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動くものを書く……、例えば、動くもののデッサンなど、絵を描く場合、常に動くものを描きとめるのは本当に大変なのだけれど、思考を変えれば、3回に1回くらいは成功するようになる。それは、生のものを描かないと身につかない感覚のようなものに思える。……つまりは、動く線をつなげて、それっぽい形に整えるという作業のような気がする。私は記憶力が本当にお粗末なことを自覚している。だから、生のデッサンなど、写真を見て描いたものと比べれば、対象を一ミリもずらさずに描くなんて神業、出来るはずがなく、そもそも、そのようなことをしようと思い、生をデッサンしようとは思わない。では何を描こうと思い、生を敢えてデッサンしようと思うのかというと、微細に生き物が動く様子を描きとめたいから、生き物のまとっている生を実感として感覚として刷り込みたいからなのだと思う。……この辺りは、言葉でうまく説明なんて出来る自信がない。つまり、生というのは、それだけで(息をしているだけで、質感があるだけで、温かみがあるだけで)リアルだから。
それは、文章を書くことにも言えると思えてしまう。写真を見ながらその場所を描写するのと、実際にそこの場に行き空気に触れ、人と関わり、生を体感した上で描写する文章とは雲泥の差だと思う。
私は、それを感覚で受け取る情報量の膨大さの差だと考えている。
人は、意識出来ていないところで、言語化できない情報を日々、大量に受け取っているのだと思う。その言語化出来ない情報量が、説明できない雰囲気や厚みとなって、表出された作品に滲み出るものなのだろうと思う。それは、絵で言ったら、ほんの少し数ミリ生で見た方の対象にあるズレやゆがみであるかもしれない。でもその数ミリの歪みがあるだけで、そこには生を見て書いた描写にあるリアルとして、人に表出しえた情報ということになるのだと思う。言語化出来ないそれら、大量の情報は、言語化出来ないからなくてよいものなのではなくて、言語化出来なくとも受け取っておくべき情報なのだと思う。
それを絵のデッサンではなく、文章で表現する、何を言っているのだろう、この阿呆は、と目の前のあなたはあきれてらっしゃることだろう。……私は、今、私が思考していることを目の前のあなたにきちんと説明できるのか自信がないが、それでも説明を行いたいと思う。それは、何故かというと、それはあなたの為ではなく、私が、その今考えていることを言語化したいと考えるからだ。私はこの言語化出来ない言葉を私に解るように言語化したいと考えている。
動くものを書くということは、情報だと思う。受けとった情報が動くという動作の中にも大量にある。それを言語化出来るか出来ないかは別にして。手を動かすという描写を手を動かすとだけ書いて、一体何人の方が、同じような角度で同じような高さで同じように行えるものだろう。描写というのは、写し取るということなのだと思う。写し取るということは、言葉で目の前の事象を再現するということと同義だと思う。
それは、言葉をつくそうと思えば思うほどきりがなく、書き連ねてしまうものなのだと思う。流れる動作の中に、様々な情報が隠されている。それは、もう少し突き詰めて発言しようと試みるのであれば、それは、癖のようなものであり、行うものによって、個がにじみ出るものなのだろうと思う。
そんな風に、細かく細かく見ていけば、描写しようと考えれば、言葉はあふれていくものなのだろうと思う。あまりありすぎても困るからこそ、(かえってイメージの幅を阻害され自由なイメージを行うことが出来なくなってしまう)その描写のバランスは、その表出する方の言語的センスにかかっているのだろうと思う




