第1話 長い旅が始まる
初投稿です。よろしくお願いします。
頰に風を感じ、青年は目を閉じる。
自分はここで死ぬだろう。
そんな確信すら置き去りにして、彼は空間を落ちていた。
いつまで経っても、永遠の闇が彼の視界を覆うことはなかった。
目を開ければ真っ白。
「死後の世界って、こんなんだったのか」
そう青年がこぼしている間に、少女のような声が響いてくる。
(聞こえますか?)
彼は前を向き直した。
横たわっていた自分の身体はいつの間にか地面と垂直になり、程よく力を抜いて立っている。
(大澤誠二さん。あなたにもう一度……命を与えてあげます)
「もう一度?」
やはり、自分は死んだのだろう。あの高さから突き落とされれば無理もない。そう誠二は思った。
(つまり、異世界ですよ。あなたには、その世界を救って欲しいんです)
誠二と呼ばれた青年がその言葉を理解するのには、少し時間がかかった。
「そっか、俺は死んじまったのか、はは。悪い、よく知らねえ」
現代の地球で普通の生活を送っている人間が、ある日生きながら、或いは死んで異世界に行く。そんな物語が流行っているということは見た、気がする。
野球の練習が忙しく世間に目を向ける暇はなかったし、特に向けようとは思わなかった。
青年は斜め下を見ながら目を細める。
苦笑いを浮かべ、軽く息を吐き、天の声に質問を投げかける。
「……日本には戻れたりするのか?」
(分かりません。私達にはっきりしているのは、あなたの力が必要だ、ということだけです)
「そうか」
誠二はまたひとつ息を吐き、そして、
「──いいぜ。その誘い、乗ってやる」
と言った。分からないことだらけでも、今までの世界よりはマシだろう。誠二はそう考えた。
視界の霧は相変わらず晴れていない。
周りにはつむじ風が吹き荒れている。手元に光の塊が現れ、それはほどなく一振りの真剣になる。
「これが武器、か?」
(今までの世界とはちょっと勝手が違いますが、それなりの力は込めておきました)
「勝手が違うな。しばらく鍛錬だな」
誠二は剣を鞘に収めてそう言う。
(大澤誠二さん、いえ、勇者様。私たちに力を──)
天の声はそこで終わった。そのことを示すかのように、徐々に視界が晴れていった。
誠二は頰に再び風を感じている。といっても先程までとは違い、風量は微々たるものだ。
「……ん?」
違和感を覚え、目を開ける。
誠二の視界に映ったのは、彼をまっすぐ見上げる少女の顔。
怪訝な表情で眉を寄せ、口は少し開いている。何が起きているか分かっていない表情だろう。
そして誠二も似たような顔をしていた。そして──彼は引き続き落ちていた。
「うおおおおぁあああ⁉︎」
「えっ、あ……きゃあああぁ⁉︎」
少女の悲鳴、人が倒れる音。落ち葉が擦れる音、鳥の羽ばたき。シャラン、というよく分からない音。
様々な音が騒がしく響いたのは、静かな森であった。
「けほっけほっ、う、くふっ」
少女の酷い咳き込みが、誠二を目の前の出来事へと引き戻した。
「ぇは、あっ、あの……」
「え?」
少女は息を切らしている。
「うおおお、すまん!」
「あの、う、動けますか? ちょっとだけ身体を起こしてもらえたら嬉し──けほっ」
つまり。
落下そのままの勢いで、少女の胸に思い切りダイブした、という訳だ。
「分かった! 今どく!」
「あの……できればお静かに……」
「ああ!」
少女は熱に浮かされたような表情をしている。そ–れを見届ける誠二の顔からは戸惑いが見てとれた。
(とりあえず起きるか……っと!)
そう思って力を入れると、左手に柔らかい感触が伝わった。
「ん……っ!」
「えっ」
少女の声を聞き、誠二は自分の手を見ると。その手は少女の胸に押し付けられていて。
「お……お」
「落ち着いてください! だ、大丈夫です、っ、このくらい」
先程の剣が少女に刺さらなかったのは、誠二にとって幸いだった。
曲がりなりにも授かり物だからだろうか。
「大丈夫ですから──っ」
彼女は言葉を止め、一方向を見つめた。誠二も振り返り、そして言葉を失う。
そこに居たのは、大きな猪。
誠二は剣を抜き、少女を腕で遮る。
「危ねえ!」
猪に向かって駆け出す。その動きはもはや反射的だった。
「──!」
少女の声が聞こえたが、誠二の耳には届かない。
(目の前の女の子ひとり守れねえで、何が、勇者だ!)
「……ああああああぁ‼︎」
猪のもとへ駆け出し、剣を振り下ろす。
そして。
猪が音もなく、ゆっくりと倒れる。
振り下ろした剣は──空を斬っていた。
「ああ、……あ?」
「あのっ、大丈夫でしたか?」
誠二が振り返ると、そこには少女が心配そうな表情をして立っていた。
片手には弓を持っている。
「お……おう、?」
誠二の気が抜けた声が、静かな森に響く。
少女のベージュがかった髪が風を受けて揺らぎ、木漏れ日に輝いている。
誠二は話すのも忘れ、しばし少女を見つめていた。
こうして、一人の青年が世界を越えた。まことに騒がしい出来事だった。
後年、彼はこの時の事をこう振り返ったという。
「まあ……全く勇者らしくない出方ではあったよなぁと、思うね」