炎と氷・Ⅱ
ギルドの奥。レンフィールドを含め、職員三人しかいないランドールギルドにおいて、普段は殆ど使われないその大会議室に集まった一同。
部屋は、楕円形の長テーブルと二十席程の椅子が置かれただけのシンプルな内装をしていた。
その部屋に、チェリージャンが入って来た事を認めると、シスネが――適当に座ってください――と、その場の者を促した。
楕円をしたテーブルの一番奥。そのひとつ手前の椅子の前に立ったままのシスネを通り過ぎ、シスネがあえて選ばなかった上座の席に、フォルテが腰を落とした。
ガタガタと不必要ほどに荒々しくに椅子を鳴らしてフォルテが席につくと、それを合図にした様に他の者達も着席し始める。
「カナリア」
唐突に、フォルテが名を呼び、シスネの隣――フォルテとはシスネを挟んだ真反対に座ろうとしていたカナリアを引き留めた。
ピタリと挙動を止めて上座へと顔を向けたカナリアに、フォルテがクイと顎でひとつの席を示す。
フォルテが指定したそこは、この部屋において最も下座に当たる場所。
カナリアはニコニコといつもの笑顔を湛えてそれを受け入れ、座りかけだった姿勢と椅子を戻すと、ゆっくりとその席に向かった。
飄々とした様子のカナリアだったが、その背中には冷や汗が流れ、内心で酷く焦っていた。
――ああ、怒っている。
フォルテ様が怒っている。
姫君自慢の赤毛が、燃え盛っている――
そんな感情を押し殺しながら、一同が注視する中、カナリアは席についた。
腰を据えた後、カナリアは動揺を隠したままチラリとシスネを見た。
無表情で正面を向くシスネからは特に変化らしい変化は見られない。
ただ、シスネを良く知るカナリアは、シスネが内心でひどく緊張している事を察した。緊張したまま何事かを考えながら真っ直ぐ前を向いている。
――ああ、まずい。
シスネ様が緊張している。
鉄の姫が、炎の姫を前にひどく動揺している。
それはそのまま、それだけフォルテ様の怒りの度合いが大きい事を意味している。
――ああ、まずい。
フォルテ様が本気で怒っている。
ランドールの炎が猛っている。
知らず知らずにカナリアは唾を飲み込んだ。
先程、二階から落ちた直後までは、フォルテはそこまで怒っている様な様子ではなかった。
床ごと落ちた事に驚いてはいたが、ピリピリとした空気など欠片も感じさせなかった。
ところが、この部屋に入った途端――正確には、レンフィールドの眼が届かなくなった途端、その全身から怒りを滾らせ、呼応する様にその赤毛が燃え広がった。
無論、本当に髪が燃えているわけではなく比喩であるのだが、そんな錯覚を見た者に与える程にフォルテは怒っていた。
そんなフォルテの空気もあって、広い部屋の中は酷く居心地が悪い。
暑いわけでもない秋の気候の中で、部屋だけが燻された様に満ちる空気が渇き、ノドが乾き、シンジュが知らず知らずの内にその乾いたノドを潤そうと唾を飲み込んだ。
フォルテは喜怒哀楽の落差が激しい。
シンジュは、今までもフォルテがぐうたら冒険者達に怒っているのを何度か見た事があったが、今のフォルテはその時とは明らかに違う質の怒気を孕んでいた。
正直、シンジュは怖いと思った。
同年代がこんなにも怖いと思ったのは生まれて初めてだとも。
チラと横目に見たミキサンが、涼しい顔を自身の隣に座っているが、彼女は先程まで少し愉快そうな顔をフォルテに向けていた。それは良く目にする――ちょっとからかってやろうか――みたいな表情だったのだが、今はそれも鳴りを潜めている。
人を小馬鹿にするのが生き甲斐みたいなミキサンを躊躇させるほどのフォルテの怒りの大きさに、シンジュがまた無意識に唾をゴクリと飲み込む。
「フォルテ、怒らないでください」
居心地の悪い部屋の中、シスネがそう声をかけた。
「怒っていません」
どう甘く見積もって怒ってないなどと思えないオーラを発しながらフォルテが応じる。
「では言い方を変えます。機嫌を悪くしないでください」
「……それは、お姉ちゃんとカナリアの話を聞いてから考えます」
不機嫌を隠そうともせず、フォルテは憮然とした態度で答えた。
感情に呼応する様に、フォルテの赤毛が揺らめく。優しかった母を彷彿とさせる燃え盛る炎の様な赤が、光の作る陰影でゆらゆら揺れる。
呼称が変わった事に、シスネがビクリと肩を小さく震わせたが、不動を常とするシスネのその小さな機微に誰も気が付く事はなかった。
表には出さず、けれど――ああ、妹が本気で怒っている――と、シスネは出来るだけ淡々とした口調を意識して(意識せずともいつも淡々としているのだが)、話を切り出した。
「チェリージャン……でしたね?」
無作法に、「ああ」とチェリージャンが鼻でも鳴らすように返す。
「精霊だと聞いていましたが、人とあまり大差ない容姿をしているのですね」
気にした様子もなく、シスネが自身の感じたモノを素直に口にする。
「今は化けているだけで、普段は――」
そこまで口にし、チェリージャンは座ったまま人化を解き、本来の精霊の姿へと戻った。
向こう側が透けて見えるその姿は、薄い様相とは異なり純度の高いエネルギーの塊だと一目で認識出来る程、煌々と輝きを放っていた。
「まぁ、本来はこの姿だ」
と話すチェリージャンに全員の視線が集まる中で、シスネの視線だけが別のところに向けられていた。
自身の向かって左斜めに座るチェリージャンに顔を向けたまま、されど視線だけは更に左――フォルテによって指定された下座に座る者のところ。
チェリージャンの姿を見たカナリアの変化はごく一瞬の小さい物だった。
人の変化に敏いシスネだからこそ気付けた。
その誰もが見落とすカナリアの小さな変化を目にし、シスネが小さく嘆息をつく。
――薄々気付いていた私の予想は、だいたい当たっているのだろう――と。
嘆息ののち、次いでシスネはフォルテへと視線を流した。
フォルテは相変わらず憮然とした表情のままチェリージャンに目をやっていた。
――駄目か。
シスネの目は、フォルテが相当ご立腹である事を再確認しただけであった。
普段のフォルテなら、精霊という滅多にお目にかかれない存在を前にしたら、子供のように目を輝かせたに違いない。
しかし、今は全く興味を示さない。
あわよくば機嫌が多少は良くなると思ったが、フォルテにこれといった変化は無かった。
実はついさっきまで当のシスネも怒っていたのだが、フォルテの強すぎる炎に呑み込まれ、その怒りは何処かに吹き消えてしまっていた。
だが、それがシスネを冷静にさせてくれた。
再び嘆息した後、シスネが口を開いた。
「精霊のあなたが階下に届く程の大きな声を出して激昂する様な事態。一体何があったのです?」
「それを話す前に、ひとつ確認しておきたい」
「なんでしょう?」
「俺は、お前達ランドールに良い印象を持っていない。シンジュが信用しているから何も言わずにここまで来たし、ここに来ておいて今更なのも承知で聞くが、お前達は本当に信用出来るのか?」
カナリアを見、フォルテを見、最後にシスネへと視線を真っ直ぐ向けてチェリージャンは問うた。
シスネはその視線を真っ直ぐ受け止めた。
少しも逸らさず、しばらく睨みつけてくるチェリージャンに対して無表情のまま静かに応じた。
「昔からそうなのですが、私達ランドール家は初対面ではなかなか信用してもらえません。悪魔は謀り、騙す者――そういう意識がある内はまず信用など得られないでしょう」
そこで一旦言葉を止めて、シスネはチェリージャンの反応を待った。
先のチェリージャンからの質問は、シスネとしても悩みどころであった。
別に世の中を害そうなどと考えて生きてはいない。
けれど、ランドール家のイメージはどうしたって悪いものである。
言葉ひとつで払拭出来るなどと思っていない。
だから、シスネは先の質問にたいし、ハッキリと違うと否定はしなかった。
これはシスネの悪い癖のようなもので、彼女はこういった場面で、自分達の立場がそうだから理解出来なくてもしょうがない。仕方のない事なのだ――と、すぐに諦める。
否定は勿論、ろくに反論もせず、ただ現状だけを明確にし、相手に判断を丸投げする。
それで相手がどういう対応をしようが、自分達にも非があるのだから仕方がないと納得して、事を済まそうとする。
ランドールのためならば如何なる努力や労力も厭わないシスネだが、いざ自分の事となると、彼女は自身を卑下し、過小評価する――それがシスネの悪い癖。
いままでであれば、こういった場面でフォローのために口を挟むのがランドール家に絶対の心服と忠誠を持つカナリアの役目であったのだが、現在のこの場にて、カナリアは口を挟む立場にない。カナリアが口を出せば、間違いなく火に油を注ぐだけの結果になるだろう。
それを理解しているゆえ、カナリアはニコニコと微笑みを湛えたまま口を挟まなかった。
しかし、それは現状維持に過ぎず、それで事態が好転するわけではない。
だからか、沈黙だけが流れるその場にて次に放たれた何気無い一言は、その場の空気を緩和させるのに十分な破壊力を持っていた。
「フォルテちゃん達は信用出来るよ」
それを言ったのは、さっきまでおっかなびっくりでシスネ達のやり取りを聞いていたシンジュであった。
シスネを睨んでいたチェリージャンが、目だけを動かし声の主を見――呆れたような顔をして溜め息をついた。
「その自信は何処から来るんだ?」
「だって友達だし」
「あのなぁ、」
「フォルテちゃんを信じる私を信じて」
「…………もういい」
真顔でそんな事を言われ、興が削がれた様にチェリージャンがうんざり顔を作った。
クックッとミキサンだけが可笑しそうに笑った。
多少空気が軽くなったが、まだ話は何も進んでいない。
むしろ話の内容からして悪くなるのは確実。
それを分かっていても話さないわけにはいかず、シスネは億劫としながらも重たい口を開いた。
「ランドール家を信用出来るかどうかは、私の話を聞いてから自身で判断してください」
「……そうだな。だが、それなら俺の話から先にしておいた方が良いだろう。シンジュ以外は知らない話だ。その方がそちらの話もスムーズだろう」
「ありがとうございます」
「別に礼を言われる様な事じゃない」
小さな溜め息混じりに告げた後、チェリージャンは自身の事、そして数ヶ月前に自身の体験した出来事を語り始めた。
自分はルイロット地方を守護していた精霊である事。
守護していた地に悪魔が現れた事。
召還したとおぼしき者によって悪魔の穴に閉じ込められた事。
自身の守護が無くなり、ルイロット地方の力が弱まり、リナの村を含めたいくつかの村がモンスターの襲撃を受けた事。
最後に、そんな自分を救ったのがシンジュであり、出会ったきっかけである事をチェリージャンは語った。
話を聞き終わると、「そうですか」とシスネがそれだけ口にした。
自身の知りうる事と今聞いた話を統合していく。
それから、シンジュと二言三言言葉を交わすチェリージャンを見る。
――先ほどの怒気が嘘のように、えらく簡単に口を開いてくれたものだ――
シスネは別に呆れているわけではない。
どちらかといえば感心していた。
チェリージャンにというより、シンジュにたいして。
シンジュがチェリージャンと過ごした時間はそう長くは無い。にも関わらず友達だからの一言で納得してしまうだけのシンジュへの信頼が、確かにチェリージャンの中にある。
気難しいとされる精霊にここまで信頼されているというのはなかなかどうして――そんな事を思う。
「これから話す事は、あくまでも私の予想であり、そしてその予想に基づく私の判断だった――それを念頭に置いた上で聞いてください――カナリア」
「はぁい」
一拍ののち、
「数ヶ月前、ランドールに悪魔をけしかけたのはあなたですね?」
シスネの言葉に、憮然としていたはずのフォルテが「え?」と疑問の声を溢した。
シスネから飛び出した意外な言葉に、全員の視線がカナリアに集中する。
そんな視線など無いかの様に、カナリアはニコリと微笑みを湛えると、いつもの飄々とした態度で、「はぁい。その通りですぅ」と答えた。
カナリアの言葉を耳にし、呆けた様にカナリアを見ていたフォルテだったが、次第にその肩が小刻みに揺れ始める。
ギリッと歯軋りの音と共に、赤毛が一層燃え上がり、仇でも見る様な目がカナリアを鋭く睨み付ける。
「フォルテ、話はまだ終わっていません。どうか落ち着いてください」
シスネがそう言って諌めるが、フォルテは今にもカナリアに食って掛からんとする勢いで睨み付け、叫ぶ様に問うた。
「なぜそんな事をした!? なぜ黙っていた!? アレが何をしたか知らないわけじゃないだろう!? 返答次第ではいくらお前でも――」
「フォルテ」
「お姉ちゃんは黙っていてください。カナリアに聞いているのです」
「最初に言いました。私の判断だった、と」
淡々と吐き出されたシスネの言葉に、憤怒の表情をしていたフォルテの顔が一変、ひどく悲しげなものになった。
「まさか……姉さんも関わっているの……ですか?」
フォルテの問いに、シスネではなく慌てた様子でカナリアが声をあげた。
「違います。シスネ様は関係ありません。私が悪魔を呼び出したのは事実です。てすが、それにシスネ様は関わってなどおりません」
シスネ様は――と、更に続けようとするカナリアをシスネが片手で制してから、シンジュへと視線を向ける。
「関わっているといえば関わっていますし、関わっていないといえば関わっていません。――ただ、私は口をつぐんだだけです。気付いていながら、知らないふりをして、あなたは勿論、誰にもそれを言いませんでした。何もしませんでした」
シスネはあくまで淡々と、しかし冷たい色をした口調だった。
からからに乾いたはずの部屋の空気に湿り気が混ざった。
されどそれは、プラスマイナスにはならず、ただじめじめとした湿気が部屋に充満し、空気が更に不快で居心地の悪いものになっただけであった。
「あの、」
そこに割って入ったおずおずとした声。
心無しか身を小さくして手を上げて、発言の意思を示したのはシンジュであった。
「一応……その、確認というか……。あの、カナリアさんが呼び出した悪魔についてなんですが……。それって、」
「わたくしですわ。もっとも、魔王になる前のわたくし、ですが」
シンジュの質問に、向けられたシスネではなくミキサンが答えた。シンジュが「ああ、やっぱり?」と納得顔を作る。
「ええ」
「その辺りも含め、順を追って説明していきます。判断するのはそれからにしてください」
シンジュと、そしてフォルテへと視線を流しシスネは言うと、淡々とした口調で言葉を紡ぎ始めた。




