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蠢く脳~ローレライの歌   作者: 関谷光太郎
1/2

蠢く脳~ローレライの歌 前編

申し訳ありません。

気味悪い昆虫がでてきます。ちょっと残酷な描写もあり、苦手な方はご遠慮ください。

  真夜中のコンビニ。

 夕方から降り始めた雪が、お客さま駐車場を白一色に染めていた。

 その駐車場の四隅に高くそびえる白い山は、来店されるお客さまのために何度も雪掻きをした結果だ。

 しかし、奮闘虚しく雪はすぐに降り積もった。天候は益々悪くなるばかりで、明日は交通網にも影響がでるだろう。 

 N県の国道沿い。天候が良ければ、南アルプスの山並みが見える。普段は観光客で賑わう地域で、マイカーや観光バスのお客たちが多く来店するのだ。この店舗は観光地ということもあり、特別に大きめの駐車場を備えていた。

 店長の矢野光彦は、一台も停まっていない駐車場を眺めて――明日は客足が落ちるな。とため息をついた。


「おお、寒っ!」


 矢野が店に戻ると、アルバイトの西村がバックヤードから出てきたところだった。


「西村くん、雪掻きご苦労さん」


 西村恭平は二十歳。N県の大学に通う二年生だ。


「いえ、実家ではよくやっていましたので、慣れっこです」

「北海道だったよね。手際がよくて助かるよ」

「でもこの雪じゃ、いくらやっても同じですかね」


 西村は店の外を眺めた。

 この春からアルバイトとして働きはじめた彼は、とにかくよく動いた。お客からの受けも良いし、他のバイト仲間からも信頼されている。昼間は講義。夜はコンビニで夜勤のバイトと、いつ寝ているのかと心配するほど頑張ってくれている。


「また様子を見て、明け方にでも雪掻きしますよ」

「悪いね。最近、腰痛めて雪掻きが辛くって。ほんと三十路はつらいよなぁ」

「ご心配なく。任せてください」


 なんて、気持ちの良い奴なんだ。

 思わずにんまりした矢野の目に、店の外に立つ人影が映った。


「店長、あれって、お客さんですかね?」


 西村も見つけたようだ。不審げな視線を店外に向けている。

 強まる雪の中で、人影は亡霊のように浮かんでいた。ワイシャツにスラックス。そこへ、白衣一枚を羽織っただけの格好があまりにも寒々しい。まるで天候を無視したその姿に、緊急性を感じずにはいられなかった。   


「なんか、変ですよね」

「そうだね。事故でも起こしたかな……」


 この時期、雪道でスリップして事故を起こすのはよくあることだ。店舗前の国道でも度々起こる。もしやと思い、矢野は店を出て人影に声をかけた。


「あの、どうかされましたか? この寒さです。よければ中へどうぞ!」


 店舗から漏れる光は男の姿に陰影をもたらしていた。それは生ある者の表情とはいえず、肌は土色に沈み、視線は虚空を掴もうとするかのようにウロウロと落ち着きがなかった。そして首筋に、なにやら青い光が点滅しているのを目の当たりにして、男の置かれた状況が尋常でないことを知った。 


 これは、変だ。


 視線は自然と店舗へと向けられた。

 西村が心配そうに店の入り口に立っている。矢野は警察を呼んだ方がいいと判断し、彼に合図を送った。


 ――その時。


 矢野の足元にまとわりつくものがあった。

 白い雪の上をモゾモゾと蠢くその姿は、全身に紋様のある巨大な虫だった。飛蝗のような大きな後ろ足を持ち、素早い動きで足元から昇ってこようとする。


「うわぁ!」


 拳二つ分の大きさがある虫を振り払った。しかし、一匹を払っても次から次へ別の虫が這い上がってくるのだ。気がつけば、無数の虫に囲まれていた。圧倒的な数に抗い切れなくなった全身を虫たちが占拠していく。もうお終いか、と思ったその瞬間。


「店長!」


 衝撃とともに体に張りついた虫たちが弾かれた。モップを振り回して西村が助けにきてくれたのだ。


「今です、店長。中へ!」


 西村が矢野の腕を引きながら、店内へと逃げこんだ。


「あ、ありがとう! おかげで助かった」


 われながら情けない声だった。奇妙な虫に這いずり回られた恐怖に、体がまだ震えている。その横で、モップの柄を握りなおした西村が身構えるのが分かった。白衣の男が店内へと向かってくるのだ。

 彼の責任感はとてもありがたいが、これ以上、バイトの彼を危険にさらすわけにはいかない。


「西村くん。ここはもういいから、きみは裏から逃げろ」

「店長こそ、ここは俺が時間を稼ぎますから、警察に連絡をしてください!」

「駄目だ。早くバックヤードへ行ってくれ! 警察への連絡はきみに頼むから!」


 矢野は西村からモップを奪った。


「店長!」

「大丈夫。さあ、行って!」


 しばらく抵抗の意志を示したが、西村は申しわけなさそうな表情を残してバックヤードに消えた。矢野は心細さに耐えながら、モップの先を突き出して構えた。

 店内に足を踏み入れた白衣の男は、無表情のまま入り口で止まった。さっきは気づかなかったが、白衣の胸元が赤黒く汚れている。そして、喉の部分に青い点滅を見つけて、矢野は「ひっ!」と息をのんだ。

 男の首の後ろから喉へと、ロケット状の物体が貫通していた。首にはかなり大きな裂傷が生じ、絶えず大量の血が流れ出ているのだ。青く点滅しているのは、ロケットの先端だ。男の喉は完全に破壊されていたのだ。

 突然、店内に轟音が響いた。

 思わずのけぞった矢野の体が、陳列されたカップめんの棚を押し倒す。

 目の前をキラキラと弾けるのは、砕け散ったガラスの破片だった。目をかばい慌てて体勢を立て直すと、全面ガラス張りのウインドウを破壊して大量の虫たちが押し入ってくるのを確認した。その衝撃は、さながら外から突っ込んできた車と同じであった。

 店内に吹き込む冷気。大きく開いたウインドウからは雪が舞い込んだ。

 寒さに身を縮めながら、矢野は戦闘態勢を維持した。そして、ガラス片をかぶった虫たちの視線が一斉にこちらを向く。彼らの獲物の対象として、自分が選ばれたという事実に身の毛もよだつ瞬間だ。

 虫たちが、もぞもぞと動き出した。矢野はモップの柄を握り、相手との間合いを計る。これもまた、照明の下で見る虫たちの姿はさっきの認識とは違っていた。紋様と見えたのは、体全体に刻まれた皺であり、飛蝗のような固い皮膚ではなく、グミのような弾力をもった体なのだ。しかも、薄いピンク色をしており、その脚を除けば虫という姿には程遠いものだった。

 矢野はこの生物の姿を知っている。学校の理科教室で人体模型のひとつとして展示されていたものだ。

 それは――人間の『脳』だった。

 プシュー!

 無数の歩く脳たちが、音を発した。

 矢野は、胃液が喉元まで上がってくるのを感じた。


 ――誰だ、こんな気持ち悪い連中を野放しにしているのは!


                     * 


 吹雪の中を三台の黒いステーションワゴンが疾走する。

 ただの車輛ではない。侵略生命体を追跡するためのハイテク技術を詰め込んだ改造車輛で、それぞれ完全武装した実行部隊が三名ずつ分乗していた。

 特務機関、AIBアン・インセクト・ブレイン

 その任務は、人類を侵略する『脳』、コードネーム・ローレライに対して、捕獲および殲滅の作戦を極秘裏に遂行することにあった。


 ――こちら、対策本部。S地区方面隊、状況知らせ!


 指令車輛の無線に声が響く。助手席の城島裕介は素早く対応した。


「S地区方面隊隊長、城島であります。研究所より十キロ付近を南へ走行中。逃亡した研究所職員に射ち込まれたロケット型発信機は、電波状態が不安定なため確実な場所の特定に至っておりませんが、現在、誤差範囲内を索敵中であります」


 ――了解した。たった今入った情報を伝える。E地区方面隊が東ヶ岳山中でローレライと交戦状態に入った。敵は逃走経路にあった山村を襲い、村民全員の肉体を侵略して反撃に転じているようだ。


 この無線は他の二台にも繋がっている。車内に漂う重苦しい空気は共有されているはずだ。

 城島が生唾をのみ込む。この三時間ほどで山間部の村を丸ごと侵略するとは、奴らの行動力は思った以上に早い。このままでは市街地に入るのも時間の問題だ。なんとしても、都市部への侵入だけは防がねばならない。

 人類の侵略を目的とした『脳』の存在が確認されたのは三年前だった。研究資料によれば、ある山間部に存在した村の女がきっかけとなり、侵略の火の手があがったという。彼女は優れた歌唱力で、村の夏祭りにおいて民謡を披露。その歌を聴いた村民全員が侵略されたのだ。それは、歌声によって人を暗黒の世界へと引きずり込む、ローレライの伝説そのものだった。

 歌声に含まれた特殊な波長が、人間の頭部にある『脳』自体を個別の生物として覚醒させる。その覚醒の元となるべき『脳』の機能は、約七百万年前に人類に寄生した『侵略ウイルス』によって構成されていた。つまり連中は、人類発祥と同時にその脳の一部に寄生して長大な時間を人類とともに進化してきたのだ。 

 七百万年――途方もない時間だ。関係者の中には、その吞気さを笑うものもいたが、大きな間違いだ。相手と同化し、どんなに時間を費やしても完璧な共生関係を築きあげる執念、そして余りにも同化しているために、気がついたときにはすでに遅いという狡猾な手口に城島は恐怖する。我々とは違う時間の概念で侵略を仕掛けた彼らは、すでに人類に勝っていたのだ。


「あっ!」


 声をあげて、運転手が左へハンドルを切った。

 急激な制動。

 タイヤの悲鳴とともに、ステーションワゴンは車体を捻じるようにして停まった。


「な、なんだ!」


 前のめりになって城島が叫ぶ。それは前方の何者かを回避するための行動だったが、気がつけば、車体は道路進行方向に対して右側を向けて停まっていた。

 城島が左側を確認する。先頭車輛の動きに、機敏に対応した後続車が次々と急停車するのが見えた。


「隊長! あれを!」


 運転手の視線の先に、闇を纏って仁王立ちする者がいた。わずかにシルエットだけが浮かんでいるのは、城島たちの車輛が放つ光が周囲の雪に反射しているからだった。

 

  ――S地区方面隊。どうした?


「突然、何者かが立ちふさがり、わが隊の進路が妨害されました」


  ――ローレライか?


「確認します」城島が動く。「全員、ノイズキャンセラーを装着! 戦闘態勢をとれ!」そう言うと、城島は外へ飛び出した。車体を盾にして自動拳銃P220を構える。


「二号車。ライトを照らせ!」


 相手の姿を確認するため、後続車のヘッドライトがビームに切り替わった。激しく舞い落ちる雪の中に照らし出されたその姿は、夏用のセーラー服を着た少女だった。


  ……嘘だろ。


  城島の呟きが風雪にかき消された。目の前に現れた少女は、この混乱の張本人とされる人物だったのだ。

 極秘の研究施設には、三年前に起こった侵略事件で捕獲された『脳』が、数百におよび飼育されていた。これは、女の歌によって侵略された村の人間たちが、掃討作戦により次々と殺される中、その肉体から離脱した『脳』たちである。

 まるで、被弾した航空機から脱出するパイロットのように、頭部を割って這い出したその姿は、六本の脚を持つ昆虫の飛蝗に似ていることから『昆虫脳』と名づけられた。

 研究施設に侵入した少女がそのすべてを開放したのは、約三時間ほど前である。彼女は施設内の警備兵を打ち倒してラボを占拠。多くの研究職員たちの体を侵略した。その方法は、開放した『昆虫脳』に人間を襲わせて、直接鼻の穴から脳を引きずり出すと、空いた頭部に『昆虫脳』自らが侵入し、相手を乗っ取るというものだった。人型の彼女なら、相手の脳を覚醒させる歌声の能力を持っているはずだが、単体となった『脳』たちに新しい体を与えてやろうとでもいうのか、ローレライの歌声は使用しなかった。その後、肉体を侵略された職員のすべてが特殊部隊によって葬られたが、多くの『昆虫脳』と共に一人の職員が逃亡した。


 ――S地区方面隊。状況を知らせ!


「セーラー服着用の少女が出現しました。研究施設に侵入、『昆虫脳』を開放した者と同一人物だと思われます」


 ――動きはあるか?


 城島は少女の様子をうかがった。横殴りの雪をものともせず、彼女は動く気配をみせない。まるで厳冬の白い世界で凍りついてしまったかのようだ。

 城島の後方には、車輛から降りてきたふたりの部下が援護射撃の体勢を取っている。いつ攻撃をしてきても対応できるように、少女に向けて89式アサルトライフルを構えた。


「今のところ、動きはありません」


 ――了解。本部からの命令を伝える。施設に侵入した個体は、かなりの知性を備えていたと思われる。これ以上の被害拡大を抑えるため、少女は抹殺。ただし誤認のないよう、十分に確認を取って行動せよ。


「了解」


 城島は装着したヘッドセットに囁いた。続いて隊員たちに指示を出す。


「各自、ノイズキャンセラーの装着はいいか?」


 何度も確認するのは、ローレライの歌声から身を守るためだった。対ローレライ用に開発されたヘッドセットは『ノイズキャンセラー』と呼ばれ、集音機を耳に装着、防護マイクがひろう音声のうち歌声だけをキャンセリングする機能を持っていた。

 隊員たちより次々と『装着確認』の声が返ってくる。


「これより、少女がローレライであるかを確認する」


 そう言って城島がP220の銃口を少女に向けた。

 真冬に夏用のセーラー服。彼女がローレライであることは確実だが、その人間が侵略されているかの判断は簡単ではないのだ。これまで多くの人々がローレライと間違われて抹殺されている現実は無視できない。念には念をいれる。


「きみ! ここは危険だ! 速やかにこちらへ投降しなさい。もう一度言う。速やかにこちらへ……」


 言葉が終わらないうちに、衝撃波が襲った。周囲の雪が吹き飛ばされて、一瞬で目の前がホワイトアウト状態になってしまう。白い闇に、隊全体が浮き足立つのがわかった。城島の無線に、隊員たちの混乱した状況が入ってくる。


「隊長、何者かが車の天井を引き剥がして押し入ってきました! 信じられない力です!」


 それは、二号車からの通信だった。車の天井? どんな状況なんだ。白一色の世界で一歩も動けない城島は、なにも見えない恐怖と焦りで血の気が失せるのを感じた。通信の向こうで、怒号と悲鳴が響く。


「おい、二号車! どうした、応答しろ!」


 城島の問いかけも虚しく、通信は切れた。ホワイトアウトはまだ収まらない。状況を目視できない不安と、手にした火器が使えないもどかしさに、気持ちだけがはやる。城島は後方にいたはずの部下たちを探した。


「おい、蓮見、横田! どこにいる。無事か?」


 彼らの返答の代わりに、銃声が響いた。ヘッドセットが拾った銃声だ。そこに隊員の声が重なった。


『このぉ! 来るんじゃねぇ!』


『やめろ! やめてくれ!』


 さらに数発の銃声。城島はそこで初めて、自分の隊が取り返しのつかない状況に陥っていることを知った。


「待て、撃つな、撃つんじゃない! 発砲命令があるまでは撃つな!」


 無常にも、銃声は続く。闇雲に撃った弾が、城島の頬をかすめた。


「同士討ちになるぞ! 冷静になれ!」


 ――S地区方面隊! どうした。状況を報告しろ!


 司令部からの通信に、城島は応えている暇がなかった。ホワイトアウトが収まりつつあったのだ。白一色の切れ間に、闇が覗く。


 ――S地区方面隊、城島! 状況はどうなった?


 冷気を伴った闇が蘇った。車輛が照らす光に、城島は周囲の状況を知った。

 大破する三台の車輛。その周囲に血まみれの部下たちが地面に倒れていた。

 一瞬の出来事だった。自分の隊がこんなにも簡単に崩れ去るとは。

 気がつけば、城島の正面にセーラー服の少女が迫っていた。


 ――個体はかなりの知性を備えている。


 城島は、彼女に敗北したことを知った。


                     *


  アルバイト店員の西村恭平はバックヤードに飛び込んだ。しばらくすると、店内に轟音が響きガラスの砕ける音が鼓膜を震わせた。なにが起こったか確認したいが、まずは警察への連絡が先と思い店の電話に飛びついた。


「もしもし、警察ですか。こちらは国道沿いにあるコンビニのNです。強盗に脅されて金を要求されています。すぐに助けてください!」


 店内で起こっていることを正直に話すことはできない。まさか巨大な虫に襲われているなんて誰も信じないからだ。そもそも、この荒唐無稽な話をうまく伝える自信もない。ここは一般的に通じるシチュエーションで相手を信じさせることの方が先だった。


「はい、俺ですか? 俺はアルバイト店員の西村です。バックヤードから店の電話で連絡しています。強盗は店長が対応していますが、危ない状況です。急いでください!」


 警察は信じた。すぐに駆けつけると言葉を残し通話が切れる。

 店舗の方から悲鳴があがった。矢野の声だった。自分を逃がすために盾となってくれた店長があの不気味な生物と戦っているのだ。それをこのまま見捨てていけるものか。 


「よし!」


 西村は受話器を置き、ロッカーにしまってあったダウンジャンパーとフルフェイスのヘルメットを取って外に出た。すぐに従業員用の駐輪場が見え、その一角に置かれた自分の原付バイクに駆け寄った。 

 天候はさらに悪化し、猛吹雪という状況だ。これでは警察の到着まで時間がかかるだろう。それまでに、なんとか店長を救いだす必要がある。 

 車体に降り積もった雪を払い落としてエンジンを始動させた。西村の頭の中に『奇襲』の二文字が踊る。

 スロットルを全開にしてバイクが飛び出した。雪にタイヤを取られながらも、表側に回りこみ、コンビニの玄関へとたどり着く。

 店舗の前面ガラスは砕け散っていた。かなりの力で押し破られたという状況だが、さっき聞いた轟音はこれだったのだ。 

 見るも無残に破壊された店内。そこにあの白衣の男の背中が見えた。男の向こう側には、店長の青ざめた顔がある。


「店長!」


 危機的状況に、西村の体が動いた。

 そのままフルスロットルで店内目指して突っ込むと、持ち上げた前輪で白衣の男の背中を弾き飛ばす。 

 床にめり込んだ男の喉から大量の血があふれ出た。それを自らのやりすぎた行為によるものかとすくみあがったが、すぐに身を起こした男の喉元を見て納得した。その傷口はかなり以前にできたもので、すでに腐敗が始まっていたのだ。傷口にはロケット状の物体が貫通しており、先端部が青く点滅している。どうやらこのロケットを喉元に打ち込まれたのが怪我の原因らしい。 

 立ち上がった男が、西村へ腕を伸ばしてきた。足元には無数の虫たちが集結しつつある。店内の照明によって、改めて虫たちの姿を見ることになった西村は、その異様さに絶句した。 

 大きな虫とは、大雑把な表現すぎた。ここにいるものは、脚の生えた『脳』だ。表皮に刻まれた皺や、脳幹部分に垂れ下がる神経の束まで人間の『脳』そのものなのだ。そんな不気味な生物が自分の脚を這い上がろうとしている。


 悪夢だ!


 西村はエンジンを吹かし、車体を振り回して『脳』たちをなぎ払った。バイクのタイヤに巻き込まれて体液を撒き散らす『脳』たち。最後にはバイク自体を放り出し、血まみれの白衣の男へぶつけてやった。

 充満する排気ガスで店内が白く染まる。耐え難い匂いと刺激によって『脳』たちが苦しがっているのが分かった。その混乱に乗じて西村は矢野の腕を取って逃げ出した。



 猛吹雪の中を全力で走る。荒い息が蒸気のように立ち昇った。

 あまりにも非現実的な出来事に思考力がついていかない。喉を切り裂かれても平然と動き回る男や、飛蝗のような脚を持った『脳』がわさわさと湧いて出るなんて、SFか怪奇映画の十八番だ。恐怖の夢にうなされて、手足をバタつかせているような無力感に囚われる。

 だが――と西村は自らを鼓舞した。ここで止まってはいけない。たとえ現実味がなかろうと、こんなわけの分からない状況で命を落とすなんて馬鹿げている。それに、あの化け物たちには負けたくない。


「店長、頑張りましょう! ちゃんと警察には連絡しました。国道を北に向かえば、警察と行き交うはずですから。そこまでの辛抱です」


 その言葉は、自分にも言い聞かせるような響きがあった。しかし、西村の言葉になにかしらの反応があると思いきや、矢野は無言のままだった。


「店長、大丈夫ですか?」


 いまさらだが、矢野はコンビニの仕事着のままだ。これでは寒くて反応も悪くなるだろう。


「すみません。気がつきませんでした」


 西村が自分のダウンジャンパーを脱いで矢野の体に羽織らせる。

 下を向いていた矢野に動きがあった。

 笑顔を期待したその瞬間――。


「うっ!」


 西村の表情が固まった。顔を上げた矢野の鼻の穴から粘液が滴り落ちている。その粘液と繋がるように、そう、まさに今、鼻の穴から押し出され、胸の前で受け止めたという感じで抱えられている物体があった。


 ――『脳』だ。


 しかし、それは脚の生えた『脳』とは種類が違う。表面の淡いピンク色が優美な光沢を放ち、繊細に張り巡らされた神経や血管のみごとな構造に、人体模型よりもリアルな、人間の『脳』そのものがある。


「これは……店長自身の脳じゃないのか」


 その言葉に答えるかのように、矢野の口から嗚咽が漏れた。眼球がぐりぐりと動き、表情が苦悶に歪む。


「一体、なにをされたんですか!」


 驚いて腰を引いた西村に、羽織ったダウンジャンパーの隙間から脚の生えた『脳』たちが襲いかかった。油断も隙もない。矢野の背中に何匹かの『脳』が貼りつくように隠れていたのだ。

 顔面を狙っての執拗な『脳』の攻撃は、ボクシングのグローブで殴られているような激しいコンタクトだ。西村はついにノックアウトされて仰向きに倒れた。


「こ、この!」


 われ先にと『脳』たちが西村の鼻の穴に脚を掛ける。一匹を振り払ったが、さらに別の一匹が鉤爪の脚でがっちりと肌を抱え込んだ。


「い、痛たたたたた!」


 強靭な力で鼻の穴が広げられ、『脳』の尻の部分に垂れ下がる神経の束を差し込まれた。許容量をはるかに越えた異物が侵入し、激しい痛みと呼吸困難がともなう。


「がはっ!」


 たまらず西村の口が開く。しかし、呼吸はできても異物は容赦なく奥へ奥へと侵入し、痛みは頂点に達した。まるで、鼻の穴からボウリングの玉を入れられるような激痛である。

 ――そうか! こいつらは鼻の穴から相手の『脳』を引きずり出し、空になった頭部に自らの体を入り込ませるのだ。こうして店長もやられたんだ!

 自分が他者に乗っ取られるという恐怖に体が反応した。それは生存への抵抗であり、必死の反撃であった。

 西村は『脳』を顔面から力いっぱい引き剥がした。鋭い鉤爪が頬を切り裂く。だが、それにかまわず立ち上がった彼は、思いっきり『脳』を地面に叩きつけたのだ。

 降り積もった雪が赤く染まる。それは『脳』の脚についた西村の血だった。


「この野郎!」


 怒りのキックが炸裂する。

 見事なロングシュートは、遙か闇の空へ『脳』を蹴り飛ばした。

 そして――。

 突如として上空から火球が飛来した。耳をつんざく轟音。大地に着弾する衝撃波。この世の終わりを感じさせるスケールで多数の火球が空を横切っていく。


「な、なんだ?」


 気がつくと、店長の矢野が隣にいた。苦悶に歪んでいた表情が消えている。


「店長……」


 だが、西村の言葉に応える様子もない。その視線は、ただ上空から飛来する火球の行方を追っていた。

 空が夕焼けのように燃えている。さっきまでの猛吹雪も収まり、白一色の世界が今度は朱色へと変わりつつあった。世界の終わりとは、こんな感じなのかもしれない。それは、平和な日常を打ち破りなんの準備もなく突然に迫りくる。

 ひときわ大きな衝撃が西村を襲った。百メートルほど離れた場所に火球が着弾したのだ。

 大地に、巨大なものが突き立っていた。それは人工物に違いないが、砲弾やミサイルの類でないことは明らかだった。なぜなら、顔をかばいながらも目の端で物体を捉えた西村は、そこから何者かが現れる瞬間を見たのだ。

 四メートル以上もある楕円形のカプセルが半分に割れた。焼け焦げた表面の材質は判然としないが、かなりの強度を持った物質であることは間違いない。

 西村は、ぱかっ、とカプセルの割れる音を聞いた。そして、割れ目から這い出すように『闇』が現れたのだ。


 ――ショク、ダ。


 突然、西村の頭に言葉が響いた。


「え?」


 ――『蝕』ガ、ヤッテキタ。


 それは……矢野から聞こえてくる声だった。


                

                   ……後編へつづく 

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