豊穣祭、二日目後半・徹底敵
「クソッタレのどぶネズミっ!」
「ケレス! 落ち着け!」
ピチリと切れた。
カクンとケレスの体が僅かに落ち込む。
三重に捻られた縄の一本が切れたようだった。
その事自体は体に大きな負荷が掛かるような事ではなかった。落ちたわけではない。いまだ宙ぶらりんのまま。
しかし、暴れていたはずのケレスは、途端に顔を青くして大人しくなった。
静かになった空間に、カリカリと小さな音と風の音だけが残る。
確かにそこにある音。しかし、音だけで姿は見えない。
無気味な穴から顔を出し、ヒタヒタとこちらに歩みを寄せる死神の足音のようだった。冷たい死神の吐き出す息が足下から昇り、やがて全身に纏わりつき、カタカタと体を震わせる。
しばらくその音を黙って聞いていた二人だが、やがてジュイスが大きく息を吐いた。
「わかった。降参だ。俺は知ってる。知ってる事は話す。だから、命だけは助けてくれ」
「そうですかぁ。それはなによりですわぁ。殿方をパンツ一枚にひん剥いたかいがあったというものです」
別にほぼ裸にされて、それが恥ずかしくて隠し事を喋ろうなどと思ったわけでは無かったが、それに反論する時間すらも勿体ない。頭上のカリカリはその間もずっと鳴り続けている。
「俺達はただ雇われただけだ。貴族派の中にアンソックスって伯爵がいる。そいつが黒幕だ。俺達はアンソックスにアダムガーデン侯爵の暗殺を依頼された。なんでアンソックスが侯爵を狙うのか、詳しい理由は知らない。俺達は――」
そこまで口にして、ジュイスが言葉を止めた。
カナリアを見ながら、ジュイスが怪訝そうに眉をひそめる。
少し離れたところで二人に対しているカナリアは、ジュイスに向けて不思議そうに首を傾げていた。
「あの~」
「なんだ?」
「一体なんの話をされているのでしょう?」
「なにって……、そりゃ……」
「カナリアめはぁ、あなた方が誰の犬だとか、誰を暗殺しようとしたとか、そんな事は微塵も興味がありませんし、くっそどうでもいいのです」
そう言って、カナリアは朗らかに微笑む。
「いや、聞きたい事があるんじゃ……」
「勿論、質問はございます。ただぁ、ご存知だとは思いますが、現在あなた方お二人がおられるのはランドールでありまして、王国の、まして貴族の些事などランドールにはなんの関係もありませんわぁ。どうぞ椅子取りゲームでもいがみ合いでもお好きなだけしてくださいませ」
「じゃあ、あんたの質問ってのは……」
「はい~。あの~、凍死か縊死か落下死か、いっそ殿方らしく男を見せて潔く斬首による失血死。どれが良いかお聞きしようと思いましてぇ~。あっ、誤解しないでくださいませ。カナリアめは決して強制など致しません。やはり死に方くらいは、個人の希望を尊重すべきだと、カナリアめは思うのです」
柔らかい口調と微笑みを称えたカナリアが、「どんな死に方が良いか?」と二人に尋ねた。
死に方を選らばせてやる。はたしてそれは慈悲なのか?
強制で殺す事が確定しているのに、こちらの意見を尊重すると宣ったカナリアに、ジュイスは思わず乾いた笑いを溢した。
「……一応聞きたいんだけど、死なずに助かる方法ってのは無いのかな?」
「先程も申し上げましたが、王国の民がどうあろうとカナリアめは知ったこっちゃないのです。善人も、悪人も、カナリアめには等しく、同じく、平等で、違いないのです」
そう言ったあと、「なら、」と口を開いたケレスの言葉を、カナリアが強い口調で吐き出した「ただぁ~」という言葉で遮った。強く、妙に間延びした声だった。
言った途端、いままで微笑みを浮かべていたカナリアの表情が、ガラリと変わった。
少なくとも、見える表情にはなんの感情も伺い知れない。無表情。
しかし、その双眸の奥から真っ直ぐ二人に向けられるのは、強大に膨れ上がった殺意。
精巧な人形に、殺人鬼の目玉だけを放り込んだようなカナリアを見たケレスとジュイスがブルリと体を震わせた。
決して冷風の運ぶ寒さから来るものではない、寒気。
「それがランドールに害をもたらす存在ならば話は違ってきます。――良いですか? ケレスさん、そしてジュイスさん。此処ランドールの中で侯爵の暗殺を行えば、ランドールは必ず悪者になります。事実無根の殺人容疑をかけられるのは避けられない事でしょう。真実など二の次。必ず、ランドールが悪という結末になるのです。お二人にその自覚があったかどうかは分かりませんし、自覚があろうとなかろうと結果は少しも変わりません。――ここだけの話。カナリアめはランドールなどどうでも良いのです。僅かばかりの興味もありません。しかしながら、あなた方が為そうとした事は、ランドールをこよなく愛し、その地位向上のために努力してきた姫様達を嘲笑う蛮行です。万死に値します。この時点で、あなた方はカナリアめの敵です。姫様達の安寧を脅かす敵です。絶対に殺さねばならない敵です。僅かにでも生き残る可能性などあってはならない敵です。逆襲する隙など与えず、圧倒的優位から、殺し、刻み、粉砕し、消し去り、慈悲も無く、可能性の一欠片も残す事なく駆逐し、徹底的に殲滅しなければいけない敵です。――あぁ、しかし悲しいかなハルデンさん、そしてカイルさん。カナリアめはお二人より弱い。普通に対峙し、対等な場で戦ったならば、カナリアめではお二人に勝つ事は出来ないでしょう。ですからカナリアは、この場の、この瞬間に、反撃など許さず、圧倒的優位な状況で、絶対に勝てる時に、あなた方を殺す事を貫徹せねばならないのです。これが、弱者たるカナリアめの戦い方なのです」
言葉の拳を何度も殴りつけるような威圧的な口調でそこまで言ったカナリアは、まるで何事も無かったかのようにまたニコニコと微笑みを浮かべた。
ついさっきまで、ケレスとジュイスはカナリアの浮かべる微笑みのせいで、カナリアという人間を少しなめてかかっていた。
所詮は女だとか、尋問もろくに出来ないただの脅しだとか、そんな風にカナリアを見ていた。
とんでもない。
この女はイカれてる。
狂ってる。
最初からこちらを殺しに来ている。まともに質問する気も、助けるつもりも、微塵にも思っていない。ただただ殺しに来ている。
ランドールの中で侯爵を殺せば王国がどういう行動を取るか、それが分からなかったわけではない。
主君への盲目的な愛を盾に、それこそこの女は快楽主義者のように、容易くこちらを殺すだろう。ニコニコと微笑みを浮かべたまま。
逃げ出す事など不可能に思えた。
仮に運良く逃げ出せても、このカナリアという女は何処までも殺しに追い掛けて来るだろう。相方ですら知らない本名を何故この女が知っているのか分からないが、それは「いつでも殺しに行ける」という宣言の様にも聞こえた。
この女に敵だと認識された時点で、死ぬ事が確定してしまったのだ。今逃げたところで、それはただほんの少し寿命が伸びたに過ぎない。
プチンとまたひとつ螺旋状の縄のひとつが切れた。
鳴り響くカリカリもずっと続いている。
「ああ、くそ……。やっぱり引き受けるんじゃなかった……」
諦めにも近い言葉がケレスの口から漏れた。
同感だと、隣でジュイスが力なく笑う。
それぞれを支える縄はいつの間にか一本づつになっていて、二人の自重でいつ切れてもおかしくない状態であった。
「お前、カイルって言うんだな」
いつ切れて落下するともつかない中、唐突にケレスがそんな事を口にした。
「そういうそっちはハルデンって名前なのか」
「……ああ」
「……そっか」
初対面のように言葉を交わし合う。
実際、互いに偽名ではなく相手の本名を口にしたのはこれが初めてだった。
「ハルデン」
「なんだ?」
「今だから言うけど、あんたはもうちょっと直情的なところを治した方がいい」
「はっ! カイル、お前は人を試すような態度を治した方がいいぞ」
「ははっ、努力するよ。――生きてたらね」
「そうだな。生きてたらな」
今際の際の冗談に、二人が小さく笑い合う。冗談を言って笑いでもしなければ平静を保てそうになかった。
そんな二人のやり取りを待っていたかの様に、ブチリと、同時に二人の縄が切れた。唐突に。必然に。
一瞬の無重力を味わった後、二人の体が落下する。
二人は叫び声も上げなかった。命乞いもしなかった。
何故なら、そんな暇などない程に、落下の終わりは直ぐにやって来たからだ。
ドタッと大きな音がして、二人は床に尻から着地した。受け身もままならず、体をしこたま打ち付けた。
床下――二人の体のすぐ下には、真っ暗な口を開けた大きな穴が広がっている。しかし、二人はまるで見えない床でもあるかのように、落下する事なくその場に留まっていた。
「なんだこれ?」
「ガラス?」
死の覚悟から一転。呆けたように二人が呟く。
そこにクスクスと小さな笑い声。
「びっくりしましたか?」
口元を手で隠したカナリアが、さも可笑しそうに二人に尋ねた。
悪戯が成功した時のような無邪気な笑い声と表情に、二人が脱力する。
「ああ……」
「かなり、ね」
「それはよう御座いました。ただぁ、勘違いしないで頂きたいのですが、安心させてから落とすのがカナリアめで御座いますぅ」
「……どういう――」
意味か――と続けようとしたケレスの言葉を待たず、カナリアは後ろ手に隠し持っていた鈍器のようなモノを床に叩きつけた。
人を支えるギリギリの強度を保っていた透明なガラスに、ピキリとヒビが入る。
瞬間的に割れはしなかったが、二人の体重による負荷がかかり、たちまちにヒビが広がる。
「おまっ!? ちょ、待て!」
「止めろ! それを振りかぶるな!」
ニコニコと微笑んだまま、再度鈍器のようなモノを振り上げたカナリアを、二人が大慌てで止める。
ぐるぐる巻きは健在で、動く事など出来はしない。止めてくれと懇願しか出来ない。
「出来ない相談ですぅ」
にっこり微笑んだ奇抜な服を着たメイドは、聞く耳など端から持ち合わせておらず、止めろと叫ぶ二人の目の前で無情にもガラスを叩き割った。
ガラスの破片を伴いながら、二人は底があるかも分からない穴の中へと吸い込まれる様に落ちていった。
二人が落ちたのを無表情で眺めた後、カナリアは手に持っていた鈍器のようなモノをポイと穴の中へと投げ捨てた。
三つのモノを飲み込み食事を終えた穴は、そのまま口を閉じた。
あとには穴など無かったように、いつもとなんら変わらぬやや寂れた教会の床が広がっていた。




