サクラの場合
サクラの場合
「じゃ、こういう路線でまとめていって」
「はい。教授」
狭い部屋の中には所狭しと書籍と種類が山積みになっていて、二人いるだけでいっぱいいっぱいだった。
教授に特に目をかけられている瀬野サクラは、この雑然としたゼミ室の常連となっていた。
そんなゼミ室を後にしたサクラは、さっそく図書館へと足を向けた。
すでに卒論に着手している彼女は、単位を取得しながら研究も進めている。
加えて、なるべく両親の助けは受けたくないと、バイトにも精を出しているため、非常に多忙な毎日を送っていた。
いわゆる典型的な優等生。
親や親戚、そして指導者には受けがいい。
が、逆に同年代には疎んじられる存在。
しかも地元の名士の娘とあっては高嶺の花もいいとこだった。
目的の書棚の前に立った彼女は、そっとため息をついた。
(疲れたな……)
思わず知らず本音が零れて、声に出してもいないのに、キョロキョロと周りを見渡してしまった。
(やだ、私ったら。明日までに、教授に言われたところまでまとめなきゃいけないのに)
疲れたなんて言ってる暇はないのだ。
一冊の本を取り出し、パラパラとめくる。
目は確かに文字を追っているのに、内容が全く頭に入ってこない。
(仕方ない。一旦帰ろう)
集中できない時は場所を変えるに限る。
(市立図書館の方が落ち着くもの)
ちらっと視線を横にやれば、こちらを見て何やらヒソヒソ話をしている女子のグループ。
サクラの視線を受けて、素知らぬ風を装っている。
視線を元に戻すと、サクラはきゅっと口を引き結んだ。
(市立図書館には少なくともああいう子達がいないもの)
そして逃げるように大学の図書館を出たのだった。
何かに追われるように足早に大通りを歩いて行く。
どこかへ行ってしまいたかった。
自分のことを誰も知らない場所へ。
ただ毎日を一所懸命生きているだけなのに、どうしてこんなに辛いのか。
自分が泣き出してしまわないのが不思議なくらいだった。
もうすぐあの小道だ。
そこに入れば、人通りもなくなる。
そう思って、サクラはやっと足を緩めた。
大通りから細い小道に入る。
小道に入ってしばらく行くと、ゆるい坂道に差し掛かった。
そこへ聞こえてきた素敵な音楽。
サクラはふと足を止め、その旋律に聞き惚れた。
(そう言えば、私……。昨日も?)
いや。昨日だけじゃない。
ここ最近ずっと通っている。
どうして忘れてしまっていたんだろう。
彼女を誘うように林の奥へと続く獣道。
(そう、ここを行けば……)
あの人に会えるんだ。
サクラは迷うことなく足を踏み出した。
辿り着いた広場には、屋台と美しい店主が待ってい るんだ。
それを思い出すと、途端にサクラの鼓動は早くなった。
ゆっくりと近づく彼女に、店主はにこやかに笑いかけている。
「いらっしゃい」
彼の少し低めの声に胸が震えた。
「あの。いつものジュースを、また頂けますか?」
「いいよ。君は今日もまた来るだろうと思って待ってたんだ」
「私を?」
待っててくれたの?
サクラの顔が紅潮する。
差し出されたグラスを受け取ったサクラは、すぐには口を付けようとしない。
受け取ったままじっとグラスの中の液体を見つめていたが、思い切ったように顔を上げた。
「あの。明後日お見合いなんです」
「お見合い?」
「親の決めた相手なんです。だから私、嫌で。学校も、何もかも嫌で。出来ることなら逃げ出してしまいたい。逃げて、誰も私を知らないところに行きたい。私を、どこか遠くへ連れて行ってくれませんか?」
「……どうして、僕にそんなことを言うんだい?」
静かな口調で言われ、サクラは真っ赤になった。
会ったばかりの彼に、自分はなんてことを言ったのか。
その羞恥と、だけど言うことが出来たという達成感が綯い交ぜになって、気分はどんどん高揚していく。
「いいよ。連れて行ってあげよう」
やがて告げられた言葉に、また鼓動が早くなった。
「そのジュースを飲めば、君はもしかしたら、この辛い世界から逃げられるかも知れない。不確かだけどね」
「……あなたが、連れて行ってくれるんじゃないんですか?」
やや失望を感じながら、サクラは問い返した。
「僕は、言わば水先案内人だから」
「私は、あなたが……」
言いかけて、そっと唇を押さえられた。
彼の指先の温もりを唇に感じて胸が締め付けられた。
「君はまだ本当の恋を知らない。それはそういう相手が出来てから言うべきだよ。さあ、飲んで。新しい君を見つけに行こう」
彼に恋をしてはいけないのだと、彼自身に言われてしまった。
彼より素敵な人がいるの?
この私を受け止めてくれる人がいるの?
瀬野のお嬢さんでもなく、優等生でもない。
ただのサクラとして愛してくれる人がいるのだろうか。
何も迷うことはない。
やってみなくちゃ始まらないんだから。
サクラは赤いジュースを一気に飲み干した。
そして倒れこんだ。
「サクラ。君を一人にはしないよ。待ってて。君の元に届けるから。君よりも強くて、それなのに恋を知らない女の子を」
意識を手放したサクラの姿が消えてすぐ、新しい客がやって来た。
「私、立川マリ。あんた今、羽生えてなかった?」
尊大な態度の女の子。
サクラとは真逆の女子学生の登場に、店主は楽しそうに笑っていた。