黄昏の堕天使①
横浜ーー秋。
たぶん枯れ葉が舞っていた気がする。
通学路を少し外れた小径の奥に、やたら大きな門、広い庭の屋敷があった。
洋風の細工の施された門と玄関との間には、まるで幽霊の様に見える細くて大きな犬が、ただじっとこちらを見据えていた。
僕を惹きつけたのは、玄関横の窓のステンドグラスだった。
赤と緑と紫の、四角と菱形の組み合わせが、日の光を受けて輝いていた。
都内から越してきたばかりで、まだ友達もいなかった。
そして馴染めぬ大人のいる家。
注意深く息を潜めるようにしていないと、痛い目にあわされる家にーー戻りたくない理由を見つけなければいけなかった僕は、それから毎日のようにその門の前で足を止めた。
そして、光によって変化するステンドグラスの輝きを何十分もただ眺めていた。
飽きもせず、なのか、もしかしたらもうとっくに飽きてはいたのかもしれないが、何日も何日もただ眺めた。
ステンドグラスを見つめながら、本当はその窓が開いて、優しい誰かが話しかけてくれるのを待っていたのかもしれない。
14歳の誕生日のその日も、ただ開かないその窓を、眺めて、そして帰るはずだった。
コトン。
小さな音とともに、窓が開いた。
そこにーー天使がいた。
いや、羽根のような物が見えた気がしたが、見間違いだ。
「ねえーーあなた。少し、お話しませんか」
天使のように美しいが、高校生くらいの少女が、少しアンニュイな表情で僕を見ていた。
「あ、あのーーごめんなさい」
他人の家を、何日も。
勝手に周囲をうろついて、じろじろ見たーー怒られて当然だ。
しかし、少女は不思議そうな目でこちらを見る。
「お話しをしたくないなら、お引き留めしませんが、もし少しだけでもお時間があるのでしたら、一緒にお茶でもいかがでしょう。ハーブティーはお嫌いですか?」
紫色の、不思議な色の瞳が僕を「どうするの?」と試すように見つめている。
結局、僕はその不思議な少女に促され、屋敷の門を開いた。
門を入り、玄関へ。
玄関にはーー安岡と書かれた古い表札があった。
玄関前には丸テーブルと椅子がある。
「やすおかさん」
つい、口に出す。
ティーポットと二人分のカップが乗ったトレイを持った少女が、扉を開けて出て来た。
「私は安岡ではなく、律々瀬リカといいます。あなたは?」
「僕はーー上崎、上崎光」
「かみさき、ひかるくん。よろしくね。天使の家に、ようこそ」
◇◇
「光くんは、何歳ですか?」
肩まで伸びた艶やかな栗色の髪を揺らし、お茶を注ぎながら、りりせさんは聞いた。
「今日ーー14歳になりました」
「あら、それはおめでとうございます。では私は、ちょうどいいタイミングでお誘いできましたねーーと言っても、お茶だけしかありませんね。どうしましょう」
「お、お茶、美味しいです。本当に、十分すぎます。ありがとうございます!」
僕は慌てて答える。
しかし、りりせさんは納得しない。
「いけません。ご生誕の日ともなれば特別な日。何か、きちんとした贈り物を」
りりせさんは、指を頬に当てて少し考えこむ。
小首を傾げて、キュッと目を閉じると不思議な事に目を開いている時より、ずっと身近で人間的な感じがする。
僕は気付いた。
彼女は顔の造りや仕草も美しいが、それを圧倒的に神秘的に見せているのが、あの紫のーー窓のステンドグラスのように深く輝く瞳なのだと。
ただし、今、目を閉じて少し眉間に皺を寄せて「んー」と考え込む姿は、それはそれで年相応に見えて、とても可愛らしかった。
「一つ、保留にしましょう。また明日も遊びに来てくれたらーーその時までには考えて、お渡しします」
少し不思議な言い回しをするお姉さんだなーーもしかして外国で暮らしていたりしたのかなーーそんな風も思いつつ、僕は頷いた。
「ウウーー」
庭の方から、唸り声がした。
振り向くと、先程の幽霊のような細長い犬が、こちらを見ている。
「バフォメット! やめなさい、いやな犬。お茶を飲んだら光くんは帰りますーー少しくらい大目に見なさい」
りりせさんが、少し冷たい目線を犬に向ける。
こんな表情もするのかーーその瞳はステンドグラスや絵画を連想したけれど、むしろ万華鏡のようだ、と思った。
「サルーキという猟犬なんです。安岡ーーこの家の番犬。私を見張っているんですよ」
りりせさんは、小さく笑う。
「でも、本当は私が怖くて、ああして脅すだけ。さあ、大丈夫ですから、もう一杯おかわりをどうぞ」
繋がれていない犬が気になって、びくびくしていた僕を安心させるように、少し笑いながらーー空のティーカップにお茶を注ぐ。
さっきまでは、りりせさんばかり気にしていて気づかなかったが、そのハーブティーは不思議な果実のような、甘くいい香りがした。
「カモミールを蜂蜜で漬けたものを、茶葉に混ぜてみました。お口にあいーー堅苦しいですね。美味しかったですか?」
僕は頷く。
頷いてから、りりせさんだけに喋らせているのに気付き、言葉を出す。
「はい、とても美味しかったです。ありがとうございます」
りりせさんは「あら」という表情をした。
「中学生の男の子って、もっと乱暴な人たちかと思っていましたが、あなたは礼儀正しいのですね。素敵だと思いますーーああ、もう暗くなってきました。今日は引き留めてごめんなさい。明日またーー来ていただけたら、うれしいです。約束してくれますか?」
一も二もなく頷いた。
僕は、りりせさんに送られ、サルーキが数メートル先で睨む庭を抜けて、飾り門の外に出た。
「それでは」
りりせさんは、まるで大事な客人にするかのように深々と頭を下げてから門の鍵をかけ、今度は友達にするように左手を軽くひらひらと振ってから、玄関に消えた。
気付けば、夕闇。
未練がましく、もう一度だけ振り返る。
あの窓は、もう閉じていた。
僕は、小走りで家へ帰った。
1話 完




