一辺倒
「また餌付けされていましたのね?」
ちょっとだけ呆れ顔を見せてミキサンが言う。
「大事の前の準備と言って欲しいなぁ」
ちょっとだけ唇を尖らせたシンジュがすぐさま反論した。
それから、シンジュは椅子から立ち上がると、シスネやカナリアの前に進み出て、上空のミキサンと対峙する様な位置に陣取った。
そんなシンジュの様子に、――主が誰かに顎で使われている様な態度に、ミキサンは内心でイラ立つ。
ミキサンはそのイラ立ちを表情にこそせず、来た時と同じ様な微笑みを浮かべる。
ミキサンは笑顔そのまま、なんの前触れなく隠し持っていたナイフをシスネに向けて唐突に投げつけた。
それをシンジュが、シスネの顔から30㎝程手前の位置にて、二本の指でピタリと止めてみせた。
まばたきする間の一瞬の攻防。
自身の前に突如として現れたナイフを前にしても、シスネの鉄仮面は僅かにも綻ぶ事はなかった。
代わりに、怒った顔をしたシンジュの怒声がミキサンへと飛ぶ。
「こらー! こういう時はまず私を倒してからでしょうが!」
「ただの挨拶ですわ。こんな事で殺せるとも死ぬとも思っていませんことよ」
言ってミキサンはニコリと微笑む。
(やはり……)
ミキサンの言葉にシスネは確信する。――やはり気付いたのかと。
シスネはミキサンから視線を外すと、いまだぷりぷりと怒るシンジュの背中に向けて「シンジュ」と名を呼んだ。
「はい。なんですか?」振り返る。
「私を守る必要はありません。背後を気にせず、全力で、アレを殺す事に集中してください」
「……でも」
「問題ありません。あの程度で私は殺せません。死にません。絶対に」
確信を持って力強く告げるシスネに、戸惑いつつも、少し逡巡ののち、「分かりました」とシンジュが返した。
「良い子です。何を気にする必要もありません。あなたの全力を出しきりなさい」
「お屋敷壊れちゃうかも」
「構いません。どうせすぐに直ります」
シスネの言葉の意味を完全には読み取れなかったシンジュだが、何も気にするなという言葉を信じ、大きく頷いた。
それから、ミキサンの方へと顔を戻して、言う。
「ミキサン、折角仲良くなれて残念だけど、ほんとーーに残念だけど――殺すね?」
言うやいなや、シンジュが剛脚をもって、空中に静止するミキサンに向けて跳び上がった。
弾ける爆音。それに追随し、大きくヒビが入る大地と広がる砂煙。
シンジュは閃光のごとき速さと鋭さでミキサンとの距離を詰めると、そのままミキサンを拳で殴りつけた。
パリンと何かが割れる音よりも早く、ミキサンの顔にシンジュの拳が突き刺さる。ビリビリと空気が震える様な感覚。
受け流す事も出来ず、拳の衝撃でミキサンは、静止していた空中より更に高くに舞い上げられた。
「しまった! 私飛べないのに!」
失敗した、という顔をしてシンジュが言って、地面に降り立つ。
そうしてその場で片手を額に当て「ん~」としばらくミキサンが飛んでいった方を眺め、やや間を空けて、
「落ちて来た!」と、嬉しそうな顔で街に向けて走り出した。
走り去るシンジュが踏み込んだ大地が、十メートル置きに亀裂を残す。
あとには、岩石を巻き込んだ竜巻でも通った様な荒れた庭だけが残り――数秒後には何事も無かった様に元の庭へと戻っていった
件の二人が消えた庭にて、
巻き起こった突風にその薄青く長い髪が乱れる事も構わず、それを見ていたシスネの目が僅かに見開かれていた。鉄仮面らしからぬ表情を見せた。
(どれだけの膂力があればあんな事が……)
既に見えなくなってしまったシンジュが走っていった方向を静かに眺め、シスネは考える。既に鉄仮面は元の位置に戻っていた。
――確かに自分は、「全力で」と言った。
言ったが、シスネもまさかこれ程の力をシンジュが持っているとは思っていなかった。
まさに予想外。もはや彼女が人間かどうかも疑わしいと感じる程に。
――怪物の主は、想像すらも凌駕する更なる怪物。
そう思った時、シスネの背筋をゾクリと恐怖がひと撫でした。
シスネは、完全にシンジュの実力を読み違えていたのだ。
(アレを敵に回さずに済んだのは僥倖でした)
シスネは、シンジュが魔王を配下に出来たのは『女神の加護、それに伴う何らかの特殊な力』をシンジュが持っていたからだと考えていた。
その読みは、半分正解で半分間違い。
確かにシンジュは『完璧育成』という神技スキルを獲得しており、それによりミキサンを手中に収め、なおかつ、ただの下級悪魔に過ぎなかったミキサンを魔王にまで昇格させた。
だが、そこに女神の加護は関わっていない。どころかシンジュは女神の加護がどういった物であるかも全く知らない。
シスネがそんな間違いをしたのは、女神の加護を知るシスネだからこそであり、加えて、自身が使った『理想郷』という大魔法のせいであった。むしろ後者の影響が大きい。
自分の魔法と似た力を持っていて、それを使って魔王を配下とした。そうシスネは考えていたのだ。
ゆえに、シスネがシンジュを引き入れたのは、シンジュの実力を考慮してのものではない。いくら強いと言っても所詮は人。魔王には劣る。シスネは両者の力関係をそう見ていた。
彼女は魔王を牽制する為の役でしかなかった。良くて相討ちだろうと。
死んでも何も問題などない。
「シスネ様」
思考に耽っていたシスネにカナリアが声を掛けた。
「驚きましたね。まさかこれ程とは」
「全くですわ」
「案外、彼女ならば簡単に勝ってしまうかもしれません」
「そう上手くいくでしょうか?」
「元々、彼女に勝てる見込みがあった訳では無いのです。カモの背負うネギよりは期待していいでしょう」
無表情ゆえ、冗談ともつかないシスネの言葉にカナリアがクスクスと笑う。そんなカナリアに構わずシスネが続ける。
「よしんば、今回勝てずとも、次は勝てるかもしれません。それが駄目でもまたその次が。―――何度でも挑み続ければ良いのです。魔王が疲弊しきるその時まで―――時間もチャンスも無限にあるのですから」
そう言ってシスネ・ランドールは、顔を少し上げ、薄い雲がまばらに広がるランドールの空を眺めた。何処からか聞こえてくる鐘の音を聞きながら。
☆
「そんな物騒な言葉をお使いになると、怒られてしまいますわよ?」
街まで吹き飛んだ自分を走って追い掛けて来て、「ぶち殺す」と鼻息荒く息巻いて言ったシンジュに、ミキサンが諌める様に告げた。
「誰に?」
「さぁ……、誰なんでしょうね」
ミキサンは、普段と変わらない表情で裾についた砂を手で払い落とした。
そうしながら考える。
一先ず、シンジュとシスネの分断は出来た。
力やスキルによる技能はあれど、全く戦い慣れていない彼女の事ゆえ、自分が姿を見せ、いざ戦いとなれば、まず間違なく初撃はただ真っ直ぐ突っ込んで来るだろうと、ミキサンは予想していた。そしてその予想通りの展開になる。
あとは、それを利用して上手くシスネと引き離すだけ。それも上手くいった。ひと芝居打っただけのミキサンに先程のダメージは無い。
今からシンジュを撒いてシスネを殺しに行くのは簡単だろう。
だが、それでは駄目だろう。それをしても意味がない。
思考を重ねるが、―――やはり自分にはシスネの魔法を打ち破る力がない。もし、打ち破れる者がいるとするならば……。
それはおそらくシンジュであろう。と、ミキサンは考える。
ミキサンになにか根拠がある訳ではない。ただ、主君への信頼がそう感じさせているに過ぎない。
結局のところ、この戦いの勝敗はシンジュ一人の行動で決まってしまうのだ。
(我ながら情けない……)
出来る事なら自分の手で終わらせたかった。主君の手を煩わす事なく、自らの力で……。
「ミキサン? そろそろ始めていい?」
律儀にも考え事をする自分を待っていてくれたらしいシンジュに、ミキサンは思わず苦笑する。
態度こそミキサンを気遣ってくれるいつものシンジュであるはずなのに、やろうとしている事はミキサンの殺害。心と行動がてんでバラバラ。
ミキサンは深く息を吐くと覚悟を決めた様に構える。不敵に。
「よござんす! かかってらっしゃいな! 身体能力だけで勝てる程、わたくしは弱くはありませんことよ!」
そこから始まったのは、超常対超常の凄まじい戦いであった。
人の限界を遥かに超えたシンジュの行動ひとつひとつが常軌を逸していた。
シンジュが走れば踏み込んだ大地は割れ、突風が巻き起こる。
拳が突き出される度に、衝撃のベクトル上にある建物は根こそぎ破壊された。
繰り払った脚は真空を生み、雲と大地を割った。
巻き込まれる第三者がいようがいまいがお構い無し。そこら中から住民達と悲鳴が上がっているが、シンジュはもとより、ミキサンにもそれらの人々を気にする様な素振りはない。
文字通り『全力』。
脇目も降らず全力でミキサンを殺しにきている。
(全く! 全然! 意味が分かりませんわ!?)
初撃のただ真っ直ぐ向かって来ると予想出来ていたものならばともかく、様々な角度から放たれるそれらをスキルの全力使用によって凌ぐミキサンが、声にならない悲鳴を上げる。もはや物理法則などあってないようなもののシンジュの一挙一動に戦々恐々となる。
魔王である自分すらも圧倒する大破壊。
そんなシンジュを相手に、それでも何とか粘り続けていられるのは、シンジュのそれらの行動が全て身体能力のみ頼ったものであったからだ。
シンジュには魔力が全くない。
多少の優劣はあろうと、この世に生を受けた者ならば誰であろうと持っている魔力を、何故か全く持っていないのだ。
(おそらくあの小娘も、これだけの力を持つ我が君がまさか魔力を全く持っていないとは夢にも思っていない事でしょう)
その事をシンジュは常日頃から嘆いているが、今、この時、この状況においては、思わず小躍りしてしまいそうになるくらい、ミキサンにとって幸運な事であった。
シンジュがもしも魔力を持っていたならば――
(考えただけでも恐ろしいですわね……)
材質は紙かと疑いたくなる程に、次々といとも簡単に破壊されていく街並みを一瞥しながら、そうミキサンは思った。
「もぅ! 逃げてばっかで全然当たらないじゃん!」
たった今、大地に巨大なクレーターを作ったシンジュが頬を膨らませる。
冗談ではない、とミキサンは苦く笑う。
ミラージュに暴視、気配探知に危機感知、加えて魔力探知に超速移動、更に空間転移と、スキルのオンパレード。それでどうにか避けるだけで手一杯だというのに、この上で反撃までしろと?
冗談ではない。そんな余裕がある訳がない。
魔力を伴わないただの物理攻撃であるはずのシンジュに、ミキサンが警戒するのには訳があった。
確かにシンジュは魔力を持たない。
だが、シスネの生み出したであろうこの魔法空間には魔力が満ちている。
カラスの女性に脚を突き刺された事を思い出す。
あれも何て事のないただの短剣であった。
にも関わらず、ただの短剣はミキサンに確実にダメージを与えるという結果を出した。
つまり、ミキサンの優位性が失われてしまっている事に他ならない。
これはミキサンにとっては由々しき事態である。
シンジュの攻撃が、あの短剣の様な効果を持つとハッキリしているわけではなかったが、それを検証するにはあまりにリスクが高過ぎた。
一撃でも食らえば、それだけで戦闘不能になりかねない。
シンジュが魔法を使える様になったわけではないので、そこだけが唯一の救いといえば救い。
「まぁ、魔力の無い主などどうとでもなるのですけどね。あとは――」
「(姐さん! 準備完了しやした!)」
シンジュの猛攻を避け続けていたミキサンの頭の中に、突然、トテトテからの念話が届けられた。
「遅い。――と、言いたいところですが、今回は許して差し上げますわ」
ミキサンがニヤリと笑って返す。
「(なんとか家主さんをこっちまで引っ張って来てくだせえ)」
「今向かっていますわ。しくじったら承知しませんわよ」
怖い怖い――と笑うトテトテに檄を飛ばしつつ、ミキサンは自宅のある方へと駆けた。
当然の様に後ろをついてくるシンジュを引き連れて。
時折、先の攻防で崩れてしまった建物の破片を投げて来るシンジュの攻撃を避ける為、直線ではなく空間転移を織り混ぜた曲線を描く様に進み、ミキサンはどうにか自宅近くまでたどり着く事が出来た。
自宅が視認出来る距離にまで来た頃、トテトテから再度念話が入る。
「(結界がありやすから家の同居人とはいえ上からは姐さんにも入れやせん。いや、姐さんなら力業で入れるかもしれやせんが家が壊れちまいやすから、必ず門から入ってくだせえ)」
「分かりまし――」
返事の途中、ミキサンの体を激しい衝撃が襲った。
念話に気を取られていたミキサンの隙をついて、いつの間にか距離を詰めたシンジュが背中に強烈な飛び蹴りを見舞ったのだ。
ミキサンは、メキメキと鈍い音が自身の体の内から聞こえるのを聞いた。
ミキサンの体を衝撃が突き抜け、そのまま、自宅の塀へとぶつかり――
「ッッ!!?」
ミキサンの体に強烈な電流が流れた。
時々の住み処によって生み出された結界がミキサンを襲ったのである。
蹴りによる衝撃のベクトルが元々の進んでいた方向だった事もあり、背骨が折れるまではいかなかったミキサンだが、スピードの乗った状態で結界へとぶち当たった事で大きなダメージを受けてしまう。
(やはり物理攻撃がわたくしに効いている!? 忌ま忌ましいランドールめ!)
朦朧とする意識でシスネへの悪態をついた後、追撃するシンジュの攻撃を避けようとするミキサンだが、先の衝撃で体が思う様に動かない。
必死に体を震い立たせるミキサンの横っ面に、シンジュのハイキックが炸裂した。
頭が吹き飛んだかと誤認する程の衝撃の中、それでも意識を失う事がなかったミキサン。もはや執念だけで意識を保っている状態であった。
しかし、衝撃はこめかみをぶち抜き、体がくの時に曲がり、なおも勢いは留まる事を知らず、ミキサンは頭から地面へと突き刺さる。
頭から血を流し、血反吐を吐いて地面に埋もれる半死半生のミキサンを、ニコニコと微笑んだシンジュが無造作に掴み上げる。
いつもと変わらないシンジュの表情。
靄のかかった視界の中、ミキサンはその顔に何とも言えない感情を抱いた。
「これでおしまい。良く頑張ったね」
「……お褒めの言葉、ありがたく……頂戴致します」
かすれる声。されどニコリと満足そうに微笑み応えた。
それを認めた後、シンジュはミキサンを掲げたまま、右手に拳を作り、振り上げた。ひどくゆっくりと。
「つきましては……」
「?」
今際の際、ミキサンが言葉を紡ぐ。
拳を振り上げたまま、シンジュが少し怪訝な顔を作った。
「出来れば綺麗な庭で死にたく思います。わたくしの最初で最後の我が儘。聞いては頂けませんか?」
「うん! いいよ!」
なんの疑いもなくシンジュが了承し、もはや自力で立つ事もままならないミキサンをそのままズルズルと首根っこを引いて、自宅の庭を目指した。
門を潜り抜けた。
「あ……れ?」
門を潜った途端、体を支えていたシンジュの足が力なく沈み込む。
シンジュはポトリと手の先のミキサンを落とすと、そのままパタリと地面に倒れた。
ミキサンがふらふらと立ち上がり、その顔を覗き込む。
すぐにスゥスゥと小さな寝息が聞こえてきた。
その様子に心底ホッとした表情を浮かべたミキサンが息をつく。
「上出来ですわ」
「(お褒めに預かり光栄でやんす!)」
姿こそ見えないが、恭しい口調のトテトテの声が頭の中に響いた。
それが頭の傷にズキズキと痛んで、やや不愉快そうに顔を歪めるミキサン。
「(しかし、本当に家主さんは魔法に対する耐性が皆無でやんすね。ここから見てやしたが、とても拳ひとつで街をぶっ壊す人と同一とは思えやせん)」
「この方の力は極端なのですわ。魔力を捨てて、身体能力に特化させたのでしょう。――魔法というモノを良く理解していないから、こういう極端な能力の割り振りになるのですわ」
「(はぁ……。あっしには良く分かりませんが……。でも、こんなに魔法耐性が無いならあっしじゃなくて姐さんが眠らせれば良かったのでは?)」
「あいにく、わたくしは子守唄は唄えませんの。破壊に重きを置く性分ですから」
「(それもそれで極端でやんすね)」
確かに――とミキサンは思う。
壊す事ばかりに特化し過ぎているせいで、シンジュを無傷で制圧するすべをミキサンは持っていなかった。
もし、何かひとつでもそういう魔法を持っていれば、こんな大怪我をせずとも事が運べたはずである。
命令を言霊に乗せて、聞いた相手を強制的に従わせる事の出来る『絶対魔王主義』で出来なくもないが、これは格下相手ならばいざ知らず、同等程度、或いは格上には通用しない。
そもそもの話、魔王である自分と同等以上の者などそこかしこに居るはずもなく、だからこそ『絶対魔王主義』一本で十分だと考えていた。
だが、現実は違った。
「(所詮無いモノねだり。今考えてもしょうがありませんわ)」
ミキサンは気持ちを切り替えるつもりで、顔の血を手で拭い、それから一度大きく深呼吸する。
「我が君の事は任せましたわよ?」
「(へい! 任せてくだせえ! 例え魔王が来たって守ってみせまさぁ!)」
冗談を言う余裕のあるトテトテに内心むかっ腹が立ったミキサンだが、――トテトテは後でシメルとして……。
「(これからどうするんでやんすか?)」
「決まっていますわ。あの小娘をたっぷりと可愛いがって差し上げますことよ」
「(でも、あの人不死身なんでやんしょ?)」
トテトテの言葉をミキサンが鼻で笑う。
「良いですこと? 世の中に完璧なものなどありはしないのですわ。無類の強さを誇る我が君にも弱点があるように、必ずどこかに穴があるものです。魔法とはそういうものです」
戦いは、シンジュ対ミキサンから、シスネ対ミキサンの最終局面へと移行する。




