霧は応えるだけ
霧の中にいる時間が、以前より長くなっていた。
願いも、叫びも、もう急ぐ理由にはならない。
それでも、人間は来る。
何も変わらない顔で、同じ結末を抱えて。
だから今日も、私は霧の奥で待っていた。
何が起きても、特別ではないと知りながら。
霧が揺れた。
人間はそれを風だと思っただろう。
あるいは、沼が生きているのだと――
そんな噂話の一つとして、都合よく片付けたかもしれない。
だが、違う。
霧は、私が動いた証だった。
地を踏みしめる必要はない。
構えも、呼吸も、感情すら必要としない。
人間が剣を握るより先に、
人間が恐怖を理解するより先に、
すでに結果は決まっている。
それでも彼らは叫ぶ。
意味のない威嚇をし、勇気と無謀の区別もつかぬまま、刃を向ける。
――理解できない。
なぜ、勝てないと分かっていて、立ち向かうのか。
なぜ、祈りも願いも持たぬまま、戦おうとするのか。
霧の中で、私が指先を少し動かすと、
空気が歪み、沼が応え、音が遅れて崩れた。
衝撃は、雷よりも静かで、
悲鳴よりも先に、骨の折れる感触だけが残る。
血が飛び散ったのを、私は見ていない。
見る必要がなかった。
人間の身体は、あまりにも脆い。
願いを叶える器としても、
戦う存在としても。
倒れ伏す影の中で、まだ動こうとする者がいた。
無様で、滑稽で、それでも必死だった。
私は、ほんの一瞬だけ、視線を向ける。
紫の瞳が、霧を裂いた。
その瞬間、彼は理解しただろう。
自分が挑んだのが、人ではないということを。
恐怖は遅すぎる。
後悔も、憎しみも、祈りも。
すべて、契約の外。
私は何も言わない。
説教もしない。
裁きもしない。
ただ、終わらせるだけだ。
霧が再び濃くなり、
音も、熱も、命の気配も、すべてを飲み込んでいく。
沼は静かだった。
あまりにも、いつも通りで。
私は思う。
――人間は、やはり同じだ。
願うか、刃を向けるか。
形が違うだけで、根は変わらない。
それでも。
霧の奥で、ほんのわずかに胸の奥がざわついた。
理由のない違和感。
名前のない感覚。
それを確かめるほどの価値が、人間にあるのかは分からない。
だから、私は背を向ける。
まだ、終わらせる必要はない。
ただ、それだけのこと。
霧はすべてを覆い隠し、
再び、沼地には何もなかったかのような静けさが戻った。
次回もお楽しみに!




