天使が飛んだ夜/神が死んだ朝
Prologue1 天使が飛んだ夜
二人きりだけれど、坊やがいればなんだってできる。
どんな辛い事だって、この笑顔の為なら耐えられる。
坊やは、私の天使。
アパートの三階。
若いママは、疲れ切って。
歩くことを覚え始めた坊やを抱いたまま、眠ってしまう。
幸せな夢――夢の中の花畑で、坊やが笑っている。
風が吹き、花が散る。
寒さで、目が覚める。
ベランダの窓が開いて、カーテンが揺れている。
風が――。
背筋に、怖気が走る。
坊や――?
坊やは、どこ。
いない。
カーテンが、ゆらゆら揺れている。
涙が吹き出た。
まさか――まさか――まさか――神様。
ベランダに駆け寄り、外を見る。下を見る。
ママは、しゃがみこんで慟哭する。
地面に倒れた、小さな姿。
ごめんねごめんねごめんね
愛してる 離れないよ 寂しくないよ
すぐ行くよ
怖くないよ ずっと幸せだよ
私の天使
私の全て
天使は窓から飛んでいってしまった。
後を追ってもなんにもならない。
若かった。愚かだった。全てが間違っていた。
だけれど――深く深く愛していた。
だから、そばに行ってあげなければならなかった。
ママは、ベランダから身を乗り出し、飛ぶ。
――。
飛んだはずだった。
背中から、抱きしめられた。
(だめですよ――よくみて。あれは、坊やが持っていたお人形)
優しい声が囁いた。
「それじゃ、坊やは――?」
振り向けば、先程までは確かに誰もいなかった布団の上、坊やが寝息を立てている。
駆け寄り、抱きしめ、そしてママは、いつまでも坊やを抱きしめたまま、泣き続けた。
ありがとう。ありがとうと何度も繰り返しながら。
風がカーテンをまた巻き上げた。
気配に振り向くと、小さな光が窓から飛んで行った。
何かが落ちてくる。
白い、天使の羽根ひとつ。
微かなハーブの香りがした。
坊やが小さく欠伸した。
ママは天使の羽根を大事に大事に握りしめ、坊やをもう一度、抱きしめた。
◇◇
Prologue2 神が死んだ朝
一晩中祈った。
妹の熱が下がらない。
薬も飲ませた。
医者にも見せた。
だけれど、昨晩から熱が下がらない。
愛らしい花のような、大事な大事な――やっと3歳になった妹。
小さな手で、いつも僕に抱きついてきた、生きている宝石。
神さま――ぼくの命を分けてあげていいから、どうかどうか――。
下の階で、母の慟哭が響いた。
駆け降りる。
医師が、項垂れている。
――ちゃん 死んじゃったよ。
ただ一言、顔も上げずに
老婆の様な声で母が言う
白い布、横たわる小さな姿
それをチラリと見て
僕はゆらゆらと外へ出て薄暗闇の中を彷徨い歩く
夜が明ける
緑の山々が朝日に照らされ
遠く海は青く輝く
「おはよう達也くん。いい朝だね」
ガラガラと音を立てて、何も知らない新聞配達のお兄さんが笑顔で走り抜けてゆく。
希望に満ちた朝だと人は言うのか。
僕にはここが、地獄にしか見えない。
神さまなんかいない。
神さまなんか、僕の中で今、死んだ。
神さまなんかいない。
(神さまは死んだ? いない? でも 天使はいるかもしれません――早く戻らないと、妹が寂しがりますよ)
誰かが囁いた気がした。
まさか――。
走り、戻る。
まだ母は泣いている――しかし、それは悲しみの涙ではなかった。
医師も、誇らしげに笑い「奇跡的な回復だが、もう大丈夫だ」と汗を拭った。
妹は、きょとんとした表情で僕を見つめ、すぐに笑顔で手を振った。
カタン。
開け放した玄関の扉が、風で閉まった。
微かなハーブの香りがした。
小さな白い羽根が、一枚、そこに落ちていた。




