6:あなたの見ている人
蒼太が帰ったあとすぐに、紅美は再び何も見えない世界へと戻された。
――トゥルルルルルルル。
紅美の家の電話が鳴った。
「はい、もしもし」
「おう、パパだけど、何か変わった事はないか? 実はな〜紅美、帰るのが少し遅れそうなんだ。またおばさんが倒れたみたいでこのまま直接様子を見に行ってくるよ。お金はいつものとこに入っているから、好きに使っていいからな。それじゃ、また電話するよ」
「うん、わかった。おばさんによろしく言っておいてね」
紅美の両親はいつも出かけるときにお金を居間の引き出しに入れていく。何かと家を空けることが多く、よくそのお金で紅美は店屋物を頼んでいた。
「そうだ、せっかくだから蒼太君をまた家に呼んでお寿司でも頼もうかしら」
両親の帰宅予定日が伸びた事をいつもは不満に思う紅美だったが、この日はとても上機嫌だった。初めて友達を家に招きいれ、いろいろな初めての世界を目にした事で気分が高まっていたのだ。紅美はとりあえず適当な出前を頼みそれを食べ、お風呂に入った。
それから数時間後、紅美は携帯電話を手に取り蒼太に電話をかけることにした。それは紅美にとっては初めての携帯電話による通話であったと同時に、初めて「予定」を立てた上で知り合いを家に招き入れる事でもあったのだ。そのせいかただの電話であるにもかかわらず、紅美はなかなか発信をする事が出来ないでいた。自然と携帯電話を持つ手に汗がにじみ、それを寝巻きで拭いた。「よし」と小さな声で紅美は気合を入れ、携帯の発信ボタンを押した。
「――もしもし」
「あ、もしもし。紅美です」
「もちろんわかってるよ〜、携帯は相手の名前が出るからね」
「あ、そうなんだ。私携帯使った事ないから」
「そうだったね。それで、どうしたの?」
「あの、明日は休日ですがお時間ありますか」
紅美の質問に対し、蒼太一瞬無言になった。すぐに返事が来なかった事で、紅美も諦めかけていた。蒼太に気を使わせまいと紅美が口を開こうとした時、電話の向こうの蒼太が返事をした。
「明日は……3時過ぎになるけどいいかな? 公園で待ち合わせかな?」
「いえ、明日はうちで食事でもどうかなと思いまして」
「ほんとに! でも、なんか悪い気もするな〜」
「いえいえ、私も蒼太君が来てくれた方が、その……嬉しいですし!」
「なんか嬉しいな〜、それじゃ明日はお腹空かせていかないとね!」
「一応お寿司を頼もうと思うのですが、何か苦手な物などありますか?」
「お寿司! お寿司なんてもう何年も食べてないよ〜、僕はなんでも食べれるよ!」
「よかった〜、それじゃ明日の三時三十分頃来るように注文しておきますね」
「はい、それじゃまた明日! おやすみなさい」
「おやす……」
その時、人一倍耳のいい紅美だからこそ聞こえる位の声が電話の向こうから聞こえてきた。それは間違いなく女性の声だった。声だけで何かを判断するのは難しいが、紅美だからこそ分かる声のトーンの感覚で、それが蒼太の母親や姉妹でない事が分かってしまった。紅美は一瞬電話の向こうから聞こえた声で、蒼太が女性とこんな夜遅くに一緒にいるという事がわかってしまったのだ。それで一瞬黙ってしまった。
「どうしたの? 電波悪いのかな」
「いえ、おやすみなさい……」
――プツッ、プー、プー、プー……。
「蒼太君はこんな時間に誰といたんだろ……」
もしかしたら紅美の心のなかでは答えが出ていたのかもしれない、しかし初めての友達……いや恋人である蒼太の事を信じたかったのだ。紅美は少しぼーっと考え込んでいたが、すぐに何も無かったかのように自分の部屋に向かった。
その時、再び紅美の目に映像が流れ込んでくる。きっとこれも蒼太の視界だろうと紅美は感じた。そこには二日前に満面の笑みで微笑んでいた女性の姿が会った――全裸で。
「誰なの……なんで裸なの……なんでそんな目で見るの……」
紅美の目に入ってくる映像の中のその女性は、この映像の張本人であろう蒼太に裸で絡み付いてくる。その時の女性の目からは、とてもいろいろな感情が伝わってくるような感覚を覚えた。女性とはいえ紅美にとっては初めて見る裸、さらにはとても至近距離で絡み付いてくるような感覚だった。そんな紅美の顔は真っ赤になり、熱を帯びだした。紅美はなんとなくこの女性と何をしているのかを感じ取ってしまった……。
ベッドに倒れこみ、目を閉じ、枕を頭の上から覆ってみても、その映像が止まることはなかった。目の見えない紅美にとってはそれらの映像がすべて新鮮ではあるが、見たくもない映像を見せられ続けるのはとても苦痛で我慢ならなかった。
「やめてよ、はやく見えなくなってよ……。こんなんなら私は見えなくていいよ!」
誰もいない広い家に紅美の声のみがむなしく響き渡る。そんな紅美の意思は無視するかのように、映像の中で女性は妖艶に舞っている。そんな紅美にもまだ一つの希望の様な物も残っていた。その紅美に残された希望がその通りだったとしても、決してこの状況が改善されるわけではない。しかし、その希望を紅美は強く願った。
「お願い、この映像が蒼太君の物じゃありませんように……。もしそうだったとしても、私にそれを教えないで……お願い……」
そんな紅美の願い。しかしこの日の運命は、とことん紅美にとっては残酷な方向へと向かって行っていた。それはもう誰にもとめられない運命。
先ほどまで仰向けの様な体制だったこの視界の持ち主が、とうとうその体を起こしだした。今度はその女性を下にするかのように上になっている。それと同時に、今映像の中の二人がいる場所がベッドの上だという事が紅美には分かった。
「やめてよ、早く止めてよ……」
女性の体を舐め回すかの様に視界が動く。さらには女性の顔と接近していることから、キスをしている事まで紅美には手に取るようにわかってしまった。まさに視界の持ち主の見ているのと同じ映像が紅美の視界に入って来て、その場にいるかのような感覚を継続的に送り込んでくる。そして視界の持ち主が体を起こした時、遂に……。
「なんで、なんで……」
紅美はまるで死人の様に全く動かなくなった。仰向けになり、天井を見つめ、手足を広げて止まっている。目はとても大きく見開き、瞬きすらしていない。先ほどまで荒げていた息さえも影を潜め、呼吸による体の動きすら感じられない。そして声もなく、一筋の涙が紅美の目から垂れ、頬を伝った……。
視界の持ち主が体を起こした時、ベッドの上の所にあった鏡に姿が映った。それは紅美が一番望んでいなかった結果。そう、視界の持ち主は間違いなく蒼太だったのだ。その鏡に映った蒼太の顔は、まさにこの日紅美の部屋の鏡に映った顔とは全く違う物だった。きっと紅美には見せた事のない顔。それを紅美は見たわけでもないが、感じ取ってしまった。
その後数時間、紅美の目には蒼太の視界が流れ続けていたのだった……。
――翌日。
目を赤く腫らし、とても疲れた様子の紅美がいた。時刻はすでに昼過ぎ。もちろん昨日の事を紅美は忘れたわけじゃないが、何かを自分の中で納得させたかのような決心した顔をしている。そして予定通りに寿司屋に注文をした。
「あ、すみません注文したいのですが。……はい、そうです。特上寿司二人前を三時三十分頃持ってきて欲しいのですが。……はい、お願いします」