豊穣祭、二日目・朝
十章です
俺の名前はヒロ。
魔導の申し子とか大犯罪者とか色々あだ名があるらしいが、どこぞの誰かが勝手に付けただけで俺は許可した覚えなぞ全くない。
異世界に来る前はワタナベって苗字も合ったが、今はヒロとだけ名乗っている。
そう、異世界だ。
一年程前に異世界にやって来た俺は、なんだかんだと愚痴を溢して、異世界での生活を楽しんでいる。
元の世界に戻るための魔法を探しながら、俺は色々な事をしたり、様々な場所に訪れたりしたが、いまだ帰還の魔法は獲得出来ていない。
にも関わらずだ。
朝目覚めると、俺はまた別の異世界に飛ばされていた。
異世界という表現は勿論比喩なのだが、俺にとって今居るこの場所は異世界と言って差し支えない。
それほどに未知の場所。
どんな場所か?
良い質問だ。
まず、使い古した一張羅の紺ローブを着る俺とは対照的に、周囲はやけに明るい色が目立つ。
それほどに、白く、明るい部屋であった。
部屋には様々な家具が置かれていた。そのどれもが細部に至るまで凝った装飾を施されていて、非常にお高そう。
かと言って、部屋の雰囲気を決定付けるそれらがけばけばしく目立つかと言われるとそんな事はなく、豪華、と言うより、優雅、と表現した方が正しい。
そんな優雅でお高そうな家具のひとつに、円い形のテーブルがある。
その中心ど真ん中で、俺の頼れる相棒こと妖精のハロが、涎を垂らしただらしない顔をして大の字で眠りこけていた。
そこまではなんの問題もない。
お高い家具に囲まれていたって、所詮家具は家具でしかないし、ハロがむにゃむにゃとたまに寝言を呟きながら爆睡しているのだって普段通りだ。
問題なのは、このきらびやかな部屋がなんとも言えないとても良い匂いがするという事と、ベッドに横になる俺の隣にシスネ・ランドールが小さく寝息を立てているという事である。
どうしてこうなった!?
全く記憶がない。
自分が何故、シスネ・ランドールの部屋で、しかも同じベッドで寝ているのか、全然思い出せない。
目が覚めたら、姫君の私室という異世界にいて、しかもとんでもない状況だった。
すぅすぅと小さな寝息が聞こえて来るのは、特段俺の耳が良いからというわけではなく、顔が――顔が凄く近いからだ。
まともに横を向れず、天井を見上げる形で石みたいに硬直して、耐えている。
誰かに見られる前にベッドを抜け出さねば、エライ騒ぎになってしまうのは重々承知しているのだが、動けない。
今動いたら、まるで抱き枕か何かの様に俺の右腕を抱いて眠るシスネ・ランドールが起きてしまいそうで、身動きが取れなかった。
「ん~も~、ヒロってばまた無茶してから~」
突然聞こえた声に驚く。
視線だけを声の方にやると、眠ったまま口をむにゃむにゃと揉むハロの姿。
寝言かよっ。
タイミング悪い奴だな。
なんて事を思いながら、ハロにジト目を向けていると、隣で微かに動く気配があった。
慌てて目を瞑り、祈る様な気持ちで寝たフリの演技に全力を注いだ。
◇
昨日の疲れが溜まっていたのか、いつもより遅い時間に目を覚ましたランドール家前当主シスネ・ランドールは、本来ならば目覚めと共にゆっくりと覚醒していくはずの意識が、何故だかその日は覚醒する事を拒んだ。
それも仕方のない事で、シスネが目を開けると、すぐ目の前にヒロの横顔があったからだ。
シスネは起き抜けの眼で寝息が聞こえて来そうな距離にあるヒロの顔を少し眺め、それから、眠りから覚め、活動し始めたばかりの目を、再びゆっくり閉じた。
別に二度寝をしようと思ってシスネは目を瞑ったわけでは勿論なくて、
至近距離に若い男の顔があって、
しかもひとつのベッドの上で、
オマケに自分は寝間着で、
更に自分の方から抱き着くように腕なんか掴んじゃってて、
目を開けたままでいると、そうした情報が目玉を通して頭の中に流れ込んで来るせいで、寝起きで働きの悪い頭では状況の整理が上手くいかない。
だから、動いたら起こしてしまいそうで動けない中でも唯一自由が利く目蓋を使って目を閉じて、一旦外部からの情報を遮断して、そうして考える。
夢かとも思ったが、何故かすがり付くように自身が抱き着いてしまっているヒロの腕から伝わる体温、その温もりが、目を瞑っていても否が応にも現実だと告げて来る。
何故、自分は殿方とベッドを共にしているのだろう?
そうして起き抜けで鈍った頭を最大限に働かせて、そういえば自分で連れて来たんだったと思い当たった。
そこまで思い出し、シスネはまたゆっくりと目を開けた。
起こさぬようにソッと腕を剥がし、気を遣いながらベッドを降りる。普段は気にもならない柔らかなベッドのヘコミ具合さえ、この瞬間だけは疎ましく思った。
それからシスネはベッドの脇に立つと、視線を自身の身体へと移し、おかしなところがないかと寝間着の自分を確めるように見回した。
――特段に服が乱れている様子もないし、体調が悪いというわけでも無さそうだ――と、シスネは一応の納得をして、小さな溜め息をついた。
油断していた――と、言われたらその通り。シスネは油断していた。
ヒロがシスネの寝室にいたのは、なにもヒロが勝手に忍び込んだというわけではなく、昨晩シスネが連れて来たからである。
ただし、連れて来た時のヒロは猿の姿をしていた。
昨日――つまり豊穣祭の初日。
街は、とある小悪魔の悪戯により、考えたモノに変身してしまうというトラブルの渦中にあった。
その事自体は既に解決し、一応終わった話ではあるのだが、終わったと安堵したシスネは、トラブルの余波で体が猿になってしまったヒロの事をすっかり忘れていた。
しまったとは思いつつも、シスネは特に慌てたりはしなかった。
小悪魔が悪戯に使った魔法は、名前を言い当てると解除される、という対処方法が昨日の内に確立されていた。
そのため、名前を指摘さえしてしまえば、魔法は直ぐに解けるだろうと、シスネは思っていた。
ところがである。
「ヒロ」と指摘しても、猿は元のヒロの姿に戻る事はなかった。
ヒロの相棒であるハロが言うには、どうやらヒロにはファミリーネームがあるらしい。そのため、いくら「ヒロ」とだけ名前を告げてもヒロは元の姿には戻らないのだろう――との事だった。
ハロも、「ワタシも一年くらい前に一度聞いたっきりだから」と、結局ヒロのファミリーネームを思い出せず、うんうんと頭を悩ませていた。
ならばと、ミキサンによって身柄を確保されているレディパンプキンに直接解除方法を聞き出した。
曰く、魔法・頭に描いた骸骨の変化を解く方法。それは、
名前を言い当てる事。
街にかかる魔法の使用自体を解除する事。
変化からまる一日が経過する事。
以上の三つの方法であった。
名前は分からないため除外。
魔法の使用解除も、魔王が許さないだろう。
必然的に取れる手段は、変化から一日が経過するという事だけになった。
ヒロが猿になったのは、豊穣祭初日の早朝の事。
まる一日経過が条件ならば、ヒロの変化が解けるのは豊穣祭二日目の早朝という事になる。
ならばと、シスネは1日中猿の相手をしていて疲れた様子のハロに代わり、自身が猿の相手をする事を申し出た。
パッセルが「それはちょっと……」と渋面を作って苦言を呈して来たが、シスネはすっかり忘れていた負い目もあって、大丈夫だと半ば強引に言い含めた。
パッセルは詳しく理由を語りはしなかったが、その心配事が分からないわけではない。
猿の姿とはいえ若い男を寝屋に招き入れるわけで、翌朝になれば魔法も解けてしまうのだ。それは当然ながら心配ではあろう。
つい昨日、腹が大きくなって子を産むという出来事があったばかりで、それが心配度合いに拍車を掛ける。
しかしシスネは、自分はもともと朝は早いし、ハロも一緒ならば大丈夫だろうと考え、結局、パッセルの心配をよそに猿と共に一晩明かした。
それが現在の状況を作り出してしまった。
自分で思っている以上に疲れていたらしいシスネは、普段よりもずっと遅くに目を覚ました。と云っても、遅すぎるというわけではない。いつもと比べたらという話。シンジュならばここから更に二時間は寝ている。
当然、目を覚ました時にはヒロの魔法は解けていて、起きてびっくり、殿方と同じ部屋、同じベッドだったというのが事の顛末。
無論、何もない。
猿を部屋に招いたのは、ハロに対しての申し訳なさと、誰の目も無い私室ならば猿を愛でても問題ないだろう。いっぱい撫でようかなという二つの動機があっての事。
思う存分撫でたし、食べ物を与えると嬉しそうに食べてくれる可愛い姿もたっぷり堪能した。
そこはまぁ充実した意義ある時間だったと、シスネは大変満足している。
それ以外には何もない。
ただ、何もないが、この場に居ない第三者的には何かあった方が良かったと、思っている事だろう。
早起きを常とするシスネとはいえ、絶対と言うわけではない。時には寝過ぎるという事もある。
だからシスネは昨晩の内に、もし自身が起きて来なければ日の出には起こす様に――と、頼んでおいた。
しかし、実際には使用人の誰も、シスネを起こしには来なかった。
僅かに青みがかった薄い寝間着の上から、一枚羽織り、シスネは溜め息をついた。
まさかここまでやるか――という呆れと、自身の認識の甘さ。それら二つの混じった溜め息であった。
分かっている。
使用人達は意図的に起こしに来なかったのだ。
パッセル辺りの比較的に常識のある者は起こしに来ようとしたのかもしれない。
しかし、厄介な事にそれを阻む者が使用人達を束ねる位置に鎮座している。
カナリアの事だ。
でっち上げだろうとなんだろうと、そういう既成事実を作りたかったのだろう。
本当に、アレは一体何を考えているのやら――
シスネがもう一度溜め息をついた。先程よりも大きな溜め息だった。
そうしてシスネは、悪い夢でも見ているのか何故か眉間に力の入った険しい顔で眠るヒロの顔を一瞥すると、物音を立てぬようにソッと部屋を後にした。
カチャンと小さな音を立てて扉が閉まって、そこからたっぷり時間を置いた静かな部屋の中、コソコソと声を殺して言葉を交わす姿がふたつ。
「ヒロ、いつから起きてた?」
「……こっちの台詞だ」
ニヤニヤと口元に笑みを浮かべたハロと、顔を真っ赤にしたヒロが、主人の居なくなった部屋でそんなやり取りを交わしたのであった。




