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価値のない

霧の沼地は、今日も静かだった。


 風はなく、水面は波打たず、鳥の影すら見えない。

 ここでは音が死ぬ。

 声も、叫びも、祈りでさえ。


 それでも人間は来る。

 追い詰められた顔で、何かを失った目をして。


 今日の侵入者は三人。

 武装しているところを見るに、魔女退治――そんな名目だろう。


 もっとも、彼ら自身がそれを信じているかは怪しい。

 足取りは重く、視線は泳ぎ、剣を握る手は震えている。


 ――ああ、またか。


 霧の奥で、魔女はため息にもならない吐息を零した。


 かつて、願いを叶えるたびに心が動いた時期もあった。

 恐怖、憎しみ、後悔、愛。

 人間が抱えてくる感情は、確かに多彩だった。


 けれど最近は、どれも似通っている。

 焦り、逃避、責任転嫁。

 どこかで聞いた言葉を、同じ口調でなぞるだけ。


 魔女は、霧を一段、濃くした。


 足音が乱れる。

 誰かが転び、誰かが怒鳴り、誰かが名前を呼ぶ。


 それだけで十分だった。


 魔女が姿を現す必要はない。

 視線を向ける価値もない。


 霧の中、一本の水面が歪む。

 次の瞬間、男の足元から黒い影が伸び、絡みついた。


「なっ――!」


 叫びは途中で途切れる。

 沼に引きずり込まれたわけではない。

 ただ、立っていられなくなっただけだ。


 恐怖で、膝が折れた。


 残る二人が剣を振るう。

 だが刃は、何も斬らない。

 斬っているのは、霧だけだ。


「魔女! 出てこい!」


 勇敢さを装った声。

 魔女は、それを聞き流す。


 声を上げる者ほど、覚悟は浅い。


 霧が流れ、視界が一瞬だけ開ける。


 白い肌。

 緑の髪。

 紫の瞳。


 それを“見てしまった”男は、息を呑んだ。


 恐怖よりも先に、理解してしまったのだ。

 ――勝てない、と。


「……ひっ」


 剣が落ちる音がした。


 魔女は、ようやく一歩だけ前に出る。


 水を踏んでいるはずなのに、音はしない。

 沼地に立っているはずなのに、汚れ一つない。


「退くなら、今です」


 声は静かで、冷たい。

 脅しでも、慈悲でもない。


 ただの事実。


 男は答えられなかった。

 言葉より先に、身体が逃げ出していた。


 残されたのは、倒れ伏した一人だけ。


 魔女は視線を落とす。


 彼は泣いていた。

 憎しみも、怒りも、もう残っていない。


「……殺さないのか」


 震える声で、そう問われる。


 魔女は少しだけ首を傾げた。


「理由がありません」


 命を奪うのは、願いがあるときだけ。

 それ以外は、ただ面倒な作業だ。


 霧が再び濃くなる。

 男の意識が、ゆっくりと遠のいていく。


 目を閉じる直前、彼は見た。

 魔女が、ほんの一瞬だけ――

 退屈そうに、視線を逸らしたのを。


 そして沼地は、何事もなかったかのように静寂へ戻る。


 魔女は霧の奥へと溶けながら、思う。


 人間は、相変わらず騒がしい。

 同じ理由で来て、同じ恐怖で逃げる。


 それでも――


 まだ、終わりにはしない。


 霧の向こうで、次の足音が来ることを、彼女は知っているから。

次回も楽しみに!

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