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霧は夜の深さを増し、沼地は静まり返っていた。水面に映る月明かりすら揺らぎ、あたり一面が灰色の世界に沈んでいる。私は立ち止まり、呼吸を整える。胸の奥で、微かに、だが確実に――何かが脈打っているのを感じた。
向こう側に立つ影――アレク。いつも冷静で、揺らぐことのない瞳を持つ男。だが今夜の彼には、何か違う熱が宿っていた。呼吸のリズムも、動作の一つ一つも、戦闘の覚悟ではなく――心の奥に抱える覚悟が、確実に伝わってくる。
「……ここまで来たか」私の声は低く、夜に溶けていくようだった。だが心のどこかで、戦いの緊張よりも、彼に触れられるかもしれない予感に胸がざわつく。
霧を巻き上げ、魔力を集中させる。水面が逆巻き、霧が光を反射し、沼地全体が戦場となる。しかし、アレクは躊躇わず、踏み込んでくる。剣の刃先は正確にこちらを狙い、だが目の奥に迷いはない。
「……覚悟は、できてるんだろ?」彼の声は静かだが、確かに心を揺さぶる重さがあった。理解など不要、ただ自分の意思だけを持ってここに立つ――その強さが、胸に迫る。
私は魔力を最大限解放し、霧と水を渦巻かせて攻撃を仕掛ける。水の壁がアレクの進行を阻むはずだった。しかし彼は一歩も怯まない。剣の動きも、体の動きも、まるで私の力を読み切っているかのように正確で滑らかだ。
「……だから、理解できなくても、俺は君のそばにいる」
その言葉が、胸を突き抜ける。理解不能で、冷徹で、人間でありながら私を圧倒する力を持つ。なのに、彼のその瞳はただ私だけを見つめている――狂おしいほどに真っ直ぐで、疑いも恐怖もない。
心の奥底が震える。戦いの緊張が、恋とも覚悟ともつかない感情と絡み合い、胸が熱くなる。刃と魔力が交錯し、夜の霧が渦巻く。だが、目の前の男の意思を見た瞬間、私は微かに微笑む。
「……覚悟は、貴方が持つべきものね」
言葉に力を込める。剣と魔力がぶつかり合う瞬間、互いの呼吸が重なり、沼地は二人だけの世界に変わった。胸が高鳴る。鼓動が霧を揺らす。
アレクは微かに頷き、剣を握る手に力を込める。その瞳は決して揺らがない――私を信じ、私を受け止める覚悟を持って。
夜の静寂の中、二人の影は重なり、霧は幻想的に光を反射する。戦いの興奮と、胸の奥で芽生える感情が一つに溶け合い、沼地はまるで魔女と人間のためだけの舞台になった。
そして私は、心の奥で静かに、だが確実に――今夜が、何かの始まりであることを悟った。
次回もお楽しみに!




