困りましたⅢ
「困ったものですね」
首都ハイヒッツにある王城の片隅に、ひっそりと佇む小さな教会がある。
元々、王家専用の教会であったそこは、いつからか訪れる者が居なくなり、いまや朽ち、寂れた教会だけが残る。
その地下こそが、長い耳の少年ヨビがいた牢。
人と悪魔の魔人カラカラの協力を得、誰に気付れるでもなく侵入せしめたその場所で、シンジュとチェリージャンはヨビを地下牢から助け出す事に成功した。
実にあっさりと。
そこまでは良かった。
いざ地下牢を抜けて地上へと戻ろうかという時になって、地下と地上を繋いでいたカラカラの悪魔の穴が忽然と消え失せた。
慌てたシンジュとチェリージャンだが、地上はすぐそこ。
二人は無くなった悪魔の穴からの脱出を放棄し、自力での脱出を試みた。
地上に出るのは簡単である。問題は、王城のすぐそばにあるこの小さな教会から、どうやって街まで行くかという事である。問題となるのはそこだと思っていた。
しかし、現実というのは自身が思っているようには動いてくれないのが世の常である。
無人だと思っていた教会で、二人は正体不明の人物と対峙する事となった。
驚く二人に、全身を白いローブに包み、深くフードを被ったその人物の顔ははっきりと見えない。
しかし、吐き出された――困ったものですね――という声から、女性だと判断する事が出来る。まだ若い声であった。
「その子供を連れていかれては困るのです」
「誰だ?」
チェリージャンの問い掛けには答えず、聞く耳を持たないのか女性は「こちらへ」と、片手を上げて少年を渡すように二人に示した。
緊張が走る。
「誰か知らないけど、ヨビは渡せない」
ヨビを庇うように立ったシンジュが、女性を睨み付ける。
「ヨビ? ――ああ……予備」
何かを納得したような女性の呟き。
それから、女性は小さくふふっと笑った。
「その子がなんなのか知っていますか?」
女性からの問い掛けに、やや間を置き、
「ランドール……でしょ」と、やや躊躇いがちにシンジュが答えた。
「なるほど。知っていて連れ出すのならば、偶然入り込んだネズミというわけではないのですね」
両者のやり取りを静かに聞いていたヨビ。その顔に不安らしい不安はない。むしろ、長く望んでいた牢の外をもうすぐ心置きなく見る事が出来るという想いが強かった。
だからか、ヨビは緊張感走るこの場においてもニコニコと笑顔を絶やす事はなかった。
悪意というものなど、ひとり牢で過ごしていたヨビの中には存在しない概念なのである。
どういう意味だろう――早く外を見てみたいなぁ――そんな事を思いながら対峙する両者を他人事のように眺めていたヨビの視界の端。
教会の長椅子の足元に倒れる一人の人物の姿が映り込んだ。
「カカリ?」
見知ったその人物の姿に、ヨビがシンジュ達から離れ、慌てたように駆け寄る。
まさか自分の方から傍を離れるとは思っていなかったシンジュとチェリージャンは、そのヨビの行動に不意をつかれ、すぐに反応出来なかった。
「ヨビ!」
名を叫んだシンジュが呼び止めるより早く、女性が動いた。
否――正確に言えば、女性はその場を一歩も動いてはいない。身動ぎすらしていない。
ただ内に秘める魔力を使い、魔法を行使した。
女性が魔法を行使した直後、ヨビとシンジュ達を分断するように現れた黒いモヤ。
「寄せ!」
それを目にしたチェリージャンが、ヨビを連れ戻そうと駆け寄るシンジュの腕を掴み、止めた。
チェリージャンの制止に反論しようとしたシンジュだが、正面に現れた黒いモヤに気付き、口をつぐんだ。
代わりに、「何こいつら?」と疑問を口にする。
シンジュとチェリージャン、二人の前に現れたのは、3メートルはあろうかという体躯を持ち、捻れ、禍々しい角と、血のように赤い眼を煌々と輝かせる二体の悪魔であった。
「悪魔召喚……。しかも、二体もの上級を単独で……」
「最初に素直に渡しておけば死なずに済んだのに」
女性が囁くように口にし、そのままシンジュとチェリージャンを指差した。
それを合図に、二体の悪魔が結んだ両の手に魔力を集中させ始めた。
「悪魔!? 上級!? ――って強い!?」
ややパニック気味に慌てるシンジュが叫ぶように問うた。
「強い――が、お前なら問題ない」
チェリージャンがそう返すと、シンジュはあたふたするのを止めて、素早くそれっぽい格好だけの徒手空拳の構えを取った。
「じゃあ、アレで!」
「アレな」
主語も何も無い二人のやり取りに女性が怪訝そうに小頚を傾げる中、人型であったチェリージャンが人化を解き、薄く透き通る本来の精霊の姿へと戻った。
今度は女性が驚く番であった。
「精霊!? 何故こんなところに!?」
驚きと疑問の声をあげる女性などには構わず、精霊へと戻ったチェリージャンは、構えるシンジュの背後に素早く回ると、そのまま吸い込まれるようにシンジュの中へと消えていった。
それとほぼ同時。
悪魔二体が集中させていた魔力をシンジュへ向け放つ仕草を取った。
「おっそ~い」
限界まで強化した肉体から生み出された瞬発力をもって、超高速で悪魔の懐に潜り込んだシンジュが、小馬鹿にでもするように吐き出した。
そうして懐に潜り込んだ勢いままに、右の拳をなんのひねりもなく真っ直ぐ、ストレートで繰り出す。
ボッと拳圧を伴う音と共に、悪魔の体に脇腹を中心とした大きな衝撃が突き抜ける。
上級悪魔の防御を紙切れのように突き抜け、その体を穿った拳圧はなおも止まらず、廃墟寸前であった教会の壁に大穴を開けた。
教会の壁に穴が開くよりも早く、超高速で再び移動を開始したシンジュは、二体目の悪魔にも同様にして――但し今度は左ストレートで――拳を繰り出し、その土手っ腹に大穴を開けた。
突き抜けた拳圧が、崩れ落ちて来た教会の天井を吹き飛ばし、明後日の方向へと運んでいった。
「一撃……ッ!」
驚愕に満ちた女性の声が崩壊寸前の教会の中に響く。
フッとやや自慢気にシンジュが息をつく。
「(やり過ぎだ)」
「てへぺろ」
頭の中に直接響くチェリージャンのお叱りに、シンジュが悪怯れた様子もなく小さく舌を出して応じた。
そんなシンジュの傍らには、悪魔二体を仕留めた直後に、確保したヨビの姿がある。
あまりの出来事に何が起きたかも分からず、引っ張られ、伸びた服の首元にも気付く余裕さえなく、目をパチクリとさせるヨビ。
「あなたにヨビは渡さない。そのまま大人しく帰って」
ややふざけた態度であったシンジュは、真剣な表情を作ると、拳を構え、真面目な口調で女性にそう言った。
しかし、女性はシンジュの言葉に反応を示さず、相変わらずフードで顔を隠したまま立ち尽くしていた。
しばらくの沈黙の後、
女性が愉快そうにクスクスと笑った。
女性の笑い声に、シンジュが眉を潜め、警戒するように両の拳を更に堅く握った。
「何がおかしいの?」
「いえ、まさかこれ程とは思っていなくて……。なるほど……、イレギュラー。――確かに危険です」
意味不明な女性の言葉に、シンジュが何かを口にしようとした時。先に言葉を発したのは女性の方であった。
「仕方ないわね。無策であなたに勝てるとも思えないし、ちょっと早いけど……」
「何の――」
「ううぅぅうぅ」
問い掛けようとしたシンジュの言葉を遮って、背後から突然うめき声が上がった。
驚き振り返る。
「ヨビ!?」
頭を抱え、床に疼くまって苦しむヨビの姿があった。
ひどく心配した表情で、その両肩に手を――置こうとしたシンジュの両腕が強い力で弾かれた。
あまりの強さに、腕だけに留まらず、体全体を後ろに仰け反らせる。
「ヨビに何を――えっ?」
眉を吊り上げて、女性の方へと顔を向けたシンジュだったが、そこに既に女性の姿はなかった。
忽然と姿を消してしまった。
その間にも、苦しそうに床を這いつくばるヨビ。
「ヨビ! しっかり! ――チェリージャン、どうしよう!?」
泣きそうな顔をしたシンジュが、泣きそうな声を出して、チェリージャンに泣きついた。
「(どうしようと言われてもな……。とにかく、まずは原因を――)」
と、チェリージャンが言い終わる前に、ヨビの体から弾ける様に白色の魔力が吹き出した。
その巨大な魔力の奔流に、体を支えきれずにシンジュが吹き飛ぶ。
いまだ肉体強化をしたままのシンジュを押し飛ばす程の力の渦。
「ヨビ!? ヨビ!?」
吹き飛ばされた体をすぐに立て直し、何度もヨビの名前を呼びながら近付こうとするシンジュだが、ヨビの体から溢れる魔力が強過ぎて、それ以上近付く事もままならなかった。
「ヨビ!?」
なんとか近付こうと足を踏み締めるシンジュ。
そんなシンジュの目の前で、ヨビに別の変化が起き始めた。
膨大な魔力を撒き散らせながら、ヨビの体がゆっくりと光り輝き、徐々に宙に浮かび始める。
「ヨビ!? ――チェリージャン!」
「(俺にどうしろと!? ――しかし、これは……)」
そんなやり取りを行う間にも、白光を纏ったヨビはどんどん空へと登っていく。
気付いた時には、ヨビの高度は中央で最も高い王の城を越える程の高さにまで昇っていた。
もはや声も届かないであろう高さまで昇ったヨビを、眼下から見上げていたシンジュ。
そうして、空高くにいるヨビを見ていたシンジュが、ふいに呟いた。
「翼……」
☆
中央から数キロ離れた場所にある平原。
そこから首都ハイヒッツを眺める女性がいた。
全身を白いローブに包んだその女性は、ハイヒッツ――その上空に目を向けると、すっぽりと顔を覆っていたフードを後ろに剥いだ。
出てきた顔は、神都オーデインの聖女――マリアであった。
「神話の翼相手にイレギュラーやランドールの悪魔共はどうしますかね?」
周囲にマリア以外の人気はない。
ひとり言というにはあまりに誰かを意識されたマリアの問い掛け。されど聞こえる返答などない。
「百年に渡る、百人分の苦痛、恐怖、絶望……。少年――いえ、ヨビ。あなたに恨みはありませんが、これも私の願いのため……。静かに、その礎となってください」
紡がれた言葉に悪意など微塵も含まない。
それが当たり前だと信じるゆえの、大義。そして正義。
慈愛に満ちた表情を形作ったまま、マリアは静かにハイヒッツを眺めた。
風が鳴らす草木の囁きだけが聞こえる。
ふと、マリアが小さく笑みを浮かべた。
「では賭けますか? 外れたら私の勝ちです。私が勝ったら、新しい修道服を所望します」
自分だけしかいないその場所で、マリアはそう言って悪戯に笑った。




