少女と怪物
幅の広い大通りの両脇を長蛇の列を作った多くの人々が賑わわせていた。
人々の表情は様々で、笑って隣の者と談笑する者、不安そうに眉をひそめる者、何かに憤る者に、祈る者。
表情こそ様々だが、人々の目的は同じで、数千人とも数万人ともつかない人々が大通りに押し寄せ、今か今かとその時を待っていた。
人々が噂する。
「どんな奴なんだろうなぁ?」
「そりゃあ決まってる。化け物みたいな奴だろう」
「俺が聞いた話じゃえらく顔が良いと聞いたが」
「ないない。騙されてるんじゃないのか?」
「だろうぜ? 担がれたに決まってる。俺は悪魔のなりそこないみたいな女だと聞いたぞ」
そんな事を言い合いながら盛り上がる人々。
人々の話題の中心は一人の人物に向けられていた。
ここハイヒッツ王国の首都では連日連夜に渡り、「辺境領ランドールより悪魔の姫君がやって来る」と大々的に喧伝されていた。
その喧伝を主導しているのは『革新派』と呼ばれるハイヒッツ王家第1位継承権を持つ第一皇子。名は、アルガン・ヴェル・ハイヒッツ。
アルガンは現在、3ヶ月前に父親である国王が崩御した直後から始まったひとつしかない玉座を巡る継承権争いの真っ只中にいた。
世襲制であるハイヒッツ王国では、王が倒れた後、本来ならば第1位継承権を持つアルガンが国王へと収まるのが順当であり、正しい在り方であるのだが、アルガンの弟にして第2継承権を持つシュナイティスがそれに待ったをかけた。
元々仲の悪かった二人だが、この事を契機に両者の溝は決定的に2つに裂けた。
武勇に長け、王族としてそれなりの知識も有するアルガンだが、彼はとにかく民からの評価がすこぶる悪かった。
個人としての能力は流石は王子と目を見張る物を持っていたアルガンだが、彼は幼い頃からプライドが高く、傲慢で、とかく下を見下しがちで、民を自身の道具の様に扱った。
そんな兄に対し、弟シュナイティスは兄と比べると武勇に長ける訳でも、知恵が勝る訳でも無かったが、王子としてそれなりに凡人よりは優れている、といった具合。
しかしながら、そんなシュナイティスの対抗に第1位継承権を持つアルガンの旗色は悪かった。
それというのも、王国にはアルガン、シュナイティスの他に王位継承権を持つ者が全部で5人いる。
その内、アルガン、シュナイティスを除いた残り3人の王子、それに加え、王位継承権こそ持たないものの王家の姫2人の計5人もの兄弟達全員が、次男シュナイティスを支持したのである。
これにより、元々優勢であったアルガン派とシュナイティス派の立場が逆転した。
一転して劣勢となったアルガンが逆転の一手として繰り出したのが「王家とランドール家の契り」―――つまりは婚約である。
当初こそ、王家に悪魔の血を入れるなど、と反発も強かったが、発展する王国と比例する様に膨らむ資源の慢性的な不足に加え、まれにみる不作によって引き起こされた飢餓という大きな不安が強く後押しする形で、それらを解決出来るだけの辺境ランドールの豊富な資源が知れ渡るにつれ、徐々に反対する声は小さくなり、逆に婚姻を是とする声―――特に民衆からの多大な期待が大きくなっていった。
とはいえ、
元々が評判の悪かったアルガンに対し、巷ではそのランドール家の豊富な財力すらも自身の懐に入れてしまうのでは、というアルガンへのまことしやかな黒い噂が流布し、婚姻という一手をもってしても王の座につく決定打とはならなかった。
中には「アルガン王子は悪魔の誘惑に負け、悪魔の木偶と化したのではないか」と触れ回る者も出る始末。
噂が噂を呼び、もはや何が真実なのか分からない。
それらの様々な噂の真意を自身の目で見極めようと、こうして人々が今か今かと辺境ランドールの領主の到着を待ちわびているのだ。
悪魔の末裔という呼び方は知っていても、辺境領ランドールの姫君シスネ・ランドールの事を知る者は王国にはほぼ居ないといっていい。
ごくごく一部の冒険者が名前を知っていた位で、その容姿までは噂の域を出ない。
有力貴族達も同様であり、唯一シスネ・ランドールの容姿まで知っているのは、間者としてランドールに出向いた者と、それを命じた王家の者くらい。
そのせいかシスネ・ランドールの容姿はもはや王国の抱える問題以上に世間の注目の的となっていた。
☆
ハイヒッツ王国の民衆が首を長くしてその時を待っていた頃。
辺境ランドール前当主シスネ・ランドールは、王国へと続く街道を進む馬車の中にいた。目指す王国はもう目と鼻の先。
王国からの間者ビリー・ポッターを筆頭とする20人からなる集団とシスネの乗る馬車。シスネの馬車を前後に挟む様にして、王国側の五台の馬車が街道をゆったりとした速度で走る。
王国側の者達を除けば、シスネに同行するのはたったの三人だけであった。
王国での世話役として連れて来たハトが二人と、大柄な体躯を持つ男が一人。
「シスネ様、ぼちぼち見えて来ましたわ」
シスネの馬車の隣を歩いていた大柄な男が、その体躯からは想像出来ない様な非常に裏返った声で、馬車の中のシスネへと声を掛けた。
「そうですか」
馬車の外を見るでもなく、王国などにはこれっぽっちも興味が無いと言わんばかりの態度でシスネが返した。
シスネの代わりという訳でもないが、馬車に相乗りしていたハトの一人が馬車の小窓から顔を出し、遠く、街道の先に見え始めて来た王国の塀に目を向けた。
「シスネ様、辞めるならば今が最後のチャンスかと」
もう一人のハトが真剣な表情でシスネにそう告げた。
ハトの顔からはランドールに戻って欲しいという思いがひしひしと伝わって来る様であった。
「ここで帰るならば最初から何日も掛けて馬車に揺れていませんよ。私の事より、あなた達こそ帰るならここしかありませんよ? 無理に私に付き合う必要はありません」
「ご冗談を。ここで帰るならば最初から何日も掛けて馬車に揺られておりません」
ハトの女性がそう言って笑う。
外を見ていたハトも小窓から顔を剥がし、馬車の中に視線を戻すと、同僚の言葉に同意する様に頷いた。
そんな二人にシスネは無表情のまま小さくため息をついた。
それから、シスネは馬車の外に向けて言葉を投げる。
「クローリ、あなたもです」
名前を呼ばれた大柄な男、ランドール家の黒服『カラス』達の剣術指南役を務めるクローリが、車体越しに「あたしぃ?」と怪訝な声を返して来た。
「あなたにはフォルテの支えとしてランドールに残って欲しかったのですが……」
「もう何回めよ、それ」
うんざりとばかりにため息を混ぜたクローリ。
「何度でも言いますよ。あなた程の実力者の代わりなど早々あるものではありませんから」
「メアリーがいるじゃない。あの子がいれば十分よ。それに、最初に言ったじゃないの。あたしはあなたのモノであって、他の誰のモノでもないわ」
クローリの言葉に「そうですね」と、またシスネはため息をついた。
そんなシスネをクスクスと愉快そうにハトは笑った後、馬車の小窓からまた顔を出し、クローリへと話し掛けた。
「クローリ様、中央ならばきっと良い男が沢山いるのでしょうね」
「あら、やっぱりミナもそう思う? ランドールの素朴な色男も良いけど、都会の垢抜けた色男も素敵だと思うのよねぇ、あたし」
クローリの言葉にハト―――ミナが笑う。
「クローリ様ならばきっと都会の素敵なお婿さん候補が見つかりますよ」
「そうよね。頑張らなくっちゃ」
決意でもするかの様に、クローリが鋼と見紛う程に鍛え上げられた胸の前で、両腕を合わせ、ウンと小さく握りこぶしを作った。まるで乙女の様に。
そんなクローリがおかしくて、ミナがまた笑う。
クローリとミナの会話を聴きながら、シスネは馬車の中で大きなため息をついた。
クローリ・ミリマスカラード―――ランドール家の子飼い通称『カラス』、その指南役でありトップに立つのが彼クローリであった。
ランドール一族を含め、使用人の末端まで女ばかりで構成されるランドール家の組織体において、彼が唯一の男性。
その組織体を作り上げたランドール家始まって以来の才媛、姫君シスネ・ランドールをもって「欲しい」と言わせしめた稀有な人材、それがクローリ・ミリマスカラードという人物なのである。
極限まで鍛え上げられた屈強な肉体と、研鑽に研鑽を重ね至高にまで研ぎ澄まされたその技は、ランドールの中に限らず、おそらく人類の中でも五本の指に入る程の実力者であろう。
王国の中の有力貴族の嫡男としてこの世に生を受けたクローリは、その類い稀なる資質をもって『神童』とまで謳われ、ミリマスカラード家期待の跡継ぎであった。
しかし、クローリが10歳を迎えた頃、彼は自身の中に奇妙な違和感を覚えた。
確かに違和感。
違和感には違いない。
しかし、それは違和感と呼ぶにはあまりにも純粋な感情。
彼は10歳にして、人生初めての恋をしたのである。
これが初恋だと自覚したクローリ。それだけならば何の問題も無かったはずなのだ。
相手が同性だという事を除けば……。
クローリの意中の相手は、同じ貴族の男の子。彼をたまたま街で見掛けたクローリの一目惚れであった。
当然ながら、同性に対し恋心を抱く自身の異常に、クローリは非常に戸惑った。自身の感情、その向けられる対象に常に悩み、それを振り払う様に以前にもまして稽古に精を出した。
しかし、それで武芸の腕は上がれど、クローリの中の異常が変わるはずなどない。
悶々とした青春時代を過ごした彼は、18になったある日、10歳のあの日から一途に真っ直ぐに想い続けていた恋の相手が結婚するという話を耳にし、意を決して八年分の想いの丈をぶつけたのである。
そう、クローリはぶつけたのだ。
文字通り、全身を使って。
ひたすらに、のめり込む様に青春時代をかなぐり捨てて鍛えたクローリのその肉体。馬すらも片手で軽々と持ち上げる常識はずれの筋力と、鋼の様に分厚い胸板、丸太の様に太い手足。まさに怪物。その頃既に彼に力で敵うものなどいなかった。
惜しむらくは、彼の青春時代がストイックなまでの鍛練の日々に費やされ、細かな恋の駆け引きというものを学べなかった事にある。
想いの丈をぶつけた彼は、その時に体の内から溢れ出した異常なまでの興奮、熱に体を支配され、我を忘れて初恋相手に襲いかかったのである。
勿論、クローリには相手を傷つけるつもりなど全く無かった。肉体的には、である。
怪物のオスに蹂躙された初恋相手は心に大きな傷を負い、それはクローリ自身の心の傷にもなってしまった。
当然ながらこの出来事は大きな問題となり、これをきっかけにクローリの異常な性癖と、もはや誰にも止められない猛獣のごとき体躯の彼を見限った父親により、クローリはミリマスカラードの名を剥奪、のち、当時父親が領主をしていた街を追放となった。
それからクローリは、心に大きな傷を負いながら各地を転々とした。あてもない放浪の旅。
風の噂でミリマスカラード家は弟が継いだと耳にした時は、もう関係ないと思いつつも、心のどこかでホッとした。
クローリが放浪の旅をしていたそんな時である。
何処に行けども目立ってしまう自身の怪物の様な体躯と、放浪の旅の中で半ば自暴自棄になって自身の異常性を隠さなくなった―――カミングアウトし、いつしかオネエとなったクローリが周囲の目を避ける様にたどり着いたのが辺境のとある地であった。
最初、辺境のその地は怪物の様ななりをしたクローリに物珍しモノでも見る様な目を向けていた。
―――いつもの事。
そう割り切ってクローリはその街で過ごす事にした。
だが、それも最初の数日だけ。
数日もすると人々からの無遠慮な視線は鳴りを潜め、代わりに、自分の事を「あたし」と呼び、巨大な体躯で乙女の様に振る舞うクローリを、その地の人々は、誰と比べるでもなく当たり前のように、普通の人に接するような態度を取っていた。
最初、クローリはそんな人々の変化を、辺境ゆえの適応力かと思っていた。
辺境というのは様々な人が集まる場所である。
それは、犯罪者であったり変わり者だったりと、何らかの理由で他の街では馴染めず、行き場を無くした人々が集まりやすいという辺境ゆえの特性の様なもの。クローリはそう思っていた。
気持ちの悪い怪物である自分に普通に接してくれる人々の態度に、―――この土地ならば自分も受け入れてくれるのでは?
そう考えたクローリは、ここを人生最後の拠り所かどうかを見極めるべく、その地で冒険者として本格的に暮らし始めた。
元々の実力は折り紙付き。クローリは冒険者としてすぐに頭角を現し始めた。
実力のある者には自然と周囲に人々も集まってくる。
2ヶ月もする頃には、クローリは引く手数多の人気冒険者としてすっかり街に馴染んでいた。
冒険者仲間や街の住民達とも楽しくやれていた。
男ばかりの冒険者の中で、浮いた存在であったオネエクローリであっても、彼らは白い目を向けるでもなく、時には目ざとく良い男に迫るクローリからの猛烈アタックを苦笑いでいなしながら、それでも彼らはクローリを決して仲間外れにする様な事はしなかった。
クローリは嬉しかった。
彼が、ごく普通に接してくれるこの土地、街、人々、その全てが愛おしく思えるまで、そう時間はかからなかった。
自分の異常さに気付いた10の頃から、彼はずっと自分の異常性に苦悩し続けていた。
何故自分はこうなのかと。
分厚い筋肉に覆われた大きな体は、人に威圧感を与える。
それとは対照的に、口からついて出る言葉は、聞いた者に不快さを与え、その体に見会わぬ女性の様な仕草は見た者に嫌悪からくる気持ち悪さを沸き立たせる。
どうして自分は女性として生まれて来なかったのか。どうして……。
そんな事ばかり毎日考えて生きてきた。
しかし、今の自分は違う。
苦悩していた毎日など存在しなかった様に、自分というものを隠す事なく毎日を過ごせる。それのなんと素晴らしい事だろう。暗い日々がパァと花開いた様な、何かが許されたよう気分だった。
この素晴らしい場所。
クローリはもはや他の地に行く事など考えられなかった。
一生をここで過ごし、仲間達と楽しく生きていこう。この地こそが、自分の人生の終着点なのだとクローリは確信した。
そう決意し、毎日を楽しく過ごしていたクローリ。
そんなクローリが街のギルドで冒険者として過ごしていたある日の事だった。
いつもの様に冒険者としての仕事を終えて、仮家としている宿にクローリが戻ると、宿の前に人だかりが出来ていた。
何だと思いながら、宿の窓から中を覗き込む見知った顔に声を掛けた。
「おお、クローリいま戻りか」
「ええ……。それよりこの人だかりはどうしたの?」
「いやそれがなぁ……。まあ見てみろ」
促されたクローリが、男と場所を変わって窓の中、宿の中を覗き込む。
使用人だろうか。宿の中に同じ服を着た何人もの人々が立っていた。
その中心。
大人達に囲まれる真ん中で、姿勢良く椅子に座る小さな少女の姿があった。
「誰?」
振り返ったクローリが先程の男に尋ねた。
「ランドールの姫さんだよ」
返って来た言葉に、クローリがまた宿の中へと視線を移す。
――あれが……。
この土地にたどり着いてから数ヶ月。
クローリは生涯を過ごすと決めたこの街の領主についてを当然耳にはしていた。
だが、その姿、――姫の姿を見るのはこれが初めての事であった。
周囲の大人達の姿で遮られ、ハッキリと見える訳ではないが、周囲を大人達や野次馬に囲まれ、それでもなお臆する事なく凛としたその少女の姿に、クローリは僅かな感動を覚えた。
自分自身もあの年齢の頃は『神童』とちやほやされて、貴族という事もありそれで大人に囲まれる事が少なくなかった。
いくら神童とて子供は子供。体の大きな大人達に囲まれるとやや萎縮してしまった記憶があるが、あの少女はそんな萎縮などこれっぽっちも見せずに澄まし顔を作り、当たり前の様な態度を示し続けていた。
クローリが少女の姿をもっと良く見ようと窓から眺めていると、妙にフリフリのメイド服を着た使用人の一人が、少女に何かを話し掛けた。そのせいで少女の姿が完全に隠れてしまい、クローリは邪魔ねぇと嘆息した。
そうしたのも束の間、少女が静かに、誰の手を借りるわけでもなく、座っていた椅子から降りてゆっくりと歩き出した。
どうやら宿への用事を終えて帰るようだと、宿の出入り口に向かう少女を見て思う。
宿の扉が開く。
しかし、人だかりに隠れてクローリからは小さな少女の姿は見えない。
そうして、これでもう見納めかと思っていたクローリ。
直後、目の前の人だかりがゆっくりと割れていった。
クローリは最初、それが自分へ向かう為に開かれた道だとは思わず、咄嗟に自分も周囲に倣って脇へとその大きな体を避けた。
脇へと避けた後、クローリは人の海を割って作られた道のその先に顔を向けて――見た。
見納めだと思っていた少女の姿があった。
先程はよく見えなかった少女の姿を、今度はハッキリと視界の中に納める事が出来た。
透き通る様な白い肌、薄い水色をして腰まで真っ直ぐ伸びた髪。まるで精巧に作られた人形のようだと、クローリは思った。
同時に、怪物の様な自分と本当に同じ人間なのかと疑いたくなる程に、少女は儚げな存在だとも思った。
しかし、真っ直ぐと前を向く少女の瞳は、小さく儚げな身体の見た目とは裏腹に強い芯の様なものが垣間見える力強い眼差しをしていた。
少女は無表情のまま、割れた人々の道をゆっくりとした足取りで進む。
そうして少女がクローリの前を通り過ぎる――と、思った時、少女がそこでピタリと歩みを止めた。
自分の目の前で立ち止まった少女に、クローリは僅かにドキリとした。
立ち止まった少女はそのままクローリへと体を向けた。
自分の腕一本程しかないであろう小さな少女は、自分の正面で姿勢を正すとクローリの顔を見上げた。
目があった。
少女と目があった途端、クローリの頭の中は真っ白になった。
見ていると吸い込まれそうになる様な真っ赤な目と――。
「クローリ・ミリマスカラード」
少女の口から自分の名前が飛び出した事に、見惚れていたクローリがハッとする。
「は、はじめまして、姫様。――どうしてアタシの名前を?」
既に捨てた―――捨てさせられたミリマスカラードの名。
その名はこの街の誰にも教えた事などなかった。
にも関わらず、少女がミリマスカラードと口にした事にクローリは非常に慌てた。
少女は無表情でクローリの顔を眺めながら口を開く。
「ランドールにいる者の事は把握しています。クローリ・ミリマスカラード」
「……その名は……既に捨てました。今はクローリ。ただのクローリです姫様」
「……そうですか」
少女は何でもない事の様に呟いた。
その間も、少女はクローリから一切目を背ける事なく真っ直ぐに視線を射続けていた。
少女からの、まるで自身の心の中まで見ようとする様な視線に、クローリがたじろぐ
そんなクローリの戸惑いなど知らぬとばかりに「では、ただのクローリ」と少女が口にした。
「…………なんでしょう?」
「私は今日、あなたに会いに来ました」
「アタシに?」
「そうです。ただのクローリ。私はあなたに話しがあって宿で待っていたのです」
「こんなアタシなんかにランドールの姫様が一体どんな話を……」
少しトゲのある言い方でオネエな自分を自虐気味に表現したクローリが小さな苦笑いを浮かべた。
そんなクローリに少女は真っ直ぐ目を見たまま告げた。
「ただのクローリ。私はあなたが欲しい」
「………………はい?」
「私はあなたが欲しいのです」
「言っている意味が良く分からないのですが……」
「そのままです。ただのクローリ。あなたの話は聞いています。あなたの過去も、あなたの嗜好も、あなたの実力の高さも。ですから、私の手足として、私はあなたが欲しいのです」
クローリはすぐに返事を返せなかった。
ただただ真っ直ぐ自分に向けられる少女の視線と少女からの言葉に、クローリは呆然と立ち尽くした。
「私の部下になる気はありませんか?」
戸惑い、呆然とするクローリに少女の言葉が響く。
「アタシが……姫様の部下に? ――お気持ちは大変嬉しく思います。ですが、アタシはこんなだし……、その……」
自身の異常さを自覚しているクローリが、それを理由に渋る。
こんな気持ちの悪い部下など、この人形の様な姫には相応しくない……。
クローリがハッキリと断ろうとした時、少女が尋ねた。
「ただのクローリ。あなたは私を見てどう思いますか?」
「どう……」
クローリが、根負けして少女の顔から逸らしていた視線を、おずおずとした様子でまた向け直した。
クローリが少女を観察する。
透き通る様な白い肌、薄い水色をして腰まで真っ直ぐ伸びた美しい髪。
見ていると吸い込まれそうになる様な真っ赤な目と――悪魔の様に伸びた、人よりも長い耳。
宿から出て来た少女の姿を見た時から、クローリは少女の持つその耳に気付いていた。すぐに気が付いた。意識せずとも目についてしまう程に目立つ少女の耳に気付かぬ者はおそらくいないだろう。
しかし、クローリは何故か見てはいけない様な気がして見て見ぬふりをしていた。気付いていながら知らないふりを装おった。
そんな自分の失礼な態度を見抜かれたと思ったクローリが、ろくに返事も返せぬまま、罰の悪そうな顔をしてまた少女から目を逸らした。
「こんな私の容姿は、人とは違うと稀有な目で見られます。――外には私の敵が多い」
少女は表情を変えぬまま、静かな口調で淡々と言葉を紡いでいく。
「私は気持ち悪いですか? こんな耳を持つ私を、あなたは蔑みますか?」
少女の言葉にクローリがハッとし、少女に顔を向ける。
「いえ――いいえ! 姫様が気持ち悪いだなんて、そんなこと!」
強く否定する様に、クローリは何度も大きく首を振った。
「あなたと同じです。ただのクローリ。ランドール住民はこんな私を――ランドール家を受け入れてくれます。そんなこの街が、私は好きです。守る為ならば私はどんな事でもするつもりです」
少女はそこで一度言葉を止めて小さく息を吸った。
それでようやくクローリは気がついた。
少女の体が小さく震えている事に。
自分の何倍も体格のある怪物の様な男を前にして、怯えなど微塵も感じさせない少女が、実は怯え、緊張し、それでもなお怖気、挫けそうになる自身の心に檄を飛ばして、クローリに話し掛け、冷静を装おい部下に欲しいと交渉してきている事を知った。
そしてなにより、クローリを絶句させたのは、少女の意志の強さ。
人は、人とは違う自分の本性を隠そうとするものだ。
それは趣味嗜好であったり、見た目だったり。
その隠したい『恥』を、人目に晒し、公にするという事は大変勇気のいる事である。
まして、それが初対面の相手とあればなおの事。どれだけ勇気のいる事だろう……。
クローリは知っている。
それを拒絶された時の引き裂かれる様な心の痛みを知っている。
それを嘲り笑う者の嫌悪から来る冷たい目を知っている。
――強い。
なんて強い子なのだろう……。
少女が行儀良く体の前で組んでいた両手。
その小さく震える両手が、決心でもするかの様に堅く握られたのをクローリは見た。
「もう一度だけ言います。ただのクローリ。私はあなたが欲しい。こんな私にどうか力を貸してください」
凛とした少女の声がクローリの頭の奥深くにまで響き渡る。
その声をクローリは天啓の様だと感じた。
心が震え、えもいわれぬ興奮と幸福が体の底から沸き上がった。
気付いた時には、クローリは自分でも知らぬ間に少女の前で膝をついていた。
平伏したままクローリが告げる。
「今日、この時より、アタシはあなたのモノです。姫の前に立ち塞がるどんな苦難困難も、私が全て取り払って御覧にいれましょう」
膝をついた状態でもなお自分よりも背の低い少女に向けて、クローリはそう忠義忠誠を誓った。
それは、ただのクローリ――改め、のちに『カラス』の指南役となり、そのトップを担う事になる姫の忠実なる怪物クローリが誕生した瞬間の出来事。
シスネが9つ。クローリが30の時であった。




