿が意を決し私を訪ねてくれたこと、なるべくして繋がれたと思っている」

「猊下」

「ディーナ嬢を襲った悲劇を必然とは言わない。心痛に余りある悪行を当然など言いはしない。だが最悪の事態に私が踏み入れられることこそ、機が熟し始めていると思えてならない」

「……ありがとうございます」

ガレッティ侯爵は一筋涙を流した。臣下として王子と国王を止められなかった後悔。娘を守ることが出来なかった悔恨。それでも何とか立ち向かわんとしていたが、エジェオに認められたことで溢れたのだろう。慰めるためにもエジェオが立ち上がろうとした時。

「ご成婚おめでとうございます!」

気の抜ける明るさでパオロが控えの間から飛び込んできた。

ピクリと肩を震わせ、身を起こそうとしたディーナを侍女がそっと助ける。瞬き多く事態を理解していないであろう様子に、パオロはやれやれと肩を竦めた。

「この調子じゃあまだお嬢様を口説かれていないんですかね?野暮天(神官長猊下)は」

「おいこらパオロ」

「そりゃあ義父上となる侯爵閣下と親交を深めるのも良いですが、神官長猊下が向かい合うべきは何よりお嬢様でしょうに。何しろお嬢様からしたら憎たらしい王家のお血筋なんですから、このうえない悪印象からの始まりですよ?何をのんびりしていらっしゃるのやら」

ぐうの音も出ないエジェオに、パオロは真夜中にも関わらずどこで調達してきたのか小振りながらも可憐な花束を持たせた。


そうだ、ディーナの身を守るためとはいえこのまま話を進めれば兄王と同じ穴の狢。本人の承諾も得ずに婚姻を結ぶことはできない。


エジェオはディーナに歩み寄ると、期せずして宰相と同じくディーナの前で跪いた。

「あー、ディーナ嬢。これは私の意思として聞いて欲しい」

そして花束を掲げるエジェオにディーナはまたもパチリと瞬きをする。

「私は世俗名をエジェオ・セヴェリノと言う。かつてはこのセヴェリーニ王国の王弟だった者だ」

王族を名乗っていたのはディーナがまだ幼い頃だ。知らぬことと改めて名を告げれば、微かな首肯で返された。

「貴女にとっては視線に入れたくもない王族かもしれない。だがこれから告げることのため、今は頭を下げない」

兄王の所業を償うためではないとエジェオは募る。

「俗世に疎いここにまで才女と名を馳せ、王子からの醜聞をひらりと華麗に身を躱し、降り掛かった惨劇にも諦めず思慮を働かせ生きる道を選んだその高潔たる魂を、私は守り慈しみ慰めたいと心から思う」

ディーナの目に嫌悪や怯えが見られないか慎重に見定めながらエジェオは核心を告げた。

「貴女の横に並び立ち、支え合い、愛を育む、その権利を私にくれないだろうか?今は私の愛を受け入れることは出来ないかもしれない。それでも私はいつか貴女が安らかに私を見ることが出来る時まで、心を尽くすことを神の御名において誓おう」


ガレッティ侯爵は娘が家の為に嫌気を押し殺して頷くのではないか、その時はすぐにでも止めさせようと固唾を呑んで見守る。傍に控える侍女も気づかわしくディーナの細指を撫でている。


「ディーナ・ガレッティ嬢、貴女に婚姻を申し込む。断ることは貴女の権利だ、そうであっても貴女を庇護することも誓う。ただ出来るならまずは形からでも受け入れて欲しい」


花を捧げ、ひとつの反応も見落とさぬようじっとディーナを見つめるエジェオ。

誰も声を上げずただただディーナを待つ。


唇が震えた。肩が身じろぐように動いた。

きっと声を上げ、手を動かしたかったかったのだろう仕草。

あらまぁ、と聞いたことのないはずの涼やかな声が耳に届いたような気がした。


ディーナはここに到着してから初めて、目元を赤らめ頬を緩めて微笑んだ。


たおやかな笑みはエジェオの心を震わせる。

求婚は口先だけのものでは決してなかったが、哀れな令嬢への憐憫が含まれていたことも否定できない。

だが、ディーナはただただ己に降り掛かった不幸を嘆くだけの令嬢ではなかった。その笑みは現状を受け止め悲観を見せず、強く才知に優れた女性であるとエジェオに知らしめた。

「……手に触れても?」

請えば代わりに侍女がどうぞと応えを返す。少しでも痛まぬよう侍女が肘を支え、エジェオは侍女より委ねられた手のひらをそっと握りしめる。血の巡りの悪い冷たい指先に、ほんの僅か、ささやかに力が込められた。

「ディーナ嬢、これを答えと受け取っていいか?」

なんとも気弱な、とのパオロの呆れ声は聞こえぬふりをする。エジェオがディーナを見上げるとその笑みは一層深められていた。




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