悪魔のような天使の笑顔
「閣下をお守りしろ!」
教会の屋根の上。
必死の形相をしたセオがそう叫んだ。
それを合図に、教会の近くにいた白狼兵団の者達十人ほどがセオの周囲に素早く集まった。
集まるや、セオを含めたその場の全員で防御魔法を結界のように構築する。
眼下の教会からは住民達の不安と焦燥の混じった悲鳴が上がっていた。
もはやパニック寸前であった。
不安ながらも王国魔導師を信頼し、避難して来た教会。
そうやって、大丈夫だと自身に言い聞かせる様に耐えていた住民達の目の前で、教会の屋根は崩れ、自分達を守っていた魔導師達はおろか、一縷の望みを託した将軍でさえ倒れた。
この状況で落ち着ける方がどうかしていた。
教会の床に倒れるブナハにはまだ息があった。
しかし、その体の至るところから血を流し、床には血溜りが広がる。呼吸も弱々しく、体を起こす事もままならない様子。
混乱に陥り、怯える人間ほど分かりやすいモノもない。
しっちゃかめっちゃか顔をあちらこちらに向け、ギョロギョロと縦横無尽に動く目玉は、視線が定まらない。
何かを求める様に、しかし何を求めれば良いのかも分からず、ただひたすら無駄な動きに終始する。
見上げれば、崩れた天井とその先に見える数多の悪魔の姿。
横を向けば、壊れた壁と乱雑する瓦礫、その中で虫の息で倒れるこの国の将軍。
どこに目を向けようとも大きくなる不安。
教会の中には、ただ絶望だけが広がっていた。
そんな人々の絶望を楽しむように、味わうように、愉悦に顔を歪める悪魔から無慈悲な槍が放たれる。
高速で飛来する黒い槍は、空気を引き裂きながら教会に真っ直ぐと落ちてゆく。
展開される即席の結界など、大した役には立たないだろう。
それを理解しつつも、セオ達にはもうそうする事しか出来ない。
セオも、十人の部下達も、そして住民達も、自分達に真っ直ぐ飛んで来る槍を眺めながら、ただただ奇跡を祈った。祈る事しか出来なかった。
人々の暴れていた視線が一点を見つめ始める。
それは絶望と混乱の先にある、明確な諦めを見付けた仕草。
迫る脅威を眼前に、恐怖を抱きながら、それでも目を逸らす事など出来ない。
長いようで短い時間の後――
大爆発が起きた。
衝撃と閃光がセオ達を襲い、それでその場の誰もの目が眩む。耳が痛い程の爆発音が鳴り止むと、崩壊しかけの教会の天井や壁からパラパラと欠片が零れ落ちる音が耳に届いた。
少し遅れて、閃光によって奪われた視界が徐々に戻って来た。
爆発が起きた。確かに起きた。
けれど、生きていた。
セオは勿論、部下達も、そして眼下の住民達も、全員が生きていた。
何が起きたとセオが思考するより早く、セオの目は、金色になびく髪が自身の顔のすぐ前にあるのを捉えた。
爆発で目をやられたのかと、そんな風に思いながら視線を動かして、目の前の金色の髪を辿っていく。
辿り、そこにある物を目にした時、
「……天使だ」
その神々しいまでの横顔に、思わずセオはそんな言葉が口からついて出た。
セオのすぐ目の前にいたのは小さな少女だった。
金色の髪を微風になびかせ、黒色に黒色を重ねたような漆黒の衣を纏った美しい少女。
セオだけでなく、その場の誰もが少女を見ていた。まるで心を奪われたかの様にまばたきすらせずに見つめていた。
惚けた顔で少女の横顔を見ていたセオに、少女が顔を向けた。
顔を向けられ、セオはそこで初めて、少女の耳が長い事に気がついた。
悪魔の様に長い耳と、悪魔の様に真っ赤な瞳。
ルビーのようなその瞳が、真っ直ぐセオの顔を見る。
「あなた」
「――へ? あ、はい」
声を掛けられたセオだったが、いまだ現実が追いついていない。何処か夢見心地のまま、セオは少女に返事を返した。
「そこで馬鹿みたいに口を開けてないで、さっさと怪我をした連中を救護なさい。あいにくと、わたくしは回復魔法は不得手ですもので」
「――はぁ……」
夢見心地のセオは、少女の言葉がすぐに理解出来ず、心ここにあらずといった感じの言葉を吐いた。
途端、
目の前の天使が露骨に鬱陶しそうな顔をした。セオにたいして馬鹿を見る目を向けた。
天使のする表情とはとても思えないその顔に、一気に現実に引き戻されたセオがギョッとする。
天使? あれ? ――と、自分で自分の思った事に疑問を抱いた。
「あなた方は言葉もまともに理解出来ない猿でしたのね? ああ、失礼。猿ではなく蛆虫でしたわね? わたくしとした事が、哺乳類と虫ケラを間違えるとは、やれやれ耄碌したものです」
「違っ、待っ……」
「あなたご存知? 蛆というのは糞と腐肉にタカる蝿の幼虫でしてよ? ああ、失礼。言葉が理解出来ないのでしたわね? 虫ケラと意思の疎通が取れるなどとは微塵も思っていませんが、虫の世界ではこう言えば良いのかしら? ブンブンブンミンミン?」
虫の居どころがすこぶる悪いのか、少女はさも愉快だとばかりに満面の笑みを浮かべ、セオをこれでもかとなじった。
天使と見紛う程に美しく無垢な少女から吐き出される恐ろしく汚い言葉の数々に、セオは思わず耳を塞ぎたくなった。世界に天使など居なかったのだ、あれらは全て幻想で、人の想像力が生んだ空想だったのだと、そう思わずにはいられない程の衝撃であった。
動転して回らない頭。
それでも何とか言葉を返そうと、セオが喉の奥から声を絞り出す。
「えっ、いや、あの……。分かりま……す?」
「理解出来ているのならさっさと動く!」
突然の大声に、セオは驚き、思わず直立不動の姿勢を取った。手を真っ直ぐ伸ばし、同じくらい背筋を真っ直ぐにした。
そうしながら少女の言葉を考える。
――怪我をした者を救護しろ?
少女は確かにそう言った。
直立不動のまま、セオが視線だけを眼下に向ける。
悪魔の最初の攻撃で、頭や胸を貫かれて死んだ魔導師達の死体が地面に散乱している。思わず目を覆いたくなる惨状。
しかし運が良かったのか、致命傷には至らず、大怪我ではあるものの、まだ微かに動いている魔導師の姿もあった。
セオがそれを認めたと理解したのか、再び少女が口を開く。
「時間は有限ですことよ? 分かったらさっさと死にかけの連中に魔法でも薬品でもぶっかけてらっしゃい!」
「は、はい!」
少女が叫ぶように促すと、直立不動のセオが敬礼で返事をした。やや怯えが混ざった声であった。
セオの返事に、少女がニッと口の端を吊り上げる。
笑っているが、何故か恐怖を覚えるその顔にセオは慌てた様子で少女から離れた。
そうして自身と同じように少女の迫力に負け、震えていた部下達に声を掛けた。
「よ、よし! お前達は魔導師達を頼む。俺は閣下の治療に向かう」
「は、はっ!」
そうして、その場を逃げるように各自が動き出す。
目的が出来た事で、混乱は急速に鳴りを潜め、頭を鮮明にし、視野を広くする。
セオはブナハの元へと向かいながら、チラリと横目に少女を見た。
少女は既に自分達になど興味が無いのか、こちらを見てはいない。
それゆえ、セオは少女の顔をもう一度拝む事は出来なかった。
だが、とセオは思う。
七日程前。
セオは丁度その時、中央に居なかった。軍務で別の都市にいた。
しかし、報告は受けて知っている。
自分が居なかったあの日。中央に現れた姫君達の存在を。
悪魔の様に長い耳と、悪魔の様に真っ赤な瞳。
報告を受けていた通りのその容姿に、セオは確信する。
あれが、――自分達を救ってくれたあの少女こそが、ランドール家の三女なのだと。




