弱り目に祟り目
彼女の色があまりに美しかったから。
手に入れたくなってしまったのだ。
雨後。
録な遊具もない糞みたいな公園。
そのベンチにひとり腰かけている。
腕時計に目をやると、深夜の2時になろうというところだ。
なんとなしに座ってみたが、ベンチは雨に濡れていたようで、下着が湿って本当に気持ちが悪い。
現在大学1年生であるところの俺、葛籠留久はただただ世界を呪っていた。
ここ最近、本当に色々なことがうまくいっていない。
今日も今日とて女に振られ、精神が参っている俺の前に、これまた糞みたいな大男が現れた。
そいつは公園の入り口付近で、なにやらぶつぶつと呟いている。
「いいな、お前。悪くないぞ、お前。弱ってるな、お前。」
暗がりではっきりとした表情は分からないが、それでも主張してくる巨大な目を動かしつつ、そいつは俺に話しかけている。
「よう、いいところにいるなお前。助かるよ。」
「・・・これは驚いた。妖怪をみるのは生まれてこの方はじめてだ。」
公園の今にも壊れそうな照明ではよく見えないものの、2mを優に越える巨体と、異常に低く響きわたる声から、人ならざる者であることはすぐに理解できた。
それに、明らかに人のそれではない「色」をしている。
「妖怪?あぁ妖怪ね。そう呼ぶやつも多いが、正確には違うな。」
笑っているのだろうか、大男は体を震わせる。あたりに油粘土のような臭いが立ち込めた。俺は思わず息を止める。
「なんだ妖怪じゃないのか。俺は今まで妖怪を取り扱うあらゆる創作物を読んできたけれど、言われてみれば確かにあんたみたいな風貌の奴には馴染みがない。だとすればあんたは、一体何者なんだ?」
そう訊ねると大男はこちらに向かって歩みを進めてきた。
黒い服を着ているのだと思っていたが、よく見ると密集した体毛に覆われているようだ。腕も3本以上あるようだし、足っぽい半端な部位からは角なのか骨なのか、よくわからないものが突き出ている。近づいてみると、これは思っていたよりも、なかなかショッキングな姿だ。
「俺は祟り目というんだ。」
「たたりめ?」
どこかで聞いたような言葉だ。幼い頃、図書館かどこかで目にした気がする。
「ほら、知らないか?弱り目に祟り目という、あれだ。」
「ああ、諺の。・・・アンラッキーが連続する、みたいな意味だったっけか。祟り目というのは、怪物の名前だったんだな。」
会話をしているうちに、とうとう祟り目と名乗るそれはあと一歩で触れてしまうぐらいの近さにまで到達した。
先ほどまでの俺には、化物と対峙しているにも関わらず謎の余裕が満ち満ちていたものだが、こう近くまで接近されると、流石に恐怖心もいくらか芽生える。
充血しきった巨大な目を前に、俺はいつの間にか動けなくなっていた。
「俺はな、弱っているやつが糧なのさ。」
祟り目は話を続ける。
よく見ると、腹部と思われるあたりから粘性のある物質を垂れ流しているようだ。歩いてきた道のりがまるで蝸牛の通った後のようにテラテラと光っている。
「糧?弱った人間をとって食うのか?」
「んー、おしいぞお前。よく見ろ。俺には口がないだろう?」
「は?唾液を垂れ流している腹のそれは、口じゃないのか?」
「これは違う。これはただの穴だ。」
「ただの穴・・・」
咄嗟に言及しかけたものの、化物だし謎の器官ぐらいあるかと言葉を飲み込む。
「要するに。俺はお前らのように食事の際、何か物質を体に取り込むわけではないのさ。」
「へえ。それなら一体どう弱っている人間を糧にするというんだ。」
「まあ黙って聞けよ、まったくせっかちだな。俺はな、弱っているものがさらに叩きのめされるという出来事があれば、それだけで生きていけるんだよ。だから弱っているもののところに現れる。今日はお前だ。弱っているお前がさらにひどい目にあうことで、俺は満たされ、生き長らえる。」
まさに弱り目に祟り目というわけか。なんて悪趣味な生態をしていやがるのだこいつは。
食われてしまうのではないかとびびっていたので、俺は思わず呆れてしまった。
「じゃあなんだ?あんたはこれから俺が新たなひどい経験をするのを、俺に連れ添ってじっくり待つわけだ。気の長い話だな。」
小馬鹿にしたような笑いをうかべてそう言うと、祟り目は押し黙ってしまった。
沈黙が不気味なので、俺は話を続ける。
「まあ、好きにするといいよ。俺は確かに弱っている。女に振られたのだ。一目惚れだった。この精神的ダメージは計り知れないよ。一週間は間違いなく引きずるだろうな。そしてどうせ近いうちに、財布を落としたり、くだらない段差で躓いたり、そういう不幸を経験するだろうからさ。その時に腹を満たせばいい。俺の小さな不幸が、なんでもない悲しみが、何らかのプラスに繋がるというなら、俺としても悪い気はしないしな。ただその粘土みたいな臭いはいただけないな。あと、あんたって俺以外の人からも見えているのか?それとも俺に霊感のようなものがあって、俺だけに見えているのか。確かに俺は幼いときから、何かオーラのような、その人特有の色を、」
「···うーむ、あまりにも空腹が過ぎる。すまんな、もう耐えられないようだ。」
祟り目がそう突然に話をぶったぎると、あたりはもう赤だった。
「は?」
片腕がない。
俺の片腕がない。
俺の血が。
俺の赤が。
公園一体、辺りを染める。
「···っっっ痛ぁぁぁぁぁああッああああっっああッ!!!!」
何が起きた?何が起きた?何が起きた?何が起きた?何が起きた?
向こうに転がっているあれは!
錆びついたブランコの近くに転がっているあれは!
紛れもなく俺の腕なんじゃないか!?
わからないわからないわからない痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
「うまぁ···。やはりだ。俺の目に狂いはなかったなあ。流石だ。」
心底嬉しそうにつぶやく祟り目の手には、どこから現れたのか、鈍色に輝く巨大な刃物が握られていた。
「おっ····おまっっ···糞っ!クソッ!!俺のッッ」
腕を!右腕を切り落としやがった!
強烈な痛みに悶ながら、先程まで腕があった場所を片手で必死に抑える。
抵抗は虚しく、血は止めどなく当たり前のように溢れ出る。指の隙間から、漏れ出し、吹き出し、地に落ちる。
あまりの激痛に、俺はそのまま地面に倒れ込んだ。
全身が異常に寒い。
目の前で広がる血溜まり。俺の血溜まり。
これはあれだ、死ぬ量だ。こんなにも血が出ているのだから、俺は今日死ぬのだ。
糞みたいな人生にふさわしい、糞みたいな死に方をするのだ。
嫌だ嫌だ。嫌だけれども、死ぬのだ。
そうか死ぬというのは、こんな感じか。
想像の何倍もくだらない。
死ぬというのなら、最後にはあの色を見たかった。
彼女が、俺を振ったあの彼女が纏っていた、得も言われぬ美しい青色を。
そう絶望しながら、意識が遠のきかけたその時、温かい謎の液体が俺の身に降り掛かった。
粘性のあるその液体は強烈な異臭を放っていた。
それだけではなく、その液体を浴びた瞬間、かつて腕がひっついていた傷口が、異常な痒みを訴えるのだった。
「···何だこの液体。」
俺がそうつぶやいたその時、物凄い勢いで俺の腕が、つい数十秒前まで切り落とされそこに無かった俺の腕が、さながら早送りをかけた植物の成長記録映像の如く、メキメキと生えてきたものだから驚いた。
血も、あの吹き出す勢いが嘘であったかのようにピタリと止まり、もはや痛みもまるでない。
服の袖だけが失われたまま、俺の身体はあっという間に元通りとなった。
呆気に取られたまま上体を起こし、祟り目の方に目をやると、腹部から出る粘性の液体の跡がまっすぐこちらに伸びている。
俺は先刻からやつの身体より垂れ流されていたあの液体をぶっかけられたのか···。
「驚いたか。すごいだろう、俺の体液は。」
体液。
俺を包むこのネバネバか。
「あ、あんた、よくも俺の腕を····!」
「鎌鼬を知っているか?」
またもや急に話をぶった切られる。
鎌鼬だと?たしか風にのって人を斬りつける妖怪だったような。
「彼奴らは三人組で、3人目の野郎が薬を塗りつける。それによって斬りつけはするが、血も痛みも残らないわけだ。俺はそれと同じようなもんだ。」
腕を切り落として、また生やすという行為と、切り傷をつける程度の妖怪を、同列に語るのかこいつは。
「うるさい!用は済んだだろ!早く何処かに消えろ化物!」
身体が元に戻ったとはいえ、一度確実に死にかけた。
いくら食事行為だからとはいえ、目の前のこいつを許せるほど、俺は寛大ではない。
「それがそうもいかないんだ。」
祟り目はまた気味の悪い笑顔を浮かべる。奴の体液がドバドバと流れ出る。嫌な予感がした。
「祟り目の食事はあの程度では終わらない。あの程度じゃあ、いくらも腹は満たされない。馬鹿だなあ、夜はこれからだよ。」
そう言うと先程の巨大な刃物を俺に向ける。
「···何を言ってるんだ?」
何を言っているのかは分かっていたのだ。
これから何が起こるのかも、大方見当がついていた。
それでも聞かずにはいられなかった。
聞いてしまったら絶望することは分かっていたのに。
その絶望をこそ糧に、目の前のこいつが生きていることも知っていたのに。
「改めて、いただきます。」
まごまごと立てずにいる俺の身体に、再び刃物は振り下ろされた。
そこからはひたすらに地獄だったというほかない。
やつは何度も何度も俺の体に刃物を振り下ろしては、痛みに悶える姿を恍惚とした表情で見つめ、じっくりと堪能したあとに体液で治した。
それの繰り返し。
それの繰り返し。
途中、命乞いをした。
命乞いはやがて、殺してほしいという懇願に変わった。
それでも祟り目は俺の身体を刻む。
刻んでは、治す。刻んでは、治す。
長い夜だった。
もう、何度切り刻まれたか分からないぐらいのタイミングで、やつは俺に「まだ食事を始めてから10分程度」だと囁いた。それから「まだ終わりには程遠い」と念を押した。それを聞いて絶望する俺が、これはまた堪らない御馳走のようで、最悪な囁きは頻繁に行われた。
「お前、素晴らしいな、お前。普通のやつは俺が一時間も食事をすれば壊れちまうもんなんだが。お前は特別、持ちがいい。久々に腹が一杯になりそうだ。」
あらゆる部位を切り落としつつ、祟り目は何度もそう言って笑った。もうどの部位が切り落とされ、どの部位が残存しているのかもよく分からなくなっていた。ただただ痛みの波に耐えるだけ。
助けを呼んでも、誰かが来る気配はなかった。住宅街のくせに異様に静まりかえっているのも、祟り目の力によるものなのだろうか。
やがて痛みすらよくわからなくなった頃、あたりが明るくなり始めた。朝が来たのだ。祟り目は「御馳走様。」とつぶやき、何でもないかのようにあっさりと去って行こうとする。
俺の身体は案の定五体満足だったが、体力の消耗は激しく、立ちあがることができない。
「絶対に殺してやる。」
そう言うつもりだったが、叫び声を上げ続けた喉ではうまく発声できなかった。それでも祟り目は察したようで、振り向くとまた笑顔を浮かべ、「できるもんならな。」とありきたりな捨て台詞を残していった。
奴が去ったあと、俺は血と涙と吐瀉物でぐちゃぐちゃになった顔のままひとしきり泣いた。悔しさと怒りにひたすら泣いた。
気がつくと、俺は病院のベッドに横たわっていた。
後で聞いた話だが、早朝の公園でぶっ倒れている俺を見つけた通行人が救急車を呼んだらしい。俺が流したはずの大量の血は何故か綺麗に消えていたが、着ていた服は元には戻っていなかったようで、最初ボロボロの格好で横たわる俺を、両親は不良か何かに襲われたのではないかと心配した。
しかし医者が怪我のまったくない俺を見るだに、酔っ払った馬鹿学生という烙印を押したため、両親も途端に心配するのをやめ、「一人で酔っ払ってぶっ倒れて、挙げ句救急車で運ばれるなんて恥だ。」と長時間俺を罵った。
面倒なので弁解はしない。
目覚めてからの俺は、というよりも切り刻まれているときから既に、あの化け物をどうやってぶっ殺してやろうかということしか考えていなかったのだ。