太陽の皇女 月の皇子~羅乎(らお)の巻~ 第三章
第三章
1
白い粒が落ちてきたのは、遠くに建物の影が見え始めた頃だった。
やがてそれはふっさりとした大きな塊となり、黒い外套のそこここに舞い降りては濡れた染みをつくる。
「雪?」
阿己良が空を見上げる。両手を広げ受け止めるが体温に触れたそれはすぐに溶けて姿を変える。淋しそうな表情の眼前に羅乎が手を出す。手袋の上だからだろう、僅かな間、溶けずに残る白い結晶があった。
「すごい、こんなものが降ってくるなんて」
次々に降り立つ白い塊を、目を輝かせて覗き込む。
「雪、見れたな」
意外にはやく叶えてやれたわけだが、なんというか、別に羅乎の手柄ではないので少し複雑な気分ではある。
「これが積もるなんて、信じられません。すごすぎます」
「白い景色は綺麗ですよ」
李比杜も無邪気な笑顔を浮かべた阿己良に言う。
「夜のうちに積もると、朝は足跡もない、綺麗な雪原が出来上がるんです」
それはと阿己良が夢見るように空を見上げた。
「美味しそう」
「……食べ物じゃねえよ」
一緒に旅をするようになって結構になる。秋から晩秋へ、流れる景色は冬へと手を伸ばそうとしている。一行はまるで急いで冬へと近づくように北へと進んできた。由四里のあった白鷺国からも既に幾つかの山を越えている。この辺りの国は完全に冬を迎えていた。
そして、共に過ごす間にひとつわかったこともある。それは阿己良はかなりなところ、感覚がずれているということだ。自国から出たことのない生粋の箱入り坊ちゃんであるにしても、なんというか発言がいまひとつ常識から外れていることが多い。
「いちいち訂正していては持たんぞ」
ある時、李比杜はそう話した。とうに慣れている李比杜はうまいこと受け流すが、羅乎としてはどうしても一言言いたくなってしまう。
「食べられないのですか?」
「害はねえだろうが、まあ普通は食わねえよ」
「食べてみたいとは思いませんか? それが人情でしょう」
「思うか、普通」
「でも、降ってくる感じは塵みたいですね」
だから食べようと思わないのかなどと呟く阿己良には情緒も何もあったものではない。
「ちりも積もればってことですよね」
「違う。それは絶対使い方が違う」
寒風を凌ぐ為に外套の帽子を被った阿己良は何が楽しいのかくすくすと笑う。両手を口元に当てる様子は、相も変わらずに美少女だった。
「今夜はあの寺院で休みましょう」
李比杜が示す先、近づいてきたのは石ではなく、煉瓦で作られた赤い建物だった。
「珍しいな、煉瓦か」
羅乎の言葉に李比杜が答える。
「大概は石造りだがこの辺りは辺境だからな。採掘場から運ぶことができず石では作れなかったらしく、皆が持ち寄って作ったものが元だそうだ。それを改装して今の寺院になったらしいと聞いている」
琉拿の寺院は主に白が基調となっている。赤みを帯びた煉瓦の寺院は非常に珍しい。
「とても温かみがあります。素敵ですよね」
つい先程まで、あんなに愚かなことを言っていたとは思えない口調で、阿己良が素直な賛辞を述べた。
温かみ、と阿己良は言ったが、羅乎はなんとなくその色に目を細める。
赤い煉瓦の建物。雪に覆われれば、一際目立つであろうその色は、白い肌に浮いた赤い血溜まりのように思えた。
どこか不吉だ。その思いを煽るように過ぎる北風に、羅乎は襟を立てた。
「有醍司教」
出迎えた老人に阿己良が驚き、そして満面の笑顔を浮かべた。
「こちらにおいでだったのですか?」
有醍司教と呼ばれた老人は頷き、ここの出身だからと答えた。
「村は淋しかったでしょう。今時期は皆、町へ出稼ぎにいっておるんです」
寺院の周囲に数件の家々が並ぶのみ。村とも呼ぶことができないほどに慎ましやかな集落だった。その殆どに人がいない様子で阿己良は酷く気にしていた。羅乎も不審に思っていたのだが、出稼ぎとは思いもしなかった。
「今年はまだ雪が少なくて、助かってはおるんですが。それもまた少し淋しい話ですがね」
ふくふくと笑う老人はいかにも善人そうだ。なんというか、阿己良と同じような気を発しているように感じられる。
「ですが、今年は阿己良様がいらしてくだすった。先に逝った奴らにいい土産話ですな」
「そんな、まだまだお元気でいらして頂かなくては困ります」
頭の分も全てがそちらにいってしまったかのような豊かすぎる白い髭を撫で、有醍は表情を改めた。
「門の施錠の為にいらしてるのですから、本当は喜ばしいことでないのでしたね」
皺だらけの温和そうな目が李比杜を見上げる。
「婁支雄から連絡をもらっているよ。ここまでご苦労だったね」
李比杜は静かに頭を下げる。
「して、そちらの女性は?」
「羅乎と申しまして、私の部下にございます」
羅乎が何かを言うよりも先に李比杜が答えた。無用な詮索も心配も生まない、一番無難な答えだと思えた。
「随分と綺麗な方だ。李比杜のよい人かね?」
「いいえ、それだけは決して断じて絶対にありません」
食事まではゆっくり休むようにと寺院の部屋へと通された。当然、王族である阿己良は個人部屋で、李比杜と羅乎が同室にされていた。部屋数の都合上、性別よりも身分で決められた部屋割りだった。
それぞれ荷物を置きに行く。とはいえ、旅装である。驢馬に括っている荷物もそれほど多いわけではない。別段することもなかった羅乎は李比杜に倣い、剣の手入れをした。借りてから一度も磨いてもなければ砥いでもいない。それでも錆びることは愚か、切れ味が落ちることも刃毀れがすることもない。相変わらず惚れ惚れするような輝きを放っていた。
やがて時間をもてあました阿己良が二人の部屋に顔を出して間もなく、司教自らが食事の用意が出来たことを告げに来た。テーブルに着き、湯気のあがる暖かな食事を取るのは随分と久しぶりのように思える。
「遠慮なく召し上がってください。種類はありませんが、味は絶品ですから」
給仕をしているのは亜由葉という少女だった。くすんだ茶色い髪に暗い表情が年齢不詳にさせているが、阿己良と同じくらいのように見える。無口な給仕係だが、司教の言うように味は絶品だった。
「今この村にいるのは私と、この亜由葉、それから雑用を任せている子稜という者が町から時々来るくらいでして。こんなに賑やかなのは久しぶりですよ」
ほのぼのとした食卓が終わると阿己良は司教と二人でなにやら談笑をしていた。挨拶をして自室へ引き上げる李比杜に従い、羅乎もまた部屋へと戻った。夜も深まると部屋も冷えてくる。面倒なので自分の能力で暖炉に火をつけてからおもむろに口を開いた。
「阿己良ひとりにしといていいのか?」
「有醍司教がいらっしゃるのだ。心配ない」
「ああ……まあ、そうか」
羅乎が顔を伏せたのを李比杜は見逃さなかった。どうしたと促されて、羅乎は風が強くなってきた外を見やった。
「嫌な感じがすんだよな」
「嫌な?」
「ここは人が少ない。だから、少しわかりやすいっつーか」
羅乎は腕を組んだ。組むたびに腕に当たる胸の感触には大分慣れてきたなと、我ながら奇妙な関心をする。
「悪気が蠢いてる。宿主を探して、彷徨ってるような」
「お前、そんなことがわかるのか?」
「完全にわかるわけじゃねえよ。ただ、ここが静かだから」
ひとつ息をついてから羅乎が李比杜を振り返る。
「あんたを信用してるから言うんだ。じゃなきゃ、こんな不確かなこと言ったりしねえよ」
いたずらに騒ぐような人間ではないとわかったから言うのだ。そうでなければ、無用な恐怖心だけを煽って、かえって悪気を呼び込みかねない。
「別にあんたらの知り合いの司教をどうこう言うつもりはねえし。けど、なんつーか……」
何故だろうか、落ち着かないのだ。
「俺が阿己良の部屋に行く。代わりに阿己良をこっちの部屋に連れてきちゃだめか?」
「ひとり豪勢な部屋に寝たいとか言うんじゃないだろうな」
「あんた、アホか?」
「冗談だ。例え賓客の部屋でも、この寺院の規模では高が知れている」
言って、李比杜も腕を組んだ。
「お前という人間はよくわからない」
「なんだよ、またか?」
「阿己良様がおっしゃるように、悪人とは思えん。そのわりには色々知りすぎている。が、肝心なことは知らん」
「肝心なことってなんだよ」
「まあ、敵でないことは充分理解している」
「って、俺の質問は無視かよ」
李比杜の視線も窓へと向けられる。
「お前の意見、取り入れてみよう」
2
確かに、李比杜の言う通りだと思った。賓客用の部屋だと言うのに寝台は硬い。枕もどこかかび臭いような気がする。羅乎たちの部屋と異なるとすれば寝台が一つか二つかといったところか。外套を着て寝ているというのに底冷えする寒さからは逃れられないようだ。
「……?」
目が覚めたのは偶然だった。元々落ち着かないところに寝心地の悪さが重なってなかなか寝付けなかった。ほんの僅か眠りに引き込まれるも、浅い眠りは細やかなきっかけで醒めてしまう。そうして仰向けになった瞬間だった。
「――っ」
あるはずのないものと目があった。一瞬の空白があったのは、恐らくどちらにとっても視線が交差することは予想外であった為かもしれない。
天井から見下ろす二つの目。何かと考えるまでもなく、羅乎は本能的に身を翻した。同時に剣を手にしている。
「李比杜」
不気味な侵入者が落下するのをはね返し、声の限り叫ぶ。が、反応はない。熟睡しているのだろうか。それにしたって警告をしたのだから呼ばわる声に気付かないはずはない。
まさか、と思う。
「李比杜、阿己良」
まさか、既に害されてしまったのか?
それに答えたのは声ではなかった。派手に割れる硝子の音。間違いなく、李比杜達の方でも何かが起きている。
「くそっ」
再び身軽く天井へと張り付くそれは不気味ににたりと笑う。徐々に扉に近づこうとしている羅乎の意図を理解して、どう阻止しようかと楽しげに思案しているようだ。
「悪気、か」
ぎらつく瞳は奇妙に白く、血走っている。
天井を這う姿は人とは思えなかった。四肢を使って張り付いているのに首は正面からこちらを向いている。人体の構造上、それは不可能だ。
こんな風になるのかと羅乎は息を呑む。悪気を追いかけてはいても、取り込まれた人間を見たのはこれがはじめてだった。しかもこれ程までに融合し、変形した姿も。
「シャー!」
羅乎を目掛け降ってくるも剣を抜くことを躊躇った。ぎりぎり躱したところに、人では有り得ない鋭い爪が突き立てられた。歪んでしまった片口で揺れる、緩く束ねられたくすんだ茶髪。
――亜由葉。
付けいれられる隙があったのだろうか。それとも悪気の方が亜由葉の心を上回ってしまったのか。言葉を交わしたわけではない。無口な彼女はただ黙って給仕をしただけだ。けれど、その食事は温かくて、美味だった。
「くっ」
突進してくるのを鞘ごと構えた剣で受け止める。間近に迫った口から瘴気が吐き出され、顔を背けた。少女とは思えぬ膂力で押され、寝台へと押し倒された。のしかかるように跨った亜由葉が容赦なく力を込めると己が手にする鞘が首をぎりぎりと絞めつける。
蹴り上げようとしてもひらりと躱される。
やむを得ず羅乎は火を使った。亜由葉の顔下半分を鷲掴んで直接そこへ火を送り込む。
「ひぎゃあっ」
怯んだ隙を見逃さず、その体を思い切り蹴り飛ばした。暖炉に叩きつけられた身体がひしゃげ、燻っていた残り火に顔を突っ込んでいる。
羅乎はすぐに部屋を飛び出した。途端、顔を顰めたくなるような血の臭い。目を向ければ、廊下の突き当たりの部屋の扉が開いている。そこは有醍の部屋のはずだ。
確かめるべきだとも思ったが、優先順位からすればそれは後回しだ。悪気に対する切り札である阿己良の安全確保が最優先だ。
扉を開けようとした途端、逆にそれが破壊され、阿己良が飛び出してきた。飛び出したとは違う。吹っ飛ばされた結果、扉が壊れ転がり出てきたといった方が正しい。
「阿己良、大丈夫か」
外套を身につけていたのは警告を聞いた李比杜の指示だろう。おかげで木片が降りかかったのみで傷はないようだった。
「李比杜が」
阿己良の視線を追って、羅乎が目を向ける。視界の中で赤い霧が散るところだった。
床に落ちた布団に足を取られて態勢を崩した李比杜に小振りな凶器を振り上げるのはずんぐりとした体躯の男だった。恐らくそれは雑用係に違いない。有醍が手伝いに来ると言っていた子稜という男だろうと思われた。本来なら陽気そうなそばかすの浮いた顔は、締まりのない薄笑いを浮かべている。
「なにやってんだよっ!」
羅乎が手のひらを向ける。すると暖炉の火がそれに引かれるようにして部屋を旋回し、李比杜の対峙していたものに絡みつく。
子稜は奇怪な声をあげて、振り払おうとする。地団太を踏むところへ、李比杜が恐ろしい勢いで迫る。容赦なくその胴体を両断した。
「羅乎っ!」
阿己良が声を上げる。異常に手足の長くなった亜由葉が阿己良の外套を捕まえていた。
「動くなよっ!」
こうなってしまってはやむを得ない。素早く鞘を払い羅乎が剣を振るう。亜由葉の腕がごとりと音を立てて床に転がる。不気味なことに外套を掴んだままだったが、それは単に爪が布地に食い込んでいるにすぎなかった。
「切りがない!」
李比杜が言うなり、武器を振る。鉈を手にした腕が飛ばされて、壁に刺さった。
それでも胴体を切断されたはずの身体が立ち上がる。下半身は這いずる上半身を追って歩き出している。
両断されてもなお動く男。腕を失っても笑いながら床を這う少女。己の流す血に塗れ、笑みすら浮かべる光景は恐ろしく猟奇的だ。小さな村など簡単に滅んでしまうという事実を改めて痛感する。
殺しても死なないのだ。太刀打ちできないどころではない。しかも突然発症するのだから側にいるものは抗うよりも先に神経の方が参ってしまいそうだ。
「有醍様は」
「待て、阿己良」
阿己良が開いたままの扉へ向かって駆け出す。途端、阿己良の盛大な悲鳴が上がった。
「有醍様」
その場にへたり込むのを亜由葉だったものが追いかける。
有醍は寝台の上で腹を裂かれていた。出血が酷いのに内臓が明らかに足りないのは、悪気と化した彼らが食したのかもしれない。血の匂いで有醍が先に餌食になっているだろうことはわかっていた。阿由葉を牽制しつつ、扉を閉めておかなかったことを後悔する。
「有醍様がっ、有醍様があ」
「しっかりしろ、立て! 逃げるんだ」
阿己良の脇わき腹に腕をかけ、腰の抜けた身体を支えるようにして立たせる。そこへ亜由葉の爪が襲い掛かった。舌打ちをしつつ何とか弾き返すもすぐにまた次の攻撃が降ってくる。阿己良の身体を背中に押しやり、両手で受け止める。
「悪い、亜由葉」
羅乎は亜由葉の腹に手を当てた。目をつぶると発火させる。それは表面にではなく、その体内に。
亜由葉だったものの口から瘴気ではなく、爛れた赤黒い液体が零れた。焼き爛れたものが内部の沸騰によって身体の外へと押し出されてきたのだ。
「李比杜、首を刎ねろ!」
言って、己も亜由葉の首を刎ねる。飛散する血はなかった。既に体内は焼き尽くされて液体は蒸発していた。
有醍の死に衝撃を受けている阿己良を李比杜が宥めていた。だが、羅乎はすぐにそれぞれの部屋に行くと三人分の荷物を手に戻る。
「李比杜、逃げるぞ」
「悪気は始末しただろう」
「感じねえのか? 近づいてきてる。もっと沢山だ」
荷物を押し付けて、羅乎は阿己良の手を引いて歩き出す。
「泣くのは後にしろ。今はまず逃げることだ」
「でも」
「死にたいのか!」
びくりと阿己良が肩を震わせた。
「死んだら、誰が有醍を弔う」
「……」
「泣くのはいつでもできる」
阿己良が小さく頷く。必死に涙を堪える頭に軽く手を乗せ、羅乎は李比杜へ向き直った。
「裏に馬がいたよな」
「ああ、確かいたはずだ」
だが、と李比杜が言う。
「阿己良様はおひとりでは乗れんぞ。お前は乗れるのか」
さあ、と半笑いの顔を作る。
「まあ、似たようなもんは色々乗ってるから、大丈夫だろ」
急ぎ階下に降り、寺院の裏手に回る。上等とは言えないが馬は四頭つながれていた。
「なんで四頭なんでしょうか?」
「村の人間のでも預かってるのかもな」
阿己良の当然の問いに、羅乎はそんな答えを返した。
「北はかなりやばかったな」
騎乗する馬を選び鞍をつけ、鐙を準備する。馬は大人しいものでされるがままになっていた。乗らない馬も逃げられるように柵を開けておいてやった。馬での移動となれば荷物運びの驢馬もここでお別れだ。
「北幽門は開いてるのかも、しれませんね」
それはまた聖獣の死を意味することなのかもしれない。自然、阿己良の声は沈んだものになった。
「なんにせよ、行けばわかる」
馬の準備が完了する頃、奇声が聞こえた。三人は目を見合わせる。一つや二つではない声にさすがの羅乎も戦慄した。
「李比杜、阿己良を連れて行け。俺がなんとかする」
「そんなの、だめです」
羅乎、と李比杜が冴えた紫の目を向ける。
「奴らは徒歩だ。こちらは馬。逃げられるだろう。戦う必要はない。戦闘は最後の手段だ」
先程の亜由葉のような奇怪な変貌を遂げているものがいなければ、確かに逃げ切ることはできるかもしれない。
「お前が阿己良様を連れて行け。お前の方が軽い」
「わかった」
李比杜が言うのは逃げる為の最良の算段だ。ここで言い争う意味はない。羅乎が素直に頷くと李比杜は阿己良の身体を軽々と馬に乗せる。その馬に羅乎も跨った。
「目指すは北幽門」
ひらりと騎乗して李比杜が言う。
「はぐれた時は、そこで落ち会おう!」
3
「李比杜、大丈夫でしょうか」
「心配いらねえよ。奴は軍人だ。俺なんかよりよっぽど戦闘馴れしてる」
悪気に犯された人間の群れはまっすぐ寺院を目指していた。恐らくそこに血の臭いを感じているからだろう。
李比杜の馬が駆け出し、羅乎たちの騎乗した馬も小屋を出る。寺院から出てきた生命力に惹かれてか、気付いた悪気を帯びた人間を李比杜が斬り捨てた。
羅乎は馬を止め、寺院を振り返る。李比杜もまた少し前で馬の足を緩めた。
「行け、李比杜!」
悪気に憑かれた人間がおかしな動きでこちらに向かってくるのが見える。李比杜が馬を進めるのを確認して、羅乎は寺院に向かって気を送る。
脳裏に馬小屋と室内の暖炉の炎が浮かぶ。それらに思う様燃え上がれと命令を与える。
馬首を巡らしたその背後、突如として寺院が火を吹き上げた。餓えて集まった悪気を漂わす人々もろとも燃え盛る。
まるで灯台のように周囲の闇を照らし出していた。李比杜の馬が速度を上げ、羅乎もまた馬に鞭を打った。遅れてやってきた悪気憑きの人間たちを振り切って走る。
しかし月のない夜は深い。顔を打つ雪は霙交じりで氷そのものだ。突き刺すように冷たい刺激がある。あいにくの天気で月も星も望めず、辺りは一面闇だった。とにかく遠くへと、火から離れていけば当然あたりは深遠の闇。案の定、追われる気配が無くなる頃には二頭の馬ははぐれてしまっていた。
逃げ切ったのならこれ以上走るのはかえって危険だ。いくら夜目が利くとはいえ、昼間と同じというわけには行かない。羅乎は馬の足を緩め、どこか休めそうな場所を探す。寝ることは出来ずとも、雨風が凌げれば構わなかった。
程なく小屋があった。己のみ馬を下り、阿己良を騎乗させたまま中を覗くと、小屋の半分くらいを薪が占めていたが、なんとか一休みはできそうな広さがあった。鎌や鋤があるところからすると農地の道具小屋のようだ。
「なんとか濡れずに済むな」
馬ごと、阿己良を招き入れる。部屋の隅から木屑と薪を運び、瓦礫を避けて部屋の中央に積上げた。
「火って便利だよな」
言いながら、発火させる。途端、ほっとするような暖かさと明るさが広がった。
促されるままに阿己良が炎の側による。その目は伏せられたままだ。
恐らく様々な驚愕がその胸に渦巻いているのだろう。特にあの司教の死体は無残な状態だった。それだけではない。亜由葉の状態も異常なら、子稜も酷い有様だった。
「ひどいですよね」
暫く無言のままだった阿己良がぽつりと呟いた。
「有醍司教、亜由葉さん、子稜さんでしたか」
羅乎が頷くと、阿己良が小さく八の字を切って手を組んだ。目を閉じ、静かに祈りを捧げる。やがてゆっくりと目を上げた。
「あの方達が何をしたというのでしょう。毎日をごく普通に、生きていただけでしょうに」
「……そうだな」
それ以上言いようはない。彼らは既に死んでしまったのだ。時を戻すことが出来ない以上、不幸な出来事と思う以外にどうすることもできない。
ぱちぱちと焚き火が爆ぜた。会話が途切れると、風の唸りが聞こえる。
「悪気とはなんなのです? どうして神はそんなものをお創りになったのでしょう」
ぽつっと阿己良の手に涙が零れた。
「情けないです」
阿己良が目を伏せた。その動きに従って、ぱたぱたと涙が落ちる。
「神拿国は悪気を抑える役割がある。でも、実際には出来ていません。お母様もお姉様もいらっしゃらない今、他に誰もいないのに。あまりにも無力で、自分が情けない」
「姉貴がいるのか?」
阿己良が頷く。
「迦瑠亜と言います。第一皇女で、次の女王ですが……今は行方が知れません」
羅乎は眉を寄せる。
「何があったんだ?」
阿己良の涙の滲んだ目が揺れる炎を見る。そしてわかりませんと小さく答えた。
「何も知らなかったのです。気が付いたらこんな状態でした。だから何とかしたくて――そして、何もできていません」
どうしてと阿己良が搾り出すように言った。
「どうしてこんなことに。どうして、どうして」
力のこもった指先が一層白くなる。寒さにか無力さにか、小さな拳は震えている。
「なんとかしなきゃって。もう誰もいないから、なんとかしなくちゃいけないって。他には誰もできないからっ」
陽気に振舞っているのは気を張っていた為か。それとも同行者に気を使ったものか。呑気な皇子様だと思っていたが、本当は怖くて仕方がなかったのだろう。国から出たこともなくて、旅も、町も、他人もはじめてで――そして残酷な場面に遭遇して。
「阿己良」
羅乎は阿己良の隣に腰を下ろした。肩に腕を回して、震える拳に手を添えた。
「自分を責めるな。お前のせいじゃないだろ」
「そんなの、無理です。僕は、琉拿の人間なんですから」
改めて目の当たりにした現実。そして残された王族としての自分と、琉拿王家の役割。それらを背負うにはあまりにも小さく、華奢な肩だ。
「阿己良。悪気は、あれは誰か一人の力でどうにかなるようなもんじゃない」
「……でも」
「だから、みんなでなんとかすりゃいいんだよ」
阿己良が僅かに顔を上げる。
「李比杜がいる。それに、今は俺もいる。一緒に頑張ってるじゃねえか」
「一緒?」
「違うか?」
羅乎の言葉を反芻するように呟くと、阿己良は身を寄せてきた。縋るように羅乎の手を上から握り返す。
――もしかしたら、何とかしろといわれたのかもしれない。王家の人間なのだからと。周囲からすれば当然だろうが、本人としては好きでなった立場ではないのに。
「お前一人で背負う必要なんかねえよ」
何度も頷いた阿己良はしがみつくように羅乎の身体に手を回してきた。そして小さく嗚咽を漏らしはじめた。
その肩を抱き、羅乎は内心舌打ちをした。
己の胸に縋って泣く姿は堪らなく愛おしかった。外套に隠れて顔は見えないが、あの真っ直ぐで、澄んだ紫の瞳が涙に濡れているだろうことを考えると憐れで仕方がないのに、可憐だろう泣き顔を想像してしまう自分がいる。
決してそういう趣味はないのに、どうしても惹かれる。目を逸らそうとすればするほど、その想いは自分の中で育っていく。震える背が切なく、この自分の手で護りたいという気持ちが湧きあがる。
「……」
ほんの少し逡巡してから、肩を抱く手に力を込めた。華奢な身体を抱き寄せ、柔らかな白金色の髪に口付けようとした――その時、ありがとう、と小さな声がした。
「羅乎がいてくれて、よかったです」
急激に頭の中が冷静さを取り戻した。
あぶない、と羅乎は己の行動を反省する。安心したような声に強引なことをしなくてよかったと思う。阿己良のおかげでなんとか平静を保つことができた。なんとかいい「お姉さん」を演じることができる、ぎりぎりの線で止まれた。
「今日はもう眠れ。俺が起きてるから」
そっと頭を撫で、涙の残る頬に張りついた髪を避けてやる。
「疲れてたら、元気もなくなるし落ち込む。朝になったら、また一緒に頑張ろう、な」
うん、と阿己良が頷いた。
「ありがと、羅乎」
敬語ではない口調に、ほんの一瞬、内心で瞬く。が、すぐにおやすみと答えた。すっかり信用している様子に羅乎は心の底から安堵する。どうしていいかわからない気持ちをもてあましつつ、今は、腕に感じたこの温もりが近くにあることに感謝しておこうと思うのだった。