太陽の皇女 月の皇子~羅乎(らお)の巻~ 第七章
第七章
1
そこはどこの国の領土にも属していなかった。大陸の中央にある大森林地帯、周囲は底なしだといわれる水濠が広がる。誰も立ち入ることもなく、一切の人の手は入っていない。
地上が生まれたときからそこにある。そして現代も太古もその姿を変えることなく、ただそこに不気味に存在している。遠くから見れば、大地に突然現れる黒い塊。まるで常闇への入り口のような、深遠の闇。命を誘うようにありながら、全てを拒絶するような暗黒。
濠には生き物はいなかった。恐ろしく澄み切った水は一切の生命を受け付けない。生物が必要とするものはその中には存在せず、どこまで続くか分からない底に向かって、深い青を波立たせている。
美しいはずの緑も青も、どこか不自然に綺麗で、見るものに得体の知れない違和感を抱かせる。移り行く季節、流れる時間に左右されることなく、永遠にそのまま。そしてこの先もそのままなのだろう。
時の流れに取り残されたような、一切の営みを無視したようなその場所は「不時無の森」と呼ばれていた。
森周辺に宿場は少ないことは聞いていた。だが、できれば事前にきちんと準備をして向かうことが望ましい。なんと言ってもこれまでに誰も足を踏み入れたことがないのだ。前日には一度宿屋にて休んでいくべきというのがごく自然な意見となり、色々整っている町としては、地図上で一番、不時無の森に近い白鷺国端州にて後発隊となる李比杜を待つこととなった。
――琉拿を出る際、港で待っていたのは婁支雄という人物だった。
「王宮長の婁支雄がわざわざ?」
目礼した婁支雄に阿己良は目を丸くしたものだ。勿論、服装はごく一般の人間と変わらない装いになっていた。王宮長の衣服のままでくれば、たちまち人に集られることは目に見えている。無用な騒ぎは避けたいのは当然だろう。
「そちらが羅乎と仰る方か」
婁支雄の瞳もまた紫だ。阿己良に比べると薄いが李比杜よりやや濃い。一つに束ねられた白金色の髪からも間違いなく神拿国の人間だとわかる。
婁支雄という名前は幾度か耳にしていたが、まさか王宮長という身分の人間がこれほどに若いとは予想していなかった。簡素な衣服の婁支雄はどこか飄々とした雰囲気の温和そうな青年でとてもではないがそんな高位の人物には見えない。
「……女性と、伺っておりましたが」
「それは、世を忍ぶ仮の姿ってことで」
思い出したくないし説明をするのも面倒くさい。羅乎はそんないい加減な答えを返したが、阿己良が端的に説明を行った。
「火急とは申せ、大恩人に対しこのようなところで大変恐縮ではございますが、まずは神拿王に代わり、国を代表いたしましてお礼を申し上げます」
そつなく述べる様子が慣れた印象を与える。恐らく、司教会といった融通の利かない連中とやりあう機会が多いのだろう。
「して、羅乎というのは正式なお名前か?」
「……どういう意味だ」
「近侍副長より聞き及んだところでは、帯刀されておられる剣、異質ではありませんか」
近侍副長とは李比杜のことだと理解できた。小さく息をついた羅乎は腕組みをした。
「聞いてどうする。何か変わるのか」
「国の大事。国の宝、ひいては世界の宝をお預けするのです。いくら殿下がよしとされようとも、私自身で納得せねば、同行をお断りいたします」
答えはわかっているといわんばかりの言い様だ。それでもあえて羅乎の口から聞きたいというところなのだろう。
「俺の国では、貴人は本名を明かさねえんだよ」
これは事実だった。羅乎は高天原において最高位にある天照の一族である。羅乎の本名を知るのはごく限られた一部だ。つまり阿己良にまず本名を教えたのはそれだけ特別だとの意味であり、だからこそ、美蝕が「火乃鎖羅」と呼んだことに違和感があるのだ。
「天照に属する人間だ。高天原から来た――これで、満足か」
「口ではなんとでも言えるもの、腰のものを見せていただけますか?」
「婁支雄、よいのです。控えなさい」
見かねた阿己良が口を開いた。が、羅乎はその肩に手を置くと、剣を差し出す。
「借りもんだから、変なことすんなよな」
両手で押し頂く婁支雄が、失礼と断って検分しはじめる。
臣下の非礼を詫びる阿己良に気にするなと笑う。恐らくはこれが正しい対応なのだ。一度は剣を向けはしたが李比杜があっさりすぎている。あれはあれで納得したのかもしれないが、阿己良の立場を考えるなら、慎重すぎるということは有り得ない。
「いい臣下だ。ちゃんと大事にされてるじゃねえか」
頭を撫でると、阿己良は頷いた。
阿己良の周りにはまともな人間もいたということだ。きちんと愛情を注いでくれる人々もいたであろうことは、この阿己良を見ていればわかる。
「草薙の剣でございますな」
「よく知ってんな」
「我が家の文献にございます。その昔、有瑠摩と名乗られる方がふらりと参られて、滞在をしていたことがありまして、その時の記録に」
くそ親父と内心で拳を握りつつ羅乎は眉間に皺を寄せた。どうやら放浪好きなものが生まれる家系らしい。
「大変ご無礼をいたしました」
恭しく剣を返し、婁支雄が頭を下げた。
「では、本題でございますが、太陽の神殿はいかがでございましたか」
「羅乎のおかげで。ですので、これから中央に向かいます」
婁支雄が頷く。
「羅乎殿もご一緒くださるのか」
「勿論」
「それは有難い。我らには手駒が少ない、助かります」
それから、と婁支雄が険しい表情をした。
「迦瑠亜様ですが、引き続き捜索を」
「姉様は見つかりました」
婁支雄が目を見開く。
「うちにいる。まだ動かせねえらしいが、もう大丈夫だそうだ」
「高天原に? え――なんでまた、そんなところに」
少し砕けた口調が出てしまったのは安心故か、慇懃無礼な態度だったのが緩み、ちらりと見えた本性は好感の持てる青年のようだった。
「いずれにしてもご無事ならよいのです……なんというか、驚きですが」
婁支雄が大きく息をついた。
「ならば、李比杜を向かわせるようにいたします。申し訳ないことに、悪気に対しての対応要請が多く、警邏や近衛が出払う始末。事は公に出来ぬゆえ、事情を知るものとなりますとさらに限られる状況。琥邑や士覚も向かわせたいところなのですが」
「ありがとうございます。李比杜が来るなら充分です」
阿己良が微笑む。
「元々、僕と李比杜の二人で行くはずだったんです。今は羅乎もいます」
婁支雄も、と阿己良が青年の腕に手をかける。
「大変ですけど、お母様と琉拿のことお願いします」
「留守番は得意ですから、お任せください」
冗談めかした答えに阿己良が苦笑しつつ続ける。
「忙しいと貴方はすぐに食事を省きますけどいけませんよ。それから徹夜も。しっかり食べて、しっかり休まなくてはだめですからね」
「なんだか、阿己良様が妻に見えてきましたよ」
「琥邑に心配ばかりかけている証拠です。せめてちゃんと休んでくださいね、約束です」
わかりましたと婁支雄が項垂れる。
「出来た姫様じゃねえか」
「私の教育の賜物ですよ」
悪びれずに言って、にやりと笑って見せた。
「俺達は先に向かっていいのか?」
「李比杜には早馬で向かわせます。阿己良様もおりますし、そのように願います。李比杜は恐らく数日で出発できるかと」
婁支雄が懐から巾着袋を取り出した。
「これは路銀です。一番近くの村は端州という町。そこでお待ちください」
婁支雄が続ける。
「あの辺りは宿屋のある集落は殆どないのです。本当はもう一つ先に村があるのですが、やはりきちんと事前準備ができるとなりますと、端州の方がよろしいと思われますので」
果たして、李比杜が到着したのは、羅乎たちが端州に到着した翌々日だった。王宮内の処理を終えて駆けつけてきたのだから恐ろしい強行軍だ。
手を上げて出迎えた羅乎を李比杜は複雑そうな目で見やった。婁支雄から聞いているだろうが、ここまで共にいた時間から考えると目の前の事実は受け容れがたいものがあるに違いない。案外、大急ぎでやってきたのは大事な姫の身の安全の為かもしれないなんて思ったりもする。
「阿己良様は?」
「寝てるよ。起こすのもなんだからな。それに」
「何だ」
「李比杜には話しておきたいこともあったから」
羅乎の言葉を受けて、李比杜があからさまに顔を顰めた。
「その姿の話か?」
「まあ、それもある」
「やはりというか……男であったか」
李比杜程ではないにしても、ある程度の長身を前に李比杜は溜息をつく。肩を並べて歩くと、ちらちらと羅乎を見やる。
「そんな気はしたというか。女という気がせんかったというか」
「そう言われた時は、超能力者かと思ったぜ」
いたずらっぽく笑うのを、李比杜が忌々しげに見やった。
「まあ、どちらでもよい。羅乎は羅乎なのだろう。中身が同じなら構わぬ」
「すげえ大雑把な納得の仕方だな」
「他にどうしろというのだ」
しみじみ言うあたり、道中色々と考えながら来たのだろう。実際に会ってみて、考えることを放棄したといった感じだ。
「悪かったな」
李比杜が目を上げる。
「なんか、騙してるみたいでさ」
「別に、迷惑はしておらん」
それから、と羅乎は足を止める。つられて立ち止まった李比杜に正面から向き合うと、両足を揃えた。
「高天原はいかなる助力もせぬし、今後もない。我の行動は全く個人的なものである。大王、大神ともに事態を御存知で心を痛めておられる故、黙認されておるが、それだけと理解されよ。地上に、特に神拿国に対し、かような苦労をかけ、すまぬと思うておる。天照の火を継ぐこの火乃鎖羅、天にかわり、深く詫びを申し上げる」
「なんだなんだ、改まって――やめてくれ」
頭をさげる羅乎に李比杜が慌てたように口を開いた。
「そもそも俺はそういう硬いことは苦手だし、その、なんかやりにくいだろうが」
「実は、俺もあまり得意じゃねえけど、一応な」
神拿国には長い間、負担と迷惑をかけてきている。今回のことでは婁支雄をはじめ、近衛やらなにやら様々な者達が苦労をしていることだろう。だが、羅乎は、そんな中でも李比杜に詫びを言いたかった。これから行く場所は未知だ。羅乎も知らず、王族である阿己良ですら詳細を知らないのだと言っていた。そんなところへ、ただの人である李比杜は直接乗り込むのだ。当然のことながら一番危険の大きい役回りであることは否めない。
「天は天、地上は地上。それぞれのことだ。理不尽なのは別に今にはじまったことじゃあない。それになにもかもを神になど頼っていたら、人は立ち行かん。天とやらの対応は正しいんだろう。まあ、本音を言うと助けてもらいたいところだがな」
「すまない」
「黙認ってことが協力だろう。それでお前には咎はないのか?」
「ない。まあ小言くらいはあっても、せいぜいその程度だな」
そうか、と李比杜が頷く。
「貴人は名を明かさぬそうだが、相当な身分なのだと推察する。だが、俺はこれからも羅乎と呼ぶし、態度は変えない。変えるつもりもない。それで構わんか?」
「構わねえ。俺の名前なんて、長くて面倒だしな」
「そんなに長いのか?」
「気が遠くなりそうなくらいな。呼称の方を本名にしてえよ」
実はこれは本音だったりする。案外、天の誰しもが思っているはずだ。だからこそ皆があだ名で呼び合うのだろう。貴人だからなんて言い訳に違いないと密かに思っている。
「まあ、それはともかく」
羅乎が笑顔を収めると、李比杜の表情も真面目なものになった。
「悪気だが、どうやら人型らしいんだ」
「人型?」
羅乎が歩き出すのにあわせて李比杜も足を進める。
「美蝕っつーらしい。そいつが悪気の根源らしい。玄武のところで見たのを覚えてねえか」
「美蝕、あれが……」
李比杜が呟く。
「知ってんのか?」
「無論会ったことはない。話に聞いたことがあるだけだ。やたら本好きな友人がいてな」
李比杜の言う友人というのが婁支雄だというのはなんとなくわかった。
「あれは本があれば生きて行ける。本が栄養なんだ」
元々から王家に仕える名家の出ではある。どうしてだか要領がよく、いつの間にやら義父の後を継ぎ、破格の若さで王宮長などになってしまったが、今は辞めることばかりを考えているのだそうだ。妻である李比杜の妹、琥邑曰く、理由は本を読む時間が減ったからだそうだ。なんとなくあの青年らしいという気がする。
「美蝕とは、今の神拿国王家の始祖らしい」
「なんだって?」
神拿国の始祖は拿夜竹とされる。いずれにしても、出自は天に属し、羅乎と同じ世界の人間ということになる。
「始祖が生きてて、それでなんで悪気になってんだ」
――そしてなぜ今になって動き出したのか。
李比杜が言うことが本当ならば美蝕は同郷だ。太陽の神殿とやらを使えなくしたのは、もしかしたら美蝕の可能性がある。神拿国にも詳しく、高天原も通じている。羅乎の名を知っているのも繋がりがあるのなら、頷けないことでもない。
「阿己良は知らねえのか?」
「恐らくは御存知ないだろう。王宮でも知る者は殆どいないだろうな。太古から文官で古文書を扱っている婁支雄の身内くらいだ。公の文書にはない」
それも今では古文書を解読できる婁支雄くらいだ。
「あるいは、陛下はご存知かもしれんが」
悪気そのものだという美蝕。美しい見た目とは裏腹に、その内側にはどれだけ黒い闇を抱えているのか。
「なんにしても、排除するだけだ」
振り返る。その向こうに、暮れかけた陽を背に受けた黒い、こんもりとした塊。羅乎は沈もうとする夕陽と同じ色の瞳で、赤い景色の中にぽっかりと空いた闇の入り口を見つめるのだった。
2
朝日が昇ろうとしている。闇色から白くうっすらと色を変える空、光を生み出す丸い輝きが大地を照らしていく。
青い透明な水の前で阿己良が足を止めた。
懐から取り出したのは、小さな硝子壜。金の縁取りがそのまま器を包む透かしの模様となり、底面を補強している。中にあるのは太陽の神殿で掬ってきた神水だ。
帯に刺してあった短剣を手にすると、阿己良は己の指に刃を当てる。小さく膨れてきた血玉を小瓶に注ぎ、祈りを捧げたあと、振りまくようにして中身を撒いた。
太陽の光を受けて輝き、それは地面と水へと降り注ぐ。すると無機質な青一面だった水面が渦を巻き、奇妙な流れを作り出す。
羅乎が目を瞠る。その目の前で、蠢いた水は一気に集まり、水柱をあげ、やがてそこに透明な橋を作り上げていた。
「羅乎?」
一連の動作をぼうっと見ていた羅乎に阿己良が声をかける。
「どうしました? 行きますよ?」
羅乎のことを魔法使いと言う阿己良だが、自分の方がよほど神がかり的な力ではないか。内心で驚きつつ、促されるまま羅乎は水の橋へと踏み出した。
「どこから入ろうと、道は一直線なんだそうです」
阿己良が告げる。言葉の通り、まるで木々が避けているかのように、道が開けていく。外から入る手段は通常ない。それを持つのは琉拿の王家だけで、王家の人間が渡る時は、たった今阿己良が行った方法で渡る。結ばれた外界との空間を元に、そこからはただまっすぐ進むのみとのことだった。どの方角から入ろうとも、そのまま進むことで月幽門の正面に辿り着く。
「月幽門を護る魔獣の魔力だといわれています」
そうだろうなと羅乎は心の中で頷く。明らかに誘導されているこの感じ、これは魔力だ。魔獣の力が働いている。そして進むごとにそれは強くなっていく。
「門は聖獣が守ることになってんのに、なんでここだけ魔獣なんだろうな」
「え」
意外な指摘だったのか阿己良が瞬いた。そして何故だろうと首を捻る。理由は阿己良にも伝えられてはいないようだ。
月幽門は特殊ということだろうか。説得してどうこうという相手ではないことは間違いなさそうだ。いずれにしてもこれを排除しない限りは先へ進めないのであれば、ご退場願うしかない。
羅乎は柄に手をかけた。一本ずつ慎重に握っていく。懐かしい、慣れた手ごたえが返ってきた。
緑の向こうに白く霞む空間。その手前で咆哮をあげている姿があった。
「まずは化け物退治というわけだな」
一方は赤だった。
黒と見紛うほどの深紅の瞳。薄桃色の全身は蛇や蜥蜴のような鱗になっていた。踏ん張る四肢には柔らかそうな体毛がそよぎ、大きな手足の先には黒く濁った大きな爪が生えていた。巨大な口には長く黄ばんだ牙が天に向かって伸び、首の周りには金色に輝くやはりふっさりとした鬣があった。背中に羽毛のない羽が畳まれている。
もう一方は青かった。獅子に似た姿は深紅のそれと大差ないものの、鬣がより豪勢だった。顔の周りから背中へと繋がり、そのまま尾の先まで続いている。そしてその額には金色の角があった。
どちらの足にも白く輝く紐のようなものが巻きついていた。こちらの気配には気付いていたろうに、ある程度の距離から近づいてこないのはその戒めがあるからのようだった。「まずは青だ」
李比杜は槍を構えた。羅乎が頷く。
唸りをあげて振り下ろされた腕は太く、ひたすらにでかい。躱して立ち上がった自分の顔の高さに来るのは、獅子の胸元あたり。つまり、足だけで身長と同じだけの長さがあるということだ。
「李比杜、後ろ足行く」
「承知」
二人が同時に走り出す。
それは勿論、青い獅子の繋がれている右側に向けて。戒めがある赤い獅子はこちらに来る事はできないはずだ。当然のこと一匹ずつ片付けたい。
李比杜が背面に回るのを見届けて、羅乎はとりあえず、青い獣の目の前で炎の爆発をお見舞いした。一瞬、辺りに閃光が広がる。
甲高い咆哮を上げると、のけ反るように動き大きな頭を振る。踏ん張ろうとしている前足をすり抜け、側面に回る。後ろ足に鋭く突きいれると獅子は長い尾を振り回した。
「意外と硬えな」
跳躍することでそれをやり過ごし、再び同じ後ろ足を斬り付ける。薄く光を跳ね返す青鱗はその角度によっては虹色にさえ見える。二度、三度と同じ箇所に攻撃を加え、ようやくその硬質な皮膚から血が流れ出た。
目を回す時間は終わっていたようだ。剣を構える羅乎に物凄い風圧が襲い掛かる。青い身体が浮きあがり、羅乎の正面に降り立った。
ちりちりと空気が鳴く。ふわりと熱気が舞い上がると、青獅子がその巨大な顎を開き、大量の炎を吐き出した。
「上等!」
羅乎が腕をあげる。目の前に炎の壁を生み出した。紅蓮の咆哮を、同じく燃え盛る火炎が受け止め、押し返す。――と、青獅子がその身を地面に横たえた。苦しげにもがき、よろよろと立ち上がる。が、立ち上がった途端再び嘶くような声を上げる。李比杜の槍が、羅乎の作った傷を正確に攻めていたのだ。
槍は突いてよし、薙いでよし、斬ってよしのものだ。李比杜は槍の持てる力を存分に引き出し、ほんの僅かな傷を切り開き、薙いで、刺し貫いていた。
右後ろ足を潰された青獅子は立ち上がることができなかった。その場に座る形で羅乎と李比杜の攻撃を受け止めることになる。
しかし、大きいというだけでそれは強さに直結する。前足はさすがに危険だった。近寄ろうものなら、鉤爪のついた巨大な前足が風圧を伴って襲い来る。
李比杜の攻撃は横腹に移っていた。それを援護する形で羅乎もまた剣を振る。
執拗な攻撃に獅子はいやいやをするように首を振る。そして熱気を帯びると辺りに炎を撒き散らす。
炎をかいくぐった李比杜の槍が青獅子の目を潰した。振り上げられた前足を地面に伏せて躱す。赤い雨が降る中、すぐに身体を起こすと腰の剣を抜く。
「ふんっ!」
抜き様、痛みに喘ぐ鼻先へと斬撃を叩き込んだ。
黒い鼻は他より柔らかかったようだ。体重の乗った渾身の一撃はその鼻をかち割り、鋭い牙も折ってしまった。
「おいおい、すげえな」
羅乎は思わず呟いた。やはり敵に回したくない人間だ。
青獅子が痛みに地団駄を踏んで、後退した。その隙をついて、李比杜は槍を取り戻す。勿論、ただで引き抜くはずもなく、しっかりと横一線に薙いでいる。
甲高い声がか細く響く。掠れて途切れるのと青い身体が倒れこむのとは同時だった。
「あとひとつ」
振り返った瞬間、炎の玉が飛んできた。羅乎が炎の壁で受け止めると、今度は炎の帯が伸びて、足元を薙いで行く。
羅乎は剣の一振りでそれを払った。弾かれるようにして炎が飛散する。どうやらこちらは青い方よりも多彩な炎技を持っているようだった。
「この俺に炎で挑もうっていうのが笑っちまうよな」
羅乎が小さく独り言ちる。人の枷は外したのだ、これまでの児戯のような炎しか使えない状況とは異なる。さすがに全開にするには地上の調和的にはよろしくないだろうが、ある程度ならば問題はないだろう。
羅乎は剣を収める。李比杜が不思議そうにこちらを見た。
「喧嘩を買ってやろうと思ってな」
紅蓮の炎が一直線に羅乎を目掛けて放たれた。なんのこともなく受け止めた羅乎が、それを己の腕に巻き取る。右腕を回し、空中に炎の束を作り上げた。あまりの熱に李比杜が下がる。羅乎は固まりにした炎をそのまま相手に向かって投げ返した。
咆哮が上がる。跳躍してかわしたところへ新たな火炎を生み出す。
赤獅子は尾を振り炎を散らそうとする。しかし、そんなことで消せるものではない。やがて赤を纏っていた炎はその色を変えていく。
もはやそこは火の絨毯だった。大地は燃え、溶けた地面は溶岩と化す。埋もれる足を僅かな翼で羽ばたき抗う。しかし、その翼にも容赦なく火が燃え移る。
続けざまに羅乎が炎の鞭を躍らせた。しなやかに蠢く熱鞭は、深紅の鱗を打ち、その固い表皮を溶かしていく。
己の身体に次々と生まれる他人の火の力に、深紅の獣は明らかにうろたえていた。
魔獣と化したこの二匹の魔獣。元は聖獣であったのに違いない。この月幽門を護るべくここに配置された。そして悪気の影響を受け、魔に染まったのに違いない。その証拠が足を捕えている鎖。そこから放たれる術の残滓、これは間違いなくよく知った気配だった。
――手を出さないなんて、よく言えたもんだよな。
月幽門を閉じるにあたり、高天原が関係していたことは間違いない。
赤い獅子が己の身体の耐えうる温度を超える熱に悶え始めた。優雅に輝いていた金色の鬣が白い火炎に纏わりつかれ、失われていく。
燃えて立ち昇る煙は黒。彼らの持つ魔性が浄化され焼き熔かされていく。
赤獅子は熔けいく四肢を踏ん張って立ち上がった。そして僅かに天を仰ぐと、首を振り下ろす。と、同時に、炎の玉があたり構わず降り注いできた。
落下する火の玉。そして同時に突きあがる衝動――地面から生み出されたのは炎獄の柱。上下に踊り狂う炎の演舞。
羅乎はともかく、それだけ散らされると李比杜や阿己良が喰らう可能性があった。案の定、下がっていた李比杜が必死に炎を避け、阿己良をその身に庇う。
舌打ちして、羅乎が振り返った時だった。
「――」
辺りを閃光が包み込んだ。地面を穿つ、激しい振動と轟音。そして獣の情けない悲鳴があがる。
「麻耶希、登場」
轟くのは雷鳴だった。火を受けた木々がなぎ倒され、突如として沸き立つ驟雨が一気に鎮火していく。
「駄目だよ、羅乎兄。麻耶希は天照さんちの護衛係りなんだから、ちゃーんと連れてってくんなきゃ、草薙回収するよ!」
羅乎の傍らに降り立つなり、麻耶希は両手に短い剣を構える。軽く地面を蹴ると、一気に赤獅子へと接近した。
鋭い爪が振り上げられる。それにも構わず麻耶希は走る。疾風の如き速さで躱すと、そのまま跳躍した。そして正確に熔けた鱗の箇所を狙い、刻んでいく。まるで羽があるのかと疑いたくなるほどの身ごなしだった。赤獅子は麻耶希の動きを捕えることができないまま、翻弄され、その身を刻まれていく。
麻耶希が悶える獣の背に降り立った。一際大きく裂いたところへ一本のクナイを打ち込むと、剣を持つ腕を振り上げ、空中へ飛び上がると同時に振り下ろす。
「とっどめー」
大きく跳躍した麻耶希が羅乎の目の前に着地した。瞬間、クナイを軸に落ちてきた雷光が、たった今斬り裂いてきた場所をなぞるようにして雷が絡みついていく。
赤獅子が断末魔の声を上げた。地鳴りとともに、その場に大きな身体を横たえると、動かなくなった。
3
「麻耶希、お前」
羅乎が目を瞠る。
「間に合ってよかったよお」
「間に合ってって、お前、いいのかよ」
「確かに、天照を守護するのが仕事なのに、わかっててほったらかしはまずいよね」
ひとつ息をついて剣をしまうと、麻耶希が腕組みをして一人頷く。
「そんなことより、阿己良ちゃん、大丈夫?」
麻耶希が振り返った先、李比杜に伴われて阿己良がやってくるところだった。
「あー、汚れちゃってる! 麻耶希の阿己良ちゃんが、ばっちくなってるう」
「お前のじゃねえ、俺のだ!」
羅乎が麻耶希の頭を小突いて、阿己良を見やった。
「大丈夫か」
今の発言に対してか阿己良が恥ずかしそうに頷いた。が、その隣で恐ろしく険しい顔をした人物がいる。
「色々と確認したいことがある」
言って、李比杜の紫の目が羅乎を見下ろす。
「『俺の』とは聞き捨てならんな。なんだ、それは。知らぬ間に何があったのだ」
「別に何もねえよ」
しれっと答えた羅乎を無視して、李比杜は阿己良を見た。
「どういうことでしょうか、殿下」
「おい、なんで俺の答えを無視して阿己良に聞くんだよ」
「お前は信用ならん」
「李比杜。お前ね――」
「そうだよね、麻耶希を仲間はずれにしようとしてるんだもん。ひどいと思うでしょ、阿己良ちゃんの部下の人」
羅乎が反論するよりも前に麻耶希が言った。
李比杜が小柄な少女を振り返る。
「……これはなんだ、羅乎」
阿己良にくっついている麻耶希を見る李比杜の顔は険しさと困惑が混ざった、かなり複雑なものだった。
「麻耶希だよー」
「は?」
李比杜がますます怪訝な顔をする。自己紹介としては麻耶希の言葉はあまりにも不足分が多すぎる――否、不足しかない。
「麻耶希って言うの。よろしくね、阿己良ちゃんの部下の人」
「……阿己良様の部下に違いはないが、それは名前ではないんだが」
混乱中なのだろう、李比杜が生真面目な口調で返す。
「須佐之男阿魔夜己希乃皇女。オレの従妹だ」
羅乎はわざと正式名称を言ってやった。本来ならば麻耶希の名前も明かされることはないのだが、李比杜の顔が混乱に顰められるのを楽しんでのことだ。
「スサノオ?」
「天照の守護をしてる一族さ」
天照の一族が政の頂点とするならば、須佐之男の一族は軍部の頂点になる。
天照の統領が政を統括するのと同様に、須佐之男の統領が高天原の軍を統括するが、軍とは別に天照一族は守護と称する私兵を有し、それは統領以下の須佐之男の直系が幹部を務めていた。
「部門の一族だからな。戦闘能力ってことで言えば、俺のはるかに上を行く。しかも、こいつ須佐之男にあって草薙の剣の正当な所持者だ」
高天原において草薙の剣は、最高位の武門一族である須佐之男家の中でも、もっともすぐれた武人に与えられるものだった。
「でも麻耶希はあんまり好きじゃないから羅乎兄に貸してあげてるの」
李比杜の目が羅乎の手元の剣を見て、それから麻耶希へと移る。
「麻耶希はね、羅乎兄の専属の護衛役なんだよ。まあ単なる順番で末っ子同士だからなんだけど。でもさ、それなのにおいてけぼりってどう思う、阿己良ちゃんの部下の人」
やんちゃの過ぎる大事な御曹子を任せるにあたり、最強の戦士を用意したというのが本来の理由であるが――実力はともかく、護衛する側の人格には著しく問題があるとお偉方の大半が思っていたりする。
「……つまり、その子は」
「とても信じられねえだろうし世の中の理不尽を感じるだろうが、高天原最強の戦士だ」
「ということは」
「今現在、天と地を合わせても、最強ってことだ」
「きゃは、褒められた?」
麻耶希が無邪気に笑った。
「開けます」
魔物のいなくなった月幽門。悪気を封じ込めた場所に通じる道。
三日月の飾りを鍵穴に収める。金色の飾り口からはめ込まれた場所に、太陽の神殿で得た神水が流れ込む。その重みで仕掛けが外れると、そこから月の光と太陽の光を受け、門が明滅をはじめる。
不時無の森。ここに時間の流れはない。三日月の鍵により月と太陽の営みを受け、はじめて時を感じることのできる森であり、はじめて門が開封される。
鍵を差し込み、そこへ手を触れたまま阿己良は動かない。門に地上の聖力を注ぐことで月幽門を開封するために、阿己良が己の身体に流れる力を与えている。
阿己良の周りに力の風が生じ、柔らかな白金色の髪を煽る。
「李比杜」
羅乎は半歩前にいる忠臣に声をかけた。
「すべて終わったら、俺は阿己良を連れて行く」
李比杜は阿己良の背中を見つめていた。
否でもなく、どこへと問うこともなく。ややあって、
「……そうか」
そう小さく呟くように声が返ってきた。
この混乱が解決したならば阿己良の姉である迦瑠亜が戻る。そうすれば阿己良は王宮に閉じ込められたまま生きていく。なかったものとしての人生を歩んでいくことになる。これだけの苦労をして、悪気から地上を救ったとしても阿己良の辿る道はひとつしかない。いくら阿己良を哀れに思っても、神拿国の人間にはどうしようもないことだ。
「大事な姫君だ」
李比杜が言う。
「わかってる」
李比杜だけではない。婁支雄や琥邑といった温かな人々に囲まれて阿己良は育った。そこにどれだけの愛情があったのか、それは阿己良を見ていれば自ずとわかることだ。
第二皇女として生まれ、自由のない不遇な一生を歩むことが決まっている状況にありながら、阿己良が恨むでもなく嘆くでもなく、他人を思いやる心を忘れずに成長できたのは、ひとえに周囲の人間の惜しみない愛情があったからに他ならない。憐れであればある程その愛情はより深いものであったのかもしれない。
「絶対に幸せにすると約束する。なんなら、剣に誓おうか?」
李比杜が振り返った。
「借り物ではないか」
「――う」
憮然とした言い方だった。咄嗟に反論できなかった羅乎に李比杜がくくっと笑う。
「お前の言葉を信じよう、太陽の皇子」
李比杜の大きな手が羅乎の背を叩く。些か強すぎる力に羅乎は目を白黒させるが、大事な物を攫っていこうという輩に対する複雑な思いのこもったそれは、どことなく温かいような気がする。
「じゃ、行きましょうか、お父さん」
「誰がお父さんだ」
扉が開く。眩いのに、どこか禍々しい輝きが広がる。
冗談めかして言うと、羅乎は足を踏み出した。