太陽の皇女 月の皇子~羅乎(らお)の巻~ 終章
終章
神拿国の王国歴にして二五一六年――。
神拿国に新しい役職が設けられた。「月薙」という称号の新職は神拿女王に次ぐ地位となる。それは月幽門の管理者を表し、初代は嬉己の一子、風霞親王が就任した。
地上の調和を整える神拿女王、それを影から支え悪気を監視するもう一人の女王。王家では新たに月薙も世襲していくことと定めた。
無論、神拿国だけで勝手に決定することはできない。高天原から使者が訪れ、悪気に関する今後の対策として検討した結果である。これに伴い禁施の森は封じられ、琉拿には高天原からの大使が常駐する運びとなった。緊急時には大使の一存で禁施の森が解除され、太陽の神殿の神泉が使用可能となる。さらに不時無の森への出入りも管理し、神拿の力を用いずとも月幽門へ立ち入ることが出来る。また月薙の側付は高天原から派遣する。天の人間ならば聖獣と同様、地月の玉のような、悪気の抗体を取り込むことで耐性が得られることがわかり、仕えることに問題ないと判断されたのだ。これで風霞も美蝕のような完全な孤独ではなくなる。
これらの取り決めにあたり尽力したのは神拿王国の次期女王たる迦瑠亜、王宮長、新たに近侍長官へと就任した李比杜。また高天原においては天照の第一皇子である天照火乃鎖羅々羅乎乃皇子と須佐之男の第一皇女である須佐之男阿魔夜己希乃皇女、警邏を掌握する須佐之男稲乃鎖羅々和気之明依王(すさのおいなのさららわけのあきよりのおおきみ)、そして一番の被害者たる四聖獣の一族であった。
悪気は天にも地上にも好ましいものではないことは明らかでありながら、それでも殲滅できない、滅ぼせないが故に美蝕に頼っていたというのが現状だったのだ。今後は地上だけに押し付けるのではなく共に対処していく。この新たな仕組みが吉と出るか凶とでるかはわからない。もしかすると高天原が必要以上に関与したが為に、調和が乱れ、悪気の生成が助長されるとも限らない。今よりも悪い結果が待っているかもしれない
――だが。
それはそれだと羅乎は思う。今、やれることをやる。もし間違っているならばまたその時に正せばいい。再び多くの犠牲があるかもしれないが、常に最善を目指して、より良い状況を作っていくしかないのだ。最初から完璧なんてあるわけがない。よりよい未来の為に、このたびの痛みを、消えてしまった沢山の命を無駄にしないことが、今できる唯一で、為さねばならないことなのだ。これこそが美蝕――月黄泉之琉流夜乃希美照之皇女に対する一番の餞になると思えた。
少なくとも一方が、一方的に犠牲を払うということはなくなったはずだと――思いたい。
「御曹子」
こっそり朱澗を連れ出そうとしたのを見咎められた羅乎がびくりと足を止める。
「玖雄理」
「どこへ行く気だ。俺達使節団の出発は明日のはずだけど?」
琉拿へ常駐が決まったのがこの玖雄理だった。麻耶希の兄で須佐之男の第三皇子、つまり羅乎にとっては従兄だ。水の守護者である彼は神泉の管理を任されることになる。
「俺の記憶が正しければ、おまけのお前さんも明日だったと思うがね、御曹子」
そもそもと玖雄理が腰に手を当てて続ける。
「明日の使節団は俺の就任の為だぞ。お前は面子に入ってなかったんだからな」
「けどよ、地上の時間じゃ二年もたってんだぞ。これ以上耐えられるか」
「気持ちはわかるが、混ぜてもらえるだけでも運がいいって思えよ、おまけクン」
「く……なんか、腹立つ」
本来、使節団の中に羅乎の名前はなかった。そこを権力――というよりも、ひたすら駄々をこね、暴れまくってなんとか同行の許可を得たものだった。
この二年の間、多忙だったのは事実だ。言いだしっぺの悲しいところで、今回の人事などに関し色々とこき使われた。いずれにしても羅乎は天照の次期統領である。象徴たる天照大神は高天原を出ることはなく、高天原の王である父もまたそうそう地上に下りるわけにはいかない。となれば最高責任者として天照の次期王である羅乎が動くのは至極当然の運びと言える。だがあまりの多忙ぶりに苦情を言うも取り合ってもらえるわけもない。そのくせ私用で地上に行くことは禁じられていたのだ。
地上に下りることを禁じられた理由は二点。一つは悪気に絡む騒動で勝手に動き回ったこと、もう一つは羅乎の本気を試すというものだった。
前者は明らかにそう仕組んでいたのだからとってつけた無理やりの理由なのがわかる。要は、琉拿から妻を娶ることに対しての枷だ。このやんちゃな皇子がどれだけ本気なのか周囲が大いに疑ったのである。こんな時にこれまでの行いが忖度されるとは、己の行動を大いに後悔するも今更どうにもならない。
悪気に関する対策、人事などすべてを整える。それまでは月の姫に会うことを許さない。それが婚姻に対する条件とされた。つまり地上に勝手に降りるなというのは阿己良に会うなという意味なのである。とは言え、前例のない神拿国と高天原の連携だ。必死に頑張って、ようやく整えて、気が付けば二年もかかっていた。その間事情も説明できず、阿己良がどれ程に心細く、不安でいるかと思うと気が気ではない。それよりなにより、
――忘れられてたらどうするんだ
という思いもある。実は、こっちが本音だった。
高天原なんて地上からすれば文字通り雲の上だ。共に過ごすことができるなど夢のまた夢の話なのである。一向に連絡もなく会いにも来ない状況に対し、既に諦めて尼僧になどなっていたらどうすればいいのか。それだけではない。当然、今回のことで阿己良の周囲も大きく変化したはずである。第二皇女も降嫁を許されたりとか、再び性転の術で男子になって外へ旅立つとも限らない。ひょっとしたら女性のままで普通に外出が許されていたりするかもしれない。だとしたらどんな悪い虫がつくか、はたまた自分なんかよりもいい男が現れてしまっているかもしれない。
そんなことを訴える羅乎に玖雄理がわざとらしく溜息をついて腕組みをする。
「迦瑠亜姫は美人だったもんな。その妹なんだからきっと阿己良姫も美人だろうねえ」
「うう、玖雄理兄がいじめる」
よよよと羅乎は項垂れると、その頭上で玖雄理だけでなく朱澗までもが大笑いする。
「いいよ。行って来い」
実は、と玖雄理が続ける。
「お前が先触れで伺うと先方には伝えてある。まあ、何時とは言ってないからな。少し早くついて、偶然誰かに会うくらいはいいんじゃないのか? ――っていうのは、親父とおじじ殿の話だけどさ」
皆が承知済ということは――つまり、解禁ということだ。
「お兄ちゃま!」
「はいはい、よかったね」
羅乎は思わず抱きついていた。玖雄理はそんな従弟の頭をぽんぽんと叩くとその背を押し出す。気を付けてという声を背中に聞いて、羅乎はすぐに高天原を飛び出していた。
――二年ぶりの地上。
――二年ぶりに会う、愛しい少女。
きっと待っていてくれる。そうは思っても音沙汰もなかった時間を思えば羅乎自身、不安は拭えない。
眼下にいつか一緒に見た景色が広がる。波状に広がる緑と点在する白い甍。常春の神拿国の宮殿は開放的な造りで、いずれも大きく窓が開いている。
その中の一つ。張り出した露台で本を読んでいる人影。緩やかな風に揺れる白金色の髪は伸びてはいるが不揃いなままだ。
「阿己良」
上空から大声で呼んだ。同時に、朱澗の背中から飛び降りる。
弾かれたように少女が顔を上げた。
ほんの少しだけ大人になったようにも見える。けれど潤んだような大きな紫の瞳は記憶にあるまま。
「阿己良、会いたかった」
驚きの表情を浮かべる阿己良は止まっていた。駆け寄って、しっかりと抱きしめるとその華奢な温もりが懐かしく感じられる。
「羅乎……?」
夢かと尋ねるか細い声に、どんなに不安な毎日であったのかが伺えた。だがその言葉の裏にある、夢に見てくれていたという事実を思うと申し訳ないことに嬉しさが込み上げる。
「どっちでもいいだろ、そんなの」
自分も夢に見ていた。こうして再び、阿己良をこの腕で抱きしめることを何度も、繰り返し。目が覚めるたびに消えてしまう感触にどれだけ切ない思いをしたかわからない。
だが、今、間違いなく、自分腕の中に阿己良がいる。それ以外、どんな現実が必要だというのか。
「待たせてごめん」
阿己良の顔にようやく笑顔が浮かぶ。涙と笑顔がまざった泣き笑いの顔だ。
「俺と一緒に行こう」
随分と待たせてしまった。どんな理由があったにしても何も知らない阿己良の心に、どんな変化があったとしても何も言うことはできない。
「来て、くれるよな?」
祈るような気持ちで羅乎は阿己良の顔を覗き込む。はい、と阿己良が頷くまでのほんの僅かな時間が恐ろしく長く感じられた。
「じゃあ、とりあえずおあずけだった二年分を」
「え? ちょ、ええ?」
顎を捕らえると途端に阿己良が真っ赤になった。そんな阿己良をからかうのも、弱々しい抵抗も懐かしく、嬉しい。
――やっと、迎えに来れた。
じゃれあうように笑い合う二人の頭上で、春の太陽が優しく輝いていた。