太陽の皇女 月の皇子~羅乎(らお)の巻~ 第八章
第八章
1
闇へ続くような、そこは通路だった。
足音が複雑に反響し、前からも後ろからも何かが迫るような錯覚を抱く。闇に等しい暗さの中、進む速度に従って壁に配置された篝火が自動的に点火されていく。いや、篝火ではない。似たように作られたものだが火が揺れる様子はなく、光苔のような淡い光だ。あまりに儚い光は足元を照らす力はなく、あくまで道順を示しているだけのようだ。
長い通路の終点、そこには黒い扉が待っていた。特に仕掛けがあるようにも見えなかったので李比杜が進み出た。ところがびくともしない。羅乎も手伝うが全く反応がなかった。
――まあ、そうだろうな。
肩を竦めて、阿己良を振り返った。神拿国王族にしか開けられないものだろうことは、ここまでくればさすがに想像がついた。不安そうな阿己良に頷いて開けるよう促す。大の男二人がかりで全く歯が立たなかったものが、実にあっさりと内側に向けて開かれるのを見るに、阿己良を怪力とからかうと細い拳が羅乎を殴ってきた。
押し開かれた扉から、暗さに慣れた目が痛みを感じるほどの光が溢れた。さながら目眩しに近いそれを手を翳し目を閉じてやり過ごす――そんな刹那。
キン――と、金属音が響いた。
二度、三度と続き、四度目の金属音の後には不快な風が躍った。同時に何かが割れるような微かな音と麻耶希の「どちくしょ」という短い呟き――。
順応しはじめた視界が捉えたのはぱらぱらと零れる赤い滴。見れば麻耶希の腕に朱の線が走っている。
「麻耶希」
踏み出すと乾いた音が足下で鳴る。どうやら麻耶希の腕飾りのようだった。恐らく怪我を負った際に切れたのだろう。
何が起きたのか羅乎には全くわからなかった。それは李比杜も同様だろう。焼ける視界の中、あまりの強烈さに殺気さえ感じる余裕がなかった。だが麻耶希は反応したのだ。同じく視界が利かなかっただろうに、気配だけに反応し、対応したのだ。
「阿己良ちゃんが!」
言われてはじめて羅乎も李比杜も近くに阿己良の姿がないことに気付いた。互いに視線を交わし、見渡して――それはすぐに見つかった。
「よく反応したね。褒めてあげる」
がらんと広がった無機質な空間。高い位置に作られた連子窓の露台に声の主は立っていた。
かきあげた髪は少し黄味の強い白金色。よく通る若い声同様、そこにいたのは美蝕ではなく、一人の少女だった。
「あんた、いい腕。殺すには惜しいね」
言って、視線を下ろす。睨む先には突き倒された阿己良がいた。
「生意気に、いい駒持ってるじゃない。でもあれ、琉拿の兵隊じゃないね」
目眩ましの間に麻耶希と打ち合い、そして阿己良を攫っていったというのだろうか。あの短い間に、さほど屈強とも思えぬ少女が――しかし。
「あいつ……悪気か?」
思わず呟いていた。
「なんだって?」
李比杜が目を瞠る。
それもそうだ。てっきり美蝕がいるものと思っていればそこには別の人間がいた。ただでさえ人が悪気を宿していることにも驚きであったのに、それがまた現れたのだ。しかも全くの別人で――違うことのない、紛れもない悪気を全身から漂わせて。
「そんなのどうでもいい」
麻耶希が低い声でぼそりと言った。
「この須佐之男に血を流させた。決して許しておけぬ……」
そこで言葉が終われば恰好よい話だったが、
「のだー!」
と叫ぶなり、麻耶希が跳躍した。
阿己良の眼前で剣が交差した。怯える表情の阿己良を背中に庇う形で少女と対峙する。
血の流れる腕もそのままに麻耶希がやや短い造りの剣を振り下ろす。片手で受け止めた少女は弾き返すなり逆手から順手に持ち返る。その動きのまま、流れるように鋭く突きを出した。
傷を負った方の剣で外に弾き、麻耶希が前進する。だが弾かれた動きを利用した少女は素早く身を翻し、回し蹴りを放つ。
「阿己良、こっちへ!」
少女と阿己良の間に少し距離が出来た。明らかに麻耶希が意図して作ったものだ。羅乎が手を伸ばし、阿己良が立ち上がろうとするのを李比杜が支えようと近づく。
「させないよ!」
鋭い声がする。
「待て、李比杜」
立った途端に阿己良の身体が後方に引き倒された。駆け寄ろうとした李比杜を羅乎が咄嗟に突き飛ばす。――と、殆ど同時に轟音を伴った光の刃が落ちてきた。
「すまない」
空気が弾けるような気配を感じた羅乎の咄嗟の判断だったが、少しでも遅れていれば李比杜は今頃、雷に焼かれていたところだ。深く抉られた地面を見て、李比杜がごくりと喉を鳴らした。
「そろそろ、やめなよ、お嬢さん」
嘲笑するような声で言って少女が片手を上げる。するとその動きにつられたように阿己良の身体が引っ張られた。後方に引きずられた阿己良が苦しげに眉を寄せ、首を抑える。
「もう、わかってたでしょ?」
麻耶希が動きを止めた。
「あんまりあたしを動かすと、そこの琉拿の姫が苦しむことになるよ」
少女が腕を引き寄せると、阿己良が小さく呻きを漏らす。明らかに何かが二人を繋いでいる。目に見えるものではないところを見ると、何かの術だろうか。
麻耶希が悔しそうに唇を噛んで武器を下ろす。恐らく阿己良が引き倒された時には気づいていたに違いない。そうでなくてはいくら手負いとは言え、後れを取るはずがなかった。
「なんなのだ、貴様」
李比杜が問うた。
「阿己良様をどうするつもりだ」
鋭い眼光を、だが少女は表情を変えることもなく受け止める。
「殺すの」
「なんだと?」
一気に殺気立つ羅乎達を少女の冷ややかな目が見やる。
「殺すのよ。あたしの目的は、月を壊すことだから」
――月を壊す?
心の内で言葉を反芻する。それはつまり神拿国を滅ぼすということだろうか。しかしそんなことをすれば地上の調和が乱れ、悪気が横行することになる。
「母と、姉にあんなことをしたのは、貴女ですか?」
阿己良が静かに問うた。
「母に術をかけ、姉を襲い、近侍の――兎琥真を殺したのも。それは貴女の仕業ですか?」
締め付けられているせいだろうか、少し掠れたような声だった。
「聖獣達を害し、悪気を広めた。そのすべてが貴女のしたことですか?」
「だったら何?」
「なぜ、そのようなことを。貴女は自分の成したことをわかっているのですか?」
阿己良の声が少し厳しくなる。だが、少女はあっさりとわかっていると答えた。
「力が欲しかったの、あんた達、琉拿の人間を始末するのにね。だから聖獣を殺した。悪気が広がったのは副産物みたいなものよ」
「それでどれだけの人が苦しんだか……。貴女はわからないのですか?」
「どうでもいい、そんなこと。他人の痛みなんてどうせ他人のものだし。あんた達だってそうやって琉拿を維持してきたんじゃない。自分達の目的の為に他は捨てる。同じでしょ」
「琉拿は悪気を抑える為にあるのです。貴女のようなことを――」
「してるんだよ」
少女が阿己良の言葉を遮った。これまでどこか淡々とした口調だったものがはじめて声を荒げた。
「捨てたじゃないか」
少女が腕を引く。胸倉を掴みあげるようにして引き寄せた阿己良を間近から睨む。
「あんたの母親があたしの母様を殺したんだ。何もかもを母様から奪って、そして捨てたんだよ。琉拿の為ってな」
「まさか……嬉己様の」
李比杜が呆然と呟く。それを少女が振り返った。
「そうだよ。嬉己はあたしの母様だ」
少女は再び阿己良を見た。
「あたしの母様は琉拿王家の長女だった。本当なら、今琉拿の頂点にいるのはあんたの母親じゃなくて母様だったはずなんだ」
嬉己。現在の琉拿女王であり、阿己良の母親である嬉李の姉だった。
慣例に従い、嬉己が皇位継承をすべく王宮は準備が進んでいた。当時嬉李は今の阿己良と同じように「僕」と言い、皇子として公表されていた。既に女王は力を失いつつあり、早い継承が望まれていた。その頃王宮長を務め、幼馴染でもある阿南尉との婚約も決まりすべては順調に進んでいた。
――ところが、である。
嬉己は原因不明の病魔に侵された。寝台から起き上がることもできず、日に日に衰弱していく。回復が待たれたが、その矢先に女王が危篤となった。
近侍達が反対する中、司教の長老達は半ば強引な手段を取る。皇子を皇女として王位を継がせる。男女の別はあれど琉拿王家の血筋なのだ、次に女児が生まれたならすぐに継承をさせようという前例のない決定だった。女王が崩御し、嬉己までが危篤となれば、もはや他に手段はないと思われた。
「それだけだったら、まだよかったかもしれないけどね」
少女が冷ややかに続ける。
「阿南尉は王宮長だったからね」
王宮長は琉拿王族の性別を知っている。阿南尉は嬉李が女児であることを知っていた。そしてそれを長老達に報告した。
「隠したって、すぐにばれたろうけどね」
それならばまったく問題ないと話はそこから恐ろしい速度で進行する。嬉己が病床にあるままに嬉李の皇位継承が公表され、夫には阿南尉が決まった。王族の間では身内に何かがあった時には他の血縁者が代わりにあてがわれるということは、いずれの王国でも珍しいことではなかった。その為、琉拿でも同じようにしようと本来は嬉己と結婚するはずだった阿南尉をそのまま据えたのだった。
その後、嬉己は奇跡的に回復する。だが、もはや琉拿の王宮に彼女の居場所はなかった。
皇子として生きることが嬉己の人生となるはずだった。しかし、嬉己は既に身籠っていた。阿南尉の子だった。
司教達は慌てた。そしてお腹の子供諸共、嬉己を殺そうと画策したのだ。それを知った嬉己は王宮から逃げた。それしか生き延びる方法がなかったのだ。
……そして、一人、娘を産んだ。本来ならばみなから祝福を受け、幸せの中で歩んでいくはずだった人生が一気に崩壊したのだ。
「その子供がこのあたしってわけだよ」
少女は鼻に皺を寄せて改めて阿己良を見下ろす。
「わかる? 琉拿は母様を捨てたの。目的の為に他を犠牲にする。ねえ、同じことでしょ?」
阿己良を捕らえている少女を、羅乎はただ呆然と見つめていた。
天が残した傷跡だと思った。力を与え、地上を守護するように託した――そう言えば聞こえはいいが、中途半端に力を与え、体よく押し付けただけだ。その結果、どれだけ不幸があったのだろう。
天に属する人間としてどうしようもなく情けなかった。無論、羅乎一人の責任ではないことはわかっている。だがそれでも申し訳なく、暗く沈む眼差しを見返す力は出てこない。
「お綺麗なだけの琉拿しか知らないあんたには想像できないだろうけどね」
阿己良が悪いのではない。阿己良もまた犠牲者なのだと言いたかった。だが救いの言葉が紡げないなら意味はない。言葉が見つからないままの耳に、再び阿己良の、場違いなほどに柔らかな声がした。
「なら……貴女は風霞様ですね」
自棄になったような笑い声を上げる少女に、阿己良が言った。
「存じております。嬉己様のことも貴女――風霞様のことも」
少女――風霞の顔にはじめて動揺が見えた。
「阿南尉大公がお亡くなりになった時、陛下が……嬉李様が話してくださった。故に近侍の一部と、迦瑠亜様、阿己良様ともにご存じだ」
李比杜が言葉を引き継ぐ。
「陛下は嬉己様が日々困らぬよう心を配っておられたはずだが……」
寺院に連なる有力者の元へ逃げるよう手配したのは阿南尉と嬉李だった。その後の生活の面倒も見ていたはずだった。そして特に問題があるような報告はなかったと李比杜が続ける。
「あ、あんな奴、あたし達のことなんか無視して。母様もあたしもあいつに――」
思い出すのも汚らわしいと風霞が吐き捨てる。
「うるさいよ、今更! 今更、なんだって言うんだよ」
風霞が再び阿己良の身体を引き寄せる。
「あたしは月を壊す。そうすれば、もうこんなことはないんだから」
風霞が剣を振り上げた。
「阿己良」
羅乎が駆けだす。麻耶希も、李比杜もさせまいと動き――阿己良が息を呑んだ。
連子窓からの僅かな明るさの中で、風霞の剣が眩く閃いた。
2
轟いたのは雷鳴だった。
突如炸裂した閃光は風霞の剣を弾き飛ばしていた。光が収束し、飛ばされた剣が扉に当たって地面に転がる音がする。
放ったのが麻耶希でないことはわかった。厳密に言えば、麻耶希が使う純粋に大気の電気を利用した放電の稲妻とは違う種類のものだった。何か別の物を媒体として生み出しているような、少し歪んだ雷だった。
「ようこそ、月の門へ」
全く気配はなかった。放たれた稲妻と同じように、突如、そこに黒く湧き出したように瘴気が蟠る。そしてそれが人の形を成し、美しい美貌の人物を吐き出していた。
「美蝕」
赤い唇が横に広がる。紫の瞳がまっすぐに羅乎を見ていた。
「我の名を知ったか」
美蝕が問う。
「して、どうだ?」
質問の意味がよくわからなかった。
「お前は、悪気そのものだと」
「ほう。それで?」
誰もそれ以上を語らなかった。そして高天原は何もしないと言うことのみだ。それ以上に美蝕に関して羅乎が持っている知識はない。
「……それで、充分だ。それ以上必要ない」
美蝕は表情を変えず、羅乎の言葉を聞く。
「悪気なら、殲滅するだけだ」
「なるほど」
本来は気であるはずの悪気を身体に宿す美蝕。果たして、その身を完全に滅ぼすことができるのかは甚だ疑問だ。
「美蝕」
叫んだのは風霞だった。
「なんで邪魔すんのよ! 今更裏切るつもり」
「裏切る?」
美蝕が嘲笑った。
「裏切りとは、またおかしなことを。何故、我がお前なんぞと対等にせねばならんのか」
「さんざん協力してやったのに」
風霞が歯ぎしりをする。
「あたしがあんたを王宮にいれてやったんじゃない。だから女王に術をかけられたんだからね、わかってんの」
ここだってと風霞が続ける。
「あたしが開けてやったのよ これで」
風霞が金色に輝くものを投げ捨てた。
「月の、宝飾……?」
阿己良が目を見開いた。
それは三日月と同じく琉拿の宝物だった。どちらかがあれば機能する為、月幽門が閉じられた際に扉に嵌めこまれたと言われる。その後、何者かによって奪われ、失われたとされていた。琉拿の血筋でなければ使用もできず、三日月の宝飾があれば影響はない。また月幽門へ近づくことは禁止されていたので特に捜索も行われなかった――というのは、密かに伝わる話であったのだが。
「それは元々我のもの。そなたに貸し与えただけだ」
あんた、と、風霞が眉間に皺を寄せる。
「あんた、まさか。迦瑠亜を仕留めなかったの、わざとじゃないでしょうね」
さらに風霞が詰め寄る。
「なんだかんだ言って、あんたはなんでも先延ばしにしてたけど。女王も迦瑠亜も、術だけかけてごまかして。結局殺さないつもり」
風霞の言葉に美蝕は答えない。かわりに喉の奥を鳴らすようにして、くくと美蝕が笑う。
「な、何がおかしいのよ!」
鼻白んだように風霞が叫ぶ。大いに笑って、美蝕は嘲笑の余韻を残して不気味に笑む。
「どいつもこいつも。愚かしいことよな。人を恨んで、信じて、裏切られて、騙されて。まこと、この世は悪気に満ちておる。とうに滅びておってもおかしくない」
美蝕の手が月の飾りを拾い上げた。
「まあ、そなたはよく動いてくれたよ。お蔭で、月の姫をここへ呼ぶことができた」
美蝕の濃い紫の瞳が阿己良を見つめる。それから風霞を見た。
「そなたの願いは月を壊すこと。つまり、琉拿の王族の断絶よな」
ならば、と美蝕が目を細める。
「そなた自身も滅びねば、願いを叶えたとは言えまい?」
「は?」
呆然とする風霞の言葉に、美蝕は極上の笑みを返す。
「な、何を言って……」
「言葉通りの意味よ」
広間に満ちていた気が蠢く。
「我がそなたらをここに呼んだはな、風霞」
風ではない。だが、明らかに空気の中の何かが引き出されていく。
美蝕が天井に向かい伸ばした手の中にそれは集まっていく。やがて黒い渦が目に見えるほどに成長し、人の頭ほどの塊となった。
黒く、禍々しい。玉の中でどろりどろりと蜷局を巻いている。唸るような軋みを上げながら、凝固していく物体を美蝕が両方の掌で包んだ。
「そなたも含め、我が手で、月を破壊する。その為よ」
美蝕がカッと目を開いた。途端に周囲の悪気が一気に過熱したように濃厚さを増した。そして手にしていた澱んだ黒い玉を放った。
「だめ」
「麻耶希」
「阿己良様」
「うにゃあ!」
立ち尽くしたままの風霞以外の四人が一斉に動いた。
阿己良は風霞をその身で庇う。それを李比杜が守ろうと腕を広げる。
羅乎が炎を生み出し美蝕の放った力を受け止める。受け止めきれず飛散したものを麻耶希が雷で払い退ける。
だが、完全に押し切れるものではなかった。
この空間自体が既に月幽門の中である。いわば悪気の支配する空間とも言えた。凝縮された美蝕の力は巨大な圧力となって肥大し、羅乎の炎を飲み込もうと、まるで生き物のように宙を荒れ狂う。
今では視界にしっかりと暗黒が色となって捕らえられた。美蝕の周囲を包むそれは巨大な羽のようだ。白金色の髪を靡かせ、黒い羽根を纏う。不快な瘴気に溢れているのに、なぜかとても美しく、そしてどうしてか悲しく感じられた。
「さすがは火乃鎖羅。火の鎖に守られし、天の頂きたる守護者よな」
羅乎は歯を食いしばった。
羅乎は火の守護者ではある。炎は太陽に繋がる。その意味で天照の長男に与えられる称号だった。火の神は別におり、守護者の役割は火にまつわるあらゆるものを監視し、炎を――ひいては太陽を脅かすものから守ることにある。確かに火は扱える。並みの術者を凌ぐ力で、神程度には扱える。だが、あくまで「程度」だ。実際には火の神に及ぶものではなかった。しかもここは月幽門内部である。門の手前で魔獣と遣り合った時とは比べ物にならない濃厚な悪気が、羅乎の天の部分の力を大幅に削いでいる。さすがと美蝕が言う程、羅乎には余裕はなかった。
「くそっ」
悪気が――黒が赤を覆う。美蝕の力が己の力を取り込んでいくのが感じられた。このままでは持たない。それどころか、羅乎の力を吸収した美蝕は更に強大になる可能性がある。
「麻耶希!」
羅乎が己の護衛を呼んだ。
「護りだ!」
「りょおかい!」
麻耶希が懐から小さなクナイを取り出す。
「動かないでね、阿己良ちゃんの護衛の人!」
李比杜がしっかりと阿己良と風霞を抱え込んで頷く。ここは人の出る幕ではないと承知しているのかもしれない。その周囲に麻耶希がクナイを打ち込むとそれを結ぶ形で空気が弾ける。するとそこに点滅する線が生まれ、壁を造り出していた。
「闇が……避けていく」
李比杜が不思議な空間を見渡した。空間と美蝕の間に、羅乎と麻耶希が立ちはだかる。
羅乎が腕を払う。と、炎が飛散した。せめぎ合う相手を失った暗黒が広間を埋めるようにして煙のように蔓延していく。
「あんたは、琉拿の始祖だそうだな」
「それがなんだというのか」
「だったら、高天原の人間ということだ」
羅乎が草薙の剣の鞘を払う。
「火乃鎖羅を継ぐ、天の王として申し伝える」
赤茶の瞳をまっすぐに据える。美蝕がそれを反らすことなく受け止めた。
「地上におけるそなたの所業。混乱を生み、多くの命を奪った罪、決して許されぬ。その身を持って購え」
言うなり、羅乎は空中に草薙の剣を投げ上げた。
「阿魔夜己!」
大きく跳躍した麻耶希がそれを受け取る。本来の持ち主である麻耶希が手にした途端、草薙の剣は僅かに燐光を放った。
麻耶希は身体に似合わぬ大振りな剣を流れるような動作で構える。
――そして、妖艶に微笑む美蝕の胸を貫いていた。
3
美蝕が膝をついた。
同時に辺りを埋めるように広がっていた暗黒が一瞬にして消え去る。あまりに唐突な空気の変化はまるで何かの魔術のようだった。
美蝕が自ら剣を抜く。血というには少し黒ずんだものが溢れ、服に染みを広げていく。
「天照の皇子。名をお教え頂けるか」
聞いてどうすると言おうかと思った。だが、弱々しい瞳で見上げる美蝕に先程までの黒い影はなかった。突如として消えた闇のように美蝕に纏わりついていた悪気の気配は既になく、表情にも妖しいものはなくなっていた。
「天照火乃鎖羅々羅乎」
「羅の皇子。これまでの非礼、お詫び申し上げる」
羅乎は目を眇めた。
火乃鎖羅は天照の長男の名前に必ず入る。次代の天照の長を意味する所謂「皇太子」としての意味を含むものだった。称号を覗けば「天照羅羅乎之皇子」であり、名前という意味では「羅羅乎」になるのだが、その一文字を取って皇子を付けるのは高天原においても恐ろしく古い習慣だ。今では名前の中から適宜呼び名を作って名乗るのが通常だった。
――つまり美蝕はそれほどに昔の人物ということになる。
「我が名は月黄泉之琉流夜乃希美照。かつて天にあっては月黄泉の一族。月黄泉之拿奈夜乃竹花之皇女の妹にございます」
「そんな」
反応したのは阿己良だった。一同の視線を受け、口元にあてた手をおずおずと下ろす。
「月黄泉之拿奈夜乃竹花之皇女とは月夜――拿夜竹様のこと」
その通りだと美蝕が頷いた。
「こたびの事、真に申し訳なく存じております。ですが、我が身も刻の終わりを告げようとしておりますれば、急ぎ、事を進める必要にございまして」
申し訳もないと美蝕が頭を下げた。
「どういうことか、説明はしてもらえるのか」
無論と美蝕が請け負う。ただし、と前置きする。
「刻の許す限りでございますが」
美蝕は小さく咳をしてから、改めて口を開いた。
「天より地上を任されるにあたり、姉が調和を、そして我は蟠る汚気の浄化を承りました」
地上が繁栄してくると浄化だけでは追いつかなくなっていった。一度どこかに集め、それを徐々に浄化しようと考える。浄化の為の場所として不時無の森が作られ、寺院を建立した。ところが思うように集まらない。
「その為には媒体が必要でございました」
引き寄せる為の餌。姉妹は思案する。結果、美蝕が媒体となることが決まった。美蝕はその身を常闇に晒し、汚気を宿して不時無の森に留まることとなった。天と闇の中間にある地、その一部に穴をあけ、常闇へと汚気を廃棄する。常闇と汚気は似ているのでうまく溶かし込めればいいと考えたものだった。逆戻りをしないよう門を作って、管理をすることとなった。
常闇に染まった美蝕は天の人間ではなくなった。また地上の人間でもなくなった。己の内から天の力が失われ、その穴を埋めるように闇が侵食してくるのを感じていた。やがて光溢れる地上の太陽の下にはいられなくなっていた。それに気づいた美蝕は月黄泉の名前を捨てることにした。蝕まれることなくいつまでも美しくありたいと願い、新たに名乗った名前が――「美蝕」。
地上は琉拿の王族と美蝕の犠牲の上に繁栄を続けた。永い刻の中で繰り返される争いや怨嗟で汚気が美蝕の意識を上回ることも幾度かあった。月幽門ひとつで行っていたことを分散させるべく新たに四門が作られ、四聖獣が配された。これによって月幽門は閉じることになるも、逆流の恐れがあった。月幽門は汚気――悪気の流出に備え守護を置くことにした。つまりは美蝕の命魂をその閂にしたのである。悪気を宿しつつ清浄を保つ女神――今となっては悪気に取り込まれてしまったが――元天人にて癒しの力を有し、守護と安らぎの月黄泉としての力を有す美蝕を余すところなく利用したと言える。
「これはその時に使われし鍵。姉の紋、満月を象ったもの。そして三日月は我の紋」
自嘲的とも取れる笑みが口元に浮かんだ。
淡々と語られるのは天の、神拿国の汚い部分だ。天は月黄泉を犠牲に地上を離れ、月黄泉つまり神拿国は美蝕を犠牲に繁栄した。いずれも美蝕に何もかもを押し付け、その上で月幽門を封じ、その上でなかったことにしようとしたのだ。
……だから、何もできないのだと。高天原がそう言った理由がわかった。
先人たちが目を背けたもの。どうにもできずなんとかおさめたものが再び荒れたとしても、どうすることもできないのだ。美蝕のような者がいない限り――。
酷い話だ。最初から切り捨てることではじまったことだったのだ。
羅乎は何も言うことができなかった。今更自分が詫びてどうにかなる話でもない。現に美蝕は尽きようとしている。決を下したのは、他の誰でもない自分だ。
「羅の皇子」
美蝕が呼ぶ。
「気に病まれますな。これでよいのです」
本当にそう思っているような美蝕は穏やかに続ける。
「我は悪気そのもの。天の言うのは真実でございますよ。悪気を取り込むことでこの身を長らえ、この場に巣食っておりました故」
「この場所に?」
「この場所に」
問えば美蝕は頷いて連子窓を見上げる。そこからは僅かな日差しが差し込んでいる。
「既に我が身は滅びつつあり、この場所でしか完全に姿を持ち得ませぬ。それ故、ここまでお運び頂いた次第」
羅乎は目を瞠った。
――姿を現す。それはつまり……。
「この場でなくば、我身は滅ぼせず。またこの場でなくば、我の亡き後溢れた悪気を留めることは叶いません」
だからこそ悪役を演じ、恨みを買い、ここまで羅乎達を呼び寄せた。
「お前……」
死にたかったのかとは口にできなかった。そんなこと美蝕を見ていれば確認するまでもないことだった。
「とはいえ、罪深いことを致しましたのは事実」
仕方ないのだとという匂いは感じられなかった。静かな物言いには後悔も宿っていない。ただ事実を口にしたという淡々としたものだ。それなのに伏せた紫の瞳だけは雄弁に胸の内を語っているかのように揺れていた。
「もう、刻がございませぬ」
ふっと美蝕が息をついた。幾度か苦しげな呼吸を繰り返し、僅かに咳き込むと喉が奇妙な鳴らす。
「理は変わらぬ以上、新たな美蝕が必要なのは致し方ありませぬ」
美蝕は視線を風霞の方へ転じる。
「風霞を。我の代わりに。あの者には地月の玉を与えております」
「そんな……あたしはそんなの、嫌よ」
風霞がいやいやと首を振る。
「美蝕は地上に不可欠なのは必定。月の血を引く必要があり、また……その身に闇を宿せる資質が必要。そのような者が現れるのを永らく待っておりました」
琉拿の奥で大切にされる拿夜竹の子孫。歪んだ継承に関わりながらも大事に育てられる彼らは至って清純な気を持っている。闇を宿せる資質を持つ者を探すのは至難の業だった。それ以上に、美蝕にとっては地上の中でも特に清涼なその場所に入り込むのは殆ど不可能に近かった。つまりそれは己の後任を得られないということでもあったのだ。
ところが王室の不手際――そう呼んでいいだろう――嬉己という嫡子が放出され、直系の女児を生んだ。
「我の命が尽きれば新たな地月の玉が風霞より生み出される。さすればそれらを四聖獣にお与えください」
美蝕が派手に咳き込んだ。羅乎は思わずその背を擦っていた。
「勿体ない。穢れますので、どうぞ、お構いなく」
やんわりと押し返す手を握ったのは駆け寄った阿己良だった。
「月の姫。我に治癒は効かぬよ」
阿己良が瞬いて、出過ぎた真似をしたと思ったのか慌てて俯く。それを美蝕が目を眇めるようにして見つめた。
「我は良い。願わくば、我の力を継ぐ風霞を。あの月の姫を、どうか支えてほしい」
「その任は僕ではだめなのですか?」
恐らく風霞が受け入れられずにいるからだろうか。阿己良が美蝕に問う。だが、美蝕は小さく首を振った。
「そなたの、そういうところがいけない」
闇に嫌われると美蝕が言う。それでは美蝕の後任は務まらない。
それからと美蝕が首を巡らす。視線が小柄な少女の上に止まった。
「草薙の継承者であられるか?」
突如話しかけられて麻耶希が困ったように羅乎を見た。目顔で頷くと、うんと頷く。
「貴女のお蔭で本懐を遂げられる。悪気に染まった我の身は草薙でなくば滅ぼせぬので」
今一度、大きく息をつくと美蝕は立ち上がろうとした。阿己良が手を差し出すと、今度は素直に掴まって礼を述べ、
「そなたの母は時期に目覚める。我の死が呪詛の解除になる」
目を瞠る阿己良に美蝕は微笑んだ。
「風霞。すまぬな」
固く口を結んだ風霞は美蝕を睨む。
やがて風霞は涙を浮かべた。ぽろぽろと零れるのを拭うこともせず、美蝕に駆け寄るとその身体を抱きしめた。
この二人の間にどんな繋がりがあったかはわからない。だが、すまぬの一言で風霞が涙を流すだけの確かなものがあったことだけは間違いなかった。
美蝕が風霞を抱き返す。そしてゆっくりと離れた。
「さらばだ、風霞」
黒朱に染まった衣装。白金色の髪も流れた血が汚している。
それでもしっかりと立った美蝕は美しかった。成すべきことを成した表情は晴れ晴れとして、穢れのない微笑を湛え、濃い紫の瞳を閉じた。
――次の瞬間、美蝕の身体は消えた。月の宝飾が澄んだ音を立てて地面へと落下した。
美蝕が消えた後、風霞が蹲るようにしてその場に倒れ込んだ。暫く苦しんだかと思うと、風霞の気が凝縮され四つの玉が現れた。朱金色の輝き、それは地月の玉だった。
地月の玉は聖獣の中に取り込まれたまま、外に出ることはないのだという。代替わりでも儀式によって受け継がれる為、死を与える以外取り出す方法がないのだと言う。美蝕が本来は仲間であったはずの聖獣を手に掛けた裏には、そういった理由もあるようだった。
「美蝕は……あたしの恩人だったんだ」
二人がいつから一緒にいたのか、それを風霞が話すことはなかった。ただ母と共に受けた屈辱、母親が亡くなり、それに耐えられず飛び出しても、何の後ろ盾もない少女が生きていくには厳しい世の中だった。身を売る風霞を美蝕は自分の手元に引き取ったのだとだけ語った。
「あたししか美蝕の後を継げないなら、やるしかないよね」
羅乎と李比杜が高天原と琉拿も風霞を支えることを約束すると、風霞は笑顔を見せた。自分だけに与えられた役割。これまで必要とされることのなかった彼女の、代わることのできない役目。孤独だろうに浮かべた笑顔に迷いはなく、早くも風格を漂わせる。
――もしかしたら、彼女は既に己の運命を悟っていたのかもしれない。そんな風に思える笑顔だった。
「時々は遊びに来て。ちょっと……大変だろうけど」
風霞が冗談めかして言うのに、再訪を約束して羅乎達は不時無の森を後にした。
森を出れば、空は赤く染まっていた。遠く沈む夕日が夜の訪れを誘う。朱から次第に藍色を濃くしていく空を見上げ、李比杜が深々と溜息をついた。
「長い一日だった」
ほんとだと首を回しながら同意した羅乎を李比杜が見下ろす。
「戻るのか」
ああ、と羅乎は頷く。
「さすがに長くいすぎた。枷がないままいるのは、地上によくねえらしいんだよな」
魂の比重と言えばいいのだろうか。地上が抱えられる生命の大きさには限界があるのだと言う。それは日々容量を増していくものの、天の人間はそもそもの重量が違うらしく調和が乱れるのだとされる。余剰の重量を排除しようと地上が口減らしを行う。それは病であったり天災であったり。枷にはそれを防ぐ役割もあった。
「姉貴にも報告しなくちゃなんねえし」
それにと羅乎が視線を落とす。広げた手の平には地月の玉がある。
「これも聖獣に届けて、新たに守護を擁立しなくちゃなんねえしな」
「そうか」
「ま、これは俺の仕事じゃねえけど」
父や姉、天の長老達が采配することだ。
「迦瑠亜様はどうなる?」
「後で琉拿まで送らせるよ。心配いらねえ」
頷いた李比杜が前を行く二人の少女に目を向けた。何やら楽しげに話している様子は微笑ましいが、時折阿己良が首を傾げるのがなんだかおかしい。相手はあの麻耶希である。常識のないこと甚だしいので今一つ理解に苦しむところがあるのは否めない。
「そっちも心配いらねえよ」
先を制して羅乎が口を開いた。
「ちょっくらお偉方と戦って、絶対に迎えにくる」
「戦うとはなんなんだ」
「お前さんね。俺が自分でいうのもなんだけどよ」
そう前置きして続ける。
「俺は一応、高天原の頂点なわけだよな。姉貴――天照神は子を作らない。天照の系統を残すのは俺ってことになる」
婚姻は可能だが、天照には子を宿す力が備わっていないのだ。神位は女児のもの、王位は男児のもの。故に天照一族の長は火乃鎖羅の称号を得る長男が血統を受け継いでいく。これは絶対的な、古くからの違うことのない決まりだった。
それもあって羅乎の苦悩があった。勿論、一般的な嗜好というごく普通の理由もあるにはあるが、阿己良が真実、男性の場合――本気で迎えるつもりなら羅乎はそれこそ性転の術を使って血統を残す義務が出てくる。それについての心配はなくなったので、心底、それはもう本当に心の底から良かったと思っている――余談ではあるが。
「そんな奴が地上の人間を迎えようってんだ。お偉方の反応なんて想像がつくだろうが」
幸い、阿己良は神拿国王家の血筋だ。元を辿れば天の一族である月黄泉に連なる。しかも今回の騒ぎを収めた功労者でもある。正直、そんなに苦労することはないだろうなというのが羅乎の考えではあったのだが、あえて李比杜にそれは言わないでおくことにした。李比杜にとっては、羅乎が苦労したのだと思わせた方がいいだろう。大事な姫君を攫って行くのだ。相応の苦労を味わったという方がありがたみがある。
森を囲う濠を越えると馬と並んで朱澗が待っていた。夕日に負けない深紅の火の鳥に向かい阿己良の手を引いた麻耶希が駆け寄る。どうやら双方に紹介をしているようだ。
「もう一つ、確認したい」
李比杜が眉間を押さえる。
「あの、火の鳥はなんだ」
「ああ、聖獣だよ。朱雀一族の朱澗って言う友達だ」
聖獣と李比杜が絶句する。四門に人間が行くことはない。普通に生きていて、聖獣を目の当たりにするなど、地上の人間にはあり得ない話だ。
「……今更、もう驚かんぞ、俺は」
気難しげに李比杜は顔を顰めた。それに笑った羅乎は李比杜の名前を呼んだ。
「頼みがあんだけどさ。ちょっとの間、目を瞑っててくんねえ?」
「なんだって?」
訳がわからないといった李比杜を尻目に羅乎は阿己良に歩み寄った。
「この朱澗は朱雀の中じゃ結構、素行の悪い方なんだぜ。な?」
「御曹子程じゃあねえよ」
朱澗の声が憮然と応じた。どっちもどっちだと麻耶希が言うと阿己良が笑う。
「あと見たことがねえのは白虎だけか」
生きている青龍も、元気な玄武も目にしてはいないが、そこにはあえて触れない。
「そうですね。なんだか、もう……すごすぎて」
そう言って阿己良が苦笑する。
「でも、それよりも天照の方にお会いしたことの方が驚きですよね」
「そうかねえ」
そんなに有難いものなのかはよくわからないが、そうですよと答えた阿己良が羅乎に微笑む。いつもの柔らかな笑みではあるが、どこかぎこちない。
「羅乎」
淡く揺れる瞳を見つめ返す羅乎の名前を阿己良が口にする。
「行くのですね」
頷くと阿己良もまた頷いた。
「一緒に旅ができて、とても楽しかったです。ここまで来られて……この地上が変わることなくいられるのは貴方のお蔭です」
いや、と羅乎は首を振った。
「俺だけじゃねえよ。お前や李比杜が頑張ったからだ」
そう言うと阿己良はありがとうと答えた。
「沢山助けてもらって、支えてもらって。大変でしたけど、楽しくて――」
阿己良が声を詰まらせた。涙を堪えつつ、それでも阿己良は羅乎を見上げる。
「幸せでした。……一生、忘れません。この先、何があっても――」
「あほか」
「……へ?」
まさか「あほ」呼ばわりされるとは思わなかったのだろう。阿己良がぽかんとする。それに笑い返して、羅乎は阿己良の身体を引き寄せる。
「ら――羅乎っ」
華奢で柔らかな温もりをしっかりと胸に抱いて、羅乎は阿己良に口づけた。
「わわっ」
「うおっほん!」
麻耶希が両手で顔を覆い背を向けると同時に、李比杜のわざとらしい咳払いが聞こえた。
「だから、目を瞑れって言ったじゃねえか」
「そういうことは、ちゃんと、事が整ってからであってだな……」
真っ赤になった阿己良を抱いたまま羅乎は大いに笑った。それから改めて紫の瞳を覗き込む。
「迎えに来るからな」
阿己良が目を瞠った。
「約束したろ?」
「……でも」
「絶対に来る。それまで待っててくれ」
阿己良が泣き笑いの顔で頷いた。