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冷酷な王子の心の声が「婚約者かわいい」しか言っていません

作者: 石崎さかな
掲載日:2026/08/20

 第一王子クラウスは、氷でできている。


 少なくとも、社交界ではそう評されていた。


 笑わない。慌てない。無駄なことを言わない。


 婚約者であるリリアナが新しいドレスを着てきても、青い瞳をわずかに動かし、こう言うだけだ。


「悪くない」


 王宮の昼食会へ向かう回廊で、リリアナは小さく息を吐いた。


 今日のドレスは、薄紫色だった。


 クラウスの瞳と並んだときに美しく見えるよう、三度も仕立て直したものだ。髪飾りにも同じ色の宝石を選び、朝から侍女のミアと散々悩んだ。


 それに対する感想が「悪くない」の一言。


「ありがとうございます」


 リリアナも王太子妃候補として、完璧な微笑を返した。


 その瞬間だった。


『悪いはずがない。似合いすぎている』


 どこからか、クラウスの声が聞こえた。


『薄紫にして正解だった。昨日の私よ、よく決断した。髪飾りもいい。だが、かわいすぎて皆に見られるのは困る。いや、見られないのも困る。彼女が努力したのだから褒められるべきだ。しかし私以外が褒めるのは、少し腹立たしい』


 リリアナは足を止めた。


 前を歩いていたクラウスも振り返る。


「どうした」


『まさか体調が悪いのか。顔色は。呼吸は。転ばないよう手を貸すべきか。だが急に触れたら嫌がられるかもしれない』


「い、いえ。何でもありません」


「そうか」


『何でもないならよかった。驚いた顔もかわいいが、心臓に悪い』


 クラウスの唇は動いていない。


 回廊には二人と、少し離れて歩く侍従しかいない。


 リリアナは胸元へ手を当てた。今朝、王妃から贈られた銀の耳飾りが、かすかに温かい。


 まさか。


 リリアナは試しに、クラウスへ一歩近づいた。


「殿下。こちらの髪飾りはいかがでしょう」


 クラウスは一秒だけ髪飾りを見た。


「ドレスに合っている」


『髪もきれいだ。朝から結ったのだろうか。首元に一筋だけ残っている髪もいい。直してあげたい。しかし触れたら警備上の問題ではなく私の理性に問題が生じる』


 リリアナは確信した。


 婚約者の心の声が聞こえている。


 しかも、思っていたよりずっとうるさかった。


     ◇


 その日の昼食会で、クラウスが口にした言葉は合計十四。


 対して、心の中でリリアナを褒めた回数は三十七回だった。


「魚料理を」


『彼女は白身魚が好きだ。骨は完全に取らせたか。料理長へ確認したが、もう一度確かめたい』


「窓を閉めろ」


『風で彼女の髪が乱れている。乱れていてもかわいいが、寒そうだ』


「その菓子は甘いぞ」


『口に合うだろうか。頬が少し緩んだ。気に入ったらしい。もう一つ勧めたい。だが食べる量を監視していると思われてはいけない』


 リリアナは菓子を一つ追加で取った。


『二つ目!』


 喜び方が、初めて歩いた子供を見守る父親のようだった。


 隣席の第二王子フェリクスが、朗らかに笑う。


「義姉上、その菓子がお好きなのですね。厨房へ頼めば、持ち帰り用も用意できますよ」


「まあ、ありがとうございます」


 リリアナが笑いかけると、クラウスは無表情のまま水を飲んだ。


『フェリクスは気が利く。私も先に言えばよかった。なぜ私は菓子一つ勧められないのだ。次は言う。絶対に言う』


「リリアナ」


「はい」


「必要なら、用意させる」


『言えた』


 リリアナは思わず笑った。


 クラウスの指が止まる。


『笑った。私に向かって笑った。今日は記念日にしてもよいのではないか』


「では、お願いいたします」


「ああ」


『もう一度笑った』


 世間では冷酷と恐れられる第一王子が、菓子を持ち帰る約束だけで心の中に祝祭を開いている。


 リリアナは今まで、彼を誤解していたのかもしれない。


     ◇


「殿下の心の声が聞こえるようになったの」


 自室へ戻るなり打ち明けると、侍女のミアは黙って茶を注いだ。


「信じていないでしょう」


「内容によります」


「私のドレスが似合いすぎて困る、と」


「殿下が?」


「菓子を二つ食べたら、ずいぶん喜んでいたわ」


「殿下が?」


「フェリクス殿下が気を利かせたので、先を越されたと落ち込んでいた」


「本当に殿下ですか?」


 ミアは疑わしそうに耳飾りを調べた。


 王家の紋章が刻まれた古い品だ。王妃は「将来の王太子妃を守るもの」とだけ説明していた。


「呪われてはいないようです」


「当然でしょう。王妃様からの贈り物よ」


「王家の品だから安全とは限りません」


 もっともな意見だった。


「明日も聞こえるか、確かめてみるわ」


「聞こえたとして、どうなさるのです?」


 リリアナは少し考えた。


 政略上の婚約とはいえ、クラウスと婚約して八年になる。


 彼が自分へ好意を持っているとは、一度も考えたことがなかった。


 嫌われてはいない。しかし大切にもされていない。


 そう思っていた。


「まずは、殿下が一日に何回『かわいい』と思うのか数えてみます」


「そこからですか」


     ◇


 翌日、リリアナは王宮図書室でクラウスと会った。


 試しに、いつもより隣へ近く座る。


 クラウスは書類から顔を上げた。


「何か必要か」


『近い』


「いいえ。こちらの方が、同じ資料を見やすいかと思いまして」


「そうか」


『近い。髪から花の香りがする。今日はどの香油だ。聞きたい。いや、気味悪がられる』


 リリアナはさらに少しだけ近づいた。


 クラウスの背筋が固まる。


『肩が触れそうだ。落ち着け。私は第一王子だ。国境紛争の調停もした。婚約者が近くに座った程度で動揺してどうする』


「殿下」


「何だ」


「次の舞踏会、最初の曲を私と踊っていただけますか?」


「もちろんだ」


『誘われた。彼女から。私が。最初の曲を』


 それきり心の声が途切れた。


 リリアナが横を見ると、クラウスは書類を逆さまに持っていた。


「殿下。そちらは上下が逆です」


「知っている」


『知らなかった』


 リリアナは口元を手で隠した。


「笑ったな」


「いいえ」


『笑っている。かわいい。私の失敗で笑われるのは複雑だが、かわいいのでよい』


 それから、二人の間には小さな変化が増えた。


 リリアナはクラウスへ自分から話しかけるようになった。


 クラウスが差し出す手を、ためらわず取るようになった。


 彼が不器用な気遣いを見せれば、きちんと喜ぶようにした。


 そのたび、クラウスの心は騒がしくなった。


『今日は三回も話しかけられた。何か頼み事があるのだろうか』


『手を取ってくれた。手袋を新しくしておいてよかった』


『最近、よく笑ってくれる。体調が悪く、私に最後の思い出を与えようとしている可能性はないだろうか』


 最後の心配だけは余計だった。


「殿下。私は健康です」


「急にどうした」


『なぜ分かった』


「お顔に書いてありました」


「そうか」


『今後は表情を引き締めなければ』


 すでに十分引き締まっていた。


     ◇


 変化が起きたのは、春の祝宴だった。


 会場には王国中の貴族が集まり、音楽と笑い声が満ちていた。


 リリアナの前へ、給仕が赤い果実水を置く。


 杯へ手を伸ばした瞬間、クラウスが彼女の手首をつかんだ。


「飲むな」


 低い声だった。


 彼は杯を取り上げ、銀の小匙を浸した。匙の先が黒く変色する。


 毒。


 周囲がどよめいた。


「誰も動くな。出入口を閉鎖しろ」


 クラウスの命令で、衛兵が扉を封鎖する。


 リリアナは彼の横顔を見た。


 いつもなら聞こえるはずだった。


 無事か。


 怖かっただろう。


 手首を強くつかみすぎていないか。


 そんな、過剰なほどの心配が。


 しかし何も聞こえない。


 耳飾りが冷たい。


「殿下?」


「医師の診察を受けろ」


 クラウスは杯を布で包み、衛兵へ渡した。


 無音のまま、給仕を拘束し、厨房の封鎖を命じ、リリアナを別室へ移す。


 その顔はいつも以上に冷たかった。


 まるで、最初から毒が入ることを知っていたように。


 医師がリリアナの無事を確認し、部屋から退出する。


 二人きりになると、クラウスは窓辺に立った。


「今日はもう帰れ」


 その瞬間、声が戻った。


『本当はそばにいたい。だが、私の近くが最も危険かもしれない』


「殿下は?」


「処理がある」


『怖かっただろう。無事でよかった。本当に、よかった』


 リリアナは自分の耳飾りへ触れた。


 先ほどの沈黙は、魔道具の故障ではない。


 クラウスが毒に関する処理を終えた途端、心の声は戻った。


「私に、何か隠していらっしゃいますか」


 クラウスは一瞬だけ目を見開いた。


「何も」


『隠している。だが言えない』


 今度は聞こえた。


 嘘をつくと聞こえなくなるわけではない。


 では、何に対して沈黙したのか。


     ◇


 三日後、リリアナの護衛を減らす命令書が見つかった。


 第一王子の署名と印章があり、祝宴の一時間前だけ護衛配置を変更する内容だった。


 騎士団長がクラウスへ命令書を渡す。


 彼が紙に触れた瞬間、また心が消えた。


「これは私の署名ではない」


 クラウスは命令書を灯火へかざした。


 紙の繊維が光り、透かし模様が浮かぶ。


「だが印章は本物だ。使用記録を調べろ」


 無音。


 彼は命令書を暖炉へ入れた。


「お待ちください!」


 リリアナが止めるより早く、紙が炎に包まれる。


「なぜ、証拠を燃やすのですか」


「必要なものは取った」


 クラウスの指には、紙から外した針ほどの金属片があった。


 彼はそれを胸元へ隠す。


「これ以上は私が調べる。君は関わるな」


『怒った顔もかわいい、などと思っている場合ではない。嫌われても遠ざけなければ』


 心の声は戻っている。


 必要なものとは何なのか。


 なぜ、それを説明できないのか。


「承知しました」


 リリアナは答えた。


 もちろん、関わらないつもりはなかった。


     ◇


 その夜、リリアナはクラウスを尾行した。


「王太子妃候補のなさることではありません」


 黒い外套をかぶせながら、ミアが言った。


「未来の夫が反逆者かもしれないのよ」


「ならば、なおさら騎士へお任せください」


「騎士の命令書が偽造されているのに?」


 ミアは反論できなかった。


 二人は王宮西棟の回廊を進み、使われていない礼拝室の裏へ隠れた。


 ほどなく、クラウスが現れる。


 向かいに立っていたのは、第二王子フェリクスだった。


 いつもの親しげな笑顔はない。


「次は失敗しないでください、兄上」


「分かっている」


 クラウスの心は聞こえない。


「義姉上も、そろそろ疑い始めるころです」


「あれは私が遠ざける」


「兄上にできますか? ずいぶん大切になさっているようですが」


「計画には関係ない」


 無音。


 リリアナの胸が冷えた。


 フェリクスは何かをクラウスへ渡した。


 黒い封筒。その封蝋には、王家の反逆者を示す逆さの獅子が刻まれている。


「地下礼拝堂で、お待ちしています」


 フェリクスが去る。


 クラウスは一人になった後も、微動だにしなかった。


 やがて小さく息を吐く。


『リリアナに会いたい』


 心の声が戻った。


『だが会えば、離れがたくなる。明日、婚約を解消しよう』


 リリアナは思わず物陰から出そうになり、ミアに口を塞がれた。


「今は駄目です」


 耳元で囁かれる。


 クラウスはリリアナを愛している。


 それは疑いようがない。


 同時に、何らかの反逆計画へ加わっている。


 それも疑いようがなかった。


     ◇


 翌朝、クラウスは本当に婚約解消を告げた。


「北部のハーシェル領へ戻れ。国王陛下には私から説明する」


 執務室には二人しかいない。


「理由をお聞きしても?」


「政務上の判断だ」


『これでいい。嫌われれば離れてくれる。生きていてくれれば、それでいい』


「私に愛想を尽かしたのですか」


「そう思ってくれて構わない」


『構う。まったく構わなくない。だが、そう思ってくれ』


 リリアナは彼の前へ一枚の紙を置いた。


 心の声が消えた場面を書き出したものだ。


 毒杯。


 偽の護衛命令。


 第二王子との密会。


 逆さの獅子の封蝋。


 地下礼拝堂。


 クラウスの表情が変わった。


「なぜ、これを」


「殿下。王家の配偶者を守る耳飾りには、どのような力がありますか」


 彼の視線が銀の耳飾りへ移る。


「強い感情の一部を伝える、と聞いている」


「私には、殿下の心の声が聞こえます」


 クラウスが固まった。


『いつからだ』


「薄紫のドレスをお褒めくださった日からです」


『どこまで聞いた』


「昨日の自分を褒めていらしたところも」


『忘れてほしい』


「無理です」


 クラウスは片手で顔を覆った。


「それで、私が反逆に加わったと考えたのか」


「いいえ。最初はそう考えました」


 リリアナは王宮図書館から借りた古い契約書を開いた。


「王家への反逆へ加わった王族は、計画に関する思考と権限を神器から遮断される。これは、初代国王が定めた契約ですね」


「ああ」


「殿下の心は、嘘をついたときには消えません。反逆計画へ直接触れたときだけ沈黙する。つまり殿下は、形式上その計画に加わっている」


 クラウスは答えない。


「首謀者ですか」


「違う」


「では、潜入なさっているのですね」


 長い沈黙の後、クラウスはうなずいた。


     ◇


 フェリクスの目的は、地下礼拝堂に残された王位継承の契約を書き換えることだった。


 契約へ第一王子を反逆者として登録すれば、クラウスは王族の権限を失う。


 必要なのは、クラウスの魔力、王族印、反逆への同意、そして公爵家の証言者。


「私が、最後の証人ということですね」


「だから遠ざけたかった」


「最初から教えてくだされば」


「契約は、計画を漏らした者も反逆者として登録する。君に話せば、君まで巻き込まれる」


「すでに巻き込まれています」


「今からでも領地へ戻れ」


「お断りします」


「リリアナ」


「殿下は、私に信じてほしいですか?」


 クラウスの心には、不安と願いがあふれているはずだった。


 しかし今、リリアナは耳飾りへ意識を向けなかった。


 彼の口から出る言葉を待った。


「信じてほしい」


 クラウスはまっすぐ彼女を見た。


「だが、信じろとは言えない」


「なら、私が自分で決めます」


 リリアナは彼の手を取った。


「私は殿下を信じます。そして、証人として地下礼拝堂へ参ります」


「危険だ」


「知っています」


「毒が使われるかもしれない」


「飲み物は持参します」


「契約術式が暴走する可能性もある」


「耳飾りは王族の配偶者を守るのでしょう?」


「まだ配偶者ではない」


「では、早めに結婚なさいます?」


 クラウスの思考が完全に止まった。


「冗談です」


『冗談か』


 ひどく残念そうだった。


     ◇


 地下礼拝堂には、初代国王の石像と巨大な契約陣が残されていた。


 床を埋める銀の線。その中心で、フェリクスが待っている。


 周囲には彼の支持者である貴族と、買収された神官たちが立っていた。


「義姉上までお越しになるとは」


 フェリクスが笑う。


「兄上。随分と素直に証人を連れてきてくださいましたね」


「約束どおりだ」


 クラウスの心は無音だった。


 彼は王族印を契約陣へ置く。


 床の銀線が青白く光り、クラウスの足元へ伸びた。


 フェリクスが宣言する。


「第一王子クラウスは、現王家を覆す計画へ同意した。王家の契約に従い、継承権の停止を求める」


 神官たちが復唱する。


 光がクラウスを囲んだ。


「証人、リリアナ・ハーシェル。あなたが見聞きした真実を述べてください」


 フェリクスの声は自信に満ちていた。


 リリアナは耳飾りへ触れる。


 それでもクラウスの心は聞こえない。


 代わりに、別の声が流れ込んできた。


『これで兄上は終わりだ』


 フェリクスの声だった。


『婚約者自らが最後の証人になる。兄上が大切にした女の言葉で、すべてを奪われる。王冠も、父上の期待も、この国も、ようやく私のものになる』


 耳飾りが熱を帯びる。


 強い感情をリリアナへ向けている王族の心を拾う魔道具。


 フェリクスは勝利を確信した瞬間、自分の心を彼女へ開いてしまった。


「証言いたします」


 リリアナは契約陣の中央へ進んだ。


「反逆を計画し、国王を陥れようとした人物を、私は知っています」


 フェリクスが笑みを深める。


「その人物は、第一王子クラウス殿下ではありません」


 笑みが消えた。


「第二王子フェリクス殿下です」


「何を根拠に!」


「王家の耳飾りが、あなたの心を伝えました」


 銀の線が震えた。


 契約陣は証言の真偽を確認するため、リリアナの耳飾りへ接続する。


 フェリクスの思考が、礼拝堂全体へ響いた。


『なぜだ。なぜ私の声が。止まれ。黙れ!』


 神官たちがざわめく。


 クラウスは懐から小さな金属片を取り出し、契約陣へ投げた。


 偽の護衛命令書から抜き取ったものだ。


 金属片から黒い線が伸び、フェリクスの足元へつながる。


「偽命令書に仕込まれていた契約端子だ」


 クラウスの声が礼拝堂へ響く。


「毒杯、護衛の変更、偽造印章。そのすべてが、この術式へ魔力を送っていた。接続先はフェリクス、お前だ」


 契約陣の光が向きを変えた。


 クラウスを囲んでいた線がほどけ、フェリクスを縛る。


「違う! 私は王国のために!」


『兄上より私の方が王にふさわしい。皆もそう言った。私は選ばれるべきだった!』


 口の言葉と心の言葉が、同時に礼拝堂へ響く。


 契約陣は迷わなかった。


《反逆意思を確認。第二王子フェリクスの王族権限を停止する》


 青白い光が弾け、フェリクスの胸元から王家の紋章が消えた。


     ◇


 フェリクスは王位継承権を失い、北方の行政区へ送られることになった。


 処刑や幽閉ではない。


 兄と比べる者のいない土地で、一人の行政官として働き直す。


 彼を持ち上げ、陰謀へ加わった貴族たちは、それぞれ裁きを受けた。


 事件から三日後。


 リリアナは王宮庭園でクラウスと向かい合っていた。


「改めて確認する」


 クラウスの表情は、いつも以上に硬い。


「私の心の声が、聞こえていたのか」


「はい」


「すべて?」


「私へ強く向けられたものだけだと思います」


「いつから」


「薄紫のドレスの日からです」


「菓子の件も?」


「二つ目を食べたとき、たいそうお喜びでしたね」


「舞踏会に誘われたときも?」


「国の祝日にできないかと」


 クラウスは両手で顔を覆った。


『消えたい』


「それも聞こえています」


「今のもか」


「はい」


 しばらくして、クラウスは観念したように手を下ろした。


「忘れてくれ」


「嫌です」


「なぜ」


「うれしかったからです」


 クラウスが目を見開く。


「私はずっと、殿下に政略上必要なだけだと思っていました。心の声に安心させられたのです」


「そうか」


『喜んでいいのか。いや、勝手に聞かれていたのだから苦情を言うべきでは。だが、うれしかったと言われた。かわいい』


「ただし、今後は心の中だけで済ませないでください」


「努力する」


「では、何かおっしゃってみてください」


 クラウスは黙った。


『何を言えばいい。かわいいでは短すぎる。美しいは他人行儀か。愛しているは急すぎるだろうか。婚約者へ言うのだから急ではない。しかし場所が庭園でいいのか。もっと正式な場を』


「長いです」


「まだ何も言っていない」


「心の中が長いのです」


 クラウスは小さく息を吸った。


「君が、かわいいと思っている」


「存じています」


「いつも隣にいてほしい」


「はい」


「君が隣にいてくれて、うれしい」


 不器用で、短い言葉だった。


 けれどリリアナには、それで十分だった。


「私もです」


 彼女が笑うと、クラウスの表情もわずかに緩んだ。


『笑った。かわいい。やはりかわいい。今の言葉でよかっただろうか。もう一度言うべきか。しつこいと思われるかもしれない。だが私もです、と言った。これはつまり』


「殿下」


「何だ」


「少し静かにしていただけます?」


「私は何も言っていない」


 リリアナは声を立てて笑った。


 冷酷な王子の心は、今日も少しもうるさかった。

長編も投稿しています。

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― 新着の感想 ―
つまり……、王妃も陛下のことをうるさいと言っていた? 可能性は高いな。 親子は似るというし。
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