三回目のメアリー
「あなたのその魔法……。初めて見る物ですが、いやはや恐ろしい魔法だ」
クックッと楽しそうに笑顔を浮かべ、ヤギ頭がメアリーに指を差した。
百体以上の悪魔の首を跳ね、短刀の舞いと『怠け者はあと5分と呟いた』2つの魔法を行使し続けていたメアリーだったが、疲れらしい疲れは見せず、現れた時と同じような何処か眠たげで、しかしケロリとした態度のままであった。
「楽しそうだね? え~っと、名無しのなんとかさん」
手に持つ獲物をぷらぷらと遊ばせて、メアリーはヤギ頭に返した。
「んふふっ。ええ、名無しです。私に名前はありません。呼び方はありますが、固有名詞というものはありません」
「……へー。――なんて言うの?」
手遊びのように、剣で近くの草を適当に切りつけるメアリーが、何とはなしに尋ねた。
ヤギ頭から一際大きな笑いが溢れる。
「知りたいですか? 知りたいでしょうね?」
言って、ヤギ頭がチッチッと指を振る。
「ですが、教えません。教えたら私はあなたに負けてしまいますから」
ヤギ頭の言葉を聞いているのかいないのか、メアリーはそっぽを向いたまま、変わらず自然破壊という名の手遊びに興じていた。
少しだけそうして過ごし、ピタリと剣を止まると同時に「ちぇっ」とメアリーは小さく吐き出した。
「んふふっ、正解だったようで」
「ん~、まあ途中から私の知らない魔法を向けて来ていたし、気付いたのかなぁとは思ってたけどね」
「ええ、気付きましたよ。あなたの魔法の穴」
「そういうの好きだよね、悪魔って」
「私達悪魔の娯楽のようなものですから。――では、答え合わせといきましょう」
ヤギ頭は冗談でも口にするように笑い、背後に控える悪魔三体をメアリーへとけしかけた。
鋭い爪を生やした腕を振り上げ下級悪魔が迫る。
自分に向かって来る悪魔達を見据えていたメアリーが、僅かに眉をひそめ、それから、ぷらぷらと遊ばせていた剣を上段に構えた。
メアリーはまず最も先頭にいた悪魔の腕を上段から振り下ろした剣で切り落とすと、返す刃で悪魔の胴を裂いた。
メアリーが振り抜いたのほぼ同時、眼前にまで迫った二体目の悪魔から突き出された爪を、無理矢理にひねった体で避わす。
二体目のがら空きの胴に斬り付ける前に、三体目の伸びた腕が視界の隅に映り、メアリーは反撃を諦め、回避に専念。
二体から繰り出される爪を幾度か避わし、三度のステップを経て、二体から距離を取った。
追撃はなかった。
後方に下がった後、ふーっと一度息を吐いたメアリーの頬に、うっすらと一線の血が滲んだ。
「おや? さっきまでと強さはそう変わらないはずですが、今度はあなたに悪魔達の爪が届きましたね? 不思議ですね~」
ニヤニヤと笑みを浮かべたヤギ頭が、「何故でしょうね?」とそんな白々しい台詞を口にした。
ヤギ頭の芝居がかった挑発には乗らず、メアリーは表情を変える事なく、相変わらず眠たげな目のまま、手の甲で頬を拭った。
それから、メアリーは二体の悪魔を見渡した。
「看破したなら、当然そう来るよね。――名付け」
クックッとヤギ頭が笑う。
「ええ、そうです。名を付けました。階級は私が上ですから下級共の命名権は私にあります」
一拍置き、ヤギ頭はわざとらしく肩をすくめ、「大変でしたよ。あなたとそれらの今の短いやり取りの間に、後ろの者達全員に名前を付けるのは」と、笑みを浮かべた。
魔法には必ず穴がある。
それは『怠け者はあと5分と呟いた』とて例外ではない。
生き物、無機物、それらに加えて、形無き物。
どんなモノですら眠らせる事が出来るのが、『怠け者はあと5分と呟いた』というメアリーだけが持つ強力な魔法である。
眠らせる――それは言い方を変えれば、対象を無力化、或いは封印してしまう魔法である。5分という制限時間付きの封印。
生き物ならば、5分間もの間、たとえ天が落ちてこようと絶対に起きない。
無機物や魔法ならば、その熱量や運動といったエネルギーが完全に霧散する。
思考や感情といった形無き物も、魔法を向けられた相手の中から消失する。人形になる。
指定されたモノは、この魔法から逃れる事など出来ない。
たとえ優れた魔法使いが、対魔法の結界や障壁で防ごうとしても、その壁自体が眠らされては何の意味もない。
戦闘に限らず、あらゆる場面で有効性を示す最高クラスの状態異常魔法といっていいだろう。
そんな『怠け者はあと5分と呟いた』に穴と呼ぶべき物があるとすれば、それは『指定する対象の名前を正しく理解していないと効果が無い』という点であろう。
この『指定』は、「アレ」や「コレ」では成立しない。
例えば、剣ならばきちんとロングソードやダガーなどといった、世界の在り方として認識されている名称で指定しなければいけない。
銘のついた剣ならば、その銘をきちんと認識し、指定しなければいけない。
魔法ならば魔法名をきちんと把握していなければいけないし、人ならば、その人物の本名を把握していないと効果が発動しない。
簡潔に言えば、名前の分からないモノには魔法をかけられない。
それが、『怠け者はあと5分と呟いた』の唯一の弱点である。
モンスターや悪魔など、生物としての名称はあれど固有名詞を持たないモノは、例えば「スライム」や「下級の悪魔」といった世界共通で認識されている名で指定してやれば効果が適用される。
その為、メアリーは世の中にあるモノの名称は、おそらく王国の誰よりも知っている。覚えている。
モノの名前に限れば、一流の学者など足元にも及ばない知識量を有しているのがメアリーである。
睡眠学習の賜物だといっていいだろう。
しかし、固有名詞となると、これは記憶力や学習などではどうにもならない。
有名人ならいざ知らず、初対面の者の名前など分かるはずもない。
幾度となく下級悪魔をけしかけ、100体以上を犠牲にし、ヤギ頭はそれを見抜き、下級悪魔に名付け――新たな固有名詞を付ける事でこれを破ったのである。
上級悪魔――ヤギ頭は恐ろしく頭の切れる悪魔であった。
実はメアリーは、遭遇した初っ端から、ヤギ頭に向けて『怠け者はあと5分と呟いた』を行使し続けていた。
しかし、上級悪魔、ヤギ悪魔、偉そうな悪魔、と勘を頼りに当てずっぽうで指定してみたが、どれも該当せず、ヤギ頭に魔法の効果は現れなかった。
メアリーは、ヤギ頭の名前を考えながら「数ヶ月前にもこんな事があったなぁ」と、何故かそんな事を思い出したりしていた。
おそらく同じ様に自分よりも強い悪魔を前にしているという状況が、そんな思考を誘発させたのだろう。
その時の相手は、ヤギ頭ではなく魔王であった。
シスネの作った理想郷の中で、魔王を無力化して仕留めようと考えていたメアリーだが、結果として、それは上手くいかなかった。
その時点で、シスネがあの時企てた策の中枢が崩れたといっていい。
いくら魔王とて、眠ってしまえば簡単に殺せる。
シスネが魔王討伐を短期間の準備で強行したのは、このメアリーの持つ魔法の存在が大きかった為だ。
シスネもカナリアも、そしてメアリーも、ミキサン、という魔王の固有名詞を当然ながら把握していたゆえ、まさか失敗するとは思っていなかったのである。
では何故、魔王ことミキサンに『怠け者はあと5分と呟いた』が効かなかったのか――。
その答えは明白。
単純に名前が違うからであった。
ミキサンは、自身の名前を『ミキサン』として認識している。
本人がそう言うので、当然周りの者も『ミキサン』として魔王の名前を認識している。
だが、違うのである。
名前とは、名付け親がそう決めた時点で初めて形となり、世界に生まれる。
魔王の名を付けたのは、シンジュの体に憑依したその父親であるが、彼は魔王にたいして『ミキ』という名前を付けた。
ただ初対面ゆえ、彼は初めて魔王の名を口にする時に、『さん』という敬称を付け加えた上で魔王の名を呼んだ。
ミキさん、と。
それが何故かミキサンになり、ミキサンとして魔王本人を含めた周囲に知れ渡って現在に至っているのである。
魔王ミキサンは、正しくは魔王ミキが名前なのである。
ゆえに、いくらミキサンと指定しても、メアリーの魔法は魔王に届くはずがなかったのである。
おそらく、今後あの小さな魔王の真名が表に出てくる事はないだろう。
魔王本人もミキサンと認識しているせいで、神眼で覗き見てもミキサンという名前が表示される。
名付けた方も、「まあいいか」と流されるままにミキサンと呼んでおり、もはや自分で付けたミキという真名など、忘却の彼方であろう。
とまあ、魔王の名前がどうかというのはこの位にしておくとして、
ミキサン同様、名前が分からない以上、メアリーの『怠け者はあと5分と呟いた』はヤギ頭には通じず、いくら強いといっても所詮は人のメアリーに、破壊する事を目的として世界に存在する悪魔、それも上級の悪魔相手に勝ち目は薄かった。
世界は、悪魔相手に人が自力で勝てるようには出来ていない。
奇跡という名の力があって、人は初めて悪魔を打ち破れる。
そういう風に世界は出来ている。
奇跡の力――魔法が無ければ、メアリーはヤギ頭を倒す事は出来ない。
「さて、あなたとの謎解きは楽しかったですが、私はやる事があるのです。ここらでそろそろお仕舞いにしましょう、メアリー」
ヤギ頭が、これまで見せた笑顔の中でも一際顔を歪めてそう言った時、
状況は新たな場面を迎えた。
今のいままで草の繁みに身を潜めていたシュエットとトルチェが、繁みから飛び出し、脇目も振らず、その場から全力で逃げ出した。
「おやおや、あなたの勝ち目が薄くなったとみるや、逃げ出すとは。随分薄情なお仲間ですねぇ」
逃げる二人の背に顔を向けたヤギ頭かそう言ってクスクスと笑い――次の瞬間、細めていたその赤い目を大きく見開いた。
ドサリと枯れ草の上に何かが落ちる音がした。
ヤギ頭が目を見開いたまま、音の方へと目を向けた。
漆黒の色をした腕が、地面に敷き詰められた枯れ草の上に転がっていた。
それは自身の右腕であった。
――なにが……。
何が起こったのか理解出来ず、赤い目玉をギョロリと周囲に這わせた。
直後――
背後からドサドサと何かが地面に倒れる音が、ヤギ頭の耳に届いた。
勢いよく振り返る。
一刀のもとに斬り伏せられたであろう何十体もの悪魔が、地面に横たわっていた。
そして、倒れ、プスプスと黒煙を上げながら空気中に霧散していく悪魔達の中心。
先程まで自身の正面にいたはずのメアリーが、背を向け突っ立っているのをヤギ頭の視界が捉えた。
その背を見たヤギ頭は、メアリーと邂逅してから初めて険しい表情を作った。
――なんでしょう?
先程とは全く空気が違う……。まるで別人にでもなったよう……。
「……誰ですか? あなた」
ヤギ頭が問い掛ける。
背を向けたまま、メアリーの体はそのまま動かなかった。
ヤギ頭とメアリーの目があった。
体は反対を向いたまま、しかし首を180度後ろに曲げて後ろを見たメアリーと見つめあった。
――これは人間ですか?
首の皮が異様に捻れたメアリーを眺めたまま、ヤギ頭は目の前の何かを考える。
人間の首がこんなに曲がるものなのか……。
そうしてヤギ頭が目の前の人間の形をした何かの正体に思考を向けていると、メアリーは顔をヤギ頭に向けたまま、今度は体を180度回して、ヤギ頭に向けた。
ただし、今度は顔とは逆回り。
メアリーの顔も体も、確かにヤギ頭の方に正面が向けられている。
向けられているが、首が360度捻れている。
一見するとただ立っているように見えるが、その姿は何かが決定的に崩壊し、異常であった。
「……悪魔の私が言うのもなんですが、随分と悪趣味ですねぇ」
メアリーの捻れた首は、無理矢理捻っているせいか鬱血し、紫色に変色していた。
また、首を絞められ血が流れていかないのか、顔に血の気はなく、真っ青であった。
そして、今しがた斬り殺した悪魔の返り血を浴びたのか、メアリーの服は真っ赤に染まっていた。
――これではまるで不死者ではないか……。
そんな感想を抱いた悪魔の頭が、ボトリと枯れ草の上に落ちた。




