2:君は空を見ない
紅美は家に着いた。
両親と暮らしているが、今両親は親戚の家に出かけていていない。
紅美は自分の部屋に行き、ベッドに倒れこんだ。
「なんだったの、さっきの……」
目の見えないはずの紅美が何かを見たのだ。
それはかなりの衝撃だったであろう。
生まれてから視覚というものを使った事の無い紅美だからこそ、その衝撃はすごいものだったはず。
初めて見たからこそ先ほどの映像がなかなか消えないのも事実であった。
紅美の部屋はとてもシンプルな部屋である。
ベッドにタンスに小さなテーブル、そして暇つぶしのコンポとテレビ。
もちろんテレビは見るためではない。
そして電気は一応備えてあるが、紅美がそれを着ける事はなかった。
そう、紅美は最低限生きてくために必要な物しか欲しなかったのだ。
「私は何かを見た、それはきっとブランコ。あの公園のブランコ」
紅美は寝巻きに着替え、その日は寝る事にした。
次の日、紅美はいつもの公園にいた。
昨日の事があったからではない、紅美にとって日課みたいなものなのだ。
「いつもと同じ。なにも変わらない」
赤いベンチに座りながらいつもの本を開く。
そんな紅美の方へ向かう足音が一つあった。
「昨日の人ね」
紅美には分かっている、足音で。
「こんにちは、紅美ちゃん。ってちょっと慣れなれしいかな?」
「いいよ、それで」
「ここ座ってもいいかな?」
「うん」
蒼太は紅美の横に座った。
なぜ蒼太がこの公園に来たのか、それは蒼太自身もよくわかっていなかった。
「蒼太です、昨日ちゃんと言えなかったから」
「聞こえてた」
「そっか、今日も青空が綺麗だよ」
「うん、見えないけどなんとなくわかるの」
その日も青空が一面に広がっている清々しい日だった。
紅美は本のページを捲りながら聞いた。
紅美から人に話すのはとても珍しい事であった。
「なんでここに来たの?」
「昨日も言ったけど、また来たかったから」
「ここは何も無い公園よ」
「君がいるから、かな」
蒼太の言う事に対しての紅美の反応は、まさに乙女の反応だった。
どこか蒼太のことが気になっているのかもしれないと、自分でも思っていた。
それと本当は言いたかった、誰かに伝えたかった。
昨日自分が見た事を。
そんな心を知ってか知らずか、蒼太から話題をだした。
「そういえば、昨日なにか見えたって言ってなかった」
紅美は驚いた。
本当は誰かに話したかった昨日の事。
だけど、きっとバカにされると思っていた。
目の見えない紅美が何かを見たなんてありえない事なのだから。
「うん、ブランコを見たの。たぶんそこにあるブランコ」
「何色だったの?」
「ごめんなさい、私にはそれが何色なのかわからないの……」
「ごめん……」
「でも、信じてくれるの? 私の言ってる事はありえない事なのに」
「だって見たんでしょ? そう言われたら僕は信じるよ」
蒼太の答えは当たり前のことだった。
目の見える蒼太にとっては、この答えしかなかったのだから。
それに紅美の独特の雰囲気からも、嘘をつくような子ではないと思っていた。
「生まれて初めてだったの。今までになかった経験だから、今でも鮮明に覚えてる」
「なんで見えたのだろう」
「わからない」
二人が考えても答えはでなかった。
紅美の言うとおり、常識ではありえない事なのだから。
そんな空気を変えるように、蒼太は話題を変えた。
「昨日も聞いたけど、彼氏とかいないんだよね?」
「うん」
「もしよかったら、僕と友達から始めませんか」
それは突然の告白だった。
蒼太は自分が紅美に一目惚れしたと心のどこかで確信したのだ。
紅美は戸惑いながらも返事をした。
「私は人を好きにならない、昨日も言ったでしょ」
「その気持ちは変える事はできないの?」
「わからない、でも私は人を好きになれないの」
昨日振られた蒼太。
そんな今日の蒼太はいつもと違った。
紅美の否定に対しても、諦める姿勢はみせなかったのだ。
「僕は昨日振られた。だけど、だから次は君という訳じゃないんだ」
「そうは思ってない、私自身の問題なの」
「でも、昨日一目見たときからわかったんだ。僕は君に一目惚れした」
紅美の顔は赤くなっていた、見えない紅美も熱を帯びた顔で予想はできた。
いつもより本のページを捲るスピードが速くなっていた。
「昨日振られた事を忘れるほど、君の事が頭から離れなかったんだ」
「なんで、なんで私なの」
「わからない、理由なんてないのかもしれない」
紅美は本当は嬉しかった。
生まれて初めての異性からの告白。
それに、自分は他人から好きにはなってもらえないと思っていたからだ。
そんな嬉しい心と同時に、自分は人を好きになってはいけないという考えも残っていた。
昨日に続き、また初めての事が起こっている。紅美は少し心の中が混乱していた。
「でも、私目が見えないし」
「そんなの関係ないよ、僕は紅美ちゃん自体を好きなんだ」
「蒼太君は知らないから言えるんだよ、私にとってどんだけ不便な世の中なのか……」
「まずは友達からでいいんだ、紅美ちゃんの事をもっと知りたいんだ!」
蒼太の熱心な告白に紅美は心が揺らいでいた。
人を好きにならないと決めたはずなのに、蒼太とは友達からでもいいからもっと会いたいと。
友達、そうだ友達になってみたら私のことを嫌いになるかもしれない。
そう思った紅美は友達になる決心をした。
本心は違うと、まだ自分では気づいていない。
「わかった、友達からでよければ」
「本当? ありがとう」
「改めてよろしくね、紅美です」
紅美は蒼太の方へ手を差し伸べた。
「よろしく、蒼太って呼んでいいからね」
改めてとなると、どこか恥ずかしい蒼太。
目の見えない紅美の顔をまじまじと見れなかった。
顔を赤らめ、照れながら紅美の手を取って握手をした。
その時、まさに昨日と同じような事がおこったのだ。
「きゃっ」
紅美が顔を抑えながら地面に倒れこんだ。
「どうしたの? 大丈夫?」
「目が痛い……」
本当にそれが目の痛みなのか、紅美には定かではない。
ただ『見る』という行為になれてない紅美への衝撃は計り知れなかった。
「もしかして、昨日と同じ事が?」
「うん……」
二人とも何が起こっているのかいまだにわかっていなかった。
「そこに……。そこに木があった、たぶん木で合ってると思う」
そう言って紅美は指差した。
そこには確かに木があった、とても大きな木が1本。
この公園の中央に生えている大きな木が。
「うん、そこには木があるよ。とても大きな木が一本」
蒼太は紅美の手を取り、ベンチに座らせた。
そこに木があった、ただそれだけ。
二人の温度差にはすごい差があったのかもしれない。
「昨日もそうだったけど、蒼太に触れたとき見えたの」
「そうなの? もう一度触ってみてよ」
蒼太の腕を掴む紅美、しかしなにも起こらない。
ただの偶然だったのか他に理由があるのか、二人がいくら考えても答えはでない。
「だめ、見えない」
「なんだったんだろ」
再び沈黙が二人を包む。
聞こえてくるのは、蝉の声と木々が揺れる音のみ。
再び蒼太が空気を変えようとする。
「次見えるなら、綺麗な青空だといいね」
「うん、蒼太が見ている青空を私も見たい」
二人は空を見上げた。
もちろん紅美には綺麗な青空は見えない。
「ごめん、私今日は帰るね」
「わかった、気をつけてね」
本を閉じ、いつものように杖を出して立ち上がる紅美。
最後に蒼太に言った。
「私はいつもここに居るから」
「わかった」
紅美は公園を出て、家へ歩き出す。
蒼太も家に帰ることにした。
家へ向かう紅美に異変が現れた。
公園から家までさほど距離はないからすぐ着くその間、今度は蒼太に触れていないのに紅美は何かを見ている。
道路に倒れこむ訳にもいかないので紅美は壁に寄りかかる。
「これは……、なに? 道? 道路なの?」
もちろん初めて見る光景。しかし知識の中にある道路、まさにそれだった。
「これが道路……」
紅美は恐怖心よりも好奇心が沸いてきた。
いままで見えなかったものが見える、それはどんなものでも刺激的な物であった。
「もっと見たい。道路なんかじゃなくて空を見たい、青空を見たい」
無情にも、すぐにそれは見えなくなった。
紅美は家の柵までたどり着いた。
紅美の家は俗に言うお金持ちの家だった。
ドラマや映画の世界に出てくるような豪邸ではないが、他の家よりは大きかった。
柵を伝い玄関を目指す紅美、その時一つの違和感を思い出した。
なぜいままで気づかなかったのかと言うほど、単純な違和感。
昨日とは違い、見たい見たいと思った紅美だからこそ感じた違和感。
――「私……、目を開けてない」
紅美に芽生えた好奇心は、再び恐怖に色を変えた。
そう、昨日も今日も紅美は一度も目を開けていない。
なのになぜ見えたのか?
見えたという衝撃にばかり心が動いていて、単純な事を見落としていたのである。
「なんで、なんで見えたの……」
玄関に入り、靴を脱ぐ。
見えただけで不思議な事、なのにさらに不思議な事が起きている。
紅美は動揺していた。
自分の部屋に入り、ベッドに顔をうずめる。
「どういう事なの……」
天井を見上げるように横たわる紅美。
無意識に目を開ける事を選んだ、その時である。
「キャーーーーッ」
それはまさに悲鳴、誰もいない大きな家に悲鳴が鳴り響いた。
「なにこれ……、怖い、とても怖い」
もしかしたらまた何かを見ているのかと思い急いで電気つけた。
「かわらない……。なんなの、私は何を見ているの」
テレビを着け、音楽を鳴らし、カーテンを開ける。
しかし紅美の見ているものに変化はない。
紅美の見ている『なにか』それがなんなのかわからない。
それはただ一色のみ。だが、紅美にはそれが何色なのかわからないのである。
「私が生まれてからずっと見ていた暗黒の世界、それよりも恐ろしい物があったなんて……」
紅美は生まれてからずっと同じ色を見ていた。
それ以外はなく、その色のみの世界。
世間的にそれは暗闇と言われる世界、光や残像すらまったく入ってこない世界。
それが当たり前になっていた紅美にとって、さらに恐ろしい世界があったのだ。
それは数分間の出来事であった。
紅美の世界は、いつもの色に戻った。
「なんだったの、今のは……」
心身ともにとても疲れきっている紅美。
電気を消し、カーテンを閉め、テレビと音楽を消した。
そして再びベッドに横になる。
「青い空が見たかった……。でもあんな怖いものも見えてしまうなら、私は見えなくていい」
見る事への憧れ、青空を見たいという希望。
その反面襲ってくる恐怖、それに紅美は負けそうになっていた。
「見えないなら、見せないで……。なんで私に見せたの……」
紅美の目から涙が溢れていた、恐怖や不安と同時に悲しみの涙であった。
その日紅美は夜まで泣き続けた。
そんな涙も永遠に出るわけではなく、悲しみと不安が心に残る。
次の日、公園に来た蒼太。
夜まで待ったが、その日紅美は来なかった。




