隊長
「何してる、抵抗できない相手に」
少年が顔を上げると、誰かの背中があった。
その人の背が低いせいか、見張りの男の頭が向こう側に見える。庇うように立っている相手に、見張りは驚きながら後ろに下がった。
振り下ろされるはずだった拳銃を、見張りの男は隠すように後ろへ回した。
「見事におちょくられたお前にも問題がある、俺と見張りを代わろう」
「ですがっ」
「いいから出て行け。隊長命令だ」
相手は男の言い訳を聞きたくないらしい。それ以上言い返すことはせず、男は少年を睨みつけ退室した。
割って入った相手は自身を『隊長』と言った。見張りの男よりも偉いということか、少年はその背中を眺めている。
「……確かにあれじゃ、見張りは向いてないな」
ボソリと呟いた後に隊長は少年へ振り返った。
フードを深く被ったせいで顔は見えないが……声の低さ的に男性だろう。
見張りの男へ向けた言葉よりも、柔らかい言葉が少年に投げかけられる。
「すまないね、まぁ君も煽っていたし。どっちもどっちだと私は思うが……止血をしようか」
こうしている間にも、少年の頭からは血が流れ止まらない。それを気にかけた隊長は自身のポケットからハンカチを取り出した。
少年は椅子に縛り付けられているので、顔を覗き込むように傷口をみようとした隊長だったが。
突然、プッと軽い音がした。
顔を腕で庇ったが遅かった、隊長の顔に飛んできたのは少年の唾である。
「……」
少年は彼の反応を伺う。さぁどうだ、怒ったか?と覗き込むように。
だが、少年の期待なんて余所に。隊長は何も言わず唾を服の袖で拭った、そして何事もなかったように座り込んで少年の傷口を探っている。
「……怒んないの?」
何事もなかったようにさせてたまるか、少年は彼に問う。
「別に」
彼はそれだけ答えて、少年の黒い髪を掻き分ける。傷口を見つけると、ハンカチを当てて押さえつけた。
圧迫して止血するようだ。その間、少年はフードの奥を覗こうとするがやはり顔はよく見えない。
「私も君と同じ立場なら、そうすると思うから」
同情の言葉だった。表情は見えないがその声には憐れみが含まれている。
「なんだ、つまらない」
その憐れみを払うように少年は素っ気なく言った。それでも彼は不機嫌になるわけでもなく優しく傷口を押さえている。
「血が止まったな、そこまで大きな傷じゃないらしい」
真っ赤になったハンカチを傷口から離すと、流血が止まっている。もう一枚ハンカチを取り出し、顎の下にまで伝った血液を拭いた。
「君は子供に見えるが……何才?」
彼は部屋の隅に置かれた椅子を、引きずりながら少年に問う。
……尋問か?
少年は「歳なんて覚えてない」と返した。
だがこれは尋問なんてものではなかった。引きずった椅子を少年の少し前に置くと、どこから出したのかわからない本を片手に座る。
「そのぐらいの年齢なら、人の読書の邪魔をしないか」
繰り返し読んでいる本なのか、カバーはボロボロだった。本当に読書をするだけの彼は黙ったままページを捲る。
少年はしばらく彼の様子を眺めていたが、それも飽きたようで身動きの取れない体をできるだけ前に傾けた。
「何読んでるの?」
「……やっぱり邪魔するか」
少年の問いに予想の通りと言いたそうな呆れた声がしたが、無視することはなく答えた。
「空想科学の本で……死に怯えた人間が死なない体になるまでの話。難しいか」
子供には難しい話かもしれない、と気を遣われたようだ。だが少年にとっては話は単純に感じる。
死に怯えた人間が、死なない体を求めるだけの話なんだから。
「死が怖いの?」
少年に奇妙なことを問われたが、彼は静かに言葉を返した。
「多少は」
「へぇ、意外だなぁ。隊長さん」
隊長さんと呼ばれた彼は、読書を諦めて本を閉じると少年に聞き返した。
「そういう君は死にたがりだろ?見ればわかるよ。敵味方問わず射線に入ってきて、狂人か?」
死にたくないという気持ちは生きていれば、人間以外の生き物ですら抱くだろう。
いや、そもそも気持ちとか感情の問題ではないのかもしれない。生存への欲求は体に刻み込まれ、切り離すことができないものである。
それをこの少年は手放していた。
「君には撃たれるという恐怖がない、むしろ撃たれたいとそんな感じに見えた。それに対して迷いもない」
「それが俺の仕事だから。超突貫っ」
少年の口元は笑みで歪んでいるが、隊長は笑いもしなかった。
「違うな、君はただ死にたいだけだ。殺してくれる相手を探してる。だから敵に捕らわれようが、そんな挑発的な態度が取れるんだ」
見張りの男の件がまさにそれだ。
挑発し続ければ絶対に手を出す、もしかしたら私怨で殺してくれるかもしれない。
そんな考えがどこか祈りのように感じてしまうのは、この少年のような存在をたくさん知っているせいか。
だから少年に向かって彼は言い放った、そんな淡い願いを打ち砕くように。
「言っておくが、上官は君を気に入ったようだ」
「は」
少年は思わず言葉を漏らした、予測もしていない事態だったのだろう。
捕虜にしてどうしようと、上の人間の勝手ではあるが。
少年の望みが死であるのなら、それが叶う確率は低くなったということだ。お気に入りのおもちゃが壊れるまで遊ぶのは子供ぐらいなのだから。
だから彼は少年に対しては同情する、最後の望みが『死』であるなんて。
憐れむ以外ないのだ。
「まって、なんで」
少年もようやく彼の同情の目が理解できたのか、人を小馬鹿にしていた表情はどこかへといってしまった。
慌てていて、それこそ歳に合ったように目に涙を溜めていた。
これが、きっと在るが儘の少年のはずだ。
それを歪めているのは……大人の醜い争いだ。
「死にたくない奴は死ぬし、死にたい奴は死なない。そういう風にできてるんだ、戦場って」
大人の都合に巻き込まれた子供たちは、どうすることもできない。戦場で生まれ親すら失えば最後だ。どう生きていいかもわからず、親以外の大人に捕まれば。
口にも出せないような……悍ましい道しか歩けない。少年もその類の人間なのだろう。
彼が捕虜になる前、そもそも戦場に来る前のことを知れるわけもないが、ここにいる時点でマトモな生き方をしていないはずだ。
「そんなに死にたきゃ殺してやろうか」
どうしてそんなことを言ったのか、彼自身にもわからなかった。本当に少年を憐れに思ったのか、それとも気まぐれか。
だがその言葉に、少年は顔を上げる。
暗闇中で見つけた光のように、その言葉が希望に感じられたのかもしれない。
その時、初めてフードの奥が見えた。
彼の顔は……鼻から上にかけて大きな火傷が残っている。そのせいか右目は閉じられており、左目だけが少年を捉えていた。
「ついでに言っておくとな」
その幼い顔を大きな手が掴む、指が少年の頬にムニッと沈む。
「調子のんな、命大事にしろ、唾かけんな」
相手をおちょくること、命なんて安いと思っていること、人に唾をかけること。
至極当然なことを少年に注意する、少年は頬を掴まれているせいか「ぶぇ」と変な声しか出せないようだ。
「そしたら殺してやるよ。クソガキ」
それが優しい言葉に聞こえるのは、少年がもう狂っているせいか。それでも縋る言葉として十分なものだった。
「君みたいな子は結構いるし、私が覚えていられるか……そもそも生きてまた会えるかすらわからないが」
少年の顔から手を離すと部屋の扉が開かれる。その奥から「時間だぞ、ファイアハート」と声がした。
……ファイアハート?
少年は彼を見上げる。フードの奥から、覗く青い眼が声のする方を見ていた。
「もうそんな時間か、見張りがてら読もうと思ってたが……一話も読み終わらなかったな」
作戦の時間なのか、この部屋を出て行くようだ。もう一度、少年の方に視線を向ける。
「生きてればまた会えるさ」
その言葉だけでどれほど救われるのか、それは少年しかわからない。ただ少年にはその言葉が救いとしか受け取れなかった。
それがどれだけの救いか、貴方にはわかるまい。
「言ったな……生き残ってやるよ、隊長さん」
少年は言う。
どこか願いのような、袖にすがるようなそんな声だった。