「推しのグッズは、全力で買いに行け!」
2024年
午後3時42分 東京都内・私立青葉高校
キーンコーン、カーンコーン――。
放課後を告げるチャイムが校内に鳴り響く。
教師が黒板に書いた最後の文字を消すよりも早く、教室のあちこちから椅子を引く音が聞こえ始めた。
「よーし、今日はここまで。課題を忘れるなよー」
教師がそう言い終える。
その瞬間だった。
ガタッ!
一人の女子生徒が勢いよく立ち上がった。
三鷹結。
高校1年生。
成績は中の下。運動は普通。友達は少ないわけではないが、休日に一緒に遊ぶほど親しい相手はあまりいない。
部活動には所属していない。
放課後は寄り道せずに帰宅し、アニメを見て、ゲームをして、好きな作品のグッズを集める。
そんな、どこにでもいるアニメオタクの女子高生である。
……ただし、今日だけは違った。
結「…………」
彼女はスマートフォンの画面を凝視していた。
画面には、とあるアニメの公式ショップからの告知が表示されている。
【本日発売! 大人気アニメ『星屑メモリーズ』新作グッズ!】
【数量限定・描き下ろしアクリルスタンド】
結「…………ッ!」
プルプルプル……。
結の手が震えた。
結「き、来た……!」
隣の席の女子生徒が振り返る。
友人・美咲「え、何? どうしたの?」
結「美咲……私、今日、絶対に負けられない戦いがある」
美咲「えっ、何? テスト?」
結「違う」
美咲「告白?」
結「違う」
美咲「何なのよ」
結「推しの新作グッズが発売された」
美咲「……ああ、いつものね」
結「いつものじゃない! 今回は完全新規描き下ろし! しかも数量限定! 通販の予約は間に合わなかった! つまり、現地で買うしかない!」
美咲「うん、そうなんだ」
結「そして今、午後3時45分!」
美咲「うん」
結「アニメイトの閉店時間まで余裕はあるけど、人気商品だから売り切れる可能性がある!」
美咲「うん」
結「……行くしかない!」
美咲「いや、普通に電車乗れば?」
結「それじゃ間に合わない可能性がある!」
美咲「いや、東京の電車はそんなに遅くないから!」
結「さらばだ、美咲!」
美咲「ちょっと! カバン!」
結「あとで取りに戻る!」
美咲「教科書も置いていくなー!」
結はスマートフォンを握りしめ、教室を飛び出した。
美咲「……あいつ、普段は廊下を歩くのも面倒くさがるくせに」
クラスメイト「三鷹さん、今日も推し活?」
美咲「うん。たぶん今、人生で一番真剣な顔してる」
## 午後3時48分 校門前
結「はぁっ、はぁっ……!」
結は校門を飛び出した。
目的地は、電車で移動する必要のある都心のアニメイト。
駅まで走って、電車に乗って、店まで走る。
普段なら絶対にやらない行動計画だった。
結「待っててね……アクリルスタンド……!」
彼女の脳裏に、推しキャラクターの姿が浮かぶ。
結「絶対にお迎えするから……!」
タッ、タッ、タッ、タッ!
結は走る。
制服のスカートを押さえながら、歩行者を避け、信号の手前で速度を落とす。
そして青信号に変わった瞬間、再び加速した。
その走りは、本人が思っている以上に力強かった。
地面を蹴る足。
自然に前へ傾く上体。
無駄の少ない腕振り。
そして、一定のリズムで刻まれる足音。
結「はぁっ……! まだ……いける……!」
彼女は走り続ける。
その姿を、校門脇のベンチに座っていた一人の女子生徒が見ていた。
川北有栖。
高校2年生。
青葉高校女子陸上部の部長である。
有栖「…………ん?」
有栖は顔を上げた。
通り過ぎていく結の後ろ姿を、目で追う。
有栖「今の子……」
彼女は立ち上がった。
有栖「ちょっと待って!」
しかし、結には聞こえていない。
結「売り切れないでぇぇぇぇぇ!」
有栖「……速っ!」
有栖は思わず声を上げた。
もちろん、陸上競技の専門家として見れば、改善できる部分はある。
フォームは完成されていない。スタート技術も分からない。そもそも、あれが全力疾走なのか、本人の普段の走りなのかも判断できない。
それでも。
有栖「……あの脚の回転。地面を蹴る力……」
有栖の目が輝いた。
有栖「もしかして……!」
彼女はすぐさまスマートフォンを取り出す。
そして、女子陸上部のグループチャットを開いた。
【川北有栖:すごい子を見つけた】
【部員A:またですか】
【部員B:部長、先週も同じこと言ってましたよね】
【川北有栖:今回は本当にすごい】
【部員A:そのセリフも聞きました】
有栖「…………」
有栖はスマートフォンを閉じた。
有栖「……絶対に入部させる」
その目には、並々ならぬ決意が宿っていた。
## 午後4時35分 都内・アニメイト
結「…………」
店内の棚の前。
結は静かに立ち尽くしていた。
結「……あった」
そこには、目当てのアクリルスタンドが並んでいた。
結「よかったぁぁぁ……!」
彼女は両手で商品を大事そうに持ち上げた。
結「尊い……」
店員「お会計、880円になります」
結「はいっ!」
財布から代金を取り出す。
購入完了。
結「……ふふっ」
袋の中のグッズを見つめ、結は満面の笑みを浮かべた。
結「今日も生きててよかった……」
そのまま店内を見て回り、追加のグッズを購入。
ようやく満足した結は、店を出た。
結「さて……帰るか」
スマートフォンを見る。
美咲から大量のメッセージが届いていた。
【美咲:カバン取りに来なさい】
【美咲:教科書もあるんだけど】
【美咲:聞いてる?】
【美咲:三鷹さーん?】
結「…………」
結「やば」
彼女は再び走り出した。
## 午後5時12分 青葉高校・校門前
結「はぁ……はぁ……」
帰り道。
駅から学校へ戻ってきた結は、校門の前で息を整えていた。
結「カバン……取りに行かなきゃ……」
そのとき。
???「三鷹結さん、だよね?」
結「……はい?」
振り返ると、一人の女子生徒が立っていた。
黒髪のポニーテール。
少し日に焼けた肌。
ジャージ姿。
首にはストップウォッチ。
そして、妙に真剣な目。
結「えっと……先輩?」
有栖「2年3組の川北有栖。女子陸上部の部長をやってるの」
結「あ、はい……」
有栖「突然ごめんね。ちょっと聞きたいことがあって」
結「……何でしょう?」
有栖「三鷹さんって、陸上経験ある?」
結「…………え?」
有栖「小学校とか、中学校とか。陸上部じゃなくても、短距離走が得意だったりしない?」
結「いえ……別に」
有栖「50メートル走、何秒?」
結「えっと……中学のときは8秒台だったと思います」
有栖「8秒台……!」
有栖の目が輝く。
結「……あの、何か?」
有栖「お願いがあるの!」
結「は、はい?」
有栖「女子陸上部に入ってくれない?」
結「…………」
結は瞬きをした。
結「……はい?」
有栖「うちの陸上部、今、部員が少なくて。このままだと廃部になっちゃうの!」
結「はぁ……」
有栖「でも、さっき三鷹さんが走ってるところを見たの! あの走り、絶対に何か持ってる!」
結「えっと……」
有栖「もちろん、経験がなくても大丈夫! 最初は基礎から教えるし、無理な練習もさせない! 勉強やプライベートも大事にする!」
結「…………」
有栖「だから、お願い!」
深々と頭を下げる有栖。
結は困惑した。
陸上部。
運動。
朝練。
放課後の練習。
汗。
筋肉痛。
そして、帰宅時間の遅れ。
結の頭の中に、いくつもの不安が浮かんだ。
結「……あの、私……」
有栖「うん!」
結「アニメが好きで……」
有栖「うん!」
結「放課後はアニメを見たり、ゲームをしたり……」
有栖「うん!」
結「イベントとか、グッズ発売とか……」
有栖「うん!」
結「……そういう時間がなくなるのは、ちょっと」
有栖「…………」
有栖は黙った。
結「すみません。私、運動部とか向いてないと思うので……」
有栖「……そっか」
有栖は少しだけ肩を落とした。
有栖「急にごめんね。困らせちゃったよね」
結「い、いえ……」
有栖「でも、もし気が変わったら、いつでも陸上部に来てね。見学だけでも大歓迎だから」
そう言って、有栖は笑った。
結「……はい」
有栖「じゃあ、また明日!」
有栖は校舎へ向かって歩き出した。
結はその後ろ姿を見つめる。
結「……陸上部、かぁ」
スマートフォンが震えた。
【美咲:いつまで外にいるの?】
結「あっ!」
結は慌てて校舎へ駆け込んだ。
## 午後5時30分 女子陸上部部室
有栖「…………」
部室の中。
有栖は机に突っ伏していた。
有栖「断られた……」
部員A「まあ、そうなりますよね」
部員B「部長、そもそも相手は帰宅部のアニメオタクですよ?」
有栖「でも、あの走りは本当にすごかったんだよ……!」
部員A「だからって、アニメイトに走っていく途中で勧誘されても困るでしょう」
有栖「……それもそうか」
部員B「ところで部長」
有栖「何?」
部員B「部員募集のポスター、また剥がれてます」
有栖「えっ!?」
部員A「あと、顧問の先生から今月中に部員が増えなかったら、来年度の活動継続は難しいって」
有栖「…………」
部室に沈黙が落ちる。
窓の外では、運動部の生徒たちがグラウンドを走っていた。
有栖「……まだ諦めない」
部員A「部長……」
有栖「せっかく見つけたんだもん。あの子には、陸上の楽しさを知ってほしい」
部員B「……まあ、部長らしいですね」
有栖は顔を上げた。
有栖「明日、もう一回話してみよう」
部員A「しつこいって思われない程度にしてくださいね」
有栖「分かってるって!」
そう言いながら、有栖はノートを開いた。
そこには、三鷹結と書かれた名前。
その横に、大きくこう記されていた。
『未来のエース候補?』
## 翌日・午前8時15分 教室
結「…………」
結は机に座り、スマートフォンでアニメを見ていた。
美咲「結」
結「んー?」
美咲「昨日、陸上部に勧誘されたんだって?」
結「ぶっ!?」
結は思わずスマートフォンを落としかけた。
結「な、なんで知ってるの!?」
美咲「川北先輩、陸上部のグループチャットで話題にしてたらしいよ」
結「えぇ……」
美咲「『すごい走りをする子を見つけた』って」
結「いやいやいや! 私、ただアニメイトに走ってただけだから!」
美咲「それ、陸上部からしたら立派なスカウト案件なんじゃない?」
結「そんなわけないでしょ!」
美咲「でもさ」
結「何?」
美咲「ちょっとくらい、体験入部してみたら?」
結「…………」
美咲「別に入部するって決めなくてもいいんだし」
結「……うーん」
結は考え込んだ。
正直、陸上部に入るつもりはない。
でも、昨日の川北先輩の表情が、なぜか頭から離れなかった。
あんなに真剣に、誰かを必要としている人。
結「……見学だけなら」
美咲「おっ?」
結「見学だけなら、行ってもいいかな……」
美咲「じゃあ、決まり!」
結「えっ、いや、まだ決まってない!」
美咲「川北先輩に伝えてくるね!」
結「ちょっとぉぉぉ!?」
美咲は笑いながら教室を飛び出した。
結「……ああ、もう!」
結は机に突っ伏した。
結「私の平穏な帰宅部生活が……」
その声は、誰にも届かなかった。
そして放課後。
結は、人生で初めて陸上部のグラウンドへ足を踏み入れることになる。
そこから始まるのは、汗と涙と筋肉痛……そして、思いもよらない青春の日々。
結本人は、まだ知らない。
彼女が走り始めたその先に、どんな景色が待っているのかを。
第1話・完




