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霧は、夜の闇にさらに厚みを増していた。水面が揺れる音、湿った空気の匂い、すべてが異様に鋭く感じられる。私の胸は早鐘のように打ち、手に力を込める指先に、わずかな震えが走った。
視界の奥に、赤く微かに光る影――アレクが立っている。魔力を解き放ち、水面が逆巻く。だが彼は、一瞬も躊躇せず、私の圧力に踏み込む。胸の奥の理性が警告を発する。危険だ。これ以上近づけば……。
「……覚悟はあるのか?」
私の問いに、アレクは一切の揺れを見せず、ただ私を見据える。言葉に裏打ちされた意思の強さが、霧を突き破るように感じられる。心臓が、背骨が、凍るように熱くなる。
私は魔力を全身に巡らせ、霧と水を渦巻かせた。水の壁は鋭い刃のように彼を阻むはずだった。だがアレクは笑みさえ浮かべ、魔力の波間を縫うように進む。彼の眼差しに、私はわずかに胸を締め付けられた――理解できないはずの人間の言葉が、なぜか刺さる。
「……人間は、一生理解できないものよ」
私は吐き捨てるように言い、力を全開にした。霧は竜巻のように舞い、水面は光を反射し、空気は圧縮される。周囲の木々が軋むほどの威圧。誰もが退く力。
それでもアレクは動かない。踏みとどまる。瞳の奥には恐怖も迷いもなく、ただ私を見つめる覚悟がある。心臓が鳴る。胸が、頭が、全身が――彼の存在で押しつぶされそうだ。
「……だからいい。理解できなくても、俺は君のそばにいる」
その声に、私の魔女としての冷徹さが、一瞬にして波立つ。怒りでも恐怖でもない、心の深奥で何かが揺れる。指先に伝わる魔力の感覚と、胸の奥の感情が絡み合い、混乱する。
霧と水、夜の闇、そして二人の呼吸。すべてが鋭く交錯し、視覚だけでなく感覚すべてが戦場になる。戦いの緊張と、アレクへの感情。恐怖と期待が、私の胸をバクバクと打つ。
私は、微かに笑った。戦場で揺れる心も、霧の中で重なる影も――これこそが、互いの覚悟を知る瞬間なのだと。
「……覚悟は、貴方が持つべきものね」
その言葉に、アレクはわずかに頷いた。霧に包まれた沼地で、二人だけの世界が静かに、しかし激しく震えていた。
次回もお楽しみに!




