名朗大学附属病院 精神科医局は本日は学会準備中
※外科系、内科系診療科に対して、そこそこ批判的な文言が含まれますが、親愛の情から来るものであり、そこに悪意は存在しません。たぶん………
春だ。
年度始めだ。
学会シーズンだ。
名朗大学精神科医局では、只今、春の学会に向けて準備の真っ最中だ。
2年目の臨床研修医である神南備納得は、自分自身の発表はさすがに無いものの、先輩医師の代わりに処方を出したりレセプトをチェックしたり、発表用スライドのレイアウト調整を手伝ったりと、普段とは質の違う忙しさの中にいた。
医学の世界では年に数回、学術研究会いわゆる「学会」が開催される。診療科にもよるが各科最大規模の全国大会が最低でも年に1回、加えてそれぞれ地域別の各地方会、専門分野ごとの分科会を含めると、どの診療科でも一年中なにかしらの学会が開催されていることになる。
なかでも、春と秋の大型連休の前後は比較的大規模な学会が集中的に開催されるため、いずこの診療科も準備で大わらわなのだ。
「学会」というとなにやら堅苦しい響きだが、要は全国から医師がより集まって症例報告やら研究発表やらをする為の会合だ。
基本的には「うちのこの研究はきっと○○の診断治療に役に立つとおもうよ」とか「うちではこんな治療をして効果があったよ」とか「こんな珍しい症例を経験したので今後の参考にしてね」などの報告に終始し、同じような研究をしている施設同士が親睦を深め合う、互助会的なごやかな集まりなのだが。
同じような集団がいればそれに相対する集団もいるわけで、似た分野で異なる見解を持つ人間同士が顔を合わせると一触即発、特にお互いに気に食わない相手である場合など、やくざの抗争現場のごとく緊迫した場面も繰り広げられる。
意見の相違を認めようものなら、そこはたちまち学問という名の香水を振りかけて、功名心や加齢臭を誤魔化したオッサンどもによる「言葉での殴り合いバトルロワイヤル会場」に成り下がるのだ。
そもそも医師になろうという人間は、基本的に負けず嫌いである(←神南備の偏見)。したがってバトル必至の場に臨んで、如何に自分の主張を通して相手の反論を粉砕するか、相手の論の穴を見つけ如何に効果的に揚げ足をとるか、理論武装に余念が無い。
自分の専門分野の強化充実のみならず、犬猿の仲の研究者が所属する他所大学の抄録を手に入れて分析し、さらに類似する研究内容を医局員を動員してネット検索し、どこか粗は無いか突っ込みどころは無いかと血道をあげている某大学某教授など、付き合わされる医局員のうんざり顔も含めて誰か何とかしてください! と神にも仏にも祈りたくなる。
そんな神南備は無神論者ですが何か?
無論、普段の診療業務は当たり前にこなした上での学会準備である。只でさえ少ない医局員達の自由時間は当然潰され、学会直前の修羅場ともなれば通勤時間さえもったいないと医局に寝泊まりする者が出はじめたら、あとは睡眠時間を削るしかない。デートはキャンセル、家族サービスもお預けでプライベートに支障を来す医師も珍しくはない。
そんなめんどくさい思いをしてまで、どうして医師達は学会に参加しなければならないか。
それはひとえに「専門医」の取得と維持のためである。
最近よく耳にする「専門医」。現時点では、各診療科それぞれの専門分野の学会が発行している、ある種の専門的技能に習熟した医師に用いられる呼称だ。
医師が学会へ出席したり、さらにそこで発表したりすると、各学会で定めた「点数」が付き、有力な学術雑誌での論文発表点数などと合計して一定の基準をクリアすることで専門医の取得や更新を行うシステムになっている。
「専門医」に対する一般人のもつイメージと言えば、某失敗しない女医のドラマのオープニングのように「通常の医師免許の上位に専門医というライセンスがあり」「その免許を得ると、難しい処方や手術など特別な治療を実施することが許される」裏を返せば「専門医ではない一般的な医師では特別な治療はできない」といったものだろう。
しかし、このイメージは概ね間違いだ。
言葉の定義にもよるのだが、「専門医」という免許が有るわけではない。「専門医」は各専門分野の医師による私的団体であるところの学会が認定した一種の呼称に過ぎない。
国や都道府県といった公的団体、医師会といった業界団体が発行したものではない、という意味で厳密には「資格」でないから、国家資格たる医師免許を凌駕するものではない。
また「専門医以外は○○をしてはダメ」という公的な規制があるわけでもないのだ。
医師免許に上乗せされる公的資格は、実は少ない。産婦人科医が人工妊娠中絶や避妊手術を行うための「母体保護法指定医師」と、精神疾患の患者を本人の同意無く収監する措置入院に必要な「精神保健指定医」ぐらい。これらの資格は産婦人科専門医、精神科専門医とは独立した資格であって、これを持たずに中絶や措置入院を行えば当然罰則がある。
あとは特殊な例として「麻酔科標榜医」があるが、これは病院の看板に麻酔科を掲げてよい、手術の際に麻酔管理料を請求できるというもので、標榜医を持たない医師が麻酔をかけてはいけないわけではない。
あくまで「専門医」は学会の認定した単なる呼称であって、そこになんら強制力が無い以上、極端な話、漢字検定の級やTOEFLとたいして変わりは無いのだ(←とことん神南備の偏見)!
じゃあ専門医なんて頑張って取得しなくてもいいんじゃね? と思われそうだが、それがそうでもないから問題なのだ。
「○○専門医ということは○○が出来る技量は備わっているだろう」と推定は成り立つので、医師採用時の要件に専門医を課している病院施設は、規模の大きい設備の良さを売りにしているところほど多い。
そういう施設はまず間違いなくホームページで専門医の所属をアピールし、患者はそれを参考に病院を選ぶ。専門医を取得した医師としていない医師がいた場合、患者は単純に専門医を持ってない医師は下手と考えかねないから、専門医の有無は時に病院経営をも左右する。
要は某タイヤメーカー発行のガイドブックにおける星マークのようなもの、と言ってもいいかもしれない。(←これは作者の独自見解。異論は認める)
かくて、ある程度の規模の病院に勤める医師は、専門医を取得・維持することを求められ、そのために学会、それもできたら点数の高い全国規模の大会で発表ないし出席して、必要な点数をかき集めるはめに陥るのだ。
閑話休題
草木も萌える学会シーズン。全国大会が来週末に迫ったときては、日頃マイペースな医局員達もさすがに重い腰を上げて学会準備をはじめている……のではあるが、そこは名朗大学精神科医局。相変わらず通常どおり、みんなどことな~くのんびりムードで、焦っている者は皆無であった。
それというのも、実はこの医局、今回発表を控えている医師達は全員、学会開催の半年前、抄録の締め切り段階ですでに内容をおおかたまとめ終え、教授、准教授の審査をパスしているのだ。だからほとんどの医師の発表準備は、内容的にはほぼ完了している。
まだ作業が残っている者も、学会指定のスライドやポスターなどの発表形式に沿って様式を調え、レイアウトを見やすいよう工夫したり、発表時間に合わせて原稿の長さを調整したりと、すでに仕上げの段階になっているので焦りようが無いのだ。
ついこの前、神南備がまわった整形外科や消化器内科とはえらい違いである。
整形外科はまだ学会1ヶ月前にも関わらず、まるで明日が本番かのように真剣な予演会が何度もあったし、内科に至ってはまだ半年先の学会に向け、抄録投稿の段階から、白熱した症例検討会が繰り広げられていたというのに。
精神科ではみんな通常運転。
今回は発表が無い、もしくは他者の共同演者(ツッコまれたときの援護射撃要員)だけの者など、仕事してるふりでパソコンに向かい、開催地の観光サイトを読み漁り、食事会や飲み会の算段や土産物の見当をつけている不届き者まで居たりする。
丸っきり焦りとは無縁な集団。それが名朗大学精神科医局なのである。
……いや、一人だけ焦っている人物がいた。
「茂武君、レセプションの時のスーツはやはりこのダブルがいいだろうか?」
医局の隅の鏡の前で、スーツのコーディネートに余念が無い恰幅の良い中年男性、
精神科教授、渡最高 52歳 男性 美人の妻と3人の娘あり
である。
マスコミ露出の派手ないわゆるタレント知識人で、普段から大学内にいるよりテレビ局にいるほうが多いと言われるこの教授、今日も久しぶりに医局に顔を出したかと思えば、やおら沢山のドレスバッグを拡げてひとりファッションショーを始めたのだ。
ちなみに医局に入室してからかれこれ小一時間、学会の内容について教授は一言も発言していない……
「でもダブルのスーツは偉ぶって見えるかも。ああ、悩ましいなぁ~」
悩んでいる人間には到底できないであろう、ちょい悪オヤジ的なスマイルで、教授はチラチラと医局員達の方を見やる。
教授としたらここで絶賛の嵐、とはいかなくてもせめて肯定的意見を聞きたいのだろうが、やはりというかさすがというか医局員全員が教授をガン無視、マイペースで自分の作業に没頭している。
誰も教授の方へ顔すら向けないその横で、ただひとり、分厚い学会関連資料の束に目を通しながら教授のお相手をしている男がいた。
茂武苑一 40歳 男性 独身
「はあ、よろしいんじゃありませんか?……あ、中瓶君、これとこのメールにはOKの返事出しといて」
「はい」
……ただし思いっきり片手間で。
「それとも春らしく軽やかにシングルとベーシックなタイでいこうかな? タイピンよりはタイタックで、こう、シンプルに」
セットアップされたスーツをハンガーごと前に当て、教授がクルンっとターンを決める。にぱっと笑った口元は、驚きの白さに輝く真珠の歯並び。ホワイトニングに何十万かかったんだろう?
うへぁ、止めろオッサン。小指を立てるな。ポーズを取るな! 何だその床にちょんとついた爪先っ!
何処のコレクションのランウェイだっちゅうの!
「はあ、よろしいんじゃありませんか?……神南備君、このスライドの2枚目に利益相反のスライド足しといてね。背景色は適当で」
「了解です」
衣装が替わる度にチラッと教授の方へ視線を投げては、手元の資料をものすごいスピードでめくり、付箋を貼ったり順番を入れ替えたり、スケジュール表に医局員の発表時刻を書き込んだり、英文メールに返事をしたり、一瞬たりとも准教授の動きが止まらない……まるでビデオの早回しを見ているようだ。
今、この医局で一番大量に仕事をこなしているのは間違いなく准教授だろう。
「いつもこんなんですか? 准教授の手元が速すぎてよく見えないんですけど」
「そうだよ~。いつボランティアで呼び出されるかわからんから、今出来る事はすぐやって中途半端で残さないのが准教授のモットーらしいよ~」
半ば呆れて神南備が呟くと、至極当然の表情で指導医の中瓶が応じる。
道理で。教授のあのサボりっぷり、もとい学外活動の旺盛さ(笑)でどうして業務が滞りなく進むのか、ずうっと疑問を抱いていたのだが、それはひとえに准教授のあり得ない程の処理能力が支えているらしい。
「でも、准教授って僕が来てから数えるほどしか院内にいないですよね? いくら処理能力が高いっつっても絶対的に時間が足りないと思うんだけどな……」
「そうなんだけど~、実際に間に合ってるからなあ~色々と」
パソコン画面から顔も上げずに中瓶が呟くと、さらに横合いから別の医局員達が次々に口を開く。
「残業してるわけでもないよね?」
「仕事お持ち帰りも無い。准教授自身が禁止してはるし、そもそも持ち出せる仕事ちゃうから」
「そもそも准教授って家どこよ?」
「知らね。虚礼廃止とかで歳暮中元いらんて言うし、賀状もメールでいいっていうから、メアドは知ってるけど住所はわからん」
「だいたい仕事がらみ以外で外で会わんもんなー」
「プライベート情報皆無だね」
なんだそれ? いやいや、あり得ないでしょ! 上司、それも教授や准教授相手なら、いくら虚礼廃止ったって年賀状と暑中見舞は必須でしょ! ゴルフと麻雀は強制参加でしょ! 大掃除や引っ越し手伝いはマストでしょ!
親をはじめ親戚ほとんど医者ばかり、それも何かにつけて上意下達な体育会系の外科系医者どもにまみれて育った神南備には、准教授の住所を知らないとかあり得ないことだ。
「まあ、院内のみで仕事完結させてるのは確かよ。信じ難いけども」
「速読とタッチタイピングは達人級だよね」
「あの速さでノーミスとか、人間じゃねぇ」
「つか、ロボット?」
「サイボーグ? で、加速装置ついてたりして」
「赤いマフラー、てか?」
「古っ! せめてマフラーは黄色」
「准教授の周りだけ1日が30時間くらいあったり」
「もはや逆方向に相対的理論働いてるよな」
「ありそう」
「准教授だし」
「あはははは!」
こいつら……仮にも上司に向かって良いのかねその態度。人外扱いかよ……まあ、確かに妙な「隠し芸」持った変わった人ではあるけども。
先輩達の笑い声に神南備が呆れ返っていると、
ダンッ!
准教授の机を両手でぶっ叩く、真っ赤に膨れっ面した教授の姿があった。
「なんだね君は! 私がこんなに悩んでいるのに生返事ばかりで! 誠意が見られん!」
たかがファッションチェックに誠意ってあんた。ワガママ彼女のショッピングのお供か! うざいわ!
神南備達が一斉に脳内ツッコミを始めた時、それまで休みなくキーボードを叩いていた茂武准教授が手を止めて、おもむろに渡教授の方へ向き直った。
「私も困ってるんです」
いつもの穏やかな微笑みの、眉だけがハの字に垂れる。
言うのか? このクソ忙しいのにオッサンのファッションチェックとか、煩わしいことしてんじゃねー! とか遂に言うのか?
医局員達が固唾を飲む。
「意見の言い様がないんです。教授は何を着てもたいへんお似合いですから」
「……え? そうかね?」
……全員が精神的に2~3歩ほどよろめいた。
准教授が真顔で褒めると、教授はパアアッと頬を染め笑顔をほころばせ、ふふふんと鼻歌を歌いながらクルクル回る。
教授、乙女か! ちょろい。ちょろ過ぎる。
そして何事も無かったかのように再開される怒涛のタイピング。
あとには鏡の前で流れる様にポーズを決めまくる教授と、仕事に没頭する准教授、高速で処理されていく書類の山が残った。
「すげぇな、准教授。さすが教授転がし検定一級」
「なんすか、それ!?」
「准教授のおかげで俺達、教授の気まぐれからストレスフリーなのよ。助かるわ~」
なんともお気楽な先輩達だ。
大丈夫か、この医局?
「しかし、教授ってそんなに気まぐれなんですか?」
「そう。ご機嫌が悪いと予算も論文もな~んも認めてくんないけど、機嫌の良い時はなんでもありなの……たとえばね」
神南備の呆れ顔に応えていた中瓶が、授業参観の小学生よろしく、勢いよく手を挙げ立ち上がる。
「教授~。神南備君が自分も学会に行きたいって言ってます~」
「えっ!?」
「良いとも~! 医局長、神南備君の旅費も医局費から出したげて」
即断即決。その場のノリで神南備も学会参加が決まってしまった。
留守番予定だったのが、学会期間中丸々参加の3泊4日。しかも往復新幹線グリーン車、宿泊先は開催地の三ッ星ホテルで費用は全額医局持ちである。
ホント、大丈夫かこの医局?
「そう言えば茂武君はまたそれかね?」
「いけませんか?」
准教授の背後には、たった今クリーニングから返ってきたとおぼしき、ビニールで覆われた背広……リクルート用か新社会人風の「洋服の○○」でパンツ2本ついて幾ら、なヤツ……がぶら下がっている。
はっきり言って、神南備のお出かけ用スーツよりはるかにお手ごろ価格だろう。
茂武准教授は、その名のとおりモブ顔だ。
身長体重、顔立ち、髪色髪形、どれをとっても日本人男性の平均値。
大学病院の診察室で白衣姿を見てもなお、とても医者、それも准教授だなんて信じられないくらい「ごく普通のおじさん」だ。
この准教授がありふれた大量生産品のスーツを着て、うっかり人混みにまぎれてしまったら……絶対に見つけることなど不可能だと神南備は断言できた。
「准教授ともあろう者が、いつまでも吊るしの背広というのもどうかと思うんだがね」
まだ少し耳たぶが赤い教授が、ふと表情を曇らせる。
「何を着ても似合う僕ならまだしも、ただでさえ大衆に埋没しやすい君だ、他所に舐められない為にももう少し服装に気を遣ってはどうだね?」
「はあ……」
「僕みたいに高級仕立服とはいかなくても、学会の時ぐらいせめて高級既製服くらい着てはどうかね?」
一応、准教授を心配しての発言なんだろうけど、なんかいちいち引っかかる物言いなんだよな、教授。敵が多い理由がちょっとわかる。
准教授は気負い無く笑うだけで、ようやくまとまった書類の束を小気味よくトンと揃えた。
「御言葉ですが、日本の大量生産品は優秀です。丈夫で汚れ難く手入れも簡単ですし、国によっては貴族の服装に見られることもあります。時には2~3週間分の食糧と物々交換もできて、いざというとき便利なんですよ」
……前半はともかく、後半の理由は服選びの基準としてどうなんだろう?
「物々交換って……相変わらず価値基準がグローバル過ぎるな君は」
ずうっと教授の言動を疑問視していた神南備だったが、この時ばかりは激しく同意してしまった。
准教授は、ボランティア「境界無き医療団」の一員として時々国外へ行く。医療の遅れた未開の地や紛争地帯も、彼等の支援範囲に入るという。
そんな所でなら、たとえ量産品の背広でも貴重なんだろうけど。脳内で地球儀を回しながら、神南備はふと考える。
いまだに物々交換してるような所に、貴族なんていたっけか? と。
さて。時は経ち、遂に学会前日。
神南備達が学会開へと出発する日が来た。
理事会に出席する必要のある教授だけは、朝から既に開催地入りしているが、准教授以下、臨床医達は通常の業務を済ませてからの出発となる。
急遽参加が決まった神南備は、宿舎が相部屋となる准教授と共に出発する。体の良い荷物持ちである。
と言っても、准教授の荷物は随分と少ない。
嵩張る大型ポスターでの発表は無いので、大砲の砲身みたいなポスターケースは持たなくてよい。
必要書類や発表原稿はすべてUSBの中だから、准教授の持ち物はノートパソコンの薄いケースと、予備のスーツが入ったドレスバッグが1つだけだ。
量産品スーツとも相まって、身軽な准教授の姿は、そこらの帰宅中のサラリーマンとほとんど区別がつかない。
着替えの詰まった海外旅行用キャリーを引き摺って来た神南備の方が、よっぽど荷物持ちを必要としていた。
鳥越九郎医局長からチケットを貰い、新幹線のホームで待つこと暫し。
学会配信のスマホアプリでプログラムや抄録をチェックしていた時……ふと見ると、准教授の手元で何かが光っていた。
「……准教授、それ……」
「え?……あっ!」
神南備の指摘で准教授が手を見ると、左手の腕時計の文字盤が淡い蛍光を放っていた。水平に持ち上げられた手首の上で、西洋の紋章のようなホログラムが、ゆっくりと回転しながら光る様はなかなか幻想的だった。
随分と珍しい仕様だ。見れば腕時計自体も見馴れない造りのようだし、実は独立時計師の作とかの高級時計なんだろうか?
スーツのチープさとのギャップが凄いが、患者の死亡確認などであまりちゃちい時計では失礼だからと、服装は適当でも時計だけは良い物を着けるという医師は多いけど。
「アラームか何かですか? それ」
「……まあ、そんな様なものです」
器用に片方の眉だけ上げて、准教授が腕時計を睨み付ける。彼には珍しく表情が心なしか険しい。
「……神南備君。この列車、何分後に出発だったかな? 出来るだけ正確に教えて」
「えっと……今から18分後? です」
電光掲示板の時刻と見比べて神南備が答えると、准教授は一度目を瞑った後……しょうがないなぁ……と小さく呟いてから荷物を突き出した。
「神南備君。申し訳無いんだけど、これ持っててくれますか? 15分で戻りますので」
「それはかまいませんが、どうされました?」
もとより荷物持ちのつもりでいた神南備に否やは無いが、もうすぐ列車が来るのに何事だろうかと問えば、
「小用です」
至極真面目な顔で言い放たれて、かえって面食らってしまった。
「出発には間に合わせます。車両が来たら先に乗っててください。万一間に合わなくても、何処かで必ず追い付きますから、心配要りませんよ」
いざというときは先にチェックインして、食事も済ませて先に寝ちゃっててかまいませんからね、といつもの笑顔で言われては、素直に首を振るしかない。
神南備の両手にバッグの重みがかかるやいなや、准教授はクルリと踵を返し、思いの外素早い足取りで駆け出して行った。
「准教授、トイレそっちじゃありませんって……うわ、もうわかんねえ」
准教授の姿は一瞬で人混みにのまれた。足の速さだけではない、忍法木ノ葉隠れの術的な視覚作用の賜物だろう。
一瞬、遠くでふわっと蛍光色のきらめきが見えたような気もしたが、確かめようにも乗車の列を離れられない。
出発には間に合わせる、との言葉を信じて神南備は待った。
やけに長く感じる15分だった。
やがてアナウンスとともにホームに新幹線が滑り込み、乗客を吐き出してまた吸い込んでいく。
列に押されて神南備も車上の人となったけれど、准教授はまだ戻っていない。
チケットに示された座席を探して窓側の席に座り、足元に荷物を置いてキョロキョロと窓の外を見るが、それらしい人物は見えない、ていうか夕方の帰宅時間に重なったせいか、ホーム中が平凡なおじさんだらけだ。もし目の前に准教授がいても判別できない!
発車時刻まであと3分。准教授は間に合うのだろうか?
「トイレなら車内にもあるのに、いったい何処まで行ったんだよ……」
神南備がため息混じりに呟いた時。
……ドサッ!
背後で乱雑な音がした。
「……えっ?……准教授!?」
おそるおそる振り返ると、神南備の隣、通路側の席に、茂武准教授がどっかりと倒れこんでいた。
「いやぁ、何とか間に合いましたねぇ」
「何とかって……どうしたんですか、その格好は!?」
その時の准教授の姿を、神南備は忘れられないだろう。
全力疾走でもしたのか息を乱して肩を上下させ、
上気した顔に前髪が乱れかかって汗で張り付き、
手や頬に擦り傷がついて煤で汚れ、
背広はぐしゃぐしゃで所々切り裂かれ、
シャツははだけて一部焦げ付き、
ネクタイは弛み、先がちぎれてかろうじて首に引っかかっている……
列車のホームを走ってきたのではなく、空爆真っ最中の戦場を駆け抜けてきたかのような、絵に描いたようなズタボロっぷりだったのだから。
「あー。これはね……時間に間に合うようにと久し振りに走ったら、ちょっと転けちゃいました」
「いやいやいや! 転けたくらいで服は焦げませんから!……それに……」
「それに?」
てへペロ状態で頭を掻く准教授にしばらく逡巡した後、神南備は覚悟を決めて告げた。
「髭、伸びてますよ」
いつも綺麗に剃りあげられている准教授の顔の下半分が、今はうっすらと無精髭で覆われていることを。
「……あ……」
頭を掻く手を頬に滑らせて、ざりっとした感触を認めたのだろう。准教授は表情を改めた。
しばしの沈黙の後、発車メロディがいつもよりうるさく響き、新幹線は静かにホームを滑り出る。
車窓の光景が段々と加速しはじめたころ、茂武准教授はゆっくりと口角を引き上げ、いつもの穏やかな微笑で顔を覆った。
「15分後に間に合わせようと、38時間ほど不眠不休でしたからねぇ」
「すみません、おっしゃる意味が解りません」
神南備には解らないのだ、本当に。
目の前に静かに佇む、穏やかな微笑みの仮面をつけたこの生物が。
「神南備君、皆には……」
「内緒なんですね、わかります」
1日が30時間どころか、15分で38時間を駆け抜けてしまうこの人がいったい何者であるか、なんて。
神南備にはいくら考えても解らないし、また解ろうが解るまいが神南備の生活にはなんら影響は無いはずだから。
何故なら、茂武准教授は精神科の医師であり、神南備は将来は精神科医ではなく外科医になるのだから。
今は研修制度の関係で、たまたま精神科に所属しているだけだから。
研修期間が終わったら、もう顔を合わせる機会も無いんだから。
「ではちょっと、身だしなみを整えてきますね」
一瞬で大衆に埋没してしまうくらい平々凡々な中年男のはずなのに、無造作に掻き乱した前髪と無精髭のせいで、いつもの微笑みがハリウッド映画のアクションヒーローみたいに不敵でワイルドに見えるとか。
ドレスバッグを持って立ち上がる際にちらりと見えた腹筋が、見事に6つに割れているとか。
それをうっかり格好いい……と思ってしまったとか。
「あ、そうだ。車内売りが来たらコーヒー買っておいてくれませんか。はい、これ。お釣りは取っといてください」
ポケットから無造作に出された一握りのコインが、造幣局謹製の500円玉ではなく、見たこともない意匠の何処かの国の金貨であるとか。
神南備にとってはもう何もかも、どうでも、良い。
「……あと1か月。あと1か月の辛抱だ。それで精神科とも縁が切れる! またいつもの暮らしに戻れるんだ……」
この後……同じ台詞を何度も何度も、心の中で唱え続ける羽目になるということを、今の神南備はまだ知らない。
頃は春。
世間は学会シーズン。
波乱の精神科学会が始まろうとしていた。