終わりを告げる空
ミキサンが再び自身の何かを生け贄に、禁術による捨て身の策に打って出ようと身構えた時であった。
ミキサンは、薄白い煙が周囲に流れ込んで来た事に気が付いた。
なんだと、煙に包まれながら周囲を観察する様に目を細める。
白色の煙が、ハイヒッツ通りにゆっくりと広がっていく。
何処かの建物が焼けているわけではない。
ニオイが違う。
――春花のほのかに甘いニオイ……。
――確かこれは、春に咲くとある花を燻した時の香り。
その香りと、広がっていく煙を険しい顔で注視していたミキサンが、何かに気付いたのかハッとした表情を見せた。
それと同時に、背後からチェリージャンの訝しげな声がミキサンの耳に届いた。
「お前……、煙を嗜むのか? 知らなかったな」
誰かに問い掛ける様なチェリージャンの声の方を、ミキサンは焦る気持ちを押し殺し、ゆっくりと振り返った。
「そういうわけじゃないが、なんか瘴気? とやらを中和する魔法らしいから使っておこうかと。まぁ、初めて使うから使い方あってるかわかんないんだけど」
ミキサンが背後を見ると、担いでいたチェリージャンの肩から降り、片手に葉巻を握ったシンジュがぞんざいな様子で応じていた。
「これいちいち吸わなきゃ駄目なのか? 未成年に葉巻吸わせる魔法ってどうよ? 魔法っていうか違法?」
シンジュはカラカラと笑った後、手にした葉巻を口に咥えた。
吸い、そしてすぐにケホケホと蒸せて、小さく唸った。
むぅと葉巻を軽く睨み付けてシンジュが憤る。
妙にやさぐれ飄々としたその態度、表情に、ミキサンは何故か胸を締め付けられる様な思いであった。
魔力感知など使わずとも分かる。
今、自分の前にいるのが何者であるのか。
「まぁこの世界の違法については後で考えよう――とりあえず、全部片付けてからだな」
言い、シンジュがやや膝を曲げ、踏み込む様な姿勢を取った。
そうしてそのまま跳躍する。
その勢いに、通りに敷き詰められた足下の石畳は耐えきれず、粉々に砕け散った。
シンジュが、衝撃波を巻き起こしながら高く飛び上がっていく。
その光景を、ミキサンは静かに見詰めていた。
そんなミキサンの視界の中に映る空が、突然に割れた。
否――それは、割れたと錯覚する程の破壊力を伴った拳の一振。爆音がハイヒッツ中に轟く。
その一振で、貴族級は欠片も残さず消し飛び、衝撃のベクトル上に群がっていた無数の悪魔が欠き消えた。
霧散した悪魔から湧き出た瘴気は、白く甘い香りに混じり、中和され、後には甘いニオイだけが残った。
「一撃……」
心の底から湧き出て来る歓喜を伴ったミキサンの呟き。
この一撃が、長かったハイヒッツ防衛戦の終わりを告げた。
☆
「我が君……」
地上に降りたシンジュ――主君に、ミキサンが深々と頭を下げる。
ヨビを肩に担いだチェリージャンが、ミキサンの態度の変わり様に訝しげな顔を作ったが、ミキサンは気にも止めない。
むしろ、ボケッと突っ立つチェリージャンに対し、「お前もさっさと頭を下げろ」とばかりに、頭を下げたままねめつける様に鋭い視線を向けた。
「ミキサン」
「はい!」
名を呼ばれると、ミキサンはチェリージャンに向けていた険のキツい表情を一変させ、子犬の様に嬉々とした笑顔で頭を上げた。
彼女に尻尾があったなら、右に左にブンブンと激しく揺れていたに違いない。
破顔一笑するミキサン。
その顔を眺めながら、シンジュが歩みを寄せていく。
自身のすぐ目の前まで足を進めた主君の姿に、ミキサンの笑顔が一層強くなる。
キラキラと、何かを期待する様な瞳。
頑張ったのだ。
彼女は誉められたくて一生懸命頑張ったのだ。
自分の信念も誇りも曲げて、魔法も、両の腕さえも投げ捨てて、ただ誉められたいという一心で、彼女はここに立っている。
勿論、普段は冷静に努め、淑女然としたミキサンが誉められたいなどと口にする事は無いが、身体中から心の声が溢れ出している。
主君からの御褒美。
それが嫌々ながらもミキサンを最後まで完走させた原動力に他ならない。
「ミキサン」
「はい!」
もう一度名前を呼ばれる。
来るか来るかと、気持ちの昂りに合わせる様に、体がやや前のめり(あわよくば頭を撫でて貰おうと)になるミキサン。
「蹴ったよね? この体を」
そのたった一言だけの言葉の戦慄たるや凄まじく、ミキサンが笑顔のまま凍り付いた。
蹴った。
ミキサンはたしかにシンジュを蹴り飛ばした。
ヨビを止めようと突っ走るシンジュを止めるため、ミキサンは不意打ちでシンジュを蹴飛ばした。
気絶を狙ったそれは、結果としては気絶をしなかったものの、シンジュの後頭部に炸裂し、シンジュを地面に叩き付けるものとなった。
その事を指摘されたミキサンの顔が、みるみる青ざめていく。
満面の笑みは跡形も無く消え失せ、今にも泣き出しそうな表情へと変化する。実際ちょっと泣いている。
「も、も、申し訳ありません!」
大慌てで謝罪の言葉を述べ、頭を下げる。さっきよりも更に深々と。
そんなミキサンに、ヌゥと伸びて来る主君の手。
その気配に、ミキサンの体がビクリと震えた。
「冗談だよ。ごめんごめん」
柔らかい口調が上から降って、それと同時に下げた頭にポンポンと軽く手が当てられた。
そのまま数度くしゃくしゃと髪を撫でられる。
望んでいた、されど唐突にやって来た御褒美にミキサンの目が点になる。
ミキサンは頭を上げ、いまのは現実だったのかと確認でもする様に自身の頭に手を当て――ようとして、肘から先の腕が無い事を思い出した。
シンジュが一瞬だけ険しい表情を見せる。
それは本当に一瞬で、夢うつつの区別に四苦八苦していたミキサンが気付く事は無かった。
「おいで。疲れたろ? ほんとに良く頑張ったね――ほんとに」
そう口にした後、シンジュは当たり前の様にミキサンを抱き寄せ、突然の抱擁に慌てるミキサンなどお構い無しに、その小さな体を大事そうに抱き上げた。
「…………ッッッ!?」
一瞬キョトンとした後、ミキサンの顔が真っ赤に染まる。
――お姫様だっこ!?
――これが! あの!
「あ、あっ、あっ、あの゛!!」
裏返ったいつにも増して甲高い声を上げて、ミキサンが顔を上げる。自身を抱き上げる者の顔を見る。
「ん?」
至近距離で目が合った。
顔は見慣れたシンジュの顔なのだが、目が合った(そして見詰め合った)事に、ミキサンの顔がますます赤くなる。
このまま水蒸気爆発でもするんじゃないかという程に、ゆで上がる。
ミキサンが何か言いたげに口をもごもごしているが、唇が動くばかりで声は出て来なかった。
それを見たシンジュがおかしそうに笑うと、気恥ずかしそうにミキサンが顔を伏せた。
「帰ろうか、ランドールに」
ニコリとシンジュが微笑む。
「……はい」
顔を赤くしたまま、けれどしっかりとミキサンが微笑み返して頷いた。
ミキサンを抱き上げたまま、通りをスタスタと歩き始めたシンジュの背中を、チェリージャンがぼんやりと眺めていた。
――俺はいま一体何を見せられているのだろう?
――というか……、アイツ、あんな風に笑うんだな……。
などという感想を抱きながら、チェリージャンはヨビを担いだままシンジュを追って、自身も通りを歩き始めた。
そんなチェリージャンの更に後ろ。
「呪われろ。呪われろ。呪われろ――ミキサンなんか呪われてしまえっ!」
プヨプヨが嫉妬を色濃く混ぜた憤怒の表情でミキサンの不幸を願った。




