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ざわめき

霧は、昨夜よりも濃く、重く、肌にまとわりつく。足元の水面は静かに揺れ、かすかな波紋が広がる。呼吸と鼓動が混ざり、夜の空気が心臓を締めつけるようだ。


私は沼地の奥で立ち止まり、視界の白さを通してアレクを見つめる。彼は剣を下ろしたまま、私をじっと見つめている。無言の視線が、霧の中で不思議な温度を帯び、胸の奥にじんわりと染み込む。


「……どうして、そこまで来るの」私の声は低く、微かに震えを含んでいた。冷徹な魔女としての鎧をまといながらも、胸の奥で何かがうずく。理解できない人間のはずなのに、なぜ心が揺れるのか。


「理由なんて、後からつければいい」アレクの声は、静かで揺るぎない。剣先に力はこめられていないが、意志だけが光を放つ。「ただ、君を見たい。それだけだ」


霧が、二人の間で静かに揺れる。水面が波打ち、微かな水音が夜の静寂を切り裂く。その瞬間、何かが霧の奥で跳ねた――小さな影が、水面に飛び散る波紋を描く。


「……誰?」私は警戒心を抱きながら、魔力を微かに解放する。霧がわずかに渦を巻き、空気が歪む。


「……小さな冒険者かもしれない」アレクが囁く。その声に、私は心底驚くことはない。彼は、霧の中に潜む微細な動きまで感じ取る能力を持つらしい。人間でありながら、理解できない感覚を持っている――その事実に、少し苛立ちと、少しの羨望が混ざる。


影が現れた瞬間、霧の隙間から小さな子供の姿が見えた。アミットだ――長い髪を揺らし、無邪気に笑う。手には小さな花を握っていて、霧の白さに映える淡い色彩。微かな赤みを帯びた頬、ぱっちりとした瞳が好奇心で輝く。


「……アミット?」私の声は自然と柔らかくなる。戦場で見せる冷徹さは、今、この無垢な存在の前では不要だった。


「ええ、こんにちは!」アミットは元気よく手を振る。花を差し出す仕草が、私の胸を軽く押す。魔女として、人間の感情に干渉すべきでない――頭では理解している。それでも、心はざわつく。


アレクが微笑む。「花は、君に似合うだろうな」


その一言に、アミットは目を輝かせ、恥ずかしそうに顔を赤らめる。小さな沈黙の後、彼女は嬉しそうに微笑み返す――無邪気さと愛嬌の両方を持つ、人間の中で唯一、心を揺さぶる存在。


霧の中、私たち三人の距離は一瞬にして縮まった。戦いの緊張も、恐怖も、少しだけ溶けて、夜の沼地は静かに三人だけの世界になる。


私は微かに息をつき、心の奥で理解する。人間も、全く理解できないわけではない。信じる覚悟を持てば、触れられる瞬間もあるのだ――そのことを、アレクの存在が教えてくれる。


水面の波紋が広がる。霧はまだ重く、何もかもを包み込む。だが今、この場所には、理解できない人間と、理解しようとする人間、そして私――三者の静かな交錯があった。


私は小さく、しかし確実に微笑む。次の瞬間、何が待ち受けていようとも、胸の奥の揺れは消えないだろうと、心の中で確信していた。

次回もお楽しみに!

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