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太陽の皇女 月の皇子~羅乎(らお)の巻~ 第五章

第五章

    1


 町を出る間際、不意に李比杜りひとが馬首を巡らす。羅乎らおに止まるよう指示をするとそのまま離れていく。向かった先に控えていたのは、やはり騎乗した白金色の髪の女だった。

琥邑こゆう?」

阿己良あきらの呟きに対し誰かと問うと李比杜の部下だとの答えが返った。

 姿勢のいい女だった。短めの上着を羽織った姿は格好が良い。全体的に線が細いのだが、華奢というのではなく、均整が取れているのだ。長く伸びた手足は黒一色の、身体にぴったりと密着した服を身につけている。剣は横ではなく、背中の下に括られていた。恐らく武闘派ではなく、間者や伝令を受け持っているのだろうと思われた。

「琥邑と士覚しかくというのが李比杜の腹心なのです。その二人が神拿国でお母様の護衛をしているはずなのですが」

 女王の眠り――実質、封印されたということで、琉拿るなは相当混乱をしていたと言う。

厳重に護られている女王が封じられたとあっては近衛の面子は丸潰れだが、それ以上にその事実は戦慄する事象でもあったことだろう。神拿国かみなこく最奥、厳しい警護の中で起きた出来事。もしかすれば内部犯の説もあり、王宮内はかなり不穏であったに違いない。

「確か、琉拿には軍はなかったよな」

「ありません。警邏はいますけど」

 神拿国は軍隊を持たないのは周知の事実である。国家といっても特殊な宗教国家で、戦争はしないというのが大前提だ。王宮を警護する王宮警邏隊、国全体を警邏する国家警邏隊、そして王家を護る近衛警邏隊がいるのみだ。そんな近衛警邏隊の中でも、特に王族の側近くに控えているのが近衛近侍隊と呼ばれる。精鋭が集められており、魔法に特化した近侍魔法部隊と武術に特化した近侍部隊があった。李比杜は双方を束ねる近侍隊の副長官であり、琥邑は魔法部隊長、士覚は近侍部隊長にあたると阿己良が説明した。

長官は阿己良の姉と行動を共にしており現在は行方不明だった。本来なら指揮を執るのは副長である李比杜だが、王宮内部で起こったことを考えると真実信頼できる人間は限られる上に、持ち駒は少ない。さらに部隊を遠征させる準備をする猶予はない。となれば大事な阿己良を護衛する任は自分が負い、万一何かあった場合には各部隊に任せるしかないと判断したのだと阿己良が語る。

「そして腹心である二人の部隊長に城内の警護と教団を任せてきたのです」

 護衛がたった一人しかいない理由がようやく理解できた。割ける人数がいない。だから一騎当千の己が皇子のお供をしていたということか。

「その琥邑がこんなところに来るなんて、一体どうして……?」

 阿己良が羅乎を見上げる。その視線は二人の元へ行けと告げていた。

「――はいはい、皇子様」

 蹄の音に女の方が振り返った。その顔がすぐに笑顔になる。

「阿己良様」

お久しゅうございますと言う声は低いが、労わりに満ちて優しい。

「お元気そうで何よりです。李比杜めが、ご苦労をおかけしてはおりませぬか?」

 そんなこと、と阿己良がちらりと李比杜に目を向けてから微笑む。

「よくやってくれてます。でも琥邑、相変わらず、兄上には厳しいのですね」

「え? 兄妹」

 思わず出た声に琥邑が目を細める。

「阿己良様、失礼ながら、この女性は」

「この方は、僕の――友人で、羅乎といいます」

 琥邑の目が羅乎を見やる。やはりその目の色は紫だった。よろしくと言うと、琥邑もまた軽く頭を下げた。

「羅乎のことはいいだろう。それで士覚はどうしてる」

「何があったのですか?」

 阿己良の視線を受けて、李比杜ではなく琥邑が口を開いた。

「女王陛下が封じられたことが知れました」

 女王は現在瞑想中として面会謝絶にしていたのだと琥邑が言う。だが、あまりに長く公の場に出ないのでは、不審がられて当然といえた。

「それは予想していたことなので、司教会で伏せておくということが決定された。だが、迦瑠亜様が長と共に行方知れずということが漏れ、そして」

 あろうことか、悪気に囚われた司教が王宮で暴れたのだという。

「本来ならば女王陛下、もしくは次期女王の迦瑠亜かるあ様が悪気を除かれるはずであるのに、お出ましにならないということで」

 そこで迦瑠亜不在がばれた。そして近衛の責任者である長官を出せとの話になり、共に不在であることが皆に知れてしまった。

「司教会はそれならば副長をと。だが、阿己良様の護衛に出ていると知ると、皇子に構う必要はないから呼び戻せと。それで私がその任を請け負った」

 皇子に構うなとはどういうことかと羅乎は思った。だが、李比杜の話を思い出す。次の女王になる者以外、邪魔なのだと言う考え方。阿己良の様子を伺うも、特に珍しいことではないのか表情を変えることはなかった。

「士覚は今回の不祥事の見せしめということで、司教会に拘束されている」

「年寄り連中は、何も知らんくせにでしゃばるからな」

 心底忌々しげに李比杜が吐き捨てる。

「陛下の周囲はどうしているんだ」

婁支雄るしおに任せてきた」

「まあ、あいつなら間違いないが」

「司教会が、近衛に王宮を護らせるのはどうかなどと馬鹿馬鹿しい異論を唱えてきていてな。文官だが、王宮の中で一番信頼できるのは婁支雄しかおるまい」

 仕方ないことだと言わんばかりに李比杜が大きく息をついた。

「一度、王宮に戻ってはもらえまいか」

 琥邑の言に、李比杜が目を上げた。

「ことが深刻なのはわかっておる。だがこのままでは士覚のみか、婁支雄にも咎が及ぶ。そうなれば、女王陛下の周囲に司教会の連中が入り込むことになりかねない」

 全部がというわけではないが、出世や派閥しか考えていないものがいる司教会に王家を任せるなど想像もしたくないと琥邑が言った。

「真実も知らぬ奴らが、知った顔で仕切っている姿など見たくもない」

 これが本音なのだろう。吐き捨てるような口調は、色香すら漂う大人びた雰囲気に似合わぬ子供っぽいものだった。

「戻ってください、李比杜」

「阿己良様」

「僕は大丈夫です。羅乎がいますから」

 羅乎は顔を顰めた。なんだか、あずかり知らぬところで話が進んでいる。

「羅乎、僕を護ってくれますよね?」

 阿己良が振り返る。そこに込められている願いは話の流れだけのものなのか。それとももっと深い意味が込められているのか。こちらの気持ちを知っているだろうに、真摯に見上げる澄んだ紫の瞳は何とも罪作りなことだ。

 ――惚れた弱みってやつだよな、これ。

 どうせ逃げられないし、諦められないのだから向き合うしかないのだ。

「ああ」

しかも六つの紫色の瞳に見つめられて、羅乎は頷いた。この状況で否と答える人間がいたら、それは相当ツワモノだ。

「本当か」

「勿論」

勿論と手綱を握る手にそっと力を込めた。前に騎乗している阿己良だけが、己に回された腕が狭まったことを感じたはずだ。これくらいのいたずらは許してほしいものだ。

「阿己良様、どうかなさいましたか?」

 相変わらず素直に赤くなった阿己良に琥邑が問う。阿己良が慌ててなんでもないと首を振るのを見ながら羅乎は内心で舌を出した。

「ど、どちらにしても神拿国までは一緒ですから」

 阿己良が李比杜を見やる。

「李比杜は一度王宮に戻ってください。そして、お母様をお願いします」

「俺達も神拿国に行くのか?」

 てっきりどこかの門に先に向かうのかと思っていた。

「中央に行くにしても、一度、神拿国にある禁施の森へ行く必要があるのです」

 確か、前にもそのまま中央に行っても意味がないと話していた覚えがある。

禁施きんしの森へ向かわれるのですか?」

 禁施の森とは何かと疑問を抱いた羅乎よりも先に琥邑が低く問うた。

「こんなことを申し上げるのは何ですが」

「わかっています。でも、行ってみなければ、まだわかりません」

「そうですね」

 自身を納得させるかのように、琥邑がしみじみと頷いた。

「森へ行かれる前に、阿己良様も一度王宮に戻られては?」

 李比杜が提案をすると阿己良は首を振る。

「戻って出られなくなっては仕方ありませんし」

「確かに、それはあり得ますね」

「どこにでもいるんだな、頭が固くてうるさい奴らってのは」

 ため息交じりの言葉には日頃の苦労が滲んでいる。羅乎の同情に李比杜はまったくと言わんばかりに肩を竦めて返した。

「阿己良様については何と報告しましょうか」

 琥邑がどうしてだかどこか楽しそうに尋ねる。そうですね、とそれに対し答える阿己良も珍しく意地の悪い笑みを浮かべた。

「置いてきましたと言ってください」

「そ、そんなんでいいのか?」

 阿己良が振り返った。いいのだと半眼の表情で言う。

「皇子は捨て置けと思わせておけばよいのです」

「……」

 かなり頑固者なのだとの認識はあったが、意外や意外、こんな一面もあるのかと思う羅乎であった。



 これまでのように周囲を伺いながらということはなく、ひたすら琉拿を目指す。北東の港町、居嗚里いおり。大陸から唯一、神拿国のある琉拿諸島へと渡す船が出ている港だった。

 漁港としては大きくはない。その割に宿屋と馬屋がやたらと多い。大陸全土から集まる巡礼者が主な利用者であるからなのかもしれない。

 馬を走らせながら、羅乎はこれまでのことを考えていた。

 間違いなく蔓延しつつある悪気あっき。確実に人々に影響を与え、鬼に変えている。そのくせ、それに気付かないような人々もいて、それはいっそ刹那的な光景だ。これから起こる悪気の大津波の前に気付かないふりをして、今を謳歌する。

 ことはどこからはじまっているのだろう。神拿国女王が封じられたのが最初なのか。それともそれは単なる序章で狙いは王女だったのか。

 行方知れずの王女。襲われたのか、攫われたのか。ただ逃げたのではない事はなんとなくあの阿己良を見ていてわかるような気がする。阿己良が頼りに思う程の姉だ。無責任に逃げたのではなく、何かがあったから動き出したのだと、そう感じる。

 そして相変わらずの疑問は、なぜ、中央には行っても意味がないのか。

月幽門げつゆうもんは神拿国の管理下にあるはずだ。もし門が開いているなら、王族である阿己良が行けば封じることができるだろうに……。

 麻耶希まやきに話したようにそんな簡単な状況ではないのだろうことだけがわかる。そしてそれ以外、何もわからない、何も知らない自分。何とかなるかもしれないと言うのは実に甘い考えで、実際には自分にかけられた呪術さえままならないくらいで……。

わからないことが多すぎると思った。

わからなくて、何を、どうするべきなのかが見えてこない。

今、わかっているのは阿己良を護って、禁施の森に行くしかないのだということだ。

 一度、馬を乗り換えた。その後、天気にも恵まれた強行軍は、五日目にして居嗚里に到達していた。そして船を待つこと二日、一行は神拿国首都、琉拿へと到達していた。


    2


 琉拿諸島。大陸の北東に位置する大小十程の島々。人の住まない島も含めると二十はあるだろうか。一番最北の最大の島、琉拿島を頂点に、波状形に位置している島群。いずれも大半は緑に覆われている。比較的大きな島には琉拿詣でに来た人々の為の宿舎がある。距離が近い島は橋で結ばれているが、基本的には小船での移動となり、不可思議な力に護られたこの一帯は嵐とは無縁の常春の土地だった。

 琉拿島にある、世界の教えの中心都市、琉拿。

その街並みは整然としている。島の半分は森に覆われ、巨大な森林を背後に戴く世界最大の寺院と王宮、そこへ勤める者達の住居と全てが一体となった王城都市が広がっている。

一般の人間が入ることが出来るのは寺院の前部分のみ。説法などが行われる大広間まででそこから奥は寺院の関係者以外立ち入りは許されない。そしてさらにその最奥に王宮があり、ここは王家の私有地となっていた。

琉拿の港から王城まではほぼ一直線の道程だった。降り立った人々は迷うことなく寺院を目指していく。

「本当にお一人で参られるのか」

李比杜の発言に対する、ひとりじゃねえだろという抗議の声は都合よく聞き流された。

「すぐ裏です。何かあれば大きな声で呼びますから」

 禁施の森は王宮の裏手の森なのだという。確かにこれは一度戻るという表現が相応しいが、大声で呼んで聞こえるような距離ではない事は誰が見てもわかる。

 勿論これは冗談だ。李比杜はそんな阿己良に目を細める。

「阿己良様は、なんだか明るくなられましたな」

「え?」

 阿己良に微笑を向けると李比杜が荷物を抱え直した。

「ここを出られたら、そのまま中央に向かわれますか」

「水が得られれば、そうしたいところですが」

「ならば、やはり供が必要となりましょう。港に人を置きます。その者に状況をお伝えください。私か、琥邑か。然る者を追わせるようにいたします」

 頷く阿己良にひとつ頭を下げると、李比杜は羅乎へと目を向けた。

「阿己良様を頼んだぞ」

「任せとけ」

 李比杜が太い笑みを浮かべると背中を向けた。それを追うように歩を進める琥邑もまた軽く頭を下げる。羅乎もまた軽く会釈を返した。

 さて、と羅乎が隣に立つ少年を見やった。

「行きますか、禁施の森とやらへ」



「近づいておる」

 旋律のような声が告げる。

「お前の待つ、瞬間が」

 細く長い指が、己よりもほんの少しだけ明るい白金色の髪へ絡みつく。

 色味のない空間だった。茶色く朽ちた石が醜く横たわる部屋。部屋と呼んでいいのかすらわからない、かつて壮麗だったろう建物の残骸。

 そこかしこに残る金箔の名残。錆びた鎖にかろうじてぶら下がっているのは、豪奢だった照明の成れの果て。澄んだ輝きはなく、くすんだ白が、鈍く日差しを跳ね返す。

 染みや黴の浮いた絨毯。恐ろしく細かな模様があったのだろうに、今ではその大半が黒く変色し黴臭かった。

「待っていたのは、あたしじゃない」

 撫で続ける手に抗うことはないが、口調には従順さの欠片もない。

「ほんとはあんたが望んでるんだよ。あんたは、単にあたしを使っただけ」

――あたしの欲望を、利用しただけ。

「それを叶えてやったのであれば、やはり待っていたのはお前とは言えぬか?」

 そういう意味ではそうかもしれない。けれど、やはり違うと思った。本当の望みを果たすことはないのだから、それならやはり待っていた瞬間とは言えないだろう。

 穢れのない魂。

 この世に汚いことがあるなど、きっと知らないに違いない。

 世の中には、綺麗なことなど何もないというのに。

 誰かが綺麗に生きるにはそれだけ他の誰かが汚れを引き受けているからだ。あの魂が綺麗なのは、この自分がそれを引き受けてやっているから。

「あたしの望みは違う。終わらせたいのは、あの魂達」

 あんな偽善者たちに世の中を救うことなんてできるわけがない。否、させたくない。

 くつくつと笑う声が石に反響する。

「わかっているだろうに。お前の言うそれは、終焉ぞ?」

細い指が何度も何度も愛おしそうに撫でる。少女はされるがままに任せ、目を閉じた。


    3


「また階段かよ」

 北幽門の時のように、本当に天まで届くようには見えないが、今度の階段は緑の中へと埋もれて消えていく。いずれにしろ果てしなく長いのだということには変わりがない。

「階段って誰が考えたんだよ」

 悪態をついた羅乎を阿己良がくすくすと笑う。

「なんだよ」

「羅乎って面白いです。表情もよく変わるし、すぐ怒るし。忙しいです。そんなに美人なのに女性らしいところもちっともないし」

「悪口か?」

「いえ、そんなことはないです」

「そういうお前だってなよなよじゃねえかよ」

「そ……そうです、けど」

 口を尖らせていじける阿己良を笑ってから羅乎は口を開いた。

「……まあ、よく言われるよ。俺は餓鬼なんだって」

「餓鬼、ですか」

「思ってることを表に出しすぎだって、な」

 やろうと思えば表情を出さずにいることくらいできる。が、それをここで披露したところで何の得もないではないか。

「でも、それはいいことだと思います。なかなか難しいですから」

「だろ? 別に俺だって空気くらい読めるしだな、別に誰かが損するわけでもねえしさ」

 言いつつ、羅乎は内心舌打ちをした。この論法は麻耶希そっくりだ。日頃子供扱いしている妹分と同じ思考回路を有すとは、やはり自分はまだまだお子様ということだろうか。

 ――だから無謀だって言われるんだろうな。

 無謀は自覚済みだ。けれど、時にはその無謀が役に立つことだってあるはずだ。少なくとも羅乎はそう思うし、図らずともこっそり後押しをしている父もまた無謀肯定派だ。

「まだかよ、終点」

「半分くらいは来てますから」

 目をあげても続く階段にそろそろ足が重くなる頃だろうと思いきや、意外に身軽く登っている自分に、羅乎は正直、驚いていた。

考えてみればここは琉拿教の中心地なのだ。神拿国の清涼な空気に満ちている。例え世界中が悪気に満たされても、ここが完全に落ちてしまうことは恐らくないだろう。それだけ強い清らかな力に溢れている。恐らくその力に支えられて、思った以上に楽なのかもしれない。

「羅乎、見てください」

 かなりの高さまで到達した頃、阿己良が羅乎を呼んだ。

「ここからの、この眺め。僕が一番好きな景色です」

 阿己良に倣って、羅乎もまた背後を振り返った。

 扇状に広がる緑。その中央を白い階段が貫き、白い甍の王宮がそれを受け止めているように見える。さらに裾に向かって階段状に広がる半円は寺院を中心とした王城都市。放射状に伸びた建物の屋根。途切れた先に港があり、群青の世界が広がる。その周囲を盛りたてるのは、豊かに繁った緑の畝。

「昔、よく抜け出して、ここに来ました」

 その度に琥邑や李比杜なんかに連れ戻されたと笑う。

「思えば、あの頃が一番楽しかったように思います」

 風に靡く白金色の髪を押さえ、阿己良はどこか懐かしそうに目を細めた。

「今は、つまらない?」

「え?」

「俺と二人きりってのは、嫌かって聞いてんの」

 途端に羅乎の頬が染まる。

「い、意地の悪い質問です」

「そうか? ただ単に疑問なだけじゃん」

 阿己良がぷいっと顔を背けた。

 阿己良の反応をからかいつつ、羅乎も思う。自分にも無邪気だった頃はある。――今は大人になったのかと聞かれると、即答はできないが。

 どちらにしてもまだ大人ではない。無邪気な子供でもないけれど。己の立場、背負わされたものくらいは理解できる程度に、そしてそれを遂行しようとする程度には大人だ。

 でも大人だからといって全てが成熟してしまう必要はないだろう。そういう意味では、いつまでも子供でいたいとも思う。色々な可能性を試すことなく諦めて、自分自身の道を閉ざすようなことはしたくない。

「行こう、阿己良」

 阿己良は頷くと、もう一度だけ景色を振り返り、それから再び足を踏み出した。



 李比杜が司教会に謝罪と進言をし、士覚しかくは開放された。

 特に何か罪を犯したわけではない。越権行動が見られたという理由からだ。鼻高々な連中の多い司教会には変に歯向かわず、大人しく従ったふりをするのが利口というものだ。

「女王陛下はまだ目覚めぬのか」

 女王の私室である。大量の書簡の山に囲まれているのはゆったりとした袍を纏う男だった。やはり白金色の髪は長く、きっちりと編まれて背中に垂れている。女王の寝室の手前、豪奢な造りの小部屋に大量の仕事を持ち込んでいた婁支雄るしおが、知己の登場に顔を綻ばす。

「お前さんご自慢の魔法部隊も役立たずだな、李比杜副長」

「己の妻に対し、それはないだろう。琥邑が泣くぞ」

 婁支雄が笑った。

「さて、色々とあるが」

 そう前置きをして、婁支雄は表情を改めた。

「殿下はどうされてる」

「禁施の森へ向かわれた」

 婁支雄が頷く。

「四聖獣だが、南東の報告ではいずれも見当たらずとの話だ。扉の前に大量の血痕と、何かの残骸だけが残っているという」

 李比杜の脳裏に魔獣に集られた青龍の姿が浮かんだ。

「門は開いていない。あとは中央だけだが、これはさすがに確認してはいない」

 それと、と言って婁支雄が紙の束を投げた。

「なんだこれは」

「悪気に潰されただろう村や町の報告だ。それでも全部ではないだろうな。細かなところまでは確認は出来ない」

 急激に溢れた悪気。悪気自体は常に滞留はしている。しかし通常取り込まれるようなことはそうそう有り得ない。よほど気に敏い人間で、心が荒んでいるような、そして何かを恐ろしく憎んでいるといったことでもなければ、悪気に染まることは殆どない。目に見えるものではないから、悪気の仕業かどうかは遺体などの状況から判断されることが多いのだが、ここ最近、明らかに悪気に憑かれたと思しき事件が多発している。

 悪気は余程に敏感な者は別だが、普通の人間には感知することは困難だった。阿己良が動くことを決意したのは、琉拿の血筋で感覚的に優れたところがあるからだ。大地に満ちる悪気が増大していることを感知したからに他ならない。

「阿己良様には、無茶をなさらないで頂けるとよいが」

 婁支雄が腕を組む。そこには王家の人間だからという以上の思いがあるのが窺える。

「ああ見えて、相当にお転婆だから」

 ところで、と婁支雄が李比杜を見る。

「阿己良様には誰を従わせたんだ? お前がここにいるということは、琥邑を?」

 紙束を眺めている李比杜が首を振る。

「羅乎だ」

「誰だ、それは」

「阿己良様の友人だ」

 婁支雄は李比杜の手から紙の束を取り上げた。

「真面目に答えろ。なんだそれは」

 婁支雄にしてみれば当然疑問だろう。李比杜はかいつまんで経緯を説明した。

「信頼はできると思う。お前も会えば分かると思うが、不可思議な雰囲気を持っていてな」

 腕を組んで聞いていた婁支雄は大きく息を吸い込んだ。

「そいつは魔獣ではないのか。そんな風に火を使うなぞ聞いたことがない」

「そうだが、どう見ても魔獣ではない」

「似合わぬ大振りな剣を持っていると言ったな。どんなやつだ」

「どんなって、まあ、造りとしては普通の剣だ。鞘は、漆黒でところどころに金の細工があって……ただ銀というよりもやや青みを帯びたような感じで珍しかったな。ああ、あと根元にも渦のような、奇妙な模様があった。これもやはり金色だった」

暫く考える風だった婁支雄が立ち上がる。何も言わず部屋を出て行き、かなりの時間の後、分厚い古書を手に戻ってきた。

「その模様だが、ひょっとしてこんなものではないか」

 李比杜が覗き込む。黴臭く、やや茶色く変色した用紙に描かれていたのは、角を持つ双頭の竜がお互いの首を絡め、睨み合うものだった。

「――そうだ。こんな感じだったな、確か」

 それほどよく眺めたわけではない。対峙した時に剣に模様が刻まれるなど珍しいと思い、目に付いて、そして記憶に残っているだけだ。

「青みを帯びた刀身、細工、それはもしかしたら草薙の剣かもしれない」

「……は?」

 さすがの李比杜もそれは耳にしたことがある。ただ、それは物語としてだ。現実として存在するもののはずがない。それは人の世にあるものではないのだから。

「似せて造っただけかもしれないが」

 だとしたら、相当の名工だ。あの輝きは垂涎物だったのだから。

「もし、本物なら、そいつはやはり人間ではないかもしれんぞ」


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