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あなたはもう、赤い帽子を被れない

作者: 影野 紡
掲載日:2026/04/16


閑静な住宅街。山茶花の生垣に囲まれた一軒の家から、今日もけたたましい女の声が聞こえてきた。


「だからお義母さん、さっきから何度も言ってるでしょ。お義母さんの娘の冬美ちゃんは10歳の時に事故で亡くなったんですよ。冬美ちゃんはもう帰ってきませんよ。」


しかし、認知症を患った75歳のトキエには理解できない。


「何を言ってるの。冬美は朝元気に学校へ行ったじゃない。だから帰って来るまでに、この赤い帽子を仕上げたいの。」


息子の顔も嫁の顔も忘れてしまったトキエは、完成間近の帽子を編みながら言った。


嫁の幸子は、毎日死んでしまった娘のことばかり気にするトキエに辟易していた。今日はその感情が爆発してしまった。


トキエはふと思い立ったように幸子の顔を睨み、低く言った。


「お前が冬美を殺したんだろ。そうに違いない。」


編み針を持ったまま、幸子の顔の前で振り回す。


「お義母さん、何を言ってるんですか。そんなことあるわけないでしょう。冬美ちゃんは事故で亡くなったんです! 車に轢かれて死んだんですよ! いい加減に毎日毎日私を責めるのはやめてください!」


「いいや、お前が殺した。嘘をつくんじゃない! この人殺し!」


トキエは編み針を振り回した。幸子が顔を避けた瞬間、編み針は偶然、幸子の耳に刺さった。声を上げる間もなく、幸子はその場に倒れる。


トキエは何事もなかったかのように椅子に座り、今、幸子の耳を貫いた編み針で赤い帽子の続きを編み始めた。


「冬美は死んでない.....もうすぐ帰ってくる.....」


編む手に力が入り、編み目がぎゅっと詰まった。


 


夜になり、息子の勉が帰宅した。今年45歳、子供はいない。母の世話は妻に任せきりだった。


家は妙に静かだった。キッチンにも居間にも幸子の姿はない。


勉はトキエの部屋を覗く。


そこには編み針を持ったまま、椅子にもたれて居眠りしているトキエがいた。


「ここにもいないか」


確認し、扉を閉めて立ち去ろうとしたその時、目の端に違和感を覚え、部屋に入った。


倒れているのは、妻の幸子だった。


「おい、幸子! 起きろ!」


勉は頬を叩きながら叫ぶ。


「どうしたっていうんだ。何があった!」


慌てて救急車を呼ぶ。


到着した救急隊員は、幸子の脈を確認し、淡々と言った。


「もう亡くなっています。警察に連絡します。」


 


その後、警察官と刑事が訪れ調査したが、特に不審な点はなかった。


トキエはすでに目を覚ましていたが、周囲の人間がいることを理解しているのかいないのか、虚ろな目で赤い帽子を編み続けていた。


「冬美は帰ってくる……」


勉は母の姿を見て、得体の知れない恐怖を覚えた。


幸子の遺体は司法解剖されたが、特に不審な点はなく、病死と判断された。


 


数日後、刑事は勉の家を再訪した。心に何か引っ掛かるものが拭えなかったからだ。


幸子の遺影に線香を上げ、部屋を見渡す。


隅に置かれた赤い帽子が目に入る。


刑事はそれを手に取り、軽く被ってみた。


「暖かそうだな。色はちょっと派手だけど……これ、もらっていいですか?」


勉は答えた。


「気に入ったんなら差し上げますよ。母ももう施設に入って帰ってきませんから。」


 


数か月後、刑事は不祥事を起こし、警察を辞めた。


借金の取り立てから逃げ回り、ついにはホームレスになった。


冬が来ると、赤い帽子をかぶって街を歩いた。


体は寒さに震え、帽子だけでは暖を取れない。それでも何故か手放せなかった。


 


ある朝、今年一番の寒さの中で、別のホームレスがその帽子を見つけた。


赤い帽子をかぶった人物は、息をしていなかった。


「これはちょうどいい。暖かそうだな……こいつももう死んでるし、もらってもいいだろう。」


そっと帽子を外すと、冷たい頭皮の感触が指に伝わる。それでも躊躇なく、自分の頭に被る。


一瞬、ひんやりとした感触がぞくりと背筋に走った。


しかし次の瞬間、帽子はまるで体温を吸い取るかのように、しっくりと馴染んだ。


歩き出すホームレスの肩を、どこからか微かに重い視線が撫でた気がした。


 


帽子の中には、死者の吐息、忘れられた怒り、切なさのざわめき。


それを感じながらも、赤い帽子は身に付けた者を離さない――鼓動が止まるまで。


 


赤い帽子は今日も、新しい頭の上で暖を運ぶ。


だがその裏には、冷たく重い何かが潜み続ける。


帽子をかぶった者だけが、気づかぬままその冷たさを背負って歩くのだ。


 


突然、頭の中で声が聞こえた。


「お母さん、ただいま」

「冬美、お帰り」


ホームレスは振り向いた。


だがそこには誰もいない。


ただ、冬の木枯らしが吹いているだけだった……




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