三話
こんにちは。
今回も皇女達について、書きますが。大体、彼女達の身分になると恋愛や結婚には縁が遠い感じだったのは確かです。というか、自ら飛び込む程の人はいなかったのが事実と言いますか。まあ、奈良時代までは独身の皇女であっても自由さがありました。それが変わり始めたのは奈良時代後期辺りでしょうね。
平安時代初期までは異母兄弟同士や異父兄弟同士での結婚は許されていました。けれど、かの菅公が遣唐使の制度廃止を進言してから、こう言った価値観などは大いに変化の道を辿り始めます。まず、母親や父親が違っても兄弟なのには変わらない、ならば、恋愛や結婚は以ての外だ!と言う風潮が出来上がり、それが広がっていきました。中期に入ると叔父、伯父と姪、叔母、伯母と甥くらいまでが許容範囲となっていきます。これもあり、特に身分が高い女性になる程、恋愛や結婚がタブーとされていったと言えますね。
ちなみに、だいぶ時代が下りますが。江戸時代くらいになると、キリスト教が入ってきだします。だからか、いとこ同士や伯父と姪などであっても血が濃すぎると見なす人が増えていったようですね。明治時代に入ると法律でも結婚するなら、一夫一婦と言う規定がなされたとは聞きます。
話が逸れました。とにかく、皇女ともなると結婚相手に相応しいと言えたのは同じような皇族の男性になってきます。余計に難しくなるのは否定出来ません。だから、独身を貫く女性がほとんどになったという結果になったのでしょうね。
まあ、それでも恋愛をした皇女も少数ながらに存在しました。個人的には皇女方は今のように恋愛を是としない教育を受けていたとは思います。大正時代にあった貞操教育に近いとは言えるでしょう。ちなみに、史実では源平の争乱期に生きた皇女で式子内親王がいます。彼女には藤原定家と恋仲だと言う噂があったとは昔からいわれていました。けれど、信憑性には欠けると昨今では否定されています。
式子内親王は当時、長年にわたって斎王の任を務めた事から、大斎院と呼ばれていました。定家はあくまで彼女の和歌を教えた師であり、恋のお相手として考えるのは無理があると言う意見があるそうですね。
また、式子内親王の生年は不詳と長年なっていましたが。十数年前にはっきりと分かり、かの以仁王も兄だった事が判明したと新聞記事にありましたね。
だからか、式子内親王が詠んだ和歌の意味を改めて考えると。(百人一首になります)彼女の慟哭や深い悲しみがひしひしと伝わってきます。あの争乱の中、兄の以仁王や他の兄弟達が命を落として。彼女は大いにショックを受けたと思います。
何故、自身だけが生き残ったのかと辛い心境だったとも想像しましたが。かなり、時代の渦に巻き込まれた面があったんだなと。
それがはっきりと分かると式子内親王に関する見方がかなり、変わりました。彼女もある程度の年齢になると出家をし、静かな余生を送ったようです。なかなかに波乱に満ちた生涯でしたが。
これくらいにします。読んで頂き、ありがとうございます。では失礼します。




