邂逅
竜は一人だった。
生まれたときから、一人だった。
どうして生まれてきたのかとか、そういうことを考えることもせずに、ただ一人そこに在った。
ただ、一族の最後の一人として最後まで生き抜くことを課せられていた。
砂漠の薔薇の竜
それが竜が生まれた竜の一族の呼び名であり、竜を表す一つの言葉だった。
鱗の色は古薔薇色、瞳の色は砂漠の夕焼けにも似た黄昏色。
そして沢山の竜の骨と沢山の壊れかけの武器に囲まれて暮らしていた。
時折迷い込むものたちには、何かひとつと引き換えに出口を教えてやり、時折こちらを傷つけようとする者には死を与えた。
惰性だった。竜は惰性だけで生きてきた。
だってなにもわからないのだ。
だから、迷い込むものたちの話を聞いては、あぁ、そうなのかとその通りに振舞ってみた。
それから、百年ほど前の話だった。
ある日を境に、竜の前には年に一回、生贄が差し出される。
別に竜は何も食べなくても生きていけるのに。なぜなら竜は、大気中の魔力を糧に生きているから。
生贄が投げ入れられるたびに、村とは違う方向の出口を教えてやり、逃がしてやった。
それからどうやって生きるかは知らない。
そして、今年も竜の前に生贄が放り込まれた。
運び手たちが竜が声をかけるより早く遠くへ立ち去ったことを理解した竜は、生贄の入った輿を見て溜息をついた。
いい加減、生贄はいらないと伝えたいのに、ままならないものだ、と。
輿から人が出てくる気配はない。
怯えているのだろうか、それにしては泣き声が聞こえない。
だがなんであっても、早めに話して逃がしてやらねば。
寒暖差が激しいこの場所は、対策をしていない人間の命など簡単に刈り取ってしまう。
意識がないのならばなお更だ。せめて、こんな機能性の欠けた輿などではなく、竜の寝床にでも運び込んでしまわねば。何もしないよりはマシだろう。
そう考えて竜は声をかけた。
『寝ているの?泣いているの?私にはわからない。けれど人間、私にあなたを食らう意思はない。信じるも信じないもあなたの自由。けれど生きたいのならばどうか私の話を聞いて』
竜の鋭い牙が並ぶ口から零れた声は、幾重にもブレて明らかに人ではない声だったが、それでも柔らかな女のものだった。
瞬間、輿の天井部分が弾け飛んだ。飛び出す黒い影。
驚く竜に、その影は容赦なくその漆黒の剣を振るった。
「…っ!利かないか!?」
剣と古薔薇色の鱗がぶつかりあい、硬質な音を立てた。
黒い影は忌々しげにそう吐き捨てると、身軽な動作で大地に着地した。
竜は、不思議そうに首をかしげた。
『あなたは生贄ではない?けれど持っているのは竜殺しの剣ではない。あれでなければ、私は殺せない。ならばあなたは死にたいの?』
「……何を言っている!」
影は一人の青年だった。
地面に届きそうなほど長く細い三つ編みにされた銀髪。身に着ける装束はすべて黒。
竜を睨み付けてくる瞳は天上の青。
まるで冬を体現したかのような青年だった。
『答えて。あなたは生贄ではないのね?』
「……そうだ」
『私を殺したいの?』
「そうだ!!」
『竜殺しの聖剣でなければ無理なのに?』
その答えは、竜を忌々しげに、睨み付けてくるその表情から理解した。
竜は剣を構え続けるその青年に、どうしたものかと悩んだ。
このままこの青年を殺してしまってもいいけれど、生贄ではないのなら村へと返して、生贄はもういらないと伝言を頼めないだろうかと思ったのだ。
今まで生贄に差し出されていた者たちは、村の口減らしもかねて選ばれているらしく、いまさら戻れないと泣いていた。
けれどこの青年は違うと言った。竜に傷はつけられなかったが一太刀浴びせられる能力の持ち主なのだから、一人でうまく逃げ延びるくらいはできそうだし。
『あなたの望みを私は叶えてあげられない。私が死ねば、砂漠の薔薇の竜は死に絶える。それだけは駄目。けれどあなたが私の望みを叶えてくれたら、私はここから立ち去るよ。ここより深く、人のいない砂漠の奥へ』
「信じられるものか、邪悪なドラゴンが!貴様がどれだけの人間を食らってきたと…っ!」
『私は争いを望んでいない。生贄なんて、村の人間が勝手にやっているだけのこと。竜は世界に漂う魔力を食べて生きている。人を食べたところで、そこから得られる魔力より少ないのだから無意味だよ?』
「……ならば、証拠を。貴様の真の名を提示し虚言を吐かぬと誓え」
強く鋭い眼差しを竜に向けながら、青年は言った。
真の名の提示。それは、相手に魂そのものを明け渡すも同然の行為だった。
何も知らない竜だが、本能の部分でその行為の恐ろしさを知っていた。ただ、伝言をお願いするには高すぎる対価である。
だがこのままでいくと、おそらくもっと強い人間がやってきたり、下手をすれば竜殺しの武器を持つ人間がやってくるかもしれない。
百年というのは、そういう人間を恐怖に駆り立てるには十分すぎる年月だった。
きっとこの青年以外にも自分を殺そうとする人間は現れる。
竜はそう悟った。
『……全ては晒せない。私は死ぬ訳にはいかないから。けれど、半分なら』
「貴様の真名の半分で俺に何ができる」
『命に関わる以外の命令なら聞くよ。私が本心から拒絶する行為でなければ受け入れるよ。それでは不満?』
それは青年の想像以上の効果だった。
全ての真の名を握って初めて、そこまで言うことを聞かせられるものだと思っていたのだ。
人間とドラゴン、生物としての上位者と下位者の差というのは歴然としているのだから。
むしろここで突っぱねられて、殺されるものだと思っていた。
「……破格だが、半分程度でなぜそこまで?」
この取引を突きつけたのは青年だったが、始終穏やかに対応する竜にゆるゆると疑念が沸く。
このドラゴンは、邪悪な人食いドラゴンではなかったのか?と。
『百年の間私は恐れられてきた。そして私を殺そうと思うあなたのような人もでてきた。それらはいつか私の命を刈り取るよ。けれどそれはだめ。私は生きなければいけない』
「だから己より下位の生き物である人間にさえ、頭を垂れるっていうのか!!」
『そう。私の唯一。私の全て。それは私が世界に還る日まで、生き抜くこと』
淡々と竜は答える。
そしてついに、青年は剣を下ろした。
「……レーヴェ」
『?』
「レーヴェ・イェーリス・リンデが俺の名だ。真名はもっと長いが、これで貴様と対等だ。借りは作らん」
『そう、あなたはとても義理堅い人ね。まるで遠い日のあの人たちのよう。ならば私も約束を守るよ』
ぐ、と竜が青年のすぐそばまで首を下ろした。
すり、と頬を青年に軽く寄せて竜は囁く。
『私の名はリューシャ・ヴァル・アルトローザ。砂漠の薔薇の竜の最後の一葉』
同時に、青年、レーヴェと竜、リューシャの間に、小さく光が収束した。
コン、と二人の足元に落ちたのは二粒の砂漠の薔薇と呼ばれる石。だが、砂漠の町で売られているような脆いものではなく、ロードクロサイトのような鮮やかな薔薇色と透明度を持っていた。
「……契約石」
『私はあなたに、あなたは私に虚言を繰ることをしなかった。これがその証。これからも私はあなたに、虚言を告げないと誓うよ』
契約石というのは、妖精や幻獣と人間が約束を交わした際にできるものだ。
効能としては、リューシャの言うように虚言の禁止や、相手の能力の一時使用の許可など多岐に渡る。
なかなか手に入るものではないので、持っている人間は幻獣や妖精から一定ラインまでの信頼を勝ち取れる。
人間からは、少々やっかみや妬みを買うという面倒な部分もあるが。
『そろそろ夜も近い。ここはとても冷えるから、私の住処へ行こう』
「そのまま寝ているんじゃないのか?」
『……あなたたち人間の中の竜の生態がとても不穏なものに感じる。私たちとて寝床くらい作る。暖かく守られた場所は、生き物にとって必要不可欠なものだから』
レーヴェが契約石を二つとも拾い上げつつ言った言葉に、リューシャが少し呆れと共に返答を返した。
そして渋るレーヴェを背に乗せて、その場を飛び立った。
11/27 リューシャの名前を修正